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没落貴族の娘

今昔物語2次創作第1段 没落した貴族の娘、ロゼッタの物語です。

今昔物語より巻30.4『貴族の娘、近江の郡司の下女となる話』を、中世ヨーロッパを舞台としてアレンジしました。古典チックさを残しつつも、あまり抵抗なく読めるようになっていたらいいなと思います。

※日本の古典文学をヨーロッパ舞台に、対象年齢を全年齢にするにあたり多少の変更があります。ご了承ください

 

 Ⅰ


 庭の石垣からは草木が生え、壁には蔦が這っている。幸いにも建物自体は無事だが、それなりに美しかったであろう絨毯や絵画は煤汚れ、かつての誇りを失っていた。枯れた池にはどんな魚がいたのだろうか、朽ちた庭園ではどんな花が咲いたのだろうか、そんなことを考えながら、女は日がな一日過ごしている。

 この屋敷にいるのは女と、この屋敷に住み着む老修道女だけで、女と共にここまで逃げのびてきた使用人の童女は、この惨状に嫌気がさしたのか数日のうちには姿を消した。何も持たずに小娘二人だけで逃げのびてきた女を哀れみ、修道女は教会に捧げられた食物や菓子を女に分け与えた。そうして女は、今日まで命を繋ぎ続けているのであった。



 女の名は、ロゼッタ・バートリという。父であるバートリ伯爵は、清廉潔白として名の通った男で、かつては彼女も父と共に王都で暮らしていた。一点の汚れもない白い屋敷の前には見事なまでに対称なバラの庭園が広がっており、彼女の母はこのバラ園を一等気に入っていた。彼女はここで、大勢の使用人と、厳しくも優しい父母に囲まれた幸せな少女生活を送っていたのである。

 けれど、それも今は昔のことで、この幸せな生活はロゼッタが16の時に終わりを迎えた。父であるバートリ伯爵に、謀反の疑いがかけられたのだ。無論、家族を含めて多くの者が無実であると訴えたが、その訴えも空しく、拘束された翌週には断頭台で刑が執行された。政敵の陰謀であろうなどという噂もまことしやかに囁かれたが、誰一人としてのその証拠を見つけることができず、こうして彼女は没落の運命をたどることとなったのだった。

 処断の煽りを怖れた親族は、伯爵家との交流を断った。幸いにも、しばらく生きていけるだけの資産が屋敷の中に遺されていたが、運命は彼女たちが束の間の間生き続けることすら許さなかった。父が断首された日の夜、屋敷に火が放たれたのである。


 ロゼッタは、昨晩修道女から分け与えられた小粒の葡萄をぱくりと口に含んだ。この屋敷には相応しくない芳醇な香りが広がる。

 廃墟となって久しいこの屋敷には、真昼間だというのに誰の声も聞こえない。建てたばかりの頃はさぞ立派であったであろうこの屋敷は、先代が有事の為にひっそりと建てたもので、建前上は教会の所有となっている。けれど郊外の教会に維持するだけの費用があるわけもなく、屋敷は数十年の時を経てだんだんと朽ちていき、今日の姿となった。


 ロゼッタは火の中で、母と使用人と美しい思い出と共に燃え尽きることを選んだ。主人を処刑した後で屋敷に火を放つぐらいなのだ、きっとこの家の者を生かしておく気はない。逃げても無駄であろうと、そう考えた。

 けれど、彼女の母も使用人もそれを許さなかった。母は「父さまはあなたの幸せを何よりも願っていたのよ」と言い、使用人は「私が身代わりとなりましょう。祖父の代からの御恩を返させてください」と言った。彼女は生きることを望んではいなかったが、母と使用人によって半ば無理やりに裏口から逃がされ、一緒に死ぬことが叶わなくなってからはせめて彼女らの願いを叶えようと、郊外のこの屋敷まで落ち延びた。2年前のことであった。


 番のコマドリが、朽ちかけた塀の上で愛の歌をさえずっている。


 ロゼッタとて年ごろの貴族の娘であったのだから、求婚者は何人もいた。彼女は母親譲りの美貌を持っていることで有名であったし、しかも伯爵家の一人娘でもあったために家督を継ごうと望む者が後を絶たなかった。伯爵はこれらの者から、悩みに悩み、公爵家の次男坊を選んだ。彼の名は、エリアス・デシャルム。優しい琥珀色の瞳が印象的な、将来有望な若者であった。

 伯爵の見立て通り、エリアスはその有能さもさることながら心の優しい男で、2人はすぐに親しくなった。エリアスは貧困層向けの医療機関の充実を図ることを目指しており、その夢を叶えるべく議員となるために、爵位必要としていた。ロゼッタはそんな彼を尊敬し、二人でその夢を叶えようと誓い合った。エリアスも最初は爵位目当ての求婚であったが、ロゼッタの美しさと、家のためではなく貧困層の為に生きると言った自分を受け入れたその心の広さに、惹かれていった。そんな時である、伯爵に謀反の罪が着せられたのは。


 伯爵が拘束されてすぐ、エリアスは館に駆け付けた。ロゼッタを心配する彼に、彼女は「婚約を破棄なさいませ」と、はっきりと言った。

「父が爵位を持っていた時には、貴方様のお役に立てることも御座いました。けれど、もういつ爵位が剥奪されるかも分からない身の上で御座います。どうか他の御家に婿入りなさって下さいまし」

 するとエリオスは珍しく声を荒立て、「この俺に、君を見捨てろというのか」と言った。ロゼッタは頷いたが、エリオスは婚約の破棄を認めなかった。

 ロゼッタは、自身の不幸に愛しいエリオットを巻き込むことを嘆いて、静かに涙をこぼした。けれどエリオスも、自身の将来を犠牲にしてまでもロゼッタを打ち捨てられない程には、彼女を愛してしまっていたのであった。

 エリオスは無罪であることを証明しようと、毎日王都を奔走した。そして夜になると伯爵邸へと向かい、ロゼッタや屋敷の人間に食べ物や衣服を届け続けた。エリオスがロゼッタの為に動けば動くほど彼の将来が失われていくことに、ロゼッタは心苦しさを感じていた。


 そんなことが続いた6日目の夜、ロゼッタはついに耐えきれなくなって、エリオスに言った。

「エリオット、お願いですからこの家から離れてください。私はこの家の為に貴方の将来が失われていくのが悲しいのです」

 わあわあと泣きながら告げた彼女に、エリオスは驚きを隠せなかった。いつだって優しく笑って、感情を表に出すところなんて見たことが無かったのだ。

「落ち着くんだローズ、君の父親が、あのバートリ伯爵が謀反なんて企てるわけがないだろう。だったらこれは何かの手違いか、濡れ衣だ。それが明るみに出れば、俺になんの不利益もない。むしろ君と結ばれて、伯爵家が継げるんだ、いいこと尽くめじゃないか」

 彼はロゼッタを宥めようとしたが、ロゼッタは折れなかった。

「エリオット、貴方は父のように真っ直ぐです。私はそんな貴方が好きでしたが、そんな貴方だからこそ不安なのです。濡れ衣が明るみに出ようと出まいと、貴方が父の政敵に目を付けられることには変わらないのです。父は、貴方の将来に期待していました。その貴方の将来を、父の為に失くすわけにはいかないのです」

 エリオスはどうにかして愛しい彼女を泣き止ませたかったが、彼がどんなに優しい言葉をかけても悪化する一方であった。エリオスはこれ以上ロゼッタの独り泣く姿を見ていられなくなり、「君1人救えない男に、多くの未来なんて救えるわけがないだろう」といって抱きしめ、一緒に泣いた。


 次の日の正午、突然に刑の執行が行われた。エリオスは伯爵を救い出せなかったことを酷く悔いたが、せめて亡骸だけはバートリ家ゆかりの教会で手厚く葬ろうと、司法官と掛け合った。大量の書類を書かされ、亡骸を搬出する許可が下りたのは、夜遅くなってからだった。だから屋敷に火が放たれたその夜だけは、ロゼッタの傍にいることが叶わなかったのだ。

 もちろん、エリオスはロゼッタを探した。屋敷に火が放たれたと聞いて、直ぐに駆けつけた。けれど、主人を守らんとする付き人に腕を掴まれ、燃え盛る炎に阻まれ、中に入ることは叶わなかった。彼は愛しい恋人の名を叫び続けたけれど、その声も炎にまかれ、彼女の耳に届くことはなかった。


 その後、燃え跡から夫人を含む13人分の焼死体が発見された。そして、夫人と共にあった若い女の遺体が、自身が送ったプラチナの指輪を身に着けていたと聞いた時、彼は彼女の死を認めざるを得なかった。伯爵と13人の遺体は、全てエリオスの手によって、バートリ家ゆかりの教会で手厚く葬られた。

 それからほどなくして、バートリ家の取り潰しが決定した。



 ロゼッタは今日も命を繋ぎ続ける。彼女には希望など、未来など見いだせないけれど、母が、使用人が願った願いに縛られながら、死を選択できないまま時を過ごす。

 彼女はまた葡萄をつまむと、それを口に含んだ。






 Ⅱ


 ある日、そんなロゼッタの元に1人の男が訪れ、エドガー・グランベルと名乗った。地方領主の息子で、騎士として城に仕える役務のために都へ上がってきたのだという。彼は教会で廃墟に住むという美しい女の噂を聞き、一目見ようと訪れたのであった。

 ロゼッタは決してベールを外さなかったが、「私の妻になってください」と告げたが、ロゼッタはそれに応じなかった。エドガーはまた明日参りますと言い残して、立ち去って行った。


 その夜、修道女がパンとワインを携えてロゼッタの元を訪れた。聞けば、エドガーに彼女の噂を伝えたのは修道女であるという。修道女は、なぜ求婚の申し出を断ったのか問いかけた。

「地方領主の息子とはいえ、今の貴女様が爵位を持った方と御結婚できる機会などそうありますまい。何故、求婚を断られたのでしょうか」

 ロゼッタは、親身にしてくれる修道女にだけは、身の上に起こったことを全て話していたのであった。ロゼッタは答えた。

「結婚とは、子を成すということ。それは爵位を持つ家ならば尚更のことで御座います。けれど私は、あの方以外の方の子を孕みたくはないのです」

「けれど、貴女様はあの御方とお会いする気なので御座いますか? 」

「いいえ、あの方と会う気は御座いません。追手がないことを見れば、きっとかの使用人が上手くやってくださったのでしょう。彼女の死を無駄にしたくはありません」

 では、何故と、修道女は迫った。修道女とて2年間を共に過ごしたロゼッタの、まだうら若い彼女の、すべてを失った彼女の、幸せを祈っているのであった。

「破棄されたとはいえ、一度は将来を誓った仲にございます。私は彼の為に何をすることも叶いませんが、ただ、ただ彼を思い続けていたいのです」

 私が生きることが母や彼女の供養となるのなら、私は生き続けようと思います。けれど、その人生は、あの方に捧げたいのです。そう言ってロゼッタはそっと涙を流した。修道女もそれ以上何も言えず、木々の擦れる音だけが宵闇に響いていた。



 それからというもの、エドガーは毎日毎日、職務帰りにロゼッタのいる屋敷を訪れた。ある日は修道女に聞いたのであろう彼女の好みの果物を持って、あくる日は彼女に似合いそうなドレスを仕立てて、そしてある日は幸せそうに並ぶ男女の写真を持って――

 その写真に写っているのは、まぎれもなくエリオスその人であった。聞けば、今日の昼に王都の教会で二人の式が執り行われ、国王からの命でその護衛についていたという。珍しくロゼッタが自身の話に興味を持ったことに喜び、エドガーはこの式がどれだけ豪華であったか、どれだけ民達に祝われていたか、そして二人がどれほど幸せそうであったかを事細やかに語った。

 いつもは冷たく接していたロゼッタであったが、追い返すこともなく、彼の話を聞いていた。教会へ向かう時の表情、将来を誓い合う時の表情、皆に祝福されているときの表情。……たずねていくうちに彼女は、エリオスの様子に少しでも違和感がないかと探している自分に気がついた。そして分かってしまったのだった。エリオスに想っていて欲しいと願っていたこと、もしかしたら彼が迎えに来てくれるのではないかと思っていたこと、そして、まだ彼の隣で添い遂げられる未来が残っているのではないかという希望が捨てきれていなかったことに。


 エドガーはすべての問いに対して、「とても幸せに満ちた笑顔をなさっていましたよ」と答えた。



 その晩、またもや修道女がロゼッタの元を訪れた。エドガーの任期が、後1ヶ月で終わるのだという。これが最後の機会です、いい加減にご自身の人生を歩まれてくださいと彼女は言った。

 エドガーは緊張からか相手の令嬢の名を覚えてはいなかったが、城に仕えるはずの騎士を護衛とするなど、相手は高位な家の方であろう。かつての自身ならまだしも、何ひとつ持っていない今の自分に勝ち目はないと、彼の隣を歩むのは私ではないのだと、ロゼッタははっきりと理解していた。理解していたのだが、まだ受け止めることが出来ていなかった。

 生きていることが知られたら殺されかねない状態で、なおも王都に残っていたのは、彼が王都にいたからに他ならない。彼女にたった一つだけ残された彼の存在は、もはや彼女の生き甲斐にも等しくなっていた。

 押し黙った彼女に、老婆は言う。

「私の命も、そう長くはないでしょう。さすれば貴女様はどのように生きて行かれるのか」


 風に煽られ、ろうそくが揺れた。

 暗闇を微かに照らす唯一の灯りは、自然の前ではかくも無力であった。


「私が死んだ後にこの屋敷に来る教会の人間が、貴女様を政敵に売らないとも限りません。どうか、どうか彼の妻となり、王都からお離れ下さい」

 ロゼッタは不安げに、その視線をろうそくから修道女へと向けたが、なおも頷こうとはしなかった。そんな彼女に、老婆は続けて言う。

「政敵の手に堕ちた貴女様のお姿を、あの方に晒すこととなるのですよ」

 老婆とて、つらい現実に心を失わぬよう儚い希望に縋るロゼッタを、愚かだと責め立てたいわけではなかった。ただ、この無垢で何も知らない娘を、いつからか孫のように思いはじめた娘を、一人残して逝くことが心配であった。彼女もまた、ロゼッタに生きて欲しいと願ったのだった。

「かつての輝きをすべて失った姿で、あの方にお会いしたいのですか。それとも、そんな無残な姿でいれば、あの方は助けてくれるとお思いですか」

 ロゼッタは、生きていたいとは思わなかった。けれど、堕ちたその身が彼の目に触れることが、どうしても嫌だった。そして何より、もう彼が助けてくれるとは思えなかった。

 依然としてロゼッタは頷かなかったが、修道女はロゼッタの瞳が揺れたのを見過ごさなかった。



 あくる日、ロゼッタはエドガーの求婚を受け入れた。エドガーは喜びのあまりロゼッタに抱きついたが、彼女はそれを嫌がることもせず、初めて彼に対して笑顔を向けたのだった。ロゼッタは修道女に言われた通りに、幼くして両親を亡くして教会に預けられた娘で、名をレミリアだと告げた。

 彼女は昨夜、エリオスへの淡い恋心を、雑多な感情の蠢く心の奥底に手ずから埋葬した。そして、いつか彼が迎えに来てくれるかもしれないという淡い希望を捨てて、自分を愛してくれるこの男と、どこか知らない土地で、全く別の人間(レミリア)としてやり直そうと思った。彼女を迎えに来た王子さまは、エリオスではく、エドガーだったのだ。

 虚勢を張っていただけだったのかもしれない。けれど、レミリアは確かに現実の上で生きていこうと、そう前を向いたのだった。


 たどり着いた領地で、彼には数年前に娶った妻がいることを知るまでは。





 Ⅲ


 エドガーの妻は、レミリアに厳しく当たった。自身より、品性も、美しさも、知性も兼ね備えた彼女から夫を守るためには、本妻という立場を守るためには、それも致し方のないことだったのだが、やがてエドガーはレミリアの元に寄り付かなくなった。エドガーもまた、レミリアの王子様ではなかったのだ。ロゼッタを殺してレミリアとなっても、運命は彼女に微笑んではくれなかった。 

 彼女は悲しみに暮れていたが、以前のようにただ嘆いているだけの生活も許されなかった。レミリアは、エドガーの父親であるグランベル男爵の使用人として使われることとなったのだ。柔らかかった彼女の手はあかぎれ、その白かった肌は日差しや垢で薄黒く染まっていった。

 春には耕し、秋には収穫を迎える。朝には水を汲み、夜には睡眠をとる。ぽつりぽつりと生きていく日々は、真綿で首を絞めるようにゆっくりと彼女の心を殺していった。

 いつの間にか、彼女は使用人であることに疑問を抱かなくなっていた。かつてロゼッタだった頃に夢見た希望など抱かず、目の前の仕事をこなしていく。彼女の希望は死んだのだ。

 けれど、絶望も与えなかった。彼女はこの時、過去に後悔せず、未来に期待せず臆せず、確かに今を生きていた。心の死と引き換えに、ついに彼女は安らぎを手に入れたのだった。

 秋口になれば、くすんだ麦畑が収穫の時期を迎える。誰かの手で蒔かれ、時が過ぎれば摘み取られていく。麦はただ、その命が刈られるまでそこに在るだけなのだ。


 このような生活を何年過ごした頃だろうか、男爵の領地に王都から急に監察官がやってくるというので、領地をあげてもてなすこととなった。領民をはじめとして路上の整備やら何やらで騒ぎ立てているのであるから、領主である男爵家はもちろんのこと準備に追われており、使用人に過ぎないレミリアもそれに従った。


 監察官を迎える宴は、この地域の特産品をはじめとする肉や魚、あるいは珍しい果実に彩られ、それはそれは華やかなものである。夕暮れに始まった宴は、夜遅くまで続いていた。夜が更けても笑い声が聞こえると言うのは、ランプの油すら貴重なこの地域では珍しいことであった。

 奏でられる音楽は調子が外れていたし、人々の踊りやドレスも野暮ったいものである。所詮、中央で開かれる舞踏会の猿真似に過ぎない。それでも監査官は満足していた。広大ではあるが貧しい領地では、ここまでもてなすのも大変だっただろう。それに、食事は大変美味しかった。

 次期領主の夫人とワルツを踊っているときのこと、給支の中に少し浮いている女がいた。くすんだ世界で、1人だけ品がある。どこか懐かしいと感じるが、はて、誰だったのか思い出すことが出来ない。

 曲が終わるとすぐに、女の素性を調べよとひっそりと使用人に命じたのだった。


 その使用人が尋ねるに、女は両親を幼き頃に失くした王都の娘だという。

 男爵は監査官がレミリアに興味を持っていることを知るや否や、彼女を献上することとした。


 その晩、レミリアは男爵に呼ばれ、本邸の風呂へと入れられた。使用人が主の浴室に入るなどということは、その当時も考えられぬことである。レミリアは何事かと思ったが、無垢な彼女は自身が見も知らぬ男に差し出されるなどという考えには思い至らなかった。

 風呂から上がれば丁寧に髪を梳かれ、香油をつけられる。この頃になるとさすがの彼女も閨によばれるのであろうと気が付いていた。けれど、仮にもエドガーの妾である自分がまさか他の男に差し出されるとは思っていなかった。

 ついにエドガーに呼ばれたのだと、初夜であるからこのように着飾るのだと、そう思っていたのだ。彼女はまだ、希望を捨てきれてはいなかった。種となって眠りについていた希望は、水を得て芽吹き始めた。


 上等な夜着を着せられて監査官の為に用意された部屋へと連れていかれた時、目覚めたばかりの感情は悲鳴をあげた。夫に抱かれたこともないのに、夫でもない人間と一夜を共にせよと命じられたのだ。形式上は妻であるのに、彼女は夫に売られた。かつては蝶よ、花よと愛でられた彼女が娼婦にまで身を堕とすなど、誰が想像しただろうか。

 室内へと招き入れられ、名を呼ばれる。男爵夫人が、逃げ出さないようにと彼女を監視していた。逃げ出したところで、売られた彼女に寄るべき当てはない。むしろ不興を買ったとなればどうなるかも分からない。レミリアは抗う気力も起きずに顔をあげた。

 薄暗い閨で、男の顔を見ることが叶わない。けれどレミリアが顔をあげた時、男は彼女の昔の名を呼んだ。監査官はエリオスであったのだ。彼は「ローズ」と、昔のように彼女を呼んだ。

 けれど彼女は、昔のように彼を呼ぶことは出来なかった。芽吹いたばかりの心は、彼の目の前で娼婦に身を堕とすことに耐えられなかった。

 昔のように彼の名を呼べば、助けて欲しいのだと乞えば、情の深い彼はきっと養ってくれるだろう。きっとこの世界から連れ出して、妾として愛してくれるだろう。しかし彼女は、それを望んではいなかった。

 彼女は彼と対等でいたかったのだ。彼の愛玩として生きたかったわけではない。

 彼の幸せを願っていた。それは本当だった。けれど、そんな自分(ロゼッタ)はもう死んだのだ。自分レミリアは、自分の為に生きることを選んだ。


 外で、潮の音がした。


 エミリアは物音がすると言って、殊更に怯えた。エリオスがただの波の音だと慰めても震え続けた。

 エミリアはずっとここで暮らしてきたはずである。そうであれば波の音で怯えるのもおかしいと彼は思った。そしてそれと同時に、彼は怯える彼女を愛おしいと感じた。以前は婿であるということに、気高く理知的な彼女に負い目を感じていた。けれど今の彼女は何も持たず、ただの波音に怯える無力な女に過ぎなかった。

 エリオスは目の前で怯え続ける哀れな女を安心させようと、外を見てくると言い残して部屋を出た。

 もう二人は、互いを想い合う純粋さなど持ち合わせてはいなかったのだ。


 男の足音が遠ざかると、彼女は震えるのを止め、枕元にあった男の短剣を手に取った。

 短剣の刻印はかつての政敵のものであった。かつての敵に助けられるなど、ロゼッタの誇りは許さなかっただろう。けれど、レミリアにとっては関係のないことである。

 切っ先を首筋にあて、きつく目をつぶった。





 最期の最期に女は笑っていた。

 堕ちきる前に、自らの手で運命から逃れたのだった。



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