遭遇
翌日。日曜日なので、大学は休みだった。
俺は昨日より大分早い時間に夢見屋に到着した。と言うか店の開店時間を少し回った程度、つまりほぼ開店時間だ。こんな早い時間に来るのは初めてである。
多分、彼女はまだ来ていないだろう。
急に話しかけてきて会う約束を取り付けてきた、昨日夢の中で出会った彼女。
しかしながら、それは俺の夢の中の話なのだ。これは当たり前のことだとは思うが、夢の中の人間はつまり夢を見ている本人の記憶から生まれたものであるから、その登場人物に意志はないはずだ。
だから彼らは意志を持って話しかけてこない。
……。
そう、よく考えたら今回の出来事は夢の中で起きたことだ。
昨日夢の中にいた時には話しかけられたと息巻いていた俺だったが、朝起きてみて冷静になって気がついた。
これは「彼女が話しかけてきた」という夢だったのかもしれないと。
俺が「彼女に話しかけたい」という願望により生み出された偽りの彼女の像を見ていただけ。十分に考えられる。
だけれども。
自分の見る夢の異様さを考えるとあながち偽りでもない気がしている。
毎晩見ている夢は、何というか現実の出来事と感じる。体に薄皮が一枚貼られたような感覚はあるものの、見るもの、触れるもの全てがリアルであり、本物と感じられる。
加えて俺の夢なので、俺の知っている範囲のことしか起こらないのだが。
そういうわけで、俺は昨日の出来事に関しては半ば疑いの目を持ちながらも、正直期待に胸を膨らませていた。
さあ、そうして俺は今ここにいる。
話しかけるのだ、「昨日夢で会いましたよね?」と。それだけ聞くと非常にロマンチックなのだが。
これが今日のノルマだ。そのために今日はこんなに早い時間に店に来たのだ。(ちなみになぜ開店時間を少し過ぎたのかというと、ちょうどに入ると開店を待っていたとマスターに思われてしまうのを危惧したからなのだが)
開店したばかりなので多分彼女はまだ到着していないだろう。きっと今回の出来事が現実なら、彼女が後に入ってきた時に俺に気が付くだろう。もしかしたらこちらにアイコンタクトなりなんなりを送ってくれるかもしれない。
そうすれば話しかけるハードルはグンと下がる。
俺は彼女に話しかけるまでのシミュレーションを脳内で念入りに行うと、ドアを開けた。
「いらっしゃいませ」
カウンターにいるマスターの声がした。開店直後の来客に特に驚くことはないようだ。いつも通りの調子の挨拶だ。
さて、いつもの席に座って彼女を待とうと客席の方に目をやる。
そこには彼女がいた。
いつもと変わらないごちゃごちゃとした客席のいつもと同じ席で、いつもと同じように本を読んでいる。
なぜだ?開店直後だぞ?
というか俺が入店一番目ではないのか?店が開くまで近くをプラプラして様子を窺っていたから、俺より先に店に入った人はいないのは確認済みだ。
だが、現実に彼女は席に座っている。テーブルの上にはコーヒーが置いてある。
混乱する俺は、とりあえず自分の定位置に腰掛けた。
それを見てマスターが注文を取りに来る。
「ご注文は」
「あー……ブレンド……」
「かしこまりました」
上の空でブレンドを注文する俺。注文している間も俺の視線は彼女を捉えていた。
どうも「彼女からこっちに気がついてもらう作戦」が失敗に終わったことは間違いない。彼女はいつものように本を読んでいて、こちらに気がつく気配を見せない。
こうなったらこちらから話しかけるしかないだろう。
そうだ。そもそも彼女の方から話しかけろ、と言ってきたのだから。
何を臆する必要があるだろうか。
俺は椅子から立ち上がると彼女の方に歩み寄った。
よほど本に熱中しているのか全くこちらに反応しない彼女。自分に向かって来る影に全く気がついていないのか、それとも気がつかないふりをしているのかはわからない。声をかけると決めた手前、ここで振り向かれるとそれはそれでテンパってしまうのだが。
少しずつ近づいた俺は、とうとう彼女真横まで来た。
近くで見る彼女の横顔は遠くで見るよりも数倍美しく見えた。だがどれほどこちらから凝視しても彼女は気がつくことはない。
もう気がついているとは思うが。
「あのー……すみません」
「ひっ!」
昨日聞いた声からは想像できない、存外に可愛い声が聞こえた。
意を決して声をかけたにも関わらず、彼女はそう悲鳴をあげて本で顔を隠してしまった。
「えーっと……」
顔を隠したままで全く動かない彼女を見下ろす俺。
続く沈黙。こういう時の俺はまず落ち着くことができない。頭に浮かんださっきのセリフが、中途半端な形で口にでてくる。
「えー……っと、あ!き、昨日夢であ、会いませんでしたっけ?え、あれ、違いましたっけ、あれ」
渾身の俺のセリフはカミカミで、しかも「違いましたっけ」なんて微妙な言い訳を付せてしまった。あんなにシミュレーションしたのに、結局無意味に終わってしまうのは、いつものことだ。
しかしダメダメだった俺のセリフでも彼女にピンとくるものはあったようだ。ぱっと気がついたように、顔を隠した本を少しずらしてこちらを振り向いた。
そう、この顔だ。昨日夢の中で会ったのは。大きな瞳、整った顔立ち。ツン、とした少し小さめの鼻。
初めて見る彼女の顔は、俺がすでに知っている顔だった。
「ゆ、夢ですか?」
彼女がおずおずと口を開いた。
昨日聞いた声と同じ、イメージより少し低めの声。だが昨日に比べて、なんというか言葉に勢いがなかった。
「君……今夢って言いました……?」
「は、はい。昨日の夢の中で……」
「えーっと……えと」
彼女はそう言って、両人差し指をこめかみにつけると目をつぶって何かしら考えていた。
なんだかおかしいぞ、と思った。昨日の夢の中の彼女と言葉遣いも明らかに違う。もっと自信に満ち溢れているようで、敬語も使わなかった気がする。
人違いなのか?これ?
たっぷり一分ほど考え込んだ後に彼女は再びこちらを振り向いた。
どうやら答えが出たようだ。
彼女はすーっ、と息を吸い込むと、ゆっくり吐き出すようにこう言った。
「君は……一体誰ですか?」
お読み頂きありがとうございます。
やっとこさ「彼女」を出すことができました。ここからの雅人と「彼女」とのお話が始まります。
次回もお読みいただければ幸いです。
よろしくお願いいたします。
羽栗明日