52話 カミングアウト
「もうひとつはっきり目に見える形でお前らに俺っちゅう者を認識させとった方がええな」
爺さんも認めた通り、俺はこの世界で命を落とすことは元より血を流すこともない。たとえこのB界とA界が全く見極めがつかない相対的な世界だとしても、俺は今、B界にいるということは認識できる。俺の夢の世界がB界ならば、例えば、この警官たちの前で腕を切り落とそうとしても刃物は虚しく空を切る。俺の身体はB界では立体映像のようなものだから。あくまでも本体はA界にある。
ただ実演には相当の勇気がいる。夢のような気がしても、その痛みに恐れ戦いて、生身に刃物を突き立てたりはできないから。
「高橋、包丁持って来させてくれんか?」
高橋は怪訝な顔をしたが、「井上、久美ちゃんに頼んでくれ」
先程コーヒーを運んできたときも、色々訊きたそうで堪らない顔をしていた久美ちゃんだったが、包丁を布巾に包んで持ってきた彼女は、今度はドアの前に立って中々部屋を出て行こうとしない。
俺は高橋に小声で、「女の子にゃ刺激が強過ぎるし仲間にゃ引き込めん」
高橋は席を立って、「久美ちゃん、俺たちが何するか興味津々なんは分かるけど見られたらまずいんや」
久美ちゃんは表情を曇らせて、「係長たちいったいどうなるんですか?」
「あれだけ堂々と課長に逆らったらただじゃ済まんのやない。私心配で…」
「心配してくれてありがとうよ久美ちゃん。でも俺たちは使命感に駆られるような気持ちであの方と行動共にせんといかんのじゃ。久美ちゃんを巻き込みたくないんや」
久美ちゃんは目を伏せて、「係長私ね、あの人に不思議なオーラを感じるん。悪い人じゃないことは私の直感で確かだよ」
「ああ、久美ちゃんの言う通りや。俺たちはさっきまで悪鬼のごとあの方が恐ろしゅうて堪らんやったんやけど、今は周り全部敵に回したとしてもついて行きたくなるほどの魅力を持ったお人や」
俺は久美ちゃんに寄って行った。
右手を差し出して、「今は湯村ち名乗らせて貰うけど」
久美ちゃんは握手に応じてしっかりと俺を見据える。
「私は早田久美って言います」
眩しい笑顔に俺の方が照れて目を背けてしまった。
「じゃぁ俺もみんなが呼んどるごつ久美ちゃんって呼ばせて貰うわ」
久美ちゃんはまだ二十歳、身長150センチちょっとで細身のショートヘヤー、天真爛漫で好奇心旺盛な女の子、折尾署交通課のマドンナ的存在だ。みんなにかわいがられている。
俺の秘密を唯一知っている美穂ちゃんと歳は二つしか変わらない。それ相応の覚悟をして貰えばいいだけだ。
「高橋、本人が知りたいっていうならええぜ」
久美ちゃんは、「おじさんありがと」と途端、きゃぴきゃぴ娘に変身して手を叩いて喜ぶ。
渡辺が眉を潜めて、「こらっ久美ちゃん、おじさんは失礼やぞ」
「ごめんなさい」と久美ちゃんがぺろっと舌を出す。
木製の机上には剥き出しの包丁。いったい何をするつもりなのかみんな固唾を飲んで見守る。久美ちゃんもきゃぴきゃぴ性を潜めて視線が包丁だけに集中する。
「お前ら、今から俺が何をするんか興味津々とともに戦々恐々やろう」
「今からすることは俺の正体を明かすっていうことや。百聞は一見に如かずや。目をかっぽじってよう見とってくれや」
俺は採血を受けるが如く左腕を机上に伸ばす。
右手で文化包丁を逆手で握ると、
…南無三!…
心の中での掛け声宜しく、切っ先を前腕部と平行に、垂直に振り上げて、一気に俎の鯉に突き刺すが如く振り下ろした。
「きゃー!」
久美ちゃんの悲鳴が残響となって部屋の中に木霊した。瞬間、みんなもつい目を瞑ったようだ。
「お前ら」という声に目を開けた警官たちは、驚愕の光景に目を奪われて言葉を失う。包丁の切先は間違いなく俺の腕に突き刺さっているが、血は一滴も出ていない。
「こ、これは?!」
みんな俺に寄ってきて腕を注視する。
俺はにやっと笑って、「手品じゃねぇぞ」
「渡辺、何か言うことないか?」
「こんな手品あり得ません」
「そうやろ。よう見とけよ」
俺は掌を結んだり開いたりして見せる。
部屋の外が騒々しい。久美ちゃんの悲鳴に交通課の人員が駆けつけて来たようだ。鍵が閉まったドアをドンドン叩く。
「大丈夫か?」
「何かあったんか?」
高橋が飛び出して行った。
「課長、放っておいて下さいって言ったでしょうが!」と声を荒げる。
「そんなに発砲事件起こしたいんですか?」
交通課長の他に刑事課長も姿を見せていた。
交通課長は高橋を宥めるように、「分かった。分かったから早まらんように」
刑事課長が、「さっきの悲鳴は早田君じゃなかったんか?」
高橋は煩わしそうに、「確かに早田君ですがただの悲鳴です。あの方が帰られたら雁首揃えて出頭しますから今すぐ俺の視界から消えて下さい」
高橋は短気を抑えきれないように拳銃ホルダーに手を掛けた。
「分かった高橋、消えるから」と刑事課長はゆっくりと後ずさる。
高橋が戻って来るのを待って、「高橋、腕触ってみぃや」
高橋はゆっくりと手を伸ばした。
「どうや、おかしいとこあるか?」
「ありません」
作り物でも何でもない。本物の生身の腕だ。体温も感じる。
久美ちゃんが、「私も触っていいですか?」
恐る恐る手を伸ばす。間違いなく刃先は腕を貫通している筈だ。なのにどうして?
「久美ちゃんどう?本物の腕や?」
「うん、おじさんの腕本物だよ」
俺は突き刺さった包丁をゆっくり引き抜く。腕には傷らしきものは全くなかった。みんなの俺を見る目が変わる。バーチャル仙人様でも見る表情だ。さっき玄関から入ったとき、課長席の後ろ上方にバーチャル仙人の棚があるのは確認していた。
「ほんじゃぁ、謎解きと講釈や」
俺の言葉に七人が食い入るように耳を傾ける。効果は抜群だったようだ。
「通常の俺は生身の人間やが危険を察知するとホログラフに変わる」
「増田、ホログラフって分かるか?」
「いえ、聞いたこともない言葉です」
「立体映像や。言い換えれば幻やな。何でって俺の本体はこの世界にねぇから」
高橋が、「この世界って言われるのは別の世界があるからですか?もしかして…」
「もしかして何や?」
高橋は気恥ずかしそうに、「宇宙…?」
俺は笑って、「高橋、しょうもねぇテレビの見過ぎや。宇宙には人間のように知能が発達した生命体が無いとは言いきれんが、もし居たとしてもこの世界のことや」
高橋は頭を掻きながら、「すいません」
「いちいち対話形式にしとったら時間がねぇ。一気に喋るぞ」
「俺らが生きとるこの世界は現実と言われる目を開けた世界と目を瞑った夢の世界がある。夢は高度に発達した脳を持つ人間だけが見れる世界や。この世は全て相対的な関係で成り立っとる。お前らは所詮夢やねぇかって馬鹿にするかもしれんが人生の四分の一は夢じゃ。現実の世界をA界、夢の世界をB界って言うて密接に絡み合って二つの世界は進行する」
久美ちゃんがさも当然のごとく、「じゃぁ私が今生きているのはA界っていうことね」
俺は左手で拝む仕草をして、「申し訳ねぇ久美ちゃん、ここがA界やったらこの腕の説明がつかねぇ」
「えっ!えっ!」
久美ちゃんが顔面蒼白になってみんなの顔を見回す。
感化された松田が、 「井上、俺に力一杯びんたしてくれ」
バシッと痛そうな音が室内に響いた。
「痛ぇ!痛ぇよ」と松田が頬を押さえる。
「お前ら慌てるなちゃ。世界がひっくり返ったごたる気持ちやろうが、お前らは運悪く…いやもしかしたら運良く俺と関わったために知り得た事実に過ぎねぇ。知ったからっちゅうて明日世界が終わる訳じゃねぇし今までと何も変わらねぇよ」
「ただ、俺から見てこの世界がB界っち言うだけじゃ。俺はA界に住む人間で訳あってこのB界にやって来たんじゃ」
「今からお前らがよく知る者の名前出すけんパニック起こすなよ」
俺は一息吐いて、「俺はバーチャル仙人の主人じゃ」
「世界中で崇拝されとる爺さんは俺に仕えとる」
七人は目を大きく見開いたかと思ったら、途端、土下座体勢で一列に並んで、床に着かんばかりに頭を下げた。頭を下げたままの姿勢で、高橋が代表して口を開く。
「まさか…世界の端の、この日本の北九州の…私の前に仙人様のご主人がいらっしゃる。信じられません。まるで夢みたいです。仙人様がお仕えするご主人様の話は皆小さい頃より耳にタコができるくらい聞かされておりますが、有史以来、ご主人様にお会いしたという人物は聞いたことがなく、実際にいらっしゃるとは世界中の誰もが信じておりませんでした。仙人様には歴史上の偉人の数人がお会いしたと記録に残っておりますが、まさかまさか、感無量でございます」
俺は面食らう。美穂ちゃんも俺がカミングアウトした際、まるでA界で神様にでも会ったが如く恐懼していたが、リアクションは全く同じだ。
歴史上の人物が俺に会ったと言う記録なんかある筈がない。何と言ってもこれで二回目のB界だ。数百年前、千数百年前に行って行けないことはないが、色々と制約がある。俺の現実世界であるA界に於いて、あらかじめ目的地まで移動しておかねばならないから、時間と金に余裕がないと行動を起こす気になれない。それに九州は歴史の表舞台ではないので、日本史の中心である畿内まで行くとしたら10万円コースだし、三日は会社を休まないと無理だ。海外とかとんでもない。また、眠りに就いたのはいいが、B界で目覚めたら海の上だったりしないとも限らない。結構当時の地形を調べておかねばならなかったりする。




