エピローグ
目を覚ますと……という表現が適切かどうかは判らないが、次に視界が戻った時、俺は夕闇の中にいた。
逢魔時。魔物に逢う時刻。
夕焼けを綺麗だと眺める人は多いが、俺はそうは思わない。俺が夕暮れに対して感じるのは、僅かな物淋しさと……圧倒的な恐怖だ。昼から夜へと、朧な橋を渡る時間帯。魔物に逢い、人が攫われたって気付かない。そんな危うさを、幼少の頃から感じていた。
そして、ついにその恐怖が現実となった。閻魔が顕れたのだ。
鬼に続き伝説の勇者までも斬り裂いた俺だが、もはや欠片も戦意は残っていない。俺が数多の猛者を屠ることができたのは、言うまでもなくエーラが隣にいたからだ。目の前の閻魔を倒したところで、あの笑顔が見られないのなら意味はない。
視界の戻った目を再び閉じる。もう二度と俺が視たいものは視れないのだ。ならば、いっそ、一思いに――
「いい加減に起きなさい」
「ぎゃああああああああっ!?」
前言撤回。即行立ち上がる。
如何に全てを諦めた俺と言えど、肉体的苦痛には耐えられなかったらしい。閻魔が放った怪光線の痛みから逃れるため、オートパイロットにより操作された脚部が勝手に起立の動作を作動させた。
全てに身を任せるつもりでいたが、やっぱり痛いのは嫌だ。こうなったら、地獄の底で閻魔も斬り裂いてやるぜ――と腰に手をやるも、そこには朱鞘が存在しない。
マジかよ! 『強くてニューゲーム』どころか、初期装備まで取り上げて再出発なんて、どんな鬼ゲーだよ!
「元気そうでなによりね、木崎くん。不愉快だわ」
「……え? 時、宮……?」
正直、時宮の顔なんてすっかり忘れていたのだが、実際に対面してみると、独特で圧倒的なオーラから一気に記憶が甦った。その一連の流れに、なんとなくライオンを見た瞬間に逃げ出すシマウマのビジョンが脳裏に浮かんだ。なんとなく。
「おはよう、木崎くん。モーニングコーヒーはいかが?」
「え? ああ、じゃあ貰おうかな……」
「私は断然、紅茶党よ。この家にコーヒーなんて存在しないわ」
「じゃあ、なぜ勧めたし!」
条件反射でツッコむと、時宮は顎に手をやり、俺の体を頭のてっぺんからつま先まで舐めるように観察してきた。俺にはM気質など皆無のため、女の子にジロジロ見られるというのは純粋に居心地が悪い。
「…………はぁ」
「いや、あの……人を散々検分しておいてため息って、残酷すぎませんか?」
「残念だけれど、手遅れね。特に脳が」
「まだ間に合う! むしろ、間に合え!」
「それだけ元気なら大丈夫そうね。気分はどうかしら?」
どうと言われても何がなにやら……。
そんなことを思いつつ、なぜ自分が此処にいるのかと考えを巡らせたところで――脳裏に、涙を零す最高の笑顔が浮かんだ。
「っ!? 時宮! エーラは!? エーラはどうなっ――ぐほぁっ!?」
勢い込んで時宮の肩を掴んでしまったのがまずかった。
謎の技術で手を固められ、謎の技術で地面に組み伏され、知っているが信じたくなかったスタンガンで攻撃された。
「レディに触れる時はマナーを守りなさい。ガッついてる男の子はモテないわよ」
「それでもスタンガンはやりすぎというか、お前にモテたいなんて全然思ってないというか……いや! すいません、嘘です! 時宮様は絶世の美女でございます、ハイ!」
指の間に挟む形で合計八個のスタンガンをチラつかされた日には、ハッタリ名人の俺としても軽くサービストークが出てしまう。
どうやら電撃の強さは調整されているようで、命に別状はないらしい。俺は正座で座り直し、改めて時宮に説明を求めた。
「手遅れな脳を持つ木崎くんに説明するのはとても面倒で大儀なことこの上ないのだけれど、今回、一応あなたにも協力してもらったのだから、出血大サービスで特別に教えてあげてもいいんだからね」
時宮が『なんちゃってツンデレキャラ』だったことを思い出した。激しくどうでもいい。
「結論から言えば、【シンデレラ】の世界にあった《エリクサー》はニセモノだったのよ。それは、『私が求めている《魔法》とは違った』という意味でのニセモノでもあるし、『あの世界で考えられていた万能薬』という意味でのニセモノでもあるわ」
「ニセ……モノ……?」
「ええ。あの《エリクサー》の効果は、『異世界での死を無効にする』というものだったのよ。だから、私の用途にも応えられないし、あの世界の人間が飲んだところでHPが全回復することもない。……その代わり、タイムリーにその条件へ適応した木崎くんが、あの世界で死ぬことなくこちらへ帰って来れたのよ」
遥か彼方の記憶だが、確か時宮は「異世界での死がこちらの死に繋がる」と言っていた。
伝説の勇者と戦ったあの時、俺は確かにHPがゼロになった。それならば、こちらの世界で目覚めることなく、あの世へ直行するはずだ。それなのに、こうして今、時宮と会話しているのだから、その話は本当なのだろう。最期のあの瞬間、俺にエリクサーを振り掛けてくれたエーラには感謝してもしきれない。
「向こうのシンデレラはあの後、王子様を適当に処分して婚約を破棄したみたいね。今は田舎へ引っ越している最中よ。哀しみのあまり自殺……なんて展開にはなっていないから安心しなさい」
表紙に【シンデレラ】と書かれた書物。俺が異世界へと転移する際に手渡された絵本をパラパラ捲りながら、時宮がおざなりに付け加えた。
それを聞いた俺は――即座に土下座する。
「……頼む、時宮。あと一度だけ……一瞬でいい。俺をエーラに逢わせてくれ」
「嫌よ」
この女相手に同情で行動を促すことができないのは予想済みだった。拒絶された瞬間に立ち上がり、頭を下げるのではなく真っ直ぐに目を見る。
「……どうしても逢わなくちゃいけない。逢って、伝えないといけないことがあるんだ。頼む……! この願いを叶えてくれるのなら、俺の全てをお前に差し出してもいい!!」
「私はそういう暑苦しいのが嫌いなの」
そんな冷たい言葉と共に、スタンガンが飛んできた。
その数、七つ。先程手にしていたほとんどを投げ、最後の一つを本命として右手に握り、突っ込んでくる。
一般人にひどい仕打ちだ……とげんなりしながら、俺は三つのスタンガンを避け、ひっくり返って殺傷力の無い二つに自ら当たり、残りの二つを横から叩き落とした。最後に、時宮の右腕を自分の頭一つ分だけ斜めに踏み込んで躱し、意外なほど華奢だった手首を左手で掴んだ。
「……向こうではスピードと視力を武器に戦っていたのよね。その名残かしら」
「…………」
自分でも驚いた。別に視力が上がっているわけではない。ただ、ついさっきまで『視て、行動する』ということを繰り返していたため、視力と移動速度が落ちてもその範囲内で縮小版の動作が反射的に行われた。規模に差はあるが、コツは同じようだ。
「たった二時間で随分と変わったのね。お母さんは悲しいわ」
「誰がお母さんだ。……って、待て。二時間?」
空いている左手で時宮が時計を指差す。
レトロな雰囲気の家具で統一された部屋で、一つだけ周囲から浮いているものがあった。デジタル表示の卓上時計だ。そこに示されている数字を信用するならば、俺が時宮に脅迫され、【シンデレラ】の世界に送り込まれてから二時間強の時間しか過ぎていないことになる。
「嘘だろ……」
反射的にポケットから携帯電話を取り出す。俺のケータイは電波式の時計だから時間が狂うことはないのだが……そこに表示されている数字は、卓上時計のものと全く同じだ。
ついでに周囲を見渡すと、そこは懐かしさすら感じる本の墓場。カーテンとブラインドを開けているせいで大きめの窓から夕日が差し込んでいるが、それ以外は記憶にある場所と同一。見下ろせば、俺が着ている服も馴染みのある洋服だった。
「あまり難しく考えなくていいわ。……そうね。二時間ほど転寝をして、内容の濃い夢を見たと思いなさい。それが一番近いわ。もっとも、全ては実際に起きたことなのだけれど」
俺の左手から自分の右腕を奪い返し、スタンガンのスイッチを切りながら時宮が説明する。
信じられない。だって、半年だぞ……? 向こうに行った時はこちらと同じ春だったが、それから夏が過ぎ去って、秋になっていたんだ。
茫然と窓の外を見ると、俺に現実を伝えるかのような桜の花びらが、一片だけ宙を舞って流れた。
「先程の木崎くんの頼みだけれど。正直に言えば、私の個人的な感情を抜きにしても、今すぐあなたを転移させることはできないわ。私があの《魔法》を使えるのは二十四時間に一度だけ。最短でも明日以降になるわね。……安心しなさい。また《エリクサー》の入手をお願いするから」
「そうか……」
脱力してその場に崩れ落ちる。
頭の中はエーラでいっぱいだ。伝えたいことも、話したいことも、感謝したいことも山のようにあるのに……。
ぼんやりとしながらポケットに手を突っ込むと、指先が何かに触れた。取り出してみると、それは小さな紙のようだ。何度か折り畳まれたそれを開いてみる。
「…………ははっ」
これはまた懐かしいものが出てきてしまった。喩えるなら、小学生の時に悪い点をとったテストを隠し、高校生になった頃にそれを発見してしまったような気恥ずかしさ。もっとも今の俺は、たった二時間前に隠したテストを恥ずかしがっているんだけど。
俺の様子が気になったのか、時宮が覗き込んでくる。
「……やっぱり、脳が手遅れだったのね」
『第一希望・魔法使い、第二希望・剣士、第三希望・トレジャーハンター』と書かれた紙を心底残念そうな目で見下ろして呟く。こればっかりは俺も言い訳が思い浮かばない。本当に残念だ。
「……なあ。今の時間なら、まだ学校開いてるよな?」
「そうね。職員は残っているでしょうけど……そのプリントをそのまま提出したら、間違いなくもう一度突き返されるわよ?」
「そうだな。今から書き直すよ」
そう言って俺は、その辺に転がっていた俺の鞄からサインペンを取り出した。シャーペンでもボールペンでもなく、サインペンを。
そして、シャーペンで書いてあった文字を全て消し、第一希望の欄にだけ文字を走らせる。二度と消えない文字でサインする。
「正直、私が言った『手遅れ』は半分だけ冗談だったのだけれど……これを見た後では、とても冗談半分では言えないわ」
時宮が本気で引いている。
「いいんだよ。勇者やってるシンデレラがいるくらいだ。俺みたいなモブキャラにも、これくらいの夢は見させろ」
精一杯カッコつけて、立ち上がる。
鞄も持たずに部屋の入り口まで歩き、ドアを開けた。西日が差し込み、オレンジに光る階段は、輝かしい新世界への招待状のように思えた。
そんな世界に向かって、俺は本当の〝宝物〟を握り締めたまま、一歩を踏み出す。
小さな……だけど、確かな一歩を。
その場に立ち止まらず、たとえ間違っていても前に進む一歩。ホンモノの勇気。
いつか、きっと。
絶対にまた、逢いに行く。
その時、胸を張って彼女の隣に立つために。
握り締めたホンモノには、こう書いてあった。
第一希望――――王子様。