6話 B界
車に乗り込んで、「さて」と俺は話を切り出した。
「美穂ちゃんご免。ちょっと間ば開け過ぎたな」
美穂ちゃんはごくっと息を呑む。
「おじさんちょっと待って。心の準備する」
「何か、美穂ちゃん怖いんか?」
「おじさん、私が怖くて耐えられんかったら本当に記憶消せるんだよね」
「あぁ、でも直ぐは無理やで。俺が本来の世界に戻ってからやけ、数時間は耐えんといかんぜ」
美穂ちゃんは分かったような分からないような曖昧な表情で、「正直怖いけど、今は興味の方が強い」
「美穂ちゃんらしいな」
「そんなら軽く始めるか」
「美穂ちゃん、絶対と相対の観念と違い分かるや?」
「何となくかな。絶対という言葉はよく使うけど、相対ははっきり言って正しい使い方分かんない」
「そうやろな。俺の話にはこの相対っていう言葉がキーワードなんや」
「絶対っていう言葉は、みんな普通に、まぁ絶対勝つとか、絶対絶命とか使っとるばって、この世に絶対はあり得ないから絶対的存在もない。この世に存在するもの、事象には必ず相手があり対となって存在する。それが俺の相対的世界観や」
「さっき聞くん忘れたばってん、この世界にも天皇陛下は存在するよね?」
「うん、ちゃんといらっしゃるよ」
「美穂ちゃんの小学生の頃、天皇陛下についてはどげなふうに教えられたや?」
「明治から太平洋戦争まで、天皇陛下は私たち国民にとっては絶対的存在であって、現人仙人でいらっしゃったけど、日本の敗戦で人間宣言されたっていうふうなことやったかな」
「現人仙人?まぁええか。一応俺の世界と一緒やな。さっき言うたごつ、相対的世界観では絶対的存在はあり得ず、天皇陛下も相対的存在や。その相手は1億2千万人の国民や」
「ここからが核心やで。美穂ちゃん耳覆ったらいかんぜ」と俺が冗談めかすと、彼女はきっと真顔で俺を見詰めている。
「ごめん美穂ちゃん」とつい謝ってしまった。
「この世は夢と現が対になって存在する。この世とあの世と言うてもええけど説得力がない。いつからそうなったか分からんけど、生き物は脳ば休めるために眠らないかん。人のごたる高等生物にゃ尚更のことや。夢ば見る時間は人の人生の約四分の一ば占める。通常、夢は夢であって脆くて儚くて支離滅裂な世界やけど、ちゃんと存在する。俺の相対的世界観では、現の世界ばA界、夢の世界ばB界って言うんじゃ。俺はA界の住人で美穂ちゃんはB界の住人、俺は2012年のA界から1973年の美穂ちゃんが住むB界にやって来た人間じゃ」
「ちょ、ちょっと待っておじさん…」と右掌を俺の俺に向け、狼狽し顔を真っ赤にして言葉に詰まる。
やっと息を継ぐと、「わ、私はおじさんの夢の世界に生きる人間…?」
「あぁ、そうなる」
突き放したような言い方になってしまった。美穂ちゃんは見る見る生気を失っていく。車は福岡市内に入っていた。俺は二車線の路肩にGTOを止めた。走りながら話すのはもう無理だ。
「美穂ちゃん大丈夫か?」
美穂ちゃんはぶつぶつと呟き出す。
「私は儚くて脆いすぐ消えてしまう夢の世界の住人…でも私はちゃんとここに存在してるし、22年生きてきた記憶もある。お父さんもお母さんも居る」
美穂ちゃんは自分の姿を見回して頬を抓った。
「夢じゃないよぉ。ちゃんと生きてるよぉ」
美穂ちゃんは俺に訴えるように声を荒げる。
「おじさん嘘やろ。こうして私の眼にはこの世界が写ってるし、ほら抓ったら痛いよぉ」
「おじさん、このリアルな世界が夢!信じらんない」と頭を振る。
俺は錯乱状態に陥りそうな美穂ちゃんの両肩に慌てて手を置く。
「美穂ちゃん落ち着けちゃ。ええか、半日経ったら俺はこの世界から消える。必然的に美穂ちゃんの記憶から俺のことは消えるし、美穂ちゃんが知ったこともすべて消えて、今まで通りの生活に戻れるんや」
俺が言い終わるや、美穂ちゃんはしまったという表情で顔を上げる。
「取り乱してご免なさい。今までのおじさん見てて、とても作り話やとは思えんやったけん」
「そこまで信じてくれてありがとうよ。俺冥利に尽きるぜ。これが他の人間やったら、笑い飛ばされて終わりや。後で大事するのによ」
改めて、「おじさんの言ってること本当に本当なんやろ?」と美穂ちゃんが俺の表情をじっと観察する。
真剣に見つめられると俺の性格からして吹き出してしまいそうだったが、ここで笑ったりしたらシリアスな空気が台なしになって、もはや言い繕うことができない。
じっと堪えて、「ああ、本当や」
俺はほっとした。
「よく考えたら、おじさんが私に悪いようにする訳ない。冷静に聞くけん、もっと話して」
「でね、信じてない訳じゃないんやけど、おじさんが未来からやってきたっていう証拠見たいん」
「分かったわ美穂ちゃん。証拠か…そやな…」
――未来に起こる事件・事故のこたぁあんまりぺらぺら喋らん方がいいし、もしかしたらA界とB界は全く同じじゃねぇかもしれねぇし。
待てよ、俺はにやっと笑う。
――爺さん味な真似しやがる。携帯残したんはこんためか。
美穂ちゃんは訝し気に、「おじさんどうしたん?意味なく笑ったりして」
「すまん美穂ちゃん、俺が未来から来たっち証明する神器、いや仙人器があるわ」
「仙人器って仙人様の器ってこと」
「ああ、そうや」と俺は助手席側に左手を伸ばして、グローブボックスから折り畳み式のシャープの携帯電話・SH01Cを取り出した。最新の機種で1600万画素だ。これだけあれば、もうデジタルカメラにも負けない画像が撮れる。
自分で創造した物でもないのにちょっと誇らしげに、「携帯電話って代物や」
「けいたいでんわ…?」
美穂ちゃんは物珍しげに眼を凝らす。
「これが未来の電話なん?」
「ああ、そうや。今から40年後の世界では小学生でも持っとるわ。家にある動かせねぇ黒電話ば固定電話って言うて、携帯電話と言い分けとる。山奥は別として、どこに居っても繋がるでぇ。ビルの中でも地下街でも。NTT、いやこの時代はまだ電電公社か、電電公社が通信は独占しとってボロ儲けしよるばって、未来では電電公社の子会社の携帯電話ば扱うドコモに取って代わられるんじゃ。何でって固定電話なんか必要ないけ。俺もA界じゃ捨てたし」
「移動電話っていうのをテレビでみたことあるけど、とても持って運べるレベルじゃなかった。未来ではこんなに小さくなってんだ」
「でも、あの学生就職希望ナンバー1の電電公社が…信じらんない」
「ほいでも、こん時代にはインフラがねぇけ、使い物にならん。俺が仙人器っち言うたんは電話以外の機能なんじゃ」
「美穂ちゃん、これで写真もビデオも撮れて、そいでその場で見れるんじゃ」
えっ!と美穂ちゃんが絶句する。
写真ならまだしもビデオまでとは、それもこんなちっぽけな物体で、現像することも映写機に掛けることもなく見れるっていうんだから、驚嘆せざるを得ないだろう。
「おっと言い忘れた。実演はできんけど、これはテレビ電話もできるんやで」
「互いの顔を見ながら話せるあのテレビ電話?」
「空想の世界のことって思っとったけど実現したんや」
「ああ、未来ではリアルタイムって言葉がよう使われるんやけど、そこにテレビカメラがのうても、素人が携帯電話で実況できるんや」
「う…ん」
美穂ちゃんが唸る。
「今から40年後ってそんな凄い世界になってんだ」
「物は試しや。美穂ちゃんのかわいいショットを1枚」
かわいいと俺に面と向かって言われて、美穂ちゃんが照れて紅潮する。
「おっその表情いいね」
俺はシャッターを切る。
B界に来て俺ははち切れた。50過ぎたおやじが臆面もなく、女子大生にかわいいと言えるとは。良い性格だ。A界の俺では考えられない。
「ほら」と俺はモニターを開いた携帯を美穂ちゃんに渡す。
美穂ちゃんが眼を瞠る。
「おじさん、これ凄い!」
「こんなに綺麗に映ってる。どうなってんの?」
「この時代のテレビはまだブラウン管や。まず、テレビの画面が徐々に進化していった」
「テレビって、画面の大きさに比例して奥が出っ張るやろう」
「うん、やから私んちも居間の角に置いてる」
「それがどんどん薄くなるんや」
「どうやって?」
「デジタル技術っていうて、ブラウン管の画面が液晶の画面に代わって、最終的には絵画の額縁ほどに薄くなる、壁掛けテレビや。そしてこの携帯電話」
「おじさんの説明分かり易い」
「ちょっとビデオも撮ってみようか」
再生釦を押し美穂ちゃんの表情を追う。
再生された動画を見た途端、美穂ちゃんの眼は点になる。
「凄すぎる!」
「こんな物持ってるやなんて、おじさんやっぱり宇宙人!」
美穂ちゃんは真顔だ。
「違う。俺は未来人」
俺も真面に否定する。
「でも、私は宇宙人に逢ったような気分なん」
「そっか、確かにそうやろうな。現代の技術革新は日進月歩って言うばってん、40年も経った世界のもん見せられたら、そう思うのも無理ねぇな」
「おっと、若ぇ美穂ちゃんにもう一つ大事な機能言い忘れとった。未来の若ぇ奴らの必須アイテム、メール機能や」
「メールって手紙?」
「そう、未来の若ぇもんには紙もペンも必用ねぇ。携帯に文章打ち込んで相手に直送する。郵便屋はいらねぇ。瞬時に届く。ラブレターっちゅう言葉は死語になっちまった。ラブメールや」
俺はにたっと笑って、「美穂ちゃん、ラブレター貰ったこつある?」
彼女はこっくりと頷く。
「男の子から家に電話掛かったこともあるやろ?」
「うん」
「両親がその電話とったら根掘り葉掘り詮索してこんや?」
「うん、特にお父さんが煩い」
「かわいい美穂ちゃんに変な虫が着かんように心配しちゃるんよ」
「でも、恋愛に干渉されるん好きくない」
美穂ちゃんは唇を尖らせる。
「確かに美穂ちゃんの言う通りや。俺も23歳のとき、彼女の母親の無用な干渉のために悲恋に終わった嫌な経験があるんや」
「おじさんはその女のこと大好きだったん?」
「ああ、足の悪いこんな俺を愛してくれた唯一の彼女やった」
「おじさんかわいそう」と美穂ちゃんは心から同情してくれる。
「あんとき携帯が有ったら、彼女の写真もビデオも残って、お袋さんに邪魔されることもなく、まぁいずれ終わったにしても、もうちょっと恋人気分ば味わえたんやねぇかち、残念でしょうがねぇんや」
「おじさん、その後お付き合いした人居らんの?」
「35歳のとき、知り合いに紹介してもろうた今の嫁と半年付き合って結婚した。嫁の歳が悲恋に終わった彼女と一緒なんや」
「だったらおじさん、奥さんをその彼女と思って幸せにしてあげなきゃね」と美穂ちゃんが微笑む。
「あちゃー、一本取られたな」
俺は頭を掻いた。
「暑ぃ!」
俺は改めて漏らした。額を流れ落ちる汗を湿ったタオルで拭う。美穂ちゃんも額に汗の小さい球が浮き出している。
ちょうどいいことに、俺が車を停めたところは団地の公園横だった。木陰にベンチがある。
「美穂ちゃん、止まった車ん中で調子に乗って話し捲ってしもうたわ。暑かったやろ、ご免」
「降りて話そうか」
2018年12月18日・2019年12月17日修正