22話 太っ腹
『とらや』はラーメン屋には珍しくニ階建てだ。オヤジの気風の良い「いらっしゃい」の掛け声とともに中に入って行く。
テーブルは空いていたが、「オヤジニ階に上がるぞ」
「へいどうぞ」
腑に落ちない美穂ちゃんが、「おじさん空いてるのに何でわざわざニ階に上がるん?」
俺は二ッと笑うと、「単なる俺の拘りや。後で教えたるけ」
四人掛けのテーブルに俺と美穂ちゃんは並んで座る。
程なく、達己が五人引き連れてやって来た。
達己は開口一番、「兄貴、ニ階に上がらなくても一階空いてましたよ」
「いいんじゃニ階で」
「そうすか」と達己。
皆口々に、「ご馳走になります」
「まぁみんな座ってや」
達己と俊夫が俺と美穂ちゃんの対面に座った。
達己が口を開く。
「兄貴、人が悪いっすよ。俺が小倉に訪ねても滅多に会えないんに、こげな風にひょっこり来ちゃるっちゃびっくりするやないですか」
「達己許せや。俺は根っからの流浪人やけ一所に居るんが性に合わんのじゃ」
「ところで兄貴、そちらの娘さんは?」
「あぁ、美穂ちゃんって言うて俺の姪っ子や。俺の妹が久留米に居ってその娘や。北九州大学に行っとる。鳥巣でラーメン食うために車走らせよったら小倉の街中でヒッチハイクしよる姪っ子に偶然捉まってしもうてよぉ、ほんと奇跡に近ぇぜ。一緒にラーメン食いに行く羽目になっちまった」
美穂ちゃんも芸達者だ。
俺に合せて、「おじさん私と一緒、嫌なん?」と横目で俺を睨んでみせる。
「俺は一人旅が性に合っとるけんな」
美穂ちゃんはふんとそっぽを向いてみせる。
「へぇそうですか。兄貴の妹さん久留米に居っちゃったんですか」
俺は大塚俊夫に視線を移して、「ところで大塚さん、康太が息子さんに大怪我させたごたって大変申し訳ねぇ」
俊夫は恐縮して眼前で手を振って、「いえもう終わったことですから気にせんで下さい。お陰で俺も明美も達つぁんと知り合えましたけ」
「俺さっき達つぁんから大悟さんのこと聞きました。あの山本長官ば護衛しとって、長官が死んで、懲罰の地獄の空中戦生き抜いて足無くされたち。俺無茶尊敬します」
「面と向かって尊敬するとか言われたらこっぱずかしい(恥ずかしい)ぜ」と俺は頭を掻く。
「で、みんなラーメンライスでえぇや」と俺が声を掛けたのに応じて、「明美は飯要るや?」と達己が気を利かせる。
「私はラーメンだけでいいよ」
なら俺も、「美穂ちゃんは?」
「私もご飯要らない」
「分かった」と俺は席を立ってインターホーンの釦を押して、「オヤジ、ラーメン七杯に飯の大五つ、餃子十皿にビール十本じゃ。ビールはすぐに頼むわ」
…ここはB界じゃ。食いたいもの腹いっぱい食ってもA界の俺にゃ何の影響もねぇ筈やで…
席に戻った俺に達己がきょとんとして、「兄貴、ここ初めてですよね?」
「あぁ、初めてに決まっとるやねぇか」
「何で注文の仕方知っちゃるんですか?」
「達己お前要らん詮索するなちゃ。俺は自由な流浪人なんやから」
美穂ちゃんが口を挟む。
「あのうおじさん、それとこれとは何の関係もないんですけど…」
「そりゃぁそうやな」と頭を掻いて笑い飛ばす俺に、みんな口々に、「ご馳走になります」
「ああ、腹いっぱい食ってくれ。榎本君何杯お代わりしてもええぜ。車に金掛け過ぎて万年金欠病の榎本君にゃ悪ぃが俺は金が腐っとるけな」
徹が冗談めかして、「なら大悟さん、かわいそうな俺に車の改造代の援助宜しくお願いします」
「ええぜ。100万でも200万でも徹の口座に一週間以内に振り込んじゃるわ」と具体的に応える俺は真顔だ。
当時の100万は今の400万くらいに相当する。
えっ!と唖然としてぽかんと口を開ける徹に、「俺は冗談とミョウガは嫌ぇなんじゃ。本当に金は腐っとるけな」
「またおじさん一つ覚えの決まり文句」と美穂ちゃん。
堪らず達己が口を出す。
「止めぇや徹。兄貴は金に無頓着でいつも本気なんじゃ。ほいでもお前のためにならん。まだ飯食う余力はあるんやけてめぇの力で頑張って走れや」
「せっかくの兄貴のご厚意ですが、徹が味占めて生活が自堕落になってしまいますけご勘弁下さい」と慇懃に俺に頭を下げる。
「残念やのう。せっかく榎本君のGTV速うしたろ思うたんによ」
徹は、「大悟さん余計なこと言うてすいません」と未練たらたらで俺に頭を下げる。
今日は爺さんが用意してくれた50万円が俺の全財産だが、これから先B界にちょくちょく来るとしたら、金が腐っとるというのはあながち嘘じゃない。次はB界の銀行に口座を設けるつもりだ。そしたら泡銭がざくざく流れ込むという寸法だ。この世に賭け事と公営ギャンブル・宝くじがある限り、湯水のように金を使っても俺の懐が干上がることはない。
ただ、残念なのはあの世に財産を持っていけないように、B界の泡銭はA界に持っていけない。手に大金を握って得意絶頂の筈が、目が覚めた途端、懸命に空気を掴んでいる自分のばかさ加減に呆れることがある。それと同じだ。現実と全く変わらないB界でも所詮俺の夢の世界だから。もし何らかの理由でB界に来られなくなるとしたら、俺の周りの者にB界の財産は全部渡してしまおう。A界の俺には無用な物だ。
未来から来た俺のこと、ネットで過去の新聞等検索すれば当たり馬券は思いのまま。ネットでは分かり難い小倉競馬場の結果なら仙人の爺さんに訊けば済む。ただ宝くじの当たり番号はどこの売り場に潜んでいるか分からないから爺さんに操作させるか。その上に、俺のもう一つの顔、超人気作家の印税もげっぷが出るくらいに振り込まれる筈だ。
だが、一攫千金を続け過ぎると目立って思いもよらないことが起こらないとも限らない。程々も肝要だ。調子良く喋り捲る俺と刷り込まれた記憶を披露する達己を見て、美穂ちゃんも今度こそ俺に対する認識を固めたことだろう。
…私別におじさんの言ってたことを疑ってた訳じゃないけど凄い。おじさんが口から出任せで言ったことが全て事実になってしまう。ここに居る人たちにとっておじさんはあくまでも木村大悟。おじさんの本名と素性を知っているのは私だけ。改めて凄いことなんだと実感させられる…
俺はこの店に配膳用のリフトがあるのを知っている。だからもう一度体験してみたくて下が空いているにもにも関わらずニ階に上がった。『とらや』は高校一年のとき、友達に連れて来て貰って初めて知ったが、こんなに美味いラーメンを知らなかったのは俺だけだった。
そのA界の同級生江崎の心無い一言、「湯村、女とここに来ることは一生ねぇやろうな」
40年経っても覚えている屈辱的な言葉だ。
リフトのブザーが鳴った。
…ビールやな…
俺が腰を浮かすと、先に徹と江口が立ち上がった。俺は二人を制して、「お前らすまんが今日は俺がホストやけ任せろや」
「おじさん私が手伝う」と美穂ちゃん。
「なら美穂ちゃんは達己と大塚さんにビール注いでやってくれ」
先ずは、「三好さん達己の力になってくれて感謝するわ」とビールを注いだ。
「いえ大悟さん、俺の方こそ達つぁんのお蔭で毎日楽しゅう過ごさせて貰ってます」
三好の横は江口だ。
「江口君が達己と一番長い付き合いやな。松浦線からやからな。確かに江口君が達己の一の子分や。俺が認めちゃる。そいから、はよ(早く)由起ちゃんにかわいい子紹介して貰えや。そんために高良山走行会で榎本君応援したったんやろうや」
徹はあいたぁという顔で、「江口すまん。忘れてねぇけな。近い内に必ず紹介するけ。今日にでもまた由起に念押ししとくちゃ」
江口は真顔で、「徹絶対やで」
「でも大悟さんは何でも知っちゃるんですね」
「あぁ、些細なことでも何でも達己が手紙に書いて知らせてくれるけな」
江口が達己を振り返って、「達つぁんとは長い付き合いすけどそげん筆まめな性格でしたっけ?」と首を捻る。
「兄貴は特別や。連絡手段が手紙しかねぇけな」
「何しろ流浪のお人やけほとんど家に居っちゃねぇ」
達己は意味深ににやっと笑うと、「お前には頼まれても書かんけ安心せぇっちゃ」
「俺も嫌ですよ。どうせ貰うならかわいい女の子からのラブレターがいいっす」と夢見る江口に、「けっ、そげな物好きな子がどこに居るんじゃ」と達己が言い返し、場がどっと笑いに包まれる。
悔し紛れの江口が、「徹、達つぁんがびっくりするごたるかわいい子絶対紹介してくれよ」
「あぁ、大船に乗ったつもりで俺に任せとけ」と徹が胸を叩く。
「ところで大悟さんのMR、えらい決まってあるんですがどんくらい弄ってあるんですか?」
「俺はMRやっとのことで手に入れたんですが、タイヤ・ホイール替えるんで精一杯でとてもチューンナップまで手が回らないっす」
「さっき言うたごつ俺は金が腐っとるけな。幾ら使うたか分からん」
江口が本当に羨ましそうに、「見た目から速そうですもんね。俺に大悟さんのMRがあったら高良山で達つぁんと徹に張り合えたんですけどね」と残念そうに溜息を吐く。
「なんなら同じMRやし交換するか?」と言う俺は真顔だ。
途端、江口はへっという顔で、我に返るや否やさっと立ち上がって、「大悟さん、あ、ありがとうございます」と何度も頭を下げる顔はまるでこの世の天国にでもいるようなにやけ顔だ。
『エグの最高にハッピーなときに申し訳ねぇが言わななるめぇや』 とは達己。
美味そうにビールを煽って、「エグ、さっきも徹に言うたが兄貴は信じられんくらい気前がええんじゃ。ばって今のお前の腕じゃ兄貴のバケモンMRは扱いきれめぇや。お前もラリークラブの一員なら、兄貴のMRに負けんごたる腕にならな申し訳ねぇんやないか。そいまでお預けや。お前が一端の腕になったら俺から兄貴に言うたるわ」
図星を刺された江口はぐうの音も出ず俯いた。
俺は手を叩く。
「さすがは会長や。言うことが的を得とるわ」
俺は情けなく下を向く江口に、「江口君、達己の言うこたぁ一理あるわ。俺は甘ぇな。江口君のためにならんわ。榎本君もラリークラブ員は三菱車でっちゅう達己の出した条件、セリカで認めて貰うためにA73に向かっていったんやねぇか。腕上げたら即行で俺のMRと交換したるわ」
徹も対面の江口の肩をぽんと叩いて、「江口元気出せや。達つぁんに挑戦して根性見せたれ」
達己が、「舞台はいつでも用意したるわ」
「分かったよ達つぁん。大悟さんへの取り成し忘れんで下さいよ」
俺は、「おっと、榎本君におめでとう言うん忘れとったわ。高良山での達己とのバトル、15秒切ったそうやな。俺からの祝儀や。100万ちゅうたら達己に甘やかさんでくれっち叱られそうやから50万で勘弁せぇや。由起ちゃんにも美味いもの食わせちゃれや」
「50万!」
みんなが息を呑む。当時の物価水準だったら独身で5万あれば1ヶ月生活できた。40年後のラーメンの平均的な値段は600円だが、今食おうとしている虎屋のラーメンが1杯150円、榎本の給料も10万くらいのもんだろう。当時の50万は今の200万くらいの価値か。
驚いた榎本がさっと立ち上がって達己を窺う。
達己はコップを持ったまま、「徹、兄貴のご祝儀や。ありがたくて俺には何も言えんわ」
「達つぁん大悟さんありがとうございます」
横の明美が、「良かったやない。これで掛け金と合わせて64万よ。毎日お店に来れるやない」と徹に艶めかしくウインク。
俊夫がガハハと笑いながら、「さすが明美ママ、商売人や」
徹は頭を掻きながら、「俊さん、一週間に一回は由起とお邪魔させて貰いますんでそれでご勘弁下さい」




