62話 若気の至り
有線から静かに流れる曲は天地真理の若葉のささやき。十席あるカウンター席に空きはない。カウンター席の後方にはボックス席が三セット。扉のすぐ横のボックス席には達己と美千子、その向かいに徹と由起、接客用の丸椅子に俊夫。奥のボックス席には、程好く酔いが回ってきた大正町商店会のオヤジ連中。真ん中のボックス席にも四人のクループ客で、全ての席が埋まっている。さすがは鳥巣一の繁盛店。その繁盛店を取り仕切っている明美は、目配り気配り、接客のプロフェッショナルだ。例え、美千子と俊夫が達己・徹・由起の席に張り付いていたとしても、一人で十分に満員の客を満足させられる。
美千子が達己のグラスを作って、「達さんどうぞ」とコースターの上に置く。
「サンキュー美っちゃん」
付け出しはタコの酢物。
明美が大正町商店会のボックス席から首を回して、「達さん夕食まだやろ。ソーメンたくさん湯掻いたけど食べるぅ?」
「おっいただくわ」
山村が、「湯村さん、ママのソーメンの味は商店会のお墨付きですよ」
「それは楽しみですね」と達己。
「美っちゃんも俊も徹さんも由起ちゃんも食べるぅ?」
「ママ戴きます」と徹と由起、俊夫も「俺も食うわ」
美千子が、「ママ、私もいいのぉ?」
「勿論よ」
達己は付け出しを一箸摘まんで口に入れ、徹を見てにやっと笑う。
「徹、由起ちゃん連れて飲みに来るたぁ俺に勝って余裕出てきたな。由起ちゃん放とったらいかんちやっと分かったか?」
徹は頭を掻いて照れながら、「由起は大切ですけん」
「徹が私に愛情の込もったこと言ってくれたん久し振り」と、由起は胸で手を合わせてぽっと顔を赤らめる。
俊夫がグラスのフォアローゼズを一口流し込んで、「達つぁん、徹に余裕が出たんは懐が暖かくなったせいっすよ」
徹は達己に頭を下げて、「大悟さんから俺に50万の振り込みがありました。ごっつぁんです」
「おうそうかよかったな。こいで万年金欠病脱却やねぇか」と達己。
ちんぷんかんぷんの美千子が、「大悟さんってだぁれ?どうして50万もの大金を徹さんに?」
「そうか、美千にゃまだなんも話してなかったな」と俊夫。
「大悟さんちゃ達さんの亡くなった兄さんの大親友でひょっこり達つぁんば訪ねて来やったんや。気前のいい人で、徹が車に金突っ込み過ぎていつもピーピーなんも知っちゃって、この前の高良山走行会のご祝儀やてぽんと50万くれやったんや」
「おっと美千言い忘れとった。25日その大悟さんが鳥巣に出て来やるんや。店にも100万の振り込みがあったわ。とにかく一生に一度参加出来るかくらいの豪勢な宴会になるぞ。美千も準備の方ええな」
由起が、「私もお手伝いします」
「ありがとう由起ちゃん」
美千子が怪訝な顔で、「でも合わせて150万円って大金だよ。そんなお金ぽんと出せる大悟さんって何をやってる人なん?」
「そう、俺もそこんところ達つぁんに聞きたかったんや」と俊夫。
「知らん!」
達己の返事に一同呆気にとられる。
俊夫が、「まさか…達つぁん、兄貴ち慕う人の仕事知らんの?」
「兄貴は中卒の俺なんか考えも及ばん凄いお人や。聞こうち思たこともねぇ」
「達つぁんらしいや」と俊夫。
「はいスペシャルソーメンどうぞ」
円形のガラスの器に適量のソーメンと細く刻んだ胡瓜、みな思い思いにわさびと薬味の刻みネギを特性つゆに混ぜ込んで、「美味ぇわ!」
「やろ」と得意顔の明美。
大皿には数種類のおにぎり。
「たくさん食べてね」と明美はカウンターに戻る。
腹が膨れたところで達己が口を開く。
「10日に兄貴がひょいとやって来たやろ。実は兄貴真知子に会うんが目的で、あれから鳥巣高に行きやったごたるんや」
徹が、「そいで大悟さん達つぁんが真知子ちゃん連れて来ようってしたとき慌てやったんやな」と納得顔。
「兄貴、真知子たちに俺の過去全部バラしやった」
達己は遣る瀬なさそうにグラスを傾ける。
「じゃぁママ、この辺りでお開きにするわ」と大正町商店会のオヤジ連中。カウンターからも、「ママこっちもお勘定」
「ママまた来るよ」
俊夫が立ち上がって頭を下げる。
「いつもご贔屓にして頂いてありがとうございます。またのお越しをお待ちしております」
今村が、「湯村さん、ではお先に失礼します」
達己も応えて立ち上がって、「また機会がありましたら」
明美が二組を通路まで見送りに出る。
夜も更け、ぱらぱらとお客が引けて自分たちだけになったところで、徹が目をぎらつかせて、「達つぁんの過去俺無茶知りたいっす」
「私も」と由起も身を乗り出す。
「ああ…」
「若気の至りで知られとうなかったんやがもう隠しようがねぇな」
達己はハイライトに火を点ける。ふーっと吐き出すと、「美千子と俺の馴れ初めとか真知子にゃ絶対知りてぇことやったんやな」
「俺は中学出て炭鉱で働きよったんが喧嘩が三度の飯より好きやった。言い訳になるかもしれんばって戦争はアメ公に負けたうえに兄貴ゃ戦死や。自暴自棄になっとった。手下数十人従えて佐世保で暴れ捲った。ヤクザも朝鮮人も片っ端からぶっ潰して街一つ締めてやったよ。あの頃の俺は狂っとった。命なんかいつでも捨てる覚悟で怖いものなしやったわ」
俊夫が唖然として呟く。
「佐世保の街一つ…」
見送りが済んで店に戻ったまま立っていた明美がひょいと口を挟んでくる。
「俊のやんちゃとは次元が違うようやね。よかったねあんとき達さん本気で怒らせんで」
「ああ命拾いしたでぇ」と俊夫がほっと胸を撫で下ろす。
達己は困った顔で、「俊、大袈裟やで」
「やっぱりな。達つぁん纏っとるオーラが違うわ。なぁ由起」
「うん」と由起は若干戸惑うように頷く。
「私は達さんの過去なんて全く気になんないよ。達さんは達さんやもん」と口を尖らす美千子。
「ああそうや」と俊夫。
大正町商店会のテーブルを片付けた明美が、丸椅子を持って来て俊夫の横に落ち着く。
明美が、「達さん、奥さんとの馴れ初め話して」
「同じ美千子として美っちゃんは絶対知っておきたいことやろ」と美千子に話を振る。
「うん、知りたいような知りたくないような」
美千子は複雑な感情を覗かせる。
「ああ、周りに喧嘩達とか煽てられていい気になっとった俺や。あの荒んだ生活のままやったら間違いなく命落としとるな」
「喧嘩達…」
俊夫が呟く。達己は煙草を揉み消して喉にウイスキーを流し込んだ。徹がごくっと息を飲む。
「あの頃俺はまだ二十歳や。年季の入った親分連中ば力で押さえつけて見下して自堕落な毎日送っとった。そげなときやあいつに会うたんは」
「美千子さん…」
美千子が呟いた。
「自分で言うんもなんやけど俺は佐世保の裏社会の有名人やった。俺を消せば一気にスターダムに伸し上がれるけいつも命狙われとったわ」
「命を狙われる…映画の世界じゃないんだよね」と由起。
「俺の日常や」
「道理で…」
徹が嘆息を漏らす。
「達つぁん、ぞげなあり得ねぇ世界に生きとったんか」
「俺の一の子分が今佐世保仕切っとる山崎や」
俊夫が、「山崎…山崎組…確か剛から聞いたことある…九州でうちに並ぶ武闘派は佐世保の山崎組だけやとか言うとった」
「あの山崎組長が達つぁんの子分…」
俊夫は唸って、息子の浩紀の障害事件の折、筋者風出で立ちで鳥巣中に乗り込んだ自分への達己の言葉を思い出してぞっとし、また恥じ入った。
――大塚さんの強気の裏にゃ昔のやんちゃ仲間の存在があるんやろうけど俺にもそれなりの仲間はおるぜ。
「命なんかいつでもくれてやる。取れるもんなら取ってみい。俺は山崎の止めるんも聞かんで物騒な夜の街ば徘徊したんや」
「美千子は孤児や。教会で戦争で親ば亡くした子供たちの世話しよった。その日は帰りが遅うなっていつもは近寄らん一画に紛れ混んじまったんやろうな。朝鮮人に襲われた美千子ば偶然俺が助けた」
「終戦直後って治安が悪かったって聞いとったけどやっぱりそんなこと日常にあったんやね」と由起。
「ああ、20年代は朝鮮人にヤクザ、そいにアメ公のやりたい放題や」
美千子が聞き辛そうに、「達さんの美千子さんへの印象ってどんなだったん?」と達己の表情を窺う。
達己は続けざまに二本目のハイライトに火を点けて、「そうやな、あんときゃまだ17やったかいな。今まで見たこともねぇかわいい女やった」
由起は両腕を交差させて胸に当て、「尋常じゃないよ。そんな映画みたいな出会い方現実にあったんやぁ。ロマンチックぅ。乙女心を擽るよぉ。達さん早く続き聞かせてよぉ」
徹が頷きながら、「由起はこの手の話に滅法弱ぇもんな」
達己は美千子、由起、明美を一人一人見て、「俺は別に女ば卑下しとった訳やねぇけんな」と断わって、「当時の俺の心は荒んどった。墨は入れとらんやったばって喧嘩三昧の裏社会の人間や。女にゃ不自由しとらんやったけ物としか見とらんやったし、恋愛感情とか経験したこともなかったわ。美千子はかわいかったばってん所詮俺とは住む世界が違う女やと俺はそのまま消えた」
「女を物かぁ!」
「確かに当時の荒んだ達さんば如実に表す言葉やね」とは明美。
「すまんな明美美っちゃん由起ちゃん」と達己が頭を下げる。
美千子が、「達さん自分で言ったやない。全部若気の至りだよぉ」
「そげん言うて貰うと気が楽にゃなるけどよぉ。正直これ以上俺の視界の中にあいつに居座るられると変質してしまいそうな自分ば恐れたんや」
「どんなふうに変わるって思ったん?」と由起。
達己は能面で、「心ば移してしまう」
「つまり好きになってしまうってこと?」と由起。
人差指と親指で挟んだハイライトを口に持っていった達己は、煙を吐き出して頷く。
美千子が、「達さんを一目惚れさせたの…」と嘆息を吐く。
「好きになっちまいそうとか今でも昔でも俺の柄やねぇ。戦後はあらゆる権威が失墜しちまった。戦後のどさくさは弱肉強食や。気を抜いたら喰われてしまう。力だけが全てや。血を流して築き上げた組織があり仲間がおった。俺は商売女しか知らんやったしそいで十分やと思うとった。堅気の女にうつつを抜かした途端俺のアイデンティティーが崩壊しちまうち狂信しとった」
「アイデンティティー?」
「達つぁん俺頭悪いけそげな横文字解らん」と俊夫が疑問を挟む。




