スィーツ
「妙に内容が甘ったるい! 読者に媚を売るようなチラチラとした視線を強く感じる! 読み終わって思ったことは『知らんがな!』であった! 甘ったるい声の向こうに膝を抱えて座る作者の姿が見えた気がした!」
という2ちゃんねるのレスを読んだ時、私はどきりとして、寒気を覚えた。
膝を抱えるような形で座り、両手の先におし頂いたスマホの画面を覗き込んでいたからだ。
私の事を言われているのかと思った。
もちろん、こんな事はありえない。
それは頭では分かる。
けれど、シャワーを浴びて、部屋着に替えたばかりなのに、温かいはずなのに、背筋が寒くなった。
これから話す事は、そこから始まったんだと思う。
でも、このレスを書いた人は、もちろん何の悪意も無いはずだ。
ちなみにこのレスは、彼氏に浮気されている女性が、昔の彼を偲ぶ思いをつづった文章に対するものだった。
これはありふれた、身近な内容だと思う。
実際、私も彼氏に浮気されているし、浮気相手は昔の友達だし、別れたくないから、ラインでは動物とハートマークのスタンプを送るのだ。
でも、こんなことは世の中の恋愛あるあるだ。
私のような20代の半ば、いわゆるスィーツと呼ばれる女性なら、程度の差はあっても、皆似たような事を経験している。
けれど、分かっていてもへこむし、平日休みにはやる気が起きない。
美容院を予約したり、DVDを借りに出かけたり、コンビニの冷凍惣菜生活から脱出を試みたり、とやることは山ほどあるけど、肝心のやる気が湧かない。
それはもう希望と同じ位、湧かない。
とりあえずやる気になるのは、2ちゃんの文章スレを眺めるくらいだ。
で、眺めていたら、寒気のする文章にぶち当たった。
どうしよう。せっかくの無駄に過ごす休みが、気分が悪い。
私はしょうがなくなって、お酒に頼る事にした。
冷蔵庫から缶チューハイ(氷結レモン)を取り出して、半分飲んでから、部屋着を脱ぎ、ベッドに潜り込む。
もう一度寝よう。寝てリセットしよう。
レモンは美肌効果があるし、起きたら肌も卵みたいにぷりぷりつやつやになっているかもしれない。
そんな事を思いながら、こめかみと頬を枕に押し付けて、頭の位置を整え、瞼を閉じた。
気がつくと、私は奥行きのあまりない洞窟にいた。
天井は真っ暗で高い。鍾乳石のようなつやつやとした白が、天井付近に等間隔で備え付けられた
照明の周囲に浮かび上がる。
私は職場のスーツ姿で、椅子に座っていた。
ステンレス製の脚が長い丸椅子で、座り心地は悪くなかった。
北欧製かな。
私は書き物をする時みたいに、目の前のカウンターに鳩尾を押し付けて、両肘をのせて、お猪口みたいに小さなグラスを両手のひらでくるんでいた。
カウンターは黒光りしていた。とても大きくて、何故か私は、黒山椒魚を連想した。
この向こうの壁は、棚の形にくり抜かれていて、ヤマザキとか、ニッカ、後、よく分からない言葉でラベルされたお酒がぎっしり並んでいた。
何となく、氷結レモンを探したりしたけれど、見つからない。
「悪いね。冷えたシャンペンもモルトウィスキーも、ドイツの黒ビールもあるが、チューハイは無いんだ」
隣から声がしたので、視線をやると、黒のカシミヤのコートを羽織った男の人が、座っていた。
鼻が端正。口元に笑窪が浮かんでいる。
30代。清潔に刈り込まれた黒髪。
お金を持っているタイプだ。
このタイプは、ちゃんと価値をお伝えすれば、どんなに高い家具でも、すぐに買ってくれる。
……と、職業的に考えてしまう。
姿勢は私と似た感じで、前かがみになって、後生大事に、両手で小さなグラスを持っている。
視線も注いでいた。
「とんでもございません」
仕事でいつも使う言葉がとっさに出る。
男の人がこちらを見た。
思わず、悲鳴をあげそうになった。
表情が、笑っても泣いてもいない。
鮮やかな、色とりどりの花に埋もれるような、感じ。
私はこの表情に覚えがあった。
中学の頃に、おじいちゃんが亡くなった。
最近、親戚のおじさんも、やはり亡くなられた。
この国では、亡くなると、花の敷き詰められた棺おけに安置される。
おじいさんも、おじさんも、棺おけに入ったら、表情がなかった。
そして、この人にも、無い。
「死んだんですか? 私」
わたしは思わず訊いてしまった。
男の人は、こちらに首を傾げた。
「何でそう思うんだい?」
「え……、気がついたら、ここにいて、バーで、暗いですし……」
貴方の顔が死体みたいだからです、とはとても言えない。
男の人は何も言わない。
けれど、彼の顔に表情が生まれた。
口角が上がり、瞼が優しく下がった。
あ、この人、生きている、と思う。
ということは、ここはどこなのだろう。
夢かな。
「まあ、夢でも何でも良いよ。僕がこれからする質問に、君が正直に答えてくれれば、すぐに戻れる」
「質問、ですか」
「ああ。正直に答えてくれれば、ちゃんと帰してあげるし、飴もあげよう」
飴? 帰れるのはともかく、飴を貰って喜ぶのは、ちょっと……。でも、好意は好意だ。
義務的な笑みを浮かべる私に、男の人は苦笑をして、グラスをあおった。
「良い飴だよ。エンドルフィンを凝縮したような飴だ。麻薬でもないのに、とても幸せな気持ちになれる」
この人は何を言っているのだろう?
私は職業的な顔、苦笑いを作った。
訳の分からない客には、とりあえずこの顔をする。
そんな私に、男の人は悪戯っぽい目をした。
こちらに向き直り、空のグラスで乾杯の仕草をする。
そのまま、視線を手元に落とす。
それからいきなり、口を大きく開き、トカゲみたいに、赤い舌を垂らした。
その、お酒で潤った舌の奥から、何かの気配がして、赤く平たい生き物が這い出てきた。
図鑑で見たことがある。確か……とても小さな、赤ちゃんみたいなヤモリ。
そのヤモリは、天井からの照明にキラキラと光るグラスに落ちて、しばらく身をくねらせた。
それから、グラスの側面に、指の裏の皺を押し付けて、私を見上げた。
昔、電車の窓から、完成したてのスカイツリーを見上げたのを思い出す。
あの頃の私も、こんな風に、ガラスに両手を押し付けていた。
ヤモリは、3秒くらい、私を見上げてから、唐突に、どろりと解けて、血液のような赤い液体になった。
私の手が、とっさに口元を押さえる。
他人の手みたいな、自然な自動加減だ。
「君は、こうなる。ちゃんと、誠実に、答えなかったらね」
男の人の言葉に、頬から血が引くのが分かった。
彼は淡々と言ったからだ。ただ、事実を伝える。
そんな感じだった。
「お答えいたします。私が存じ上げることでしたら」
職業的な口調で、舌や唇が動いた。大手家具店に勤めていて良かった。怖くても、言葉は出るから。
彼はうなずいた。
「では、始めよう。君の名前は奏寺梢恵」
「はい」
「竹尾聡一を男性として、意識し始めたのは、いつの事かな」
竹尾聡一は、私の彼氏だ。
昔の友達の今田初音ちゃんのアパートに、昨日はお泊りをして、今日は普通に出勤して、今頃、お得意先の社長さんとお茶を飲んでいるはず。
でも、今は何時なんだろう? なんで、この人は、彼の事を知っている、の? こんな事を訊く、の?
「……高校3年生の時です。受験生になって、ナイーブになっていて、通学路にあった葉桜を眺めていたら、同級生だった彼が声をかけてくれたんです。『今田、寂しいのか?』て。私は、寂しいというより、取り残されている感じがする、って言いました。私の想いが、桜の花にあって、咲いていた桜はもう葉桜になって、私だけが、残されている気がしたんです。彼は、笑って、『でもさ、俺、葉桜って好きだよ。生きてる! て感じじゃん。負けてらんねえ、て思うし』と言ってくれました。その時から、彼を好きになったのだと思います」
私は一気に話した。正直に話せば、帰してくれると、この人は言った。だから、包み隠さず、私の大切な感情を、記憶を話した。
あの頃の幸福感が強すぎるから、私は浮気をされても、戻ってきてくれると、信じてしまう。
質問に対する疑問は無視することにした。
とにかく、誠実に、正直に話さないと、私はこの人の言うとおり、赤い液体になってしまう気がしたからだ。
でも、話さなかった事もある。
もっと大切な出来事が、その日には起きたけれど、それはわざわざ話す事ではない。それは、彼を好きになった後の出来事だ。
という事で、私は言われた通りに、きっかけを正直に話した。後は、この人の気分次第なのだろう。
でも、……とても、怖い。
もっと色々付け加えた方が良かったのだろうか。
この後に起きた事も話すべきだったのだろうか。
本当に、怖い。
背筋に寒気を覚える。
この寒気には覚えがある。
2ちゃんねるのレスを読んだ時に、感じたのと、似た寒気だ。
「ありがとう。君の言葉に嘘は無かった。今回はこれで終わりだ。もう、お帰り」
彼の言葉と共に、視界が、照明がカウンターが、グラスが、赤の液体が、男の人が、油絵の絵の具をキャンパスで混ぜるみたいに、ぐにゃりと溶けた。
私の意識は消えた。
目を覚ますと布団の中にいた。
部屋着を脱いだそのままの格好。
布団から少しはだけた肩が冷えて、私は小さくくしゃみをした。
酷い夢だった、と思って、薄目を開けたまま、何となく、寝返りをうつ。
……透明なプラスチックに包装された飴が1つ、視界に入る。
それは枕元に置かれていた。
飴は赤く、グラスで溶けたヤモリと同じ色をしていた。
……え?
記憶が巻き戻る。
夢で、バーで、男の人に高校の思い出を語った。
葉桜を見上げていたとか、彼が笑ってくれた、とか。
でも、あれ? なんだっけ?
思い出せない。その日の彼と、私は何かをしたのだ。
それは男の人には話さなかった。
本当に大切な事だから、無闇に話したくなかった。
それくらい、とても素敵な事が、起きたはずなのだ。
けれど、頭が、思い出してくれない。
そこだけ、真っ白になっている。
引き出しごと、記憶が消えている。
私は呆然とした。
彼にラインで訊きたい、と強く思う。
けれど、彼は仕事中だし、今晩も初音ちゃんの部屋にお泊りだろう。
そこまで思って、私は思い出した。
今日はまだ、彼にラインをしていない。
スマホで時間を確認すると、まだ午前中だった。
私はそのままラインのアプリを開き、彼にメッセージを送った。
『おはよ (はーと) 休みだから寝坊しちゃった』
ラスカルが、一日頑張れ! と拳を振り上げるスタンプを、続けて送る。
午後になっても、既読はつかなかった。
いつも通りのことだ。
日常と違うのは、戻らない記憶と、血のように赤い飴。
その日の午後、私は部屋の窓際で、指先につまんだ飴をお日様に透かしたりして過ごした。
秋の陽気で空は高く、お日様はキラキラしていて、その飴も煌いていた。
まるで、ルビーみたいに。
または、何かの果実のように。
甘い、甘い記憶のように、その飴は輝いていた。