50話 懲戒
ドアのノックの音がした。
「高橋係長と渡辺主任はおいででしょうか?」と部屋に入ってきた交通調査係の巡査は、うっとその場に固まって目を疑う。
誰もドアの方に顔を向けない。たとえ署長が入室して来たとしても七人は微塵も動じなかっただろう。俺からの指示がない限り、何があっても土下座を止めない腹らしい。巡査は見てはいけないものを見てしまった感覚で、一刻も早くその場を離れたかったが、再度、「あのぉ…高橋係長渡辺主任、課長がお呼びなんですが…」
俺が助け舟を出してやる。
「行って来いよ」
高橋と渡辺が申し訳なさそうに頭を上げた。
廊下に出た高橋は煩わしそうに、「すぐ行くち、課長に言うとけや」
「渡辺ちょっとついてこい」
高橋は廊下の端に至ると、地下室への重厚な扉の鍵を開けて拳銃保管庫に足を踏み入れた。渡辺が驚いて、「係長、まさか拳銃で脅すんですか?」
高橋は拳銃の下った帯革を腰に巻きながら、「ああそんつもりや」
「係長、実は俺もさっき煩いオヤジを衆人環視の中で本当に殺すつもりで締め上げました。あの方の前で自分の心意気を意地でも示さねばと思ったものですから」
高橋は渡辺の肩をぽんと叩いて、「お前の判断は正しいわ。首を賭けてっちゅうより人生捨てるつもりで心意気見せんとあの方の気持ちは動かせんやろ。この世から消えるくらいなら今更秩序てろ倫理てろくそ食らえじゃ」
真夏の地下室は蒸し風呂だ。高橋は額に噴き出す玉のような汗を右手で払いながら自らを鼓舞した。
交通課長は眼鏡の奥の瞳をチカと光らせて、「高橋係長、俺に報告することはないか?」
高橋は平然と、「ありません」
「ないことはないやろ。市民の苦情が署にきとるんや」
交通課長は渡辺に目を移して、「渡辺主任、お前は道路の真ん中で堂々と一般市民に暴力を振るったそうやないか」
「いったい何考えとるんじゃ!」
交通課長は怒りに任せてどんと机上を拳で叩いた。
渡辺は頭を傾げて他人事のように、「何も考えていません。只ムカついたんでぶっ殺してやようと思っただけです」
「警察官たるものが…ぶ、ぶっ殺す…」
「気でも狂ったんか!」
交通課長は怒り心頭に椅子を蹴って立ち上がった。
「お前らはいったいどういうつもりだぁ」
高橋が恍ける。
「私には課長が何で怒ってらっしゃるのか皆目わかりません」と小馬鹿にしたように両手を広げる。
警察は階級社会だ。上の命令は絶対だ。ここまで上司を小馬鹿にした態度をとれる筈がない。誰かに、洗脳されたが如くこの二人は人格が変わってしまった。二人とも妻帯者で子供もいる。おおっぴらに逆らって昇進など望めないのは分かっている筈だ。おかしいとは思うが、交通課長という職責にある以上、厳正に対処せざるを得ない。
「署長がカンカンになっておられるんや」
「それに何とも知れん一般人を大業に出迎えて…な、何や…土下座したって言うやないか。あれはいったい誰なんや?」
高橋は交通課長に顔をぐっと近付けると能面で、「課長、あのお方の話題に触れてはいけません。タブーです」
交通課長はけらけら笑って、「どこの馬の骨か分からん奴にあのお方だぁ?タブーだぁ?」
途端、二人の顔色が変わる。高橋は躊躇なくホルダーに手をかけると拳銃を引き抜いた。
うっ!交通課長は驚愕して後ずさると壁に張り付く。周りの警官たちも高橋の思いも掛けない行動に瞬間目を奪われる。
「高橋貴様!気でも狂ったんか?懲戒もんやぞ」
高橋の拳銃は床に向けられたままだったが、署内で拳銃を抜くということは暴挙以外の何でもない。重い懲罰対象だ。
…係長、やっちまった…
高橋はゆっくりと拳銃をホルダーに仕舞って、「課長、私ら七人もう少しあのお方とご一緒しなければなりません。その邪魔をする者は何人たりとも許せません。もし妨害行為があったらこの折尾署は警官同士の発砲・銃撃戦という前代未聞の不祥事に見舞われることになるでしょう」と口上を述べた。
交通課長が青くなる。
「発砲…銃撃戦…」
「高橋お前、俺を脅すんか!」
「脅しではありません。あのお方との会見が終わるまで暫くそっとしていただければ私はどんな処分でも甘んじてお受けします」
「早く戻ってあのお方を待たせた非礼を詫びねばなりませんので失礼します」
高橋と渡辺が部屋に入ると、折り畳み椅子に坐って皆談笑していた。
「長らく中座して申し訳ありませんでした」と頭を下げる高橋。
俺は立ち上がって、「まぁ座れや」と正面の椅子に二人を誘った。
「係長・主任、早く座って下さいよ」
硬い表情の二人に、屈託ない笑顔の部下が口を添える。
「今、お前の部下に色々と内輪話ばカミングアウトして貰いよったんや」
…この空気、もしかして俺らは許して貰えたんか?…
「高橋、今お前が思うた通りじゃ」
「えっ、私が考えたことが分かるんですか?」
「分からんことはねぇが、心が見えたら人付き合いができん。お前の表情から想像しただけや」
高橋はさっと立ち上がると心から頭を下げた。
「あんな非礼なことをしでかした私を許して頂いてありがとうございます」
と、高橋は…
「何も出てないやないか。松田、久美ちゃんに言うて茶菓子持ってきて貰やえ」
ちょっと砕けた高橋に、「俺の力ば知ってからの二週間は生きた心地がせんやったろうや。察するぜ。ところで脅す訳やねぇけど死ぬんやのうてこの世から消えるっちゅう概念分かるや?」
「…わかりません」
「よく言うやねぇか。あの人は死んでも私の心の中に生きてますとかよ。ばって俺が言う消えるっちゅうことは勿論この世からおらんごとなることやが、同時に記憶・記録もなくなってしまう。まぁ俺は霊魂が存在しようがしまいがどうでもええんやけど、化けて出てきて自分の墓や仏壇や遺影があったら、ちゃんと供養してくれとるんやなって火葬されて脳味噌のない只の骨と灰になっても一応嬉しかろうや。ほいでも俺の力で消えたらオールナッシング何もない。化けて出て来ることもできねぇし墓も仏壇も遺影もこの世に存在した痕跡も何もねぇ」




