夜を歩く
私は夜が好きだ。
すっかり日が落ち、人通りがなくなった田舎の23時から朝4時くらいまでの夜道が。仕事で疲れた体や昼間の喧騒で乱れた心を癒やす夜。寝静まった街の中を何も考えずに歩く時間は何物にも代えがたい。
この世界でたった一人、自分しか生きていないのではないかと錯覚する。仕事にも時間にも他人にも縛られない、ただ自分の速度で道を歩く。好きな歌を口ずさみ、立ち止まって星を見上げるのも誰にも邪魔されない。
そんな時間が私は好きだ。
同じ夜でも家の中、一人で過ごす夜はダメだ。他人から隔絶された狭い空間は孤独を増幅させ、
社会によって自分が閉じ込められているような気さえする。
思えば昔から私は一人の時間を好いていた。家族で過ごすことや友人と遊ぶことが嫌いだった訳ではない。ただ親や同級生と一緒にいて「マイペース」と自分を評されることは多かった。学校で授業を受けていても自分の瞑想にふけることがあり、友人と歩いていても後ろの方を黙ってついていく方が性に合っていた。自分を表現するのが苦手で、人と争うことや軋轢を生むことを極端に避けていた。
高校の頃も、部活が終わり学校から家までの夜道、一人で自転車を走らせている時間が好きだった。
趣味や打ち込めるものが無かった訳ではない。勉強や部活、ゲーム、ネット麻雀など、どれも熱意を持って取り組んでいたと言える。むしろ熱意を持って取り組んでいたからこそ自分の能力が向上しなくなり、頭打ちになったと気づいた瞬間に自分から離れてしまった。どれも社会人になってからはほとんど触れていない。趣味そのものが嫌いになった訳ではなく、それに向き合うことで浮き上がる自分を嫌っていたのかも知れない。
社会人になってからは周りのペースに合わせることに精一杯だった。元々急ぐことが好きではない私にとって効率化を目的とした作業を求める企業に雇われて働くというのは肉体的にも精神的にも慣れるまでは苦しかった。休日の上司らとの付き合いも嫌ではなかったが楽しいと言えるものでもない。
子供のころ、親や周りの大人たちが言い争っていたり、何かにつけてイライラしていたりするのを見て、何故そんなに余裕がなく怒っているのかと不思議に思っていたこともあったが、自分でお金を稼ぎ一人で生活をする苦労を知ることでその疑問は解消された。
自分の思い通りに物事が運ばないことへの苛立ち、肉体疲労、睡眠不足、そういったものが自分の心を蝕むことを知った。
「人間の自然状態は、万人の万人による闘争である」という言葉を授業で習ったときは、何を馬鹿なことを言っているのかと冷笑していたが、今ならその言葉の意味が少しだけわかる。平和な日本の「学校」という守られた場所で生活する当時の私には、人間の本質の中に闘争が存在するという想像すらできなかった。働き始めて楽しいことが全くないわけではない。仕事でできることが増えて褒められたり、同僚と仕事の愚痴や他愛のない話で盛り上がったりする時間は、心が和らぐ。
今では職場にも車で通勤しており、夜の街を一人歩くということも職場での飲み会の後くらいになってしまった。それでも私は、社会から解き放たれ自由になれるこの数少ない時間が好きだ。
これからの生活や将来への不安、ほんの少しの自分への期待を抱えながら、
私は今日も夜を歩く。