49話 折尾署
今回は家族に釘を刺しておく必要がある。連休だから二日間眠り込む。糖尿持ちの俺の理想とする体重は65キロ以下なのだが、今の食生活では厳しい。冬場は67キロを超えたり切ったりだ。二日間絶食すれば3キロは落ちるだろうから、理想体重以内に収まる筈だ。
家族は遅い俺の帰宅に夕食を合わせてくれる。通常は8時半から9時だ。帰宅してテーブルについて開口一番、「俺ぁ二日間眠りっ放しになるけん医者呼ぶなよ。呼んだら非常にまずいことになるけんな」
嫁は不機嫌な顔で、「えっ!またぁ」
「でもおかしいやない。何で眠り続けるって言えるん?それも二日間も。普通揺すったりしたら起きるよ。意識不明やないんやから。何かの病気なん?」
「もう、この前行けんかったけん明日こそ買い物行けるって思ったんに」と口を尖らせる。
「いつもんごつ自転車でモールに行けばいいやないか?」と俺。
「トイレットペーパーとかティッシュとか猫の餌に猫砂もあるん。重たくて自転車じゃ無理」
「分かったちゃ。餌と砂は俺が仕事中に買うて来てやるちゃ」
高校三年のA界の息子の康太が、「父ちゃん二日間も何も食わんで大丈夫なん?」
「人間二日ぐらい食わんやったっちゃ死にやせん」
康太は半信半疑ながら、「また夢の世界に行くん?」
「ああ」と答えた俺は、「まさかお前俺の言うたこつ信じとんか?」
「分からん。ばって父ちゃんが言うことにはいつも間違いないけん」
「そうか」と俺は曖昧な表情を作る。
俺は足はないが、頭は切れる。康太は頭はないが、五体満足で体力がある。人間として楽しく幸せに生きるとしたらどっちなんだろう。
人によく言われた。
「お子さんお父さんにそっくりですね」
欲を言えば、俺の頭脳を引継いで身長180センチを超えて欲しかったが、素直に育っただけで良しとするか。俺の頭がしっかりしている間は息子の足りないところは補ってやれる。
お代わりなしで晩飯を食い終わった俺は、胡坐の上で寛ぐ飼い猫のミケを除けると、義足を着けて立ち上がった。
「父ちゃんパソコンするん?」
「ああ、夢の世界に旅立つ前に二日間の予定ば入力しとかないかんけんな」
暑い!俺は、布団を跳ね除けて起き上がると、パンツ一丁になって掌で額の汗を払った。外は熊蝉の大合唱、サッシじゃない木製の窓を開け放って風を取り込んだ。真夏の朝陽に輝く貫山の姿が清々しい。
B界だ!俺は習慣の如く頬を目一杯抓る。痛い。間違いなくB界だ。今日は携帯を二階に持って上がって寝た。
西暦は出てないが、日付は8月25日土曜日。午前中は折尾署に冷やかしに行ってやって、それから久留米に向かうとするか。
一階に下りてテーブルを見ると、福岡銀行の通帳がある。名義は俺、捲ってびっくり!目玉が飛び出した。何と残高が5734万円、見たこともない数字、今の貨幣価値に直したら約2億2千万円だ。入金先は出版社がほとんどだが、自分で入金したようになっている金額が凄い。数十万・数百万単位だ。ピンときた。当たり馬券を換金したんだろう。
俺は右手の親指と人差し指でこめかみを押さえて、う~ん…銀行に入れたような入れてないような?まぁどうでもいい。全て無意識の力の為せる業だろう。
しみじみ、これがA界だったら即行で松田に辞表叩き付けて会社との縁を切ったあと、まではいい。蛇の生殺しの如くじっくりいたぶって、もう勘弁して下さいと何度も俺に土下座したくなるほどの引導渡してやるのに。とは意気がりながら、なら具体的にはどうするんだ?と問われたら答えに窮する。所詮、B界の如く、A界の俺は絶対的権力者ではない。実際には、会社を辞めて終わりではないのか?
俺は胸に刻んだ恨みは忘れない。豊前屋のとき虐められた渡辺は、俺が辞めたあと直ぐ横領が発覚して懲戒解雇になってしまい、恨みを返す気が失せてしまった。
外に出る。
「おっ生きとったか!俺の無制限改造GTO・MR」
「よっしゃ〜、一丁あいつら驚かしてやるか」
10号線を三萩野から3号線に乗り換えて八幡区、黒崎から産業道路に入って、洞海湾に架かる本城橋を渡って折尾に至る。窓から吹き込む風に混じって鼻を突く臭気、げっ、吐き気を催すほどだ。この腐った海、洞海湾のヘドロの臭い、夏の熱気に蒸されて増幅されている。この辺の住人はよくこんな臭いに耐えて生活できるものだ。臭くて飯なんか食えない。一種の慣れか。四十年後の環境未来都市・北九州に住む俺には到底我慢できない。堪らず窓を閉めた。
俺は一気にスピードを上げて橋を渡り切る。北九州市に公害防止条例が公布されたのは昭和46年だが、林立する煙突群からは七色とまではいかないが、濛々と煙が吐き出され続けている。
A界の現在は北九州工業地帯とは言わないが、中学の地理では、北九州は日本の四大工業地帯の一つであると教えられた。九州に日本有数の工業地帯があるということは、同じ九州に住む少年の俺には誇りでもあった。だが、その見返りは大きかった。60年代には工場の排煙による大気汚染、排水による水質汚染、八幡は七色の煙が覆う空、洞海湾は大腸菌も住めない死の海と称された。
…A界の今の中国がこげな感じやろう。馬鹿が!四十年遅れとるわ…
折尾署は平成8年に新庁舎に移った。それまでは折尾駅の近く、交通量の多い片側一斜線の幹線の踏み切りを渡って直ぐのところにあった。俺が小倉に出て来た80年代の北九州市の警察庁舎では一番古く、レトロ調建物だった。駐車場が狭く、車庫証明を出しに来て車を停めるのに閉口した。
俺は右折するため中央線に寄って止まる。警察車両出入り口は庁舎の裏にあるんだろう。三台の白バイが陰から勢いよく出てきたと思ったら、通り過ぎ様、先頭が、けたたましいスキール音とともに、車体を斜めにカウンターを切って止まった。釣られた後ろの二台が慌てて、ジャックナイフ気味の停止になる。
先頭の白バイ隊員が単車を路上に放り出して、俺に駆け寄りながら、大声で叫ぶ。
「あのお方やぁ!」
「お前らこん車線の車止めれや」
他の二人も、道路脇に白バイを捨て置くように停めると、交通を遮断した。
右手の肘を艶に窓枠の外に出してニヤつく俺に、リーダー格の白バイ隊員は、ヘルメットをとって最敬礼宜しく深くお辞儀したまま、「再び逢えるとは夢にも思いませんでした。ありがとうございます。俺は交通機動隊の渡辺と申します」
「渡辺か。そう畏まるなや。頭上げれや」
俺はわざとらしく、「げっ、お前ぇは俺ば捕まえたときの久留米に転属してぇち言よった白バイの兄ちゃんやねぇか」
そいつは恐縮して先程以上に深く頭を下げて、「すいません。あれほどの力を持ったお方とはつゆ知らず係長ともども深く反省しております」
「真剣にとるなちゃ。冗談や。お前らの当然の職務じゃ」
「そう言って頂けるとほっとします」
けたたましい改造クラクションが鳴り響いた。黒のセドリック230に乗った、タオル鉢巻のヤンキーオヤジが窓から首を出して、「おらポリ公、いつまで止めとるんじゃい。いい加減白バイ退けろや」
リーダー格の渡辺は険しい目付きになると、「おい松田井上、あのバカ黙らせて来いや」
「主任黙らせるって?」
「馬鹿か!俺らが生きるか死ぬかの瀬戸際なんぜ。引き摺り出して首絞めてでん何でんして黙らせろや」
「さすがに一般市民に暴力は…」
尻込みする二人に、「あのお方が見てあるんじゃ。心意気見せろや」
「見とけや」と、ずんずん230に近付くと、その大柄な体格から運転席のドアを思いっ切り蹴り上げた。ぼこっという音とともに運転席が大きく凹む。
「何しやがるんじゃ!」
頭から湯気を立てて飛び出してきたオヤジとの体格差は歴然だ。渡辺はヤンキーオヤジの喉元に右の二の腕を宛がい、力で抑え付けてルーフに仰け反らせる。
オヤジは苦し紛れに、「警察官が一般市民に暴力振るってええんか?通報するぞ」
渡辺はにやっと不敵に笑う。
「ああやってみぃや」
「何おう!若造が粋がりやって」
渡辺は俺に聞こえるようにわざと大声で、「俺らは生きるか死ぬかの瀬戸際なんじゃ。この場でお前ぶっ殺すくらいの覚悟はできとるわ」と、さらに右腕に力を込める。
オヤジは本当に殺されると、さっと顔から血の気が引いた。半分涙目で、「分かった。分かったからよぉ、大人しくするから助けてくれよう」
「泣くぐらいなら初めから粋がるなっちゅうんじゃ。クソがぁ」
渡辺は捨て台詞とともにぺっと路上に唾を吐いた。
揚々と引き揚げてきた渡辺に、俺は口の端を歪めて、「お前の心意気確かに見せてもろうたわ」
「光栄です」と渡辺はまた頭を下げた。
松田が、俺を玄関前駐車場の一般用じゃなく、パトカー用の枠に誘導する。車を降りると、交通課の部下の三人を引き連れてどたばたと、例の警部補が出迎えに出て来た。井上が呼んで来たようだ。いい大人が七人、俺の前に立って指先をぴしっと伸ばし、45度に身体を曲げた。
例の警部補が大きな声で代表する。
「折尾警察署交通課交通指導係係長高橋と申します。今更遅いと言われても仕方ありませんが、世の中には信じられない力をお持ちの方が本当にいらっしゃるんだとまざまざと教えられました」
高橋が心から発した言葉だった。証拠にお辞儀の下の目は潰れるほどにしっかりと瞑られている。警官七人の異様な光景に、署に出入りする一般人・署内勤務の者がじろじろと好奇の眼差しを向ける。その様子は交通課長・署長の耳にも入った。同時に先程の暴挙も市民に通報されていた。
俺は七人の警官に拉致されるが如く、一室に誘われた。高橋が口を開く。
「このようなむさぐるしい部屋で申し訳ございません。来賓の応接室を使うには私の肩書では苦しいところでございまして」
俺は部屋を見回して、「ここはどんな部屋なん?」
「交通調査係の取調室です」
「おいお前ら、俺の横に並べや」
号令一下六人が整列する。
高橋が率先垂範して膝を床につけ土下座した。これにはさすがの俺も度胆を抜かれる。
…誇り高いこいつらが俺に土下座たぁ、この世から消えるんがよっぽど怖いんやな…
高橋が口上を述べる。
「本当に申し訳ありませんでした。湯村様のお力を前にしたら、ただの人間がどう粋がったところで天に唾するものだと身に染みて分かりました。この度のレーダー取締の責任者は私です。こいつらは職務として私に従っただけです。湯村様の言われた通り、勤め先に中傷の電話を掛けたりして最後まで抗ったんは私です。どうか、この世から消すのは私だけにして貰えませんでしょうか?」
高橋は床に額を擦り付けた。




