45話 リセット
3月第一週の土日は、恐怖の北九州総合展示場の商談会だ。昨日は命の洗濯をさせて貰った。まぁ何とかなるさと開き直るしかない。売れるときは売れる、売れないときは売れない。焦って、今日一日顧客を回り捲っても、電話掛け捲っても、結果はA界の神のみぞ知るだ。今日も山腹の寺の横でふて寝かませるか。
MB自動車販売本店の前を宮崎まで伸びる国道が走り、百メートル程先で、黒原を通って湯川まで伸びる県道と合流する。眼前に堂々と聳えるのは、和気清麻呂の言い伝えの残る妙見神社のある足立山だ。細川忠興の家臣だった願覚が開山した本通寺が中腹に建つ。県道の交差点からこの寺に向かって上がり、突き当たりの路肩で俺はよく惰眠を貪った。バーチャル仙人が白昼夢に現れたのもこの場所だ。
B界の木村大悟だったら、こんな小さな世界で心悩ます俺にこう言うに違いない。
――情けねぇ。全く情けねぇわ。別に命のやり取りする訳じゃねぇんにいじいじとよぉ。平和な飽食の時代に行きとる奴の悩みとか俺にゃ贅沢に思えてしゃぁねぇぜ――
俺の今の勤め先はMB自動車販売・八幡東店。自宅は小倉南区、通勤にだいたい30分。始業時刻は9時30分、床を抜け出すのは始業の一時間前。朝飯は食えない。体重が許してくれない。病気したての頃は何とか三食食えていた。米は全く食べず、テーブルロールパンを主食にして、朝昼晩と細かく体重を管理してたから。でも今はわざわざパンを買いにコンビニに行くのは面倒だし、だいいち、昼に自宅に戻って体重を測る時間の余裕がなくなった。
A界に戻った俺はB界の仕事熱心な交通課の警官たちを頭に描いた。遠賀町だから、管轄は折尾署だ。今頃は雷に打たれた如く、俺に恐れ戦いていることだろう。
遠賀町での交通取締の責任者・折尾署交通課交通指導係高橋警部補は、署に戻るなり、半信半疑ながらも俺が言ったことを実行した。俺の違反切符のコピーを取って事務の女の子の机上に貼り付け、事細かく経緯を説明した。
「係長、ここまでする必用あるんですか?」と怪訝な顔だ。
「久美ちゃん、俺もまさかちゃ思うんやが奴は疑う余地がねぇくらい自信たっぷりやったんや」
「係長の言うこと私信じません。有り得ないです。明日になったら切符が白紙になって今係長から聞いたことが全部私の記憶から消えてるやなんて。その人悔し紛れに係長たちをたぶらかしてやろうとでも思って出任せ言ったんやないですか?」
「あいつを見送ったあと一時でも信じてしもうた自分に無性に腹が立って悔しゅうて堪らんやったで。もし嘘やったら目に物みせたるよ。国家権力舐めやがって。奴はしがないセールスマンや。公判請求されて免許取り消しになって吠え面かけっちゅうんじゃ」
高橋は日報に詳細に書き込んで、交通課長にも雑談形式でもって話した。署で顔を合わせた者に、今日こんなことがあったんやと喋り捲った。
…待てよ。あいつ職場に電話して在籍確かめたらええちも抜かしとったな…
高橋は机上の電話に手を伸ばす。
「私折尾署交通課係長高橋と申します。失礼ですが湯村という社員はそちらに在籍ですか?」
「はい在籍しております」
「失礼ですがお名前をお聞きしてもよろしいでしょうか?」
「私所長の木原と申します」
木原は好奇心旺盛だ。社内の噂話にいつも聞き耳を立てている。
「折尾署からわざわざお電話とは湯村が何かやらかしたんですか?」
警察官が個人情報をぺらぺらと部外者に喋るのは勿論規則違反だが、この際構わない。奴は言った。明日になれば、自分の記録・記憶はこの世から綺麗さっぱりなくなっているだろうと。
高橋はにやりと不敵に笑った。あいつの立場がどうなろうと俺の知ったことか!
「実を言うとスピード違反で今日検挙されました。通常の違反でしたらわざわざ電話することもなかったんですが前代未聞のスピード違反でしたから」
木原は声を震わせて、「いったい何キロ出してたんでしょうか?」
「あまりの猛スピードに機械が反応できず133キロで止まってしまいましたが、本人には罪の意識が全くなく200キロ以上は出ていたと豪語してました」
「200キロ!」
木原は受話器を持つ手が耳から離れた。再び受話器を耳に当てると、「車を販売するという仕事に従事していながらまた歳も50を過ぎてるというのに、社会通念上本人も会社もいささか無責任じゃないかと思いまして電話しました」
木原は恐縮して、「ご迷惑をお掛けして大変申し訳ございません。明日湯村が出勤してまいりましたら厳重に注意いたします」
B界の登場人物の記憶は無意識の力が操作しているので、木原の記憶では、俺は今日指定休で明日出勤してくることになっている。
「ところで今回の行政処分はどんなものになるんでしょうか?」
高橋は勿体ぶって一息置いたあと、「今回のケースは略式裁判では済みません。公判請求されて前科が付くでしょう。当然免許は取り消しです」
木原は慌てた。我が道を行くで扱い難い部下ではあるものの、大事な営業所の戦力、免許がなかったら仕事にならない。足が悪いから洗車係にという訳にもいかない。前科持ちになれば懲戒解雇も有り得る。
いや、木原としては解雇の方が都合がいいかもしれない。ある程度の実績のあるベテランを代わりに補充して貰える。だがここは一応部下を庇う姿勢を見せておく必用もある。
「何とか免停で許して貰う方法はないものでしょうか?」
「ないでしょう」と高橋は言い切って、にやりとほくそ笑む。
帰宅して、嫁・中学校一年生小学校五年生の二人の娘との団らん時にも、高橋は俺のことを面白おかしく話してやった。
「それであなた信じたん?」
「強力なバックまで持ち出されて話すもんでつい信じてしもうてよ。冷静に考えたらそげなことある訳ないやろ。明日になったら分かるさ。馬鹿馬鹿しい」
長女も、「お父さんその人もしかして宇宙人?」
高橋は笑いながら、「見たところ俺より年上の普通のしょぼくれたオヤジや。違うんはいい歳こいてスピードキチガイっちゅうくらいか」
取締の現場に居た白バイ隊三人、高橋の部下の交通指導係の警察官三人も、高橋と同じ行動を取っていた。
翌朝、朝飯の食卓に着いて新聞を広げた高橋は、はっと思い出して台所に立つ嫁に投げ掛けた。
「清子、俺が昨日話したスピード違反の男のこと覚えとるか?」
清子は高橋を振り向きざま、きょとんとして、「えっ何のこと?」
「やけん昨日レーダー取締ばしよったとき83キロオーバーで検挙した男のことよ。明日になったら違反切符も記憶も消えとるっていう…」
清子は笑って、「そんなおとぎ話初めて聞いたよ」
「昨日話したらお前たち面白そうに聞いとったやないか」と高橋が声を荒げる。
清子は、「そんな私に怒らんでも。変なお父さん」と止めた手を動かし始める。
堪らず、横で朝食の準備を待つ長女を向いて、「加奈子は覚えとるよな?その人宇宙人って俺に訊いたけんな」
朝で寝起きが悪いのか、うざったそうな顔で一言、「知んない」
「まさか?」
高橋はテーブルに両手をついて立ち上がると呆然とした。表情は生気を失っている。
…とにかく署に行かな…




