第五章 《ドラゴン》
「……で? どういうことなんですか?」
俺の最弱なHPがゼロにならない程度に手加減して殴った後、《ハイポーション》を差し出しながらエーラがジト目を向けた。
「だから何度も言ってるだろ~。俺は本当に高位の魔法使いで、今まではただ真の力を隠してたんだよ。んで、今回ちょ~~~っとだけ、本気を出してみたわけ」
ヘラヘラと笑いながらふんぞり返る。その表情は業界で言うところの『どや顔』という表現がぴったりだ。自分でも軽く引く。
だけど、今回ばかりは大目に見てほしい。なにせ、この半年で初めて俺は、俺だけの力でモンスターを倒したのだから。しかも、そのモンスターはエーラでさえ苦戦した超巨大ボスモンスター! ここでいい格好をせずして、いつしろというのか。
「大体、あれはなんですか! あの悪魔……ジン先輩的には『鬼』ですか? ともかく、あのモンスターを攻撃している時、ジン先輩の剣に《エアシールド》が展開されてましたよね!?」
「フッ……よくぞ訊いてくれた! あれこそ、俺の秘密兵器・《魔法剣》だよ、君!!」
調子に乗ってエーラの頭をポンポンと軽く叩くと、容赦なく鳩尾に蹴りが飛んで来た。
《魔法剣》が使えるようになったところで俺の弱小ステータスに変化はない。余裕で悶絶した。ハイポーションが勿体ないじゃないか……。
「あのですねぇ、ジン先輩! 《魔法剣》っていうのは、過去、使用できた人は一人しかいないんですよ!? その人は唯一にして最強の【魔法剣士】と呼ばれています! かつて魔王を倒した【伝説の勇者】パーティーにも、彼ほどの力を持った人間はいなかったそうです! それなのに、ジン先輩が《魔法剣》なんて大それたもの使えるわけが――」
「伝説の勇者パーティーの中に最強がいないとか、面白いな」
「話はそこじゃないですーーーーーっ!!」
みきゃーっ! と獲物を威嚇する猫みたいに両手を振り上げたエーラを見て安心する。
やっといつものペースに戻ってきたようだ。
「フフン。今日からは俺が最強の魔法使いさ!」
「ふーんだ。ジン先輩なんか、あの人の足下にも及びませんよーだ」
「なんだ、会ったことあるのか?」
「前に話したでしょう? わたしにドレスを貸してくださった、魔法使い様のこと」
「なにっ!?」
そういえば、モンスターの大群から国を守ったとかなんとか……。
『最強』とか『伝説』とか言われる人物は、基本、死後にその栄誉が与えられるものだと思っていたから、まさか【魔法剣士】が、エーラにドレスを貸し与えた奴と同一人物だとは思わなかった。
……これはマズイ。
もしそいつが未だに生きていて、何かが間違ってイケメンだったりした日には、俺の愛しいエーラが……っ!
「そ、その魔法剣士って、今も生きてるのかしらん?」
「なんですか、その気持ち悪い喋り方は……。ええ。生きていらっしゃると思いますよ。さすがにわたしよりは年上でしたが、かなり若い方でしたから。ただ……消息が全然掴めないんですよね……」
「…………」
エーラには悪いが、それならばその魔法剣士さんとやらはお亡くなりになられた可能性の方が高い。
この世界には戸籍などが存在しないが、代わりに人を探す魔法なんかもある。探して見つからない人物なんて大抵は戦死しているものだ、と誰かが言っていた。
「でも、絶対に生きていらっしゃると思います。実際の戦闘は見たことありませんが、本当に強かったそうですので……」
俺と同じ事に思い至ったのか、エーラが頭を振りながら付け足す。
そして、さらに衝撃的な発言を追加した。
「あ。あと、伝説の勇者様が、わたしの王子様ですよ?」
「な、なんだってぇぇええええーーーーーーーーーー!!」
エーラはきょとん、とした表情でこちらを見ているが……いやいや! そんな当たり前のような顔をされても!
「どうして今までそんな大切なこと言わなかったんだよっ!」
「どうしてと言われましても……勇者様が王子様なのは当然じゃないですか……」
それはこの世界の常識であって、俺の世界の常識ではない。
エーラの結婚相手が伝説の勇者かつ王子とかスペックが高すぎる。幸い、エーラ自身が王子様を愛していないので勝負になるが、これで王子様が好きだったりしたら俺の入る余地なんて無かったな……。
あれ? と、いうことは?
「……ちょっと待て。ということは、何か。俺たちが今、救出に向かっているのは――」
「……? 王子様で、伝説の勇者様ですよ?」
「ちょっと待って! そこ、おかしいよね!?」
なに『伝説の勇者』のくせに《ドラゴン》になんて攫われてるんだよ!?
どんだけ凶悪なドラゴンだよ!
字面からして、勇者が倒したという『魔王』の方が強そうだろう!
「なんか……すげぇ萎えた……。やる気完全に失せたわ……。おかしいだろ、伝説の勇者を救出とか。『伝説』なんだったら、自分でなんとかしろや……」
「……始めは、わたしを含めた他の人々も一人で帰還されると信じて待っていたんですけど……。一年経っても戻られないので、勇者様を救出することになったのです」
だからって戦場にお姫様を駆り出すっていうのも相当だと思う。
普通、こういうのは国の屈強な兵士や剣士が請け負うものじゃないのか。……いや、もちろん、エーラが自分から進んで勇者になったんだろうけど。
「はぁ……。まぁ、いいや。それじゃあ、そろそろ帰ろうか」
「……? 何を言っているんですか?」
「…………」
嫌な予感がした。とても嫌な予感だ。
エーラと共に冒険を始めてから今日まで、同じようなやりとりを、それこそ百回以上やった自信がある。
でも……違うよな? だって、エーラも冒険辞めたいって言ってたもんな?
それに、今回の敵は本当に強力だった。理不尽なくらいのチートで、あんなバグモンスターを倒せた自分が俺も信じられないよ。
だから、そういう肉体的・精神的な疲労のことを考えても、今この瞬間からラストエリアに向けて冒険を再スタートしようとか、言わないよね……?
言わないでください! お願いします!!
「回復したら、次に行きますよ」
「イーーーーーヤーーーーー!?」
俺は駄々っ子のように洞窟の岩に抱きついた。この場を一歩も動くものかと、断固としてエーラの提案を拒絶する。
「エーラ、冒険辞めたいって言ってたじゃないか! どうして今さら前進しようとするんだ!?」
「お恥ずかしながら……あの時は、わたしもどうかしていました。……そうですよね。諦めずに頑張れば、きっと倒せない敵なんていなかったんですよね! ありがとうございます、ジン先輩! わたし、ジン先輩のお陰で大切なことを思い出しました!!」
夏の陽射しを存分に浴びて咲く向日葵のように、元気いっぱいの笑顔をエーラが浮かべた。
……泣いていい?
サクラちゃんの……延いてはエーラのために鬼を倒したが、結果として俺は自分の首を絞めることになってしまったらしい。いや、あの状況では鬼を倒すしかなかったんだけど、しかし、それでも、うんたらかんたら……。
「……やっぱり、ちゃんとこの旅を終えてから、すっきりとした気持ちでお引越ししたいじゃないですか……」
先ほどよりも数段トーンの落ちた声でボソボソと発言する。前で組んだ手をもじもじと動かし、目もきょろきょろと泳いでいる。心なしか頬も赤いような。
何を言っているのか理解できず、岩に抱きついたまま首を傾げていると……エーラは意を決したように目を瞑りながら、一気に捲くし立てた。
「……だから! この冒険をちゃんと終えたら、一緒に遠くの村へ行ってくださるんですよね!?」
「…………」
そんなことを言われてしまったら、引き下がれないじゃないか。
俺がこれから先もエーラの傍にいるのは決定事項だ。たとえ王子様と結婚したって、俺は一生エーラの魔法使いであり続ける。
だけど、もし叶うなら……やっぱり、エーラの隣にいたい。
「はぁ……今の鬼でさえ相当苦戦したんだぞ? ラスボスの《ドラゴン》に殺されちゃったらどうするんだよ……」
しぶしぶ岩から離れ、エーラの前に立ちながら最後の抵抗を試みる。
それに対する答えは、『へなちょこ魔法使い』を信頼しきった目で返された。
「大丈夫です。今のジン先輩とわたしが力を合わせれば、勝てない敵なんていませんよ」
恋愛は惚れた方の負けだなと、そんなことを思った。
薄暗い洞窟は最初に鬼が居たスペースが最奥だったようだ。洞窟の入り口からここまでが一本道だったように、最後のスペースにも一本の抜け道があり、そこをしばらく歩くと外に出ることができた。
外に出て一番に驚いたことは、星の輝きがかなり弱くなっていることだ。どうやら、俺が洞窟に入ってからかなりの時間が経ち、夜明けが近づいているらしい。鬼と戦っている間、全力で集中していたため、俺の体感時間と実際の時間の流れにはかなりの差が生じてしまったようだ。
洞窟を抜け出た先にあったのは、最後のエリア――《城》だ。
数年前までは一面綺麗に手入れされていたであろう芝生が無残な状態で放置され、観賞用だと思われる樹木も枯葉が幾つかあるだけで、ほぼ裸だった。そんな中、赤と白を基調とした城がひび割れた外観で堂々と居座っている。
「さすがに、雰囲気あるなぁ……」
俺が持つ『ドラゴンの城』というイメージにピッタリの建物だ。
時間帯の問題もあるが、夜と朝の狭間で薄暗い闇の中、不気味なオーラを放つ城は最終決戦の場に相応しいように思える。
水の無い噴水やボロボロの草花が散乱する庭園を抜け、朽ちていても厳かなオーラを纏う立派な扉に辿り着いた。そこで、エーラがいつものように口を開く。
「いいですか、ジン先輩。危なくなったら――」
「おい……未だに信用ないのかよ、俺……」
「いえ、そうじゃありません」
そこでニッコリと笑い、冗談めかしてこう続けた。
「〝わたしが〟危なくなったら――守ってくださいね」
「……おう」
だらしない顔になってしまったのは仕方ない。男の子は誰だって、可愛い女の子を守りたい生き物だ。
《死の洞窟》での戦闘ですっかり回復アイテムを使い果たしていたので、エーラから半分ほど分けてもらう。装備を含めてもう一度準備を確認した後、俺は慎重に扉を開いた。
驚いたことに、城の内部はワンフロアのみだった。
一応、中央最奥に玉座へと昇るための階段があるが、そこ以外の床と呼べる場所は全て同一平面上にある。これをフィールドとして捉えるなら、空間的には《死の洞窟》で俺が鬼と戦ったフィールド以上の大きさだ。
内部も外観と同様に白と赤が基調とされており、白の素地の上に赤絨毯や赤の宝箱、赤いランプなどで装飾されていた。もっとも、それらの装飾品もボロボロのため、あまり優雅な光景ではない。
「あ。見てください、ジン先輩。あそこの宝箱……あの青い瓶が《エリクサー》ですよ」
エーラが奥の方にある宝箱を指差す。赤い宝箱の中に、いくつもの青い瓶が乱雑に突っ込まれていた。
いつもすっかり忘れているけど、俺はもともと《エリクサー》という《魔法》を時宮に献上するためにこの世界へ来たのだ。この半年、エーラといることを最優先に生きてきたからどうでもよくなりつつあったけど……とりあえずはこれで、時宮との約束も守れそうだ。
せっかくなので早速そのお宝をゲットしようと歩き出した時――階上で足音がした。
「っ!?」
反射的に体が強張る。
広大なスペースにモンスターの姿がまったく見えなかったため、すっかり油断していたが……ここはラストエリア《城》の中なのだ。そのエリアのボスは【伝説の勇者】さえも打ち倒した《ドラゴン》。下手をするとエーラすら一撃でやられる可能性がある。
エーラと共に抜刀し、階上を警戒しながら注視していると……そこから姿を現したのは巨大なモンスターではなく、一人の男だった。
壮齢の男だ。光の加減で金にも銀にも見える髪を後ろに流している。俺よりも遥かに長身で、引き締まった体には一見しただけで高価と判る赤い鎧。腰には左右に一本ずつ、長剣を携えている。
しかし、何よりも印象的なのは……その、目。
髪と同じく、金にも銀にも見える不思議な色合いが気になったのではない。目付きだ。俺は生まれてから今日までの二十年間、あれほどまでに酷い目付きをした人間を初めて見た。『死んだ魚のような目』などという表現では温い。あれは『死んだ人間のような目』だ。
「アベル様!」
声を上げ、駆け出そうとするエーラを片手で制する。
何が嬉しいのか、エーラは俺の手を掴みながら息急き切って説明し出した。
「ジン先輩! あの人が王子様で『伝説の勇者』のアベル様です! よかった。無事だったんですね、アベル様!」
王子様と言うから、エーラと同い年くらいの少年を想像していたのだが……目の前の男は明らかに三十歳は超えていた。下手をするとエーラと倍以上歳が離れている可能性もある。
そんな男に対してはしゃぐエーラに嫉妬した……というのもあるが、それ以上に、俺はこの男にだけは近付けてはならないと思った。根拠など何一つなかったが、これは第六感クラスに確実な俺の勘だ。その証拠に、男は愛しのシンデレラと再会したというのに嬉しそうな顔一つしない。
「……テメーが《ドラゴン》か」
「そうだ」
質問というよりは確認だった。
男の方も間髪いれず即答した。ただ一人状況を理解していないエーラが「え? え?」と、しきりに困惑している。
「随分元気そうだな。ドラゴンに攫われたって聞いたから、てっきりもう食べられたと思っていたんだが」
「……ドラゴン種のモンスターは既に絶滅している。かつて私が魔王を討った際、ほとんどのドラゴンが敵の配下だったからな」
男がゆっくりと階段を下りる。
その動作には全く隙が無い。ただ力を抜いて自然と歩行しているだけなのに、こちらから攻撃を仕掛けた瞬間、返り討ちに遭うイメージばかりが頭に浮かぶ。
「まぁ、俺は『伝説の勇者』が《ドラゴン》に攫われたって話自体、嘘くさいと思っていたからいいんだが……こっちのエーラはお前が攫われたって心底信じていたんだ。ちょっとくらいは説明してもいいんじゃないか?」
「私はこの国を終わらせようとしている」
階段を全て下り、俺たちから数メートル離れたところで棒立ちになった男は、唖然としていたエーラに幽霊のような視線を送った。
「そちらの少女は……いつかのシンデレラだったか。もし私の軍を全て倒し、私の前に立ちはだかる者がいるとすれば……それは、君を措いて他にいないと思っていた。……私に協力してほしい」
「お断りだな」
エーラの肩を掴み、無理矢理に抱き寄せる。
ぼんやりしていたので反応が鈍かったが、数秒経ったところで真っ赤になり、ビンタのお土産と共に俺の腕から逃れた。ヒリヒリする頬に構うこともせず、俺は真っ直ぐに男を睨みつける。
「……俺はな。王子様に会ったら土下座するつもりでいたんだ。『お願いですから、エーラを俺に譲ってください』、ってな」
顔の火照りを落ち着かせるためにそっぽを向いていたエーラが弾かれたように振り返った。……結局、最低な告白になってしまった。だけど、仕方ない。この男にだけは、絶対に頭を下げるわけにはいかない。
「予定変更だ。お前みたいな最低野郎に下げる頭は持ってない。力ずくで奪わせてもらう」
今日まで、どれほどエーラがこいつのことを心配していたか。
たとえそこに愛が無くとも、自分の恐怖を抑えてまでモンスターに立ち向かうのがどれだけ大変だったか。
……そして。
それほどまでに尽くした相手が、自分の事を何とも思っていないと知った今、どれだけショックを受けているか。こいつは何も解っていない。
「な、何か……理由が! 理由があったんですよね! アベル様が何の理由もなくこの国を滅ぼすなんて、そんなことされるわけないですもんね!」
焦ったようにフォローを入れるエーラ。どうしてもこの現実が受け入れられないらしい。
対する男――勇者・アベルは、何の興味も無さそうな目で語り出す。
「……この国は腐っている。全ての民が利己的で、誰一人他人のために動かない。他人の幸せを願わない。全ての民を救った私が言うのだから間違いない。命を懸け、傷だらけになってまで魔王を倒した私に、誰一人感謝などしなかった」
「そ、そんなことありません! みんなアベル様のことを尊敬しています! 『伝説の勇者』とさえ呼ばれているじゃないですか!」
「それが何になる? 戦いが行われている間は勇者だ何だと祭り上げ、戦いが終われば全てが無かったかのように振舞う。……この国に価値など無い。正しいことをした人間が評価されない国など、間違っている」
「そんな…………」
エーラが悲しそうに肩を落とす。
勇者は相変わらず死んだような目でぽつりぽつりと続けた。
……エーラを、傷つける言葉を。
「お前もそうだ。私はただ、お前に靴を返しに行ったのだ。正しいことをしに行ったのだ。それなのに、周囲の人間が運命だ何だと騒ぎ出し、結婚することになってしまった。……正しいことをした私が何故苦しまなければならない? 国を守った勇者が、なぜこんな灰まみれの娘と結婚せねばならないのだ?」
「――――!!」
俺は剣の切っ先を勇者に向けて突き出した。
なぜなら、俺の隣でエーラが涙を零したからだ。俺がこいつを斬る理由は、それだけで充分ある。斬り裂くために飛び出さなかっただけでも褒めてほしい。
「……止せ。無駄なことをするな。私はお前達と戦うつもりはない」
「なんだと?」
「そんな無益な戦いをしたところで意味は無い。先程も言ったが、私はお前達に協力してもらいたい。私の軍を倒すほどの強さを持つお前達なら、部下にしてやってもいい。あの国と滅ぶのはご免だろう? 私に協力するがいい」
「ふざけないでくださいっ!!」
同じことを思った俺よりも早く声を上げたのは、エーラだった。
まだ涙が滲む瞳で勇者を睨みつけ、抜刀していた大剣を勇者に向けて構え直した。
「アベル様こそ、こんなことはやめて今すぐ国の人々に謝ってください! もしやめないなら……わたしが、あなたを倒します!!」
「……正気か? 王女の座が約束されているというのに、自らそれを手放すことになるのだぞ?」
「構いません!」
今すぐにでも《ミストラル》で斬りつけようとするエーラに向かって、勇者は脱力したようにため息を吐いた。戦意や闘志というものはカケラも感じられない。ただ面倒な作業をしなければいけないような、そんな所作だった。
「……お前はどうだ? 見たところレベルはかなり低いようだが……ここまで来たからには、それなりに力があるのだろう。特別にお前も、私の部下にしてやってもいい」
「お断りだな。俺はあんたの魔法使いじゃない。エーラの魔法使いなんだよ」
無銘の剣をエーラと同じく構え直す。それを見た勇者はさらにため息を吐き……大儀そうに左の腰から長剣を抜いた。
「……いいだろう。私としても殺生はやぶさかではない。どうせあの国を終わらせるのだ。その前にお前たちを葬ったところで、変わりはないだろう」
だらりと左手を下げたまま、右手だけで長剣を構える。
鍔はないが、柄に金で派手な装飾が施されている。俺の剣よりも大分長いが、重さを苦にしている様子は微塵もない。
「……エーラ。俺が時間を稼ぐから、後方から魔法を頼む」
「ジン先輩……でも……」
「回避に徹するから大丈夫だ。……間違っても手を抜くんじゃないぞ? 《メテオバースト》で行くんだ。あの鬼を従えていた勇者が、それよりも弱いなんてあり得ない」
小声で作戦を伝えると、エーラは少しだけ悩む素振りを見せた後……こくり、と頷いてくれた。
「……どうした? 来ないのか?」
「今から行くとこだ! ――〝燃えろ〟っ!!」
左手で《ファイヤーボール》を放ち、その反動を利用して一気に加速。一息で間合いを詰め、勇者に斬りかかった。
「…………」
が、真正面からの初撃は当然のように長剣で受け止められる。
そんなことは百も承知だ。俺は剣撃に体重を乗せていない。腕の力だけで初撃を振るい、勇者の左側――剣を持っていない死角へ潜り込む。
この世界に俺より速く動ける生物は存在しない。剣を封じた上でガラ空きの左側へ移動し、《ファイヤーボール》を見舞ってやる!
「〝燃え――〟」
そこで俺は、信じられないものを視た。
勇者が体を反転させたのだ。それだけならいい。防御に備えて体を移動させるなんて初歩中の初歩だ。しかし俺が驚いたのは、〝俺の動作よりも速く〟勇者が動いたからだ。
「!!?」
気づいた時にはもう遅い。左手で《ファイヤーボール》を詠唱しようとした俺の、さらに左側に潜り込まれた。俺の魔法は空を切り、代わりに勇者の長剣が隙だらけになった俺の体に迫る!
「っ! 〝燃えろっ〟!!」
俺は全身の力を抜き、誰も存在しない空間に向かって二重詠唱の火球を放った。
敵にダメージを与えることはできないが、片手から無理矢理二発分の火球が射出され、その反動で俺の体が後退。間一髪のところで勇者の斬撃を回避することに成功した。
「はぁ……っ! はぁ……っ!」
まさか俺がスピード勝負で負けるとは思っていなかったため、たった一度の斬り結びだけで尋常じゃない量の汗が流れる。
《死の洞窟》に居た鬼も言わずもがなだが、基本的に俺は敵から一撃でもダメージを受ければ、それがそのまま死に直結する。そこで、《素早さ》という武器を盾に攻撃するのが俺のスタイルなのだが……『麻痺』などの異常状態を除き、何の要因もなく俺が追い詰められたのは初めてだった。
額の汗を拭いながら顔を上げると……勇者の目は戦闘前と全く変わらず、死んだような視線でこちらを観察していた。
「……なるほど。一極集中タイプか。道理でそんなレベルのまま此処へ来られたわけだ。貴様のステータス、《素早さ》と《視力》だけ限界値だな? 加えて、《魔法使い》のジョブにも拘わらず剣を使用した攻撃。ここまでの修羅場を、そのトリッキーな戦術で切り抜けてきたか」
たった一度斬り結んだだけで俺の詳細を見抜かれた。
腐っても『伝説の勇者』というわけか。
「……それがお前の自信だと言うのなら、教えてやろう。私のレベルは99だ」
「な、に……!?」
「当然、ステータスも全て限界値を記録している。つまり、お前にできることは私にもできるし、お前にできないことも私にはできる」
レベルもステータスもカンストだと!? じゃあ、こいつの強さはエーラ以上ということになるじゃないか!
そんな奴に勝てるわけ――
「お待たせしました、ジン先輩!」
無駄な会話をしている間に時間が稼げたらしい。背後から頼もしい声が掛かる。
そうだ。いくらこいつがエーラ以上に強かったとしても、大魔法の詠唱に時間が必要な点は変わらないはず。こちらは二人なので協力できるが、あいつに《メテオバースト》を唱える時間はない。
「アベル様すいませんっ! 本気で行きます! 《メテオバースト》!!」
俺が身を屈めて横に跳ぶと同時、紫炎の光が勇者に向けて走った。
それを勇者は、身じろぎ一つしないまま片手で受け止めた。
「そんな!?」
エーラが驚愕を露にする。
当然だ。あれはエーラが使用できる魔法の中でも最上位の大魔法。それを素手で受け止めるなんて……!?
その時、俺には視点の違いから勇者の手元に展開するものを視ることができた。
あれは……魔法? 風が逆巻いて――
光が消滅すると、勇者がゆっくりと手を下ろした。《メテオバースト》を無効化するという有り得ないことをやり遂げたのに、それが当然のようなぼんやりとした表情のままだ。
「……驚いているようだから教えてやる。今のは私の《エアシールド》だ」
「《エアシールド》……!? そんな! 《エアシールド》で《メテオバースト》を防げるわけがありません!」
「そう。防げない。なぜなら、《エアシールド》の防御力よりも《メテオバースト》の攻撃力の方が上だからだ。しかし、それはあくまで使用者の視点に立った場合の話だ。お前の《エアシールド》はお前の《メテオバースト》に、私の《エアシールド》は私の《メテオバースト》に勝てない。だが……お前の《メテオバースト》程度になら、私の《エアシールド》でも勝てる」
「…………!?」
絶句するエーラ。
……今まで、こんなことは一度もなかった。どんなモンスターよりも、どんな人間よりも、エーラは常に高レベルだった。エーラの剣や魔法が通用しないことなんてなかったし、まして下位の魔法で高位の魔法が無効化されるなんて、考えもしなかった。
エーラと勇者のレベル差――20弱。
たったそれだけで、これほどまでに凄まじい差がつくものなのか!?
「……確かに殺生はやぶさかではないが、お前達ほどの強さはやはり惜しい。無益な戦いは避けたいのだ。……今一度問おう。私の部下にならないか?」
「…………」
エーラが黙り込んだまま、こちらに視線を送ってきた。それだけでエーラの気持ちが解る。自分一人ならば答えは決まっているのだろう。けれど、俺というパーティーのことを考えると、自分の勝手にはできないということだ。
確かにあの勇者は化け物だ。《死の洞窟》の『鬼』以上だ。
やり方次第で対抗できる鬼とは違い、この勇者には俺たちにできることが全てでき、なおかつ、俺たちにできないこともできる。笑えるくらいの無理ゲーだ。
――だけど。
それでも、間違っているものは間違っているのだ。
俺はエーラの真剣な目を見つめ返し、ただ一度だけ頷いて見せた。
「……ジン先輩ならそう言ってくださると思っていました。……アベル様。私たちは、絶対にあなたの部下にはなりません!」
真っ直ぐな瞳を勇者に向ける。
それを見た勇者はため息を吐き、理解に苦しむとでも言うように生気のない顔を左右に振った。
「……なぜ解らない? 私のレベルは99で、全ステータスが限界値なのだ。どう考えてもお前達に勝ち目は無いだろう? 理論的に考えて、ここで断ればただ殺されるだけだ」
その言葉は、俺たちに絶望ではなく希望をもたらした。
そう。理論上、確かにこの勇者を倒すことはできない。全ステータスがカンストし、全ての技がマックスの威力を誇る勇者に勝つなんて、システマティックなRPGなどでは絶対に不可能な状況だ。
だが、こちらには理論外の力がある。
鬼すらも斬り裂いた刃。
風よりも疾く舞う十一枚の桜花。
〝剣舞〟――――!!
「…………」
エーラにアイコンタクトを送ると、同じ考えに至ったらしく、ただ頷き返してきた。
《剣舞》は、最初の一撃目をヒットさせることが絶対条件だ。近距離で一撃目さえヒットさせることができれば、二撃目以降は加速した刃がほぼ自動的に連続ヒットする。だから、その一撃目を入れる隙さえ作ってもらえれば――!
「……無価値な戦いを長引かせる理由も無い。私に従わないと言うのなら、ここで死んでもらおう」
その言葉を合図にしたかのように、エーラが大剣を振りかぶって飛び出した。心中での呪文詠唱さえ許さない勢いで、重斬撃を連続で繰り出す。
右上から左下への袈裟斬り、右薙ぎ、刺突、斬り上げ――あの超重量剣を用いて、俺でも回避が不可能に思える速度での四連撃。大抵の相手ならこれで決着が決まる所だが、勇者は平然とした顔で避け、受け流し、躱し、弾く。
斬り上げに合わせて上方へと大剣を弾かれたエーラは、ボディががら空きになった。そこへ勇者が長剣で追い討ちをかける。刃を引き戻す時間のないエーラは、柄を利用して直撃を回避した。
この斬り合いにより両者が接近。超至近距離で斬撃を撃ち合う。合図など何一つなかったが、俺にはエーラが何を狙っているのか理解することができた。《一期一振》を抜き、俺も両者に向かって疾駆する。
「――〝疾れ〟」
二人の動きに眼を凝らしながら、オリジナルの呪文を詠唱した。俺の二本の刃に音も無く風が逆巻く。
エーラと勇者の剣戟が鳴り響き、エーラの斬り下ろしに対して勇者が長剣で受けようとした。――ここだ!
「《ブリザードストーム》!!」
俺の予想通り、エーラが斬り結びのタイミングで《ミストラル》固有の大剣技を使用した。大剣自体は阻まれるが、生み出された吹雪の刃が勇者の体を斬る!
「うらああああああああっ!!」
斬り結びの体勢のまま吹雪の刃でダメージを受け、勇者が僅かに居付いた瞬間――俺は真横から、《風の魔法剣》で勇者の体を斬り裂いた。
斬撃が加速し、刃に引かれるように体が反転。二撃目に連繋――!!
「離れろ、エーラ!」
超至近距離のため、エーラまで《剣舞》に巻き込まれることを危惧したが、事前に技の内容を知っていたエーラは既に離れる準備をしていた。俺が二撃目を放つ頃には数歩後ろに下がり、さらに後退し続けている。
これで心置きなく斬り裂ける!
「うおおおおおおおおおおおおっ!!」
「――――!?」
その時、初めて勇者の顔に表情が浮かんだ。
戸惑っているような表情だ。それが三撃目を放った頃には驚愕へと変わる。そして、右手で握っていた長剣を自分の体へと引き寄せ、左手で右腰の長剣も抜刀した。
「なっ――!?」
今度は俺が驚く番だった。
二撃目のヒットによりさらに加速された三撃目を勇者が右手の長剣で弾く。二度の加速により押し負けることはなかったが、一瞬の防御により、勇者へ後退の機会を与えてしまう。三撃目もヒットするにはしたが、二撃目ほどの加速は得られない。
続く四撃目をさらに左手の長剣で受ける。無論、スピードの利により押し負けることはなかったが、また僅かに後退する機会を与えてしまい――そこで完全に《剣舞》の間合いから外れた。
「……ちっ!」
強制的に舞を終了し、バックステップで距離をとる。
二振りの剣を握った勇者は、先ほどまでの退屈そうな顔が嘘のように、不気味な化け物でも見るような目で俺を凝視していた。
「貴様……それはなんだ!? 私は全てを極めた! しかし、私はその技を知らない! 小僧、貴様何者だ!?」
「……こいつは《魔法剣》。そして俺は、『最強の魔法使い』さ」
「《魔法剣》だと……!? ふざけるな! それを使えた者は過去に一人だけだ! 私の最初の計画を破綻させた、忌々しき【魔法剣士】……!」
どうやら俺の他に《魔法剣》を使える人間がいたことは共通認識らしい。
必死に考えて編み出したオリジナル魔法が誰かと被るのは面白くなかったが、それで目的が達成できるなら上々だ。
俺の切り札を知った勇者は、相変わらずひどい目付きをしていたが……その奥に、ほんの少しだけ怒りと戦意が生まれたようだった。
「あの【魔法剣士】さえいなければ、私がここまで苦労する必要はなかったのだ! 奴のせいで私は軍の大半を失い、このような遅々とした戦略で追加戦力を求めるまでになってしまった! 奴さえいなければ――!!」
俺の知らないその魔法剣士さんとやらは、どうやら相当この勇者を邪魔したらしい。あれほどぼんやりとして冷静だった勇者が怒り狂うほどに。
いや、そうじゃないか。きっと、こっちがこいつの本性なのだろう。怒り、妬み、恨み……こいつの内にあるものは、ドス黒い感情ばかりだ。
「喜べ、小僧……。もう遊びは終わりだ。全力で貴様を殺してやろう。《伝説の勇者》が全力を出すのだ。光栄に思うがいい」
そこで初めて、勇者がまともな構えをとる。半身になり、両手の長剣を俺に向けて構えた。レベル99という、この世界で最強最悪の威力を秘めた凶器が、俺を獲物と認めたかのように不気味に煌く。
「悪いが、俺はまだ死ぬわけにはいかない。……エーラとはキスすらしてないんだ。ここで死んだら、未練タラタラで悪霊になっちまう」
勇者を挑発するために軽口を叩くと、少し離れたところでエーラの方が狼狽していた。
結局、最後まで俺の口撃は役に立たなかった。
「――行くぞ」
辛辣な眼で俺の《魔法剣》を睨みつけ、勇者が飛び出した。
タネは割れてしまったが、俺のやることは変わらない。《剣舞》が決まる間合いで勇者に一撃を喰らわせる。そのために勇者の一挙手一投足に集中し、隙を探す。
だが、そんなものはなかった。
これまで俺が相手にした、どのモンスターよりも速い。なまじ《視力》がいいだけ、それが視えてしまう。左の剣を突き出し、右の剣を振りかぶったまま俺に向けて突進する勇者。それは歴戦の勇士と呼ぶに相応しく、再び《剣舞》を放つ余裕など皆無だった。
俺は《一期一振》を鞘に納め、無銘の剣だけを握った状態で右に跳ぶ。
もともと、俺の《腕力》で二本の剣を自在に操ることは不可能だ。自動で剣撃が繰り出される《剣舞》は別にして、通常の戦闘ならスピードを重視する意味でも一本の剣だけで闘った方がいい。
全脚力を注いで跳んだ後、そのまま右に駆け出す俺に勇者が追随する。こいつ以外が相手ならこれだけで逃げ切れるのだが、同じ速度を持つこの男には単純な回避行動さえ許されない。それどころか、体捌きや間合いの取り方で徐々に距離を詰められていく。最大速度が同じでも、その扱い方に差がありすぎる!
ついに勇者の間合いに入り、俺にとって必殺を意味する長剣が振り下ろされた。
「〝燃えろ〟っ!!」
《ファイヤーボール》で強引に加速。勇者から離れる方向へと大きく後退する。
――が、そこで俺は信じられないものを視た。
全く間合いが開くことなく、勇者が迫ってきたのだ。見れば、攻撃していない右手で剣を握ったまま後方へと火炎系魔法を放っている。
俺と、全く同じ戦略――!
「くっ……! 〝阻め〟っ!!」
左手を使用し、二重の《エアシールド》を展開させた。片手での二重は《ファイヤーボール》以上に難しかったが……この土壇場で、なんとか発現させることに成功する。
勇者は当然の如く長剣で風壁を消し去ったが、そこで僅かにタイムラグが生まれ、再び間合いを開けることができた。
その瞬間、勇者の背後からエーラが大剣を振り下ろす!
「《ブリザードストーム》!!」
しかし、一度見せた技が通用するほど甘くはない。
勇者は、斬り結ぶような真似はせず、ステップと火炎魔法による加速だけで当然のように回避して見せた。エーラもそれは想定済みだったらしく、吹雪の刃を盾にする形で走り、俺の方へと合流した。
「……小僧の《エアシールド》。レベルに対して、かなり威力が高いようだ。それも何か秘密があるようだな」
先程の感じを確かめるように長剣を振り抜き、勇者が呟く。
やはり《二重魔法》も俺専用のオリジナル魔法……『バグ技』らしい。
「悪いが、そいつは企業秘密だ」
「…………」
俺の返答など期待していなかった様子で、勇者は自分の長剣を見下ろしていた。
そこに突然、風が逆巻く。
……が、俺の《風の魔法剣》のように鋭利な形状ではなく、ただ単に長剣を包むようにして《エアシールド》が展開されているだけ、という表現が適切に思えるような状態だ。
風壁はやがてバランスを崩すように乱れ、消滅した。
「……やはり私にあの技は使えないらしい。こんなことは始めてだ。レベルが限界値に達して以来、この世界に恐れるものなど無くなってしまったのだがな……。……喜べ、小僧。貴様だけは、丁重に葬ってやる」
ぞくり、と背筋が粟立つ。
俺を小物として扱ってくれる方が、まだよかった。油断している間に隙を突き、《剣舞》で一気に勝負を決めることができたのだから。真に力のある敵が用心して闘えば、俺のような小物にチャンスはない。
「……ジン先輩。申し訳ありませんが、わたしでは二人のスピードに着いていくのが難しいです。だから、長期戦は不利。次の一撃で決めましょう」
俺の隣まで後退してきたエーラが小さな声で囁く。
「わたしが囮になります。如何にアベル様がレベル99とはいえ、一撃で私が沈むことはないでしょう」
「『肉を切らせて骨を断つ』、か……。考え方としては正しいけど、エーラを犠牲にするなんて、嫌だ」
「……ほんと、ジン先輩は優しいですね」
困ったように苦笑するエーラ。もう俺の気持ちは知っているのだから、その理由も十分解っているだろう。それでも、こう続けた。
「ですが、このままだと二人とも死んでしまいます。いいですか、ジン先輩? 私ならアベル様の攻撃数発と《剣舞》の二撃目までなら耐える自信があります。だから、隙が出来次第、わたしごと斬ってください。……二人でお引越しするためです」
最後はちょっとだけ冗談っぽく付け加える。
確かに、本気で勇者に勝とうと思えばこの戦略しかない。向こうは一人で、こちらは二人。単純な力量で勝てないのなら、数の利を利用して戦うのが常道だ。
エーラの身を危険に晒すのは嫌だったが……エーラ自身の意見を尊重するため、そして勝つために、俺は承諾した。
「最後の作戦は決まったか? ……予告しよう。次が最後だ。小僧の力も、もう見切った」
両手の長剣を構え、勇者が腰を落とす。
トップスピードでの間合いの取り合い合戦は完敗した。二重によるダメ押しが露見した以上、次にスピード勝負に持ち込まれたら死が確定する。
こちらも、ここで決めるしかない。
「行きます!」
勇者とエーラが同時に駆け出し、急激に間合いを詰める。
左後方に《ミストラル》を振りかぶったエーラが、バットをスイングするように高威力を秘めた斬撃を繰り出した。だが、それを勇者は長剣ではなく《エアシールド》で受け止める。
どうやら勇者が持つ剣の柄は、握ったまま魔法を使用するのに耐え得る仕様となっているらしい。先ほどの火炎魔法で剣が潰れなかったことを見ても明らかだ。本来、ジョブが《勇者》だったとしても、剣での攻撃と魔法を同時に戦闘へ利用することは困難なはずなのだが……奴はお構いなしだ。
「くっ……! 《アイスエッジ》!!」
風壁に阻まれた大剣を放り出し、エーラが両手で魔法を放った。氷柱にも似た錐状の氷が無数に出現し、その全てが勇者の元へと迫る。
これに対し勇者は、先ほどとは逆に長剣で対抗した。無数に飛来する氷を全て剣で叩き落とし、エーラを斬り刻もうと突進。放り出した大剣をエーラが握り直す頃には、長剣がエーラの右肩を引き裂いていた。
「……っ!」
我慢できず飛び込もうとする体を、歯を食い縛って繋ぎ止める。
あれだけの斬撃でエーラのHPが二割近く減少した。それでもエーラはその場に踏ん張り、大剣を振るう。《ブリザードストーム》を放つには、上からの振り下ろしに加えて一定以上の斬撃スピードが必要だ。あの距離で使用することは難しい。
勇者もそれを読んだのだろう。斬撃からの体当たりで距離を詰め、大剣の大振りを不可能にする。そのまま軽斬撃でラッシュをかけた。
勇者とエーラの距離がこれ以上ないほど接近し、お互いの剣が塞がる。
「〝疾れ〟っ!!」
エーラをこの手で斬るという事実に全身が震えた。
その震えを押さえ込むように歯を食い縛り、《一期一振》を抜いて《風の魔法剣》を創り出す。そして、自分の身体を斬り裂くよりも痛烈な抵抗を押し殺して、エーラ諸共勇者に斬りかかった。
それを見た勇者は――両手の剣を交差させ、正面に突き出した。
「《クロスブレード》!!」
「っ!!?」
大剣でガードしたエーラが後ろに弾き飛ばされる。
ダメージ自体は大したことない。エーラのHPゲージでは減少が視認できないほどの微々たる量だ。恐らく、間合いを開けるための専用技だったのだろう。
だけど……効果は覿面だ。
この間合いでは《剣舞》を使用してもエーラだけを斬る結果になる。俺は技を中断せざるを得ない。それにより、ほんの一刹那だけ固まった俺の体に、弾き飛ばされたエーラが重なる。……二人とも、完全に無防備な状態で。
俺とエーラを縦一列に並べ、長剣二本で固有剣技を放とうとする勇者の姿が見えた。
「《ホールリフューザー》!!」
勇者がやったのは、中距離から二本の長剣を突き出しただけだ。
しかし、エーラの《ブリザードストーム》同様、実際の剣ではない光の刃が飛んでくる。全ステータスカンストという信じられない力で生み出されたその光は、レザー砲のような閃光となって俺たち二人を包み込んだ。
…………。
……………………。
眩い閃光が収まってから目を開くと……俺は瓦礫の山に埋もれていた。
ぼんやりと自分のHPを確認する。もう空なんじゃないかと思うほどの量が、辛うじて残っていた。そして……それは、その下に表示されているエーラのHPも同様だった。
動け、という俺の命令を拒絶する体を何とか引き上げると……かなり離れたところでエーラも横たわっているのが見えた。HPゲージがゼロでない以上、生きているはずなのだが……それが信じられないほどピクリとも動かない。
「……生き残ったか。驚くべきことだ。私の《ホールリフューザー》を受けて消滅しなかった生物は初めて見る」
なぜ俺が生き残ったかは、火を見るより明らかだ。
エーラが盾になってくれたからに他ならない。
こんな、俺みたいなザコを守るために――
「……先程の宣言が虚言になってしまったな。今度こそ、止めを刺してやろう」
「…………ざ、けんな……」
エーラの方に歩み寄ろうとした勇者が立ち止まる。
逆説的だが、死をも覚悟して手を動かした。ポーチのアイテムはほとんどが破損していたが、奇跡的に《ハイポーション》が一本残っていた。それを摘み出し、頭から被る。液体を飲み干す力さえ残っていなかった。
「これで……もうすぐ、俺は……回復、しちまうぞ……。……俺から、殺れ……」
「……断る。お前はいつでも殺せる。まずはこちらの娘が先だ。この娘さえ殺してしまえば、お前の可能性も完全に零になるからな」
エーラの元に辿り着いた勇者は、財宝のように美しいエーラの髪を無造作に掴んで持ち上げた。目を瞑り、苦しそうな呼吸を浅く繰り返す首筋に長剣を添える。
「……私の崇高な目的のため、犠牲になるのだ。光栄に思うがいい」
そんな勇者の言葉を聞いた俺は、自然と笑ってしまった。
「……へ、へへ……」
それにより、剣を引こうとした勇者の手が止まる。
……本当に、笑ってしまう。
なにが『崇高』だ。
「テメーがやってることなんざ……ただの、子どものワガママだ……。誰よりも利己的で、誰よりも他人の幸せを願ってないのが、テメーじゃねぇか……」
ポーションの効果が現れた。これでHPゲージは全快だ。だけど……もう《ハイポーション》は残っていない。他の回復アイテムもない。
俺はフラつく体を引き摺って、無理矢理立ち上がった。
「テメーの主張はこうだ……。『がんばって魔王を倒したのに、誰もチヤホヤしてくれないよー』……。そんなガキみたいな主張で、国を滅ぼされてたまるかよ……」
「…………」
勇者が掴んでいたエーラの髪を離す。
自然な挙動でこちらに歩んでくる。一見、平静に見えるが……俺には判る。その目に、怒りの炎が燃えていることが。
「は……図星突かれて、頭にきたか……。いいぜ……俺と、闘れ……」
ハッタリは通用しなくとも、挑発は充分に機能した。
なぜその挑発が通用したのかは明らかだ。勇者自身、それを内心で考えていたからだ。人は自分が気にしていないことで馬鹿にされたって怒らない。
……こいつは、俺と同じだ。
ワケも解らず学校に通い、自分がどういう人間なのかも判らないまま、混乱して人生を過ごしていた俺と同じだ。
『勇者になるのが正しい』と言われたから勇者になり、『魔王を倒すべきだ』と言われたから魔王を倒した。そこに、自分の意志など存在しない。
それで喜ぶのは周囲の人間だけだ。他人だけだ。本人は嫌なのにも拘わらず、無理矢理に自分を律して頑張った。地獄のような苦しみを背負ってまで頑張った。「なぜ自分だけが?」という疑問も抱かないまま、ただ必死に走り続けた。
そうして辿り着いた場所は、自分が望んでいたものとは正反対の場所だった。
だから他人にも同じ事を要求する。自分のために地獄のような苦しみを背負えと言う。だが、他人がそんなことをするわけがない。
そうして、矛盾と混乱を山のように抱えながら生きてきた。他人の目を気にし、自分の渇望を叫ぶことも無く、ただ周囲のために生きてきた。利用されてきた。そう感じて、生きてきた。
それが今、ようやく爆発したのだ。
胸の裡に詰まった怨嗟の涙が、ようやく限界を超え、溢れたのだ。
誰からも尊敬され、誰よりも他人に尽くした『勇者』が、〝鬼〟になったのだ。人ならざるモノに。怨念の満ちる化け物に。
その姿は正に、エーラと出逢わなかった場合の、俺の未来そのものだった。
なぜ俺が今、エーラの隣に立っているのか。それはあの日、俺が勇気を持って一歩、足を踏み出したからだ。……カッコ悪い一歩だった。情けない一歩だった。好きな女の子にいい格好がしたいという、不純な動機の一歩だった。
だけどあの日、確かに俺は一歩、足を踏み出したのだ。
〝保留〟せずに。
その後、どんな大変な目に遭うかも考えないで。どんな大変な目に遭っても構わないと、覚悟して。俺は確かに、一歩を踏み出した。
だから今、俺はエーラの隣に立っている。
目の前の勇者はきっと違う。数多の偉業を成し遂げておきながら、一度も自分から一歩を踏み出さなかった。〝伝説の勇者〟を名乗っておきながら、この男には『勇気』というものが欠片も存在していない。
もし、ほんの僅かでも。
ほんの少しでも何かが違い、小さな『きっかけ』が訪れて。
そこにそれ以上に小さな『勇気』が重なっていたならば――きっと、この男も俺のように、大切なものを見つけられたはずだ。
「…………」
倒れているエーラに目をやり、心の中で「ありがとう」と呟いた。
コートに引っ掛かっていた剣を手に取り、右腰のベルトへと無理矢理に突っ込む。《一期一振》も鞘に戻した。これで外観は目の前の勇者と同じ二刀流だ。
勇者が俺から五メートル離れた位置で立ち止まった。おそらく、先程の固有剣技は撃ってこない。なぜなら、どんなにボロボロでも俺のスピードは警戒しているはずだし、直接近づいて斬っても容易に殺すことができるからだ。得られる結果が同じならば、より確実な方法として接近からの斬撃を狙ってくるはず。
俺は腰を落とし、左足を引いて半身になった。左手は朱鞘に添え、右手を柄の上で柔らかく構える。
もう体はボロボロだ。無駄な動きは一切できない。
「……構えないのか?」
俺の方を警戒しつつ、怪訝な様子で勇者が尋ねる。
この世界では剣がメジャーで、日本刀は超マイナーだ。俺の世界ではこの姿勢から繰り出される技なんて一つだけだが、勇者にはそれが想像できないらしい。
「今から放つ……《伝説の勇者》を打ち倒す技の名前を教えてやる。……〝一期一振〟。この一瞬に……俺の全てを込める、という意味だ」
「……ハッタリか。見苦しい足掻きだ」
警戒は続けているが、勇者は俺の言葉を信じない。
当然だ。満身創痍で、いつ倒れてもおかしくない有様なのだから。
勇者がじりっ、と足を引いた。手加減があるなど考えられない。間違いなく最速にして最強の一撃がやってくる。
俺にあるのはスピードだけ。
勇者の攻撃速度を超えられなければ、俺は死ぬ。
張り詰めた空気の中、互いに相手を睨み合う。周囲の気温が下がったと錯覚するほど緊張感が増し、ピリピリとした殺気が充満する。どこかで瓦礫が滑り、ほんの僅かに音を立てた。
それが、合図だった。
勇者の体がブレ、気付いた時には俺との距離が一メートル以下になっていた。注視していたのに、ほんの一瞬、姿を見失った。どうやら先刻まではまだ余力を残していたらしい。
踏み込みの速度を全く殺さないまま斬撃に繋げる。敵ながら美しいと思えるほどの流れだ。右手に握った長剣が芸術的な弧を描き、俺の体へと迫る。二重の《ファイヤーボール》を唱えても躱し切れない。まして、俺は今、両手を《一期一振》に添えている。このままでは確実に斬られ、殺されてしまう運命だった。
……俺が、さっきまでの自分だったのなら。
「――〝閃け〟」
極限状態での、新呪文。
この魔法が発動するかどうかからして賭けだった。その後、いくつもの奇跡を重ねなければ《伝説の勇者》は倒せない。途方もなく長い道のりだったが、最初の一歩は上手く踏み出すことができた。
俺の体が右斜め前方へと瞬間移動する。手ではない。ブーツの底から《ファイヤーボール》を射出したのだ。手から放つ時のように脱力する必要はない。むしろ、前進のために足は踏ん張っている。そこへ全くロスの無い推進力が加わり、俺はたった一歩だけ、勇者よりも速く動いた。
刹那の時間、勇者が驚愕するのが視えた。お互いに《素早さ》が限界値の上、《視力》までカンストしているせいで、一瞬の時間が永遠にも等しい濃密さを持つ。
今回、俺の靴底から射出された火球は通常通りの一発分だ。だけど、二重に呪文を唱えていないわけでもない。
俺が一歩前進すると同時、鞘から《一期一振》の刃が飛び出した。
自分の手で引いて抜刀しているというよりも、暴発して飛び出した日本刀に右手を添えているイメージ。《一期一振》の刃には風が巻き付いている。鞘内で《エアシールド》を展開させたため、鞘走りなどとは比較にならないほど剣速が加速され、勇者に迫る。
そう。これは。
居合い抜きの《魔法剣》――!!
初撃は見事に勇者の体を斬り裂いた。当然だ。火球によって加速された神速の踏込みに加えて、風壁で加速された神速の居合い抜き。この魔法剣にこそ、〝超神速〟の名が相応しい。
初撃は入ったが、ダメージ量は大したことがない。あの勇者相手に二桁のダメージを与えられたことは僥倖だが、それだけでは倒せない。だから俺は、必ずここに仕掛けを打つ必要があった。
俺は居合い抜きからの勢いを殺さず、その場で反転した。交差した勇者の背中が見える。そして、勝利への細い糸を手繰るため、左手で右腰の剣を抜き放つ!
――〝疾れ〟っ!!
ギリギリ心中での呪文が間に合い、左手の剣にも風が巻き付く。
超神速の居合い抜き《一期一振》から、剣舞《桜散花》への連繋――!!
「くっ……!」
勇者が長剣で弾こうとするがもう遅い。
この剣舞は従来のものとはワケが違う。居合い抜きから連繋したため、通常なら五撃目以降に得られるほどの速度が加えられている。
剣で弾くことを諦めた勇者は、剣舞がさらなる攻撃力を得る前にその身を犠牲にして下がろうとした。今ならばまだ、直撃を受けても死にはしない。
だが――絶対に逃がさない!
俺は回転を止めないまま、僅かにステップを変えた。完全なる円ではなく、ほんの少しだけ中心点が推移していくように。勇者が下がるのを追随する、螺旋のステップへ――!
「うおおおおおおおおおおおおおおおおっ!!!!!」
「――――っ!!」
剣での弾きを封じられ、後退も許されないと悟った勇者は、覚悟を決めた。防御を全て捨て、俺の体を狙って攻撃し始める。
そうだ。それしかない。もう俺たちは、どちらかが倒れるまで舞い続けるしかない!
俺はたった一撃でも斬撃が入れば、その瞬間に死んでしまう。だから、勇者の剣を刃で防ぎ、それと同時に勇者の体へと斬り込まねばならない。
すぐに通常の十一撃目に相当する速度に達し、体が軋み始めた。
だけど、止まるわけにはいかない。絶対に止まらない!
もう俺の体は限界だ。どう考えても、これが最後の攻撃。この剣舞で勇者を倒せなければ、エーラと揃ってゲームオーバー。絶対に止まるわけにはいかない!
俺は体が千切れることも覚悟して剣を振り続けた。全身に力が入らず、《桜散花》の勢いに引かれながら舞っているようなものだ。
手首の力でも腕の力でもなく、俺の身体全てを使って剣を振る。
俺自身が、一本の刃となる。
それでも、同じ長さのHPゲージに対するHP減少量は、俺の方が多かった。俺は数撃に一度まともな斬撃を与え、勇者の方からは余波や掠る程度の斬撃しか受けていないというのに、俺のHPゲージの方が速く減っていく。
――もっとだ! もっと速く、加速し続けるしかない!
風よりも疾く、光を置き去りにする速度で剣撃を浴びせながら、頭の片隅では昔の記憶が流れていた。
これを走馬灯と言うのだろうか。
一説によると走馬灯とは、過去の全ての記憶から、今この瞬間の命を救う手立てを探しているらしい。しかし……残念ながら、そんな方法は見つからなかった。
このままだと俺は死んでしまう。
エーラを守るためなら構わないと、そう思えた。
記憶の中にいる俺は死んでいた。目の前にいる勇者とよく似た目をし、屍のように生きていた。何かにつけて言い訳をし、自分から一歩を踏み出さない。その責任を誰かに押し付け、不平不満ばかり呟いていた。
魔法使い?
剣士?
トレジャーハンター?
なりたいのなら、いくらでも目指せばよかった。
時間が切れる前に。死んでしまう前に。
他人の目を気にし、自分の気持ちを誤魔化し、リスクを冒さず、努力を先延ばしにしてきた。傷つかないように、「できるわけがない」と、ずっと言い訳してきた。
そんな余裕は無いのに。
明日にも……いや、今日、今、この瞬間にも時間切れが――〝死〟が訪れるかもしれないのに。
一体俺は、何をしていたんだろう。
一体俺は、何をして来たんだろう。
俺の内に『宝物』と呼べるようなものは一つも存在していない。
目の前の勇者も同じだ。今この瞬間に、『活きて』いない。
だから俺は……今日から、自分にとって本当に大切なものを得るため、一生懸命頑張ろうと思った。
そんなことを考えた瞬間――勇者の剣が、俺の心臓を貫いた。
思い出す。エーラと初めて出逢った日のこと。
キラキラした目で俺を見上げ、可愛く微笑んでくれたこと。
思い出す。エーラに初めてハッタリがバレた日のこと。
平身低頭謝罪する俺に、ため息混じりで許しをくれたこと。
思い出す。森でモンスターを倒した日のこと。
いつも通りな俺に呆れながら、ツッコんでくれたこと。
思い出す。初めて休んだ日のこと。
俺の肩に頭を預け、二人して真っ赤な顔で湖面を眺めたこと。
思い出す。俺を信じてくれた今日のこと。
わたしを守ってください、とニッコリ笑ってくれたこと。
思い出す。思い出す。思い出す……。
スロー再生されたように速度を失った世界で、エーラのことばかりが頭に浮かんだ。
即死はしない。この世界では心臓を失ったからといって、その瞬間に意識まで失うことはない。だが、これは完全に致命傷だ。命に至る傷。俺のHPゲージが、ゼロを目指して緩やかに後退し続けている。
そんな世界で唯一、加速しているものがあった。
俺の……言い訳だ。
――俺は頑張った。
――一生懸命やった。
――精一杯やった。
――やれるだけやった。
――それでもダメだったのなら、仕方ないじゃないか。
――仕方ない。
――これだけやってダメなら、俺は悪くない。
――悪いのは、世界だ。
――俺にはこれが限界だ。
――俺がダメでも、他の人がなんとかしてくれる。
――結果が大事なんじゃない、過程が大切なんだ。
――夢は叶わないから夢なんだ。
全てを諦め、手の力を抜こうとした。
瞬間、俺の言い訳よりも速く動くものがあった。
その小さな影は、俺と勇者の間に割り込むと、身の丈ほどもある大剣を雷光のような激しさで振り上げた。
「やあああああああああああああッ!!」
俺の胸を貫いた剣諸共、勇者が手にしていた二本の長剣が弾き飛ばされ、宙を舞う。
俺の、世界で一番大切な人。
大好きな女の子。
本当の――『宝物』。
数多浮かんだ言い訳が、消滅した。
「うわああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!」
HPゲージが減少するよりも疾く、無限の剣撃を浴びせる。
もう、勇者のHPをゼロにすることは不可能だ。
だったら――――!!
「ああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!」
無手となった勇者の両手両脚に、幾千もの桜吹雪が殺到した。
自分でも信じられないほどの剣速で桜花が舞い散る。
俺のHPがゼロになり、舞を終える頃には……勇者の両手は見るも無残な姿になっていた。あれでは、回復アイテムを取り出すことすらできまい。
全ての決着がつき、俺と勇者が交差する。
俺は立ち尽くし、勇者は地に倒れた。
「…………ぼくは……勇者になんて、なりたくなかった…………」
――〝伝説の勇者〟。
この世界で最強の男が、まるで小さな子どものように涙を流した。
「……ああ。お前は勇者になんて、なるべきじゃなかった」
天を仰ぎ、全てを後悔する男を見て、俺はもう敵意など微塵も抱かなかった。ただただ、哀れみの感情ばかりが湧き起こる。
だから俺は、〝僕〟自身に……『木崎仁』に言い聞かせるように呟く。
「……今日からやり直せ。そうすればきっと、今日よりマシな明日が来る」
その瞬間が、最後だった。
それを境に、俺の身体が光の粒子となって崩壊を始める。
「ジン先輩っ!」
エーラが泣きそうな表情で俺に駆け寄ろうとして……何かを堪えるように向きを換える。宝箱の方へと走り、その中から青い結晶で造られた瓶を掴み出した。それを大切そうに抱えたまま、転びそうな勢いでこちらに駆けて来る。
笑顔で抱きしめてやりたかったが、自分の体であることが嘘のように力が入らず、俺はその場に崩れ落ちてしまった。
「ジン先輩! 《エリクサー》です! しっかりしてくださいっ!!」
ボロボロと涙を零しながら、エーラが瓶の中身を俺に振り掛ける。
一瞬だけ青い光に包まれた。……が、俺の身体から漏れ出る光が止まることはなかった。
「どうしてっ!? 《エリクサー》は万能薬なのにっ!!」
RPGなんかでよくある《エリクサー》の効果は、『HPの全回復』だ。その効果は『HPが1ポイントでも残っている者』にしか、有効ではない。
……死者は、生き返らないのだ。
「綺麗な顔が、台無しだ……」
どんな理由があったとしても、大好きな女の子の涙なんて見たくなかった。
だから、真珠のような雫を拭ってあげようと思ったのだが……決死の思いで上げた俺の指は、エーラの頬を透き通ってしまう。その事実に、エーラの涙がさらに大粒になった。
「……ありがとう、エーラ。本当に……くだらない人生だったけど……最後にエーラと冒険できて……俺、すごく幸せだったよ……」
くだらない人生のラストは、想像を絶するほど最高のハッピーエンドだった。
まるで、愛する王子様と結婚した『シンデレラ』みたいに。
その瞬間、俺の人生の全てが最高のシナリオとなった。
死んだように生きた日々が序章となり、辛かった過去が伏線となり、癒えない傷が武器へと換わった。
最高の〝宝物〟になった。
『終わり良ければ全て良し』というのは本当だな、と思わず笑みが溢れる。
そんな俺を見て、エーラは涙で濡れ続ける顔のまま、気丈な表情を作った。
「わかってます。元の世界に帰るんですよね」
「……ごめんな」
「まったく。ジン先輩はいつも、自分勝手なんです」
「……ごめんな」
「旅が終わった後も、一緒にいてくれるって言ったじゃないですか」
「……ごめんな」
「わたし、すごく楽しみにしていたんですよ」
「……ごめんな」
「もう修行しなくていいです。ずっとゴロゴロしてても、ガマンしようって決めたんです」
「……ごめんな」
「ガマンして、ずっと一緒にいようって、そう思っていたんですよ」
「……ごめんな」
「あと、この戦いが終わったら、ジン先輩に大切なお話をしようと思っていました」
「……ごめんな」
「ジン先輩……わたし、ジン先輩のこと――――」
聴こえたのはそこまでだった。
それ以上の言葉は届かず……涙を零しながら浮かべてくれた最高の笑顔だけが、脳裏に焼きついた。
「…………ありがとう」
言葉が聴こえずとも、何と言ったのか解る。だから、そう返事をした。
俺の胸にあるのは、この二十年の人生で起こった全てに対する、深い感謝だけだ。
そんな暖かな気持ちに包まれたまま、俺は光になった。