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09,いのち短し、願えよ乙女


 何で、アタシがこんな事をしなきゃいけないの?

 何で、アタシがこんな目に遭わなきゃいけないの?


 もうヤだ……絶対、ヤだ!

 痛いのも、恐いのも……死ぬのも、絶対にヤ!


 誰か……誰か、助けてよ!


「チーちゃん。出てきておくれよ。トイレに籠ってちゃあ、ちゃんとお話しもできないじゃないか」

「うるさい! お兄ちゃんなんて大嫌いッ! 何も話したくない!」


 どうして、どうして、アタシはこんなに苦しいのに、辛いのに、みんな助けてくれないの!?

 みんな、どうしてアタシを魔物と戦わせようとするの!?


 まだ、足が痛い。昨日の魔物にやられた火傷。

 だのに、昨日の今日でまた……!?

 もうヤだ。今日こそは絶対に、殺される……!

 ヤだ……ヤだヤだヤだッ!!


 アタシは、もっと――生きていたい……!


「……アタシ、魔物なんかと戦いたくない……!」


 恐い、涙が、止まらない。アタシはまだ、生きていたい。

 お願い、誰か――


「……アタシを、助けてよ……!」

「……わかった。僕が、必ず、チーちゃんを助ける」

「え……?」

「僕が代わりにいくよ。今夜、僕は非番のようだしね」

「ぉ、お兄ちゃん、ほんと!? 助けて、くれるの!?」

「ああ、勿論。可愛い妹に泣きながら『助けて』と言われたんだ。妹の幸せを熱望する兄として、必ず、やってみせるさ」

「お兄ちゃん……ありがとう、大好き!」

「……ただ、ひとつだけ……僕のお願いも聞いてくれるかい? チーちゃん」

「? なに?」

「――『兄は妹を恨まない』。何が起きたとしても、だよ。その事を、必ず覚えていて欲しい」

「……? うん、わかった」


 その時は、意味のわからないお願いだと思った。

 自分の事に精一杯で、気付けなかったのだ。


 お兄ちゃんの声が震えていた事にすら。






 小学校の先生が、道徳倫理の授業中に雑学として「ひつぎ棺桶かんおけの違い」と言う話をしてくれた事がある。

 遺体が入っているのが柩で、何も入っていない容器だけを指すのが棺桶。


 お兄ちゃんの葬儀にあったのは、ただの棺桶だった。


 何も残らなかったって、泣きながら謝るお巡りさんとお父さんが話しているのを聞いた。


 空っぽの箱の中に、みんなが思い出の品物を詰めていく。

 故人の魂と一緒に思い出の品も火葬の煙に乗って、極楽浄土にぃらかぁなに届くって。


 ……お兄ちゃんは、棺桶そこにいないのに?


 ――アタシのせいで、いなくなってしまった。


 アタシの、せいだ。


「……ごめんなさい……」


 アタシが魔物を殺さなかったから、殺されたくないって逃げたから、「助けて」だなんて言ったから。

 平穏を望んだから。救済を願ったから。生を欲したから。

 お兄ちゃんは、アタシが殺すはずだった……アタシが殺されるはずだった魔物に殺された。


 ……お兄ちゃんは、こうなる事も有り得るだろうと、予想していたんだ。

 だから、最後に、あんなお願いをしたんだ。アタシが、少しでも苦しまなくて済むようにと。


 自分はこれから、妹の身代わりに殺されてしまうかも知れない。

 そう思って、最初に出た願望が、アタシのための願いだった。アタシに罪の意識を背負わせまいとする必死の気遣いだった。

 お兄ちゃんは、きっと、本当にアタシを恨まずに殺されたのだろう。そう言う、人だ。そんな、優しいお兄ちゃんだった。


 アタシは、そんなお兄ちゃんを――殺したんだ。


「ご、めん、なさい……ぅぁ、あ……ごめん、なさぃ……」


 退魔士は、魔物を殺し続けなきゃダメなんだ。

 逃げたら、こうして、もっと酷い苦しみが追いかけてくる。


 退魔士は、魔物を殺し続けて、殺される。

 それが、一番良い結果なんだ。悲劇を最小限で終わらせられる、最善の結末。


 魔物と戦って殺される。とても恐くても、とても苦しくても。

 それが一番、恐くない、苦しくない。

 自分のせいで誰かが殺されるくらいなら、自分から殺されにいく方がまだマシだ。


 ああ、アタシも、そうするべきだったんだ。


 ……もう逃げない。もう二度と、「助けて」だなんて言わない。


 アタシは……ううん、僕は。

 退魔士として、お兄ちゃんのように、殺し続けて殺される。


 この宿命から、逃げる事なんて、できない。しない。するべきではない。

 平穏を望まず、救済を願わず、生を欲さず、ただこの宿命に身を任せよう。

 だって、この宿命に殉じる事こそが――僕が選択できる中では一番マシな結末なのだから。



   ◆



「おーい、起きろ。お前さん」


 ぺちぺちと頬を叩かれる感触に、千夜鈴は目を覚ました。


「……ふえ?」

「おう、珍しく起き抜けが悪いな。お前さんの寝ぼけまなこなんざ初めて見たぜ」


 目の前にあったのは、翡翠に湿った肌に黄色い嘴が生えた大きな顔――河童、翠戦の顔だ。


「翠、戦……? あれ、なんで……?」


 記憶が、混濁している。至急、千夜鈴は記憶の整理に努めた。


 ――そうだ、僕は……。


「魔物に首筋をねっとりじっくり時に激しくチューチューされて、王子様とは思えない見事な牝顔を晒してたな」

「……記憶に無いよ」

「おいおい、恥ずかしさの極致だからってとぼけんなよ。しっかり見てたぜ。いやぁー、可愛い面もできるし好い声も出せるじゃあないか。普段は男伊達で、寝床じゃあ喘ぎ上手? 知ってるか? お前さんみたいなのを『一粒で二度おいしい』って言うんだぜ?」

「最悪だ君はッ!」


 千夜鈴は顔を茹で上がらせながら目前の翠戦顔にチョップを入れるが、当然、河童には効かない。


「……と、言うか、ここは……!?」


 周囲の景色は暗くてよく見えない。

 翠戦の姿だけがハッキリ認識できるのは、河童の存在が強烈過ぎて光など無くても人間の視覚神経に直でその存在を叩き込んでくるせいだ。


「お前さんが仕事に来た教会の地下蔵。用途は食糧庫だな、こりゃあ。葡萄ぶどうの酒やら小麦の練り物が保管されてら」

聖餐ミサの備えだね。……僕は、囚われているのか……」


 そうとしか考えられないだろう。

 付近に首落はない。武器を取り上げられ、暗い地下に放り込まれる……囚われた、以外にどう解釈する。


「相当、あの変態野郎に気に入られたみたいだな。ゆっくりゆっくり嗜むおつもりらしい。いやぁ、異世界の連中(・・・・・・)はほとほと趣味が悪くていけない」


 せっかくの御馳走をチマチマとみみっちくやって、楽しいのかねぇ? と翠戦は千夜鈴に問うが、千夜鈴的にはそんな質問より、


「待て、異世界の連中……?」

「ああ、筋肉でわかるだろ。ありゃあ、異世界から来た手合いの筋肉だ」


 相変わらずの河童ぶりか。


「……異世界……」


 確かに、聞いた事だけはある。

 魔物と呼ばれる者達の区分は、妖怪と、亡霊と、――そして、異界から来訪する異次元の存在が含まれると。

 退魔協会は保存・管理している全記録の中でも過去二件しか確認されていない相手だ。つまりは極希少案件。


 あの黒衣の男が、それだと言うのか……!


「ん? と言うか、当然のように会話しているけれど……何で、君、ここに?」


 不意に湧いた疑問。

 何で、翠戦はここにいる? ついて来なかったはずだのに。

 どうして、千夜鈴が敗北する際に晒した痴態までもを把握している?


「そりゃあお前さん、言っただろ? オレは四六時中、おはようからおやすみまで、お前さんを見守るってな」

「………………」


 つまり、こっそりついて来て、こっそり全てを見ていた、と。


「……結局、いざとなれば助けてくれるつもりだったのか。僕にお願いされるまでもなく」


 首筋に手をあてがってみれば、傷が無い。あれだけ深々と噛み付かれたのに。

 脈拍も平常、体温も少し高いくらい。あれだけ血を抜かれたのに。

 何故か? 決まっている。気絶している間に、翠戦が何らかの治療を施してくれたのだろう。


「そいつは勘違いだ。オレはあくまで、受け身の奉仕を貫くぜ。だってなー……もしも、奉仕してやったのに『ありがた迷惑だ』とか不満を零されたら腹立つだろ?」

「傷や貧血症状が無い事の説明は、どうつける?」

「あ、そりゃあオレだ。筋力を流し込んでちょちょいと手当しといた」

「……はぁぁ?」

「あのままだと、吸血野郎の『傀儡の呪い』も相まって、こうして話をする事もできなそうだったんでな。傷も失血も呪いもオレの邪魔だから排除しただけっつぅ訳だ。お前さんの都合じゃあないよ」


 傀儡の呪い……門前のお巡りさん達を操っていた術か。

 あの黒衣の男は、吸血した後、同じ術を千夜鈴にもかけていた。

 で、そのままだと千夜鈴とろくに話ができない、それは困ると言う翠戦の都合で、話ができる状態を目指し手当を行うに至った、と。


「話……か。わざわざ、隠れて僕を尾行していた理由と関係が?」

「無論。この状況を待ってたのさ。ここまで好都合な具合になったのはちと予想外だが、まぁ河童オレの幸運値を考えりゃあ不思議でもないさな」

「……こんな状況?」

「お前さんが魔物に手も足も出ずにこてんぱんにされて、そこからオレと会話をする余裕がある状況。な? まさしく今だろ?」

「あ、ああ、それは……確かに……」


 まさしく、今、この状況だ。これ以上はなく、翠戦のお望み通りだろう。

 でも、何故、そんな特殊な状況を待っていたと……?


「お前さんに質問だ。これから、どうする?」

「どうするって、決まってるだろ。ここから脱出して、あの魔物を殺す」

「そんで、力の差の都合、仕方なく殺されるか?」

「……魔物を殺して、殺して、いつかは魔物に殺される、それが退魔士だ。君だって、知っているんだろ?」


 翠戦は博識だ。何でも知っている風で、本当に大体の事は知っているし、知らなくても推理して見抜く。

 だったらわかるはずだ。退魔士の宿命を……。


「知らんな」

「……!?」

「これでも、数えるのが面倒なくらいに長生きして、それ相応の数の退魔士を見てきたが……オレは、そんな殊勝利口に割り切っている退魔士、知らんよ。見た事も聞いた事も無いね」

「何を、言って……」

「お前さん、本当に退魔士か? いいや、本当に――人間か?」

「あ、当たり前じゃないか!」


 真顔で、何を言い出すんだこの河童は。


「当たり前……? はぁ、当たり前? お前さんが人間なのが当たり前? お前さんみたいなのが、人間様だと? 冗談が過ぎるんじゃあないか? 笑わせなさんな芸達者」


 言う割に、翠戦はとことんまで真顔……どころか、むしろその目は、見据える相手に恐怖を与える色合いだ。

 現に、千夜鈴は翠戦の目を見て、全身がすくみ、何も言えなくなってしまった。


 翠戦は、何かに怒っている。

 まるで、「自分が大好きな、愛する存在を侮辱された」ような怒りの目だ!

 大好きな「カブトムシ」をうっとり眺めていたら「そんなの堅いゴキブリみたいなもんでしょ?」と言われた時の男子のような目だ!


「人間が当たり前に持ってるもんが、お前さんには足りないだろうが」


 翠戦の巨大な掌が、千夜鈴の上半身を丸ごと掴み込むような形でその顎を押し上げる。

 翠戦の感覚では、胸ぐらを掴みあげるような動作だろう。


「お前さんは人間じゃあない。ただの動く死肉だよ。生きちゃあいない!」


 翠戦が語気を強めた。


「頭の固い連中は勘違いしがちだがな、生と死は必ずしも対義じゃあないぞ。存在の消滅を死とは言うが、存在するだけの状態を生とは言わない。それとも何だ? お前さんは、ただその辺に転がって風化していくだけの石ころを指して『これは生きている』と言うのか? 言わないだろうが! 『死んでない』は『生』じゃない。全然、全ッ然、違う!」

「ッ……」

「そして、お前さんは死肉だ。まだ死んでないだけ、これからただ死に向かっていくだけの肉の塊。お前さんには、『生きる意志』が無い!」


 それは違う、否定したくても、声帯が萎縮して声が出ない。


 ――僕だって、死ぬのは嫌だ……!


「死ぬのが嫌なだけ(・・)だろうが」


 ――!


「死んでないのと生が違うように、『生きたい』と『死にたくない』も違うんだよ、まったく違う。決定的なのは『欲』の有無だ。『生きたい』のは、何かを欲しているから。叶えたい願望があるから、終われない。死を拒絶する必要がある、存命する必要がある。存命をひとつの手段(・・・・・・)として、願望を叶えると言う目的のために足掻く意志。それが『生きたい』だ」


 存命は、願いを叶える「ひとつの手段」。

 故に、「存命せずとも願いを叶えられる手段がある」と知った時、人間は「それ」を選ぶ事もある。


 かの文豪ゲーテが紡いだ戯曲の中で、ファウストと言う男が「この世のすべてを知る」と言う願望を叶えるため、悪魔メフィストフェレスにその命を差し出したように。


 ひとりの兄が、妹の願いを叶えるため、自ら退魔士の宿命に命を差し出したように。


 とある男が、少女の救済を願ってそれを叶えてもらうため、河童に命を差し出したように。


 命の有無に関係しない感情。欲だ。どこまでも、人間は欲が本位にある。そして、それが「生きたい」と言う衝動の要、本質。だから、「生きるために死を選ぶ」事もある。

 例え死ぬとしても、それと引き換えに生き(願いを叶え)るか、誰かに願いを託して生き(欲を叶え)続ける。

 そう言う「死を利用した生き方」も在る。


 一方で、


「『死にたくない』のはただの機能だ。意志じゃあない。生においては手段のひとつでしかない『存命』が唯一の目的・終着点になっちまってる。生と比較したなら、それは重要なものが欠落した何か。まるで顔だけがまだ出来上がっていない未完成の彫刻人形。それが『死にたくない』だ。……訊くぞ、お前さんは、どっちだ? 生きようとする人間か? それとも死にたくないだけの顔無し人形か?」


 ――…………!


「そら見ろ。お前さんは死にたくないだけだ。そこで終わってる。何の願望も展望も無い。……いや、あるにはあるが、望んでいない。『遠くない内に魔物に殺される宿命の僕には、不毛な妄想だ』と、未来を諦めてる」


 ……そうだ、何度も、考えた。

 魔物がいなかったら、どんな未来があっただろうと。


 でも、それら全て、無駄な空想として思考の奥底に沈めた。

 二度と、それを思い出して虚しくならないように、念入りに重りをつけて深く深くへ沈めた。


「過去に何があったかは知らんが、お前さんは壊れてるよ。いつも、いつだって『いつか殺される事』を前提にしてやがる。そんな前提があるから、簡単に殺されにいける。仕方ない、諦めるしかないと簡単に割り切れる。人間以前に、生物としても狂ってる」


 ――だって、仕方ないじゃないか、それが退魔士の……。


「また、仕方ない」


 ――!


「言ったはずだ。お前さんみたいな退魔士は知らん。死にたくないだけの退魔士なんて知らん! オレが知る退魔士は皆、生きるために、願いを叶えるために魔物を殺していた!」


 ――願いを、叶えるため……?


「確かに、傍から見た結果として残るもんは、お前さんの言う通りだろう。『魔物を殺して殺して殺し続けて、最期は魔物に殺される』、退魔士の跡にはそんな結果が残る。ああそうさ、事実だ。オレが知る退魔士は皆そうなった。……だがな、その結果を素直に受け入れる奴なんざ、ただのひとりもいなかったッ!」


 まるで、大好きな演目を、大好きな役者の怪演を熱々と語るファンのように、翠戦は声に熱を帯びさせる。


「どいつもこいつも、何か願いを叶えるために魔物を殺そうとした! そしてどいつもこいつも、最期にゃあ祈った! 望んだ! 願った! 未練がましく! 恥ずかしげもなく! 荒唐無稽でどこまでも自己都合的な妄想を高らかに持ち上げて、願いよ叶えと厚顔で叫んでいた! 最期の最後まで、奴らは誰ひとりとして、欲を捨てはしなかった! 死に飲まれようとなお、生き(願いを叶え)ようと、もがき続けた!」


 ――みんな……?


「ああ、全員だ! 本当に、最高だよ人間は! どこまでも愚かしい! 無理に決まってるだろうが……叶う訳がない、都合の良い願いなんて! それでも祈るんだよ、望むんだよ、願うんだよ! そのザマが、河童オレに取ってどれだけ衝撃的だったか……!」




 ――――――河童は、およそ万能だ。




 故に、この世界のタカが見えている。この世界の天井が見えている。限界が見えている。「こんなものか」と落胆すらしている。

 だから、河童は少ないのだ。大半の河童がこの世界に早々見切りをつけて、その筋力任せに異世界へと旅立っていくから。

 河童ですら、無理だと思ったら諦めると言う事だ。

 この世界に価値を見出すのは無理だと諦めて異世界に渡る御同類を、翠戦は何体も見送った。


 だのに、人間は――無理だと思っても諦めない!

 どれだけ無理だと思い知らされても、それでもなお有り得ない奇跡を強請る!

 欲に底が無い! 無理だとすれば、理が歪んで叶えと叫ぶ! 世界に対して「変われ」と臆面もなく言ってしまう!

 恐ろしいほどに愚かしい――だがそれは、河童ですら持ち合わせぬ強さ!

 欲を叫び続ける強さ!


 ああ、人間の【強欲】!


「感動以外に何がある? 感嘆せずにいられるか? なぁ?」


 人間が番狂わせジャイアント・キリングに熱狂するのと同じだ。

 小兵が巨兵を投げ飛ばす様に狂喜乱舞するのと同じだ。


 自分ではとてもできないと思えるような偉業を目の当たりにして、興奮の余りに言葉を失うのは、当然の事なのだ。


 矮小愚劣の極みとも言える人間、それが見せる輝かしいほどの強さ!

 その輝きに、翠戦は胸を打たれた!


 だから、翠戦は鑑賞し続ける。人間の生を。

 だから、翠戦は叶え続ける。人間の強欲を!


 もっと見せろ、もっと感動させろ、もっと、もっとオレの心を奮わせろ!


「……もう一度、訊くぞ。お前さん、本当に人間か?」


 その問いの意図する所は――「人間だとするならば、お前さんの願いは何だ?」と言った所だろう。


 ――願い……生きる、目的……。


 言われてみれば、無かった。

 ああ、本当、びっくりするくらいに、千夜鈴には、願望が無かった。

 ただ、死にたくないと言う機能に従って、存在を維持していただけ。存命していただけ。


 だって、知っていたから。


 生きたいと思えば思うほど、殺される恐怖と、逃げ出したいと言う気持ちは膨れ上がる。

 だから、それらを抑え込むために……少しでも恐怖を減らして、逃げ出さずに済むように、生を諦めた。生きる事をやめた。

 死にたくないな、とぼんやり怯えながら、殺されに行く夜を繰り返した。


 ――ああ、涙なんて出ないはずだ。

 だって、毎日、殺されても良いように準備していたのだから。

 殺されるために、存命していただけなのだから。

 そんな無価値な、そこに在るだけの命を、涙を流してまで惜しめる訳がない。

 惜しむべきねがいが、そこには無かった。


 ――僕の、願望……。


 思い浮かんだそれは、かつて不毛だと切り捨てた光景。


 普通の女子高生として生きていく自分の姿。


 美桜慈家に産まれた瞬間に失われた、有り得たかも知れない少女の未来。

 平凡な日常。殺される恐怖なんてない。呑気に笑っていられる日々を繰り返す事ができる。明るい世界。


 ……でも、


「……望めないよ、こんなの……」


 退魔士をやめて、魔物から逃げ出しても、きっと、この願望は叶わない。


 千夜鈴は知っている。自分が魔物を殺す事を放棄して、逃げた結末を。

 自分の身を裂かれる以上の苦痛がこの世にある事を、知っている。

 それだのに、笑えるか。

 退魔士だ魔物だを綺麗さっぱり忘れて生きていくなんて、できるか。


「もっと頭を使え。欲のために知恵を回すのが人間だろうが」

「知恵を回すって……」

「ここまで来たんだ、糸口はくれてやる。お前さんが今抱いた願望の問題点は何だ? そこを洗い出せ。そして潰せ。それを言え」

「………………」


 千夜鈴が普通の女子高生として生きていく上での問題点。


 それは、魔物の存在だ。


 魔物が絶滅すれば……いや、それはダメだ。無理かどうかじゃなくて、ダメだ。

 魔物の一種、亡霊系は、生き物の命の成れの果て。それすらも滅ぼすと言うのなら、まずはこの世の生物すべてを殺し尽くす必要がある。


 じゃあ、どうすれば良い? 何が問題で、どう潰せば良い?

 何をどうすれば良いか、何を、どうできるか。


 辿り着いた答えは――


「……ああ、そうだ。それが強欲だよ。人間」


 お得意の読筋肉で千夜鈴の答えを察したらしく、嘴を歪めて、翠戦が笑った。とてもとても、愉快そうに、嬉しそうに。


「………………翠戦……」


 千夜鈴は、懐かしい感触を覚えた。

 頬を伝う、温かい水滴の感触だ。


「……お願い……アタシを……助けて!」


 ――アタシは、逃げたくない……殺されるのだって、嫌!


 魔物は殺す。普通の生活も手に入れる。

 千夜鈴が抱く強欲ねがい、ふたつを両立する方法は、ただひとつ。


 ――普通の生活の片手間に、魔物をサクッと殺す。それが可能なくらい、強い力を手に入れる事。


 日常を害されないくらい、本当に簡単に、魔物を殺せるようになれば。

 そう、例えば、主婦が家事炊事の隙間の時間、空いている時間にレビューサイトのサクラ役アルバイトをするような感覚で、魔物を殺せるなら。


 千夜鈴は、死に怯える事なく普通の生活を謳歌しつつ、魔物からも逃げずに済む。


 ……普通に考えれば、なんと荒唐無稽な強欲かと笑われるだろう。

 誰しもが「現実性が欠片も無い話だ」と言って、さっさと諦めとっとと忘れる事を推奨してくるだろう。


 だが、千夜鈴も、彼女を取り巻く環境も、今や普通ではない。


 千夜鈴の目の前には、るのだ。

 厄介な妖怪も片手間で排除してしまう、規格外の怪物が。


 この怪物の力なら、叶う。

 この怪物なら、叶えてくれる!


 河童の力で、叶えてくれるッ!


「アタシに、力を貸してよ……翠戦!」

「――ああ、良い。好い。それでこそ、人間の強欲だッ!」


 ぶっ壊してやろうじゃあないか。退魔士の宿命と言う奴を。


 そうだ。これは、「哀れな雛鳥が篭の外へと逃げ出し、外の世界を知り変わっていく」成長の物語……ではないッ!


 ――「哀れな雛鳥が、篭の中の常識を、その定めをぶっ壊して生きていく」!


 これはそんな、世界を引っ繰り返す反逆の物語だッ!



   ◆



 翡翠の光芒が、立ち上る。

 聖堂の床を、教会の天井を突き破って、暗く冷たい宇宙の黒すらも引き裂いていく。


「ヴァッファァァ!?」


 教壇の上に座って御馳走を反芻していた黒衣の吸血男が、突然の光芒にひっくり返り、間抜けな悲鳴と共に教壇から転げ落ちてしまう。


「ななななな、なんぞ!? 一体なんぞ!?」


 問い叫ぶ吸血男の声に応えるように、彼女はゆっくりと、姿を現した。

 翡翠の光芒が形成する柱の中をエレベーターで昇るように、床下、地下蔵からせり上がってくる。


「き、貴様は……!?」


 堂々たる仁王立ち姿でせり上がっていきたのは、イカれてるとしか思えないほどに長いポニーテールヘアを揺らす長身の少女。

 顔立ちは端正にして中性的に凛々しい。まるで御伽噺の王子様。

 その装いは――翡翠結晶エメラルドの岩から削り出したような、翠色に輝く豪奢な振袖衣装!!

 しかも、袖やら帯やら背面装飾はやたら豪奢だのに……その裾丈はベリーミニスカート仕様! 少し足を振り上げれば股座がガッツリとはみ出してしまいそうだ! いやんッ!

 上半身の豪奢さと比較して、健康的な逞しい太腿のえぐい所まで露出した下半身が実にアンバランス!


「……やっぱ、この丈には納得いかないわ……」


 ポニーテール怪人と言っても過言ではない髪型の振袖少女――千夜鈴はムッとした表情でつぶやきながら、やたら短い裾をぐいぐい引っ張る。

 しかし、何の素材でできているのやら。千夜鈴が退魔士の腕筋で引っ張っても、裾の生地は一寸たりともたるまない。

 やがて、千夜鈴は溜息ひとつ。

 諦める訳ではないが、余計な事は後回しにして、まずやるべき事をやる。そう意識を切り替えた様子。


「――さっきはよくもやってくれたわね、この変態吸血野郎!」


 千夜鈴はキッと吸血男を睨み付け、怒号と共にその腕を大きく振り上げた!

 途端、天へと昇っていた翡翠の光芒がその掌で急激に収束! 翡翠の光芒は――柄も鍔も刃も全てが翡翠結晶エメラルドで構築された日本刀へと変貌した!


「さぁ、覚悟しなさいよ……!」


 千夜鈴は翡翠の刀を振り下ろし、その切っ先を未だ呆然としている吸血男へ向けて、宣言する。


「アタシの血、全部吐き出すまで斬り刻んで――必ず、殺してやるんだからァァァ!」



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