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第四章 死の洞窟




「はっ……! はっ……!」

 常夜の闇を全力で駆ける。

 俺とエーラは真の意味で《闇の森》を攻略していない。なぜなら、俺たち二人が足を踏み入れる際は必ず、森に光があったからだ。

 その代償をこんな形で払わされることになるとは、夢にも思わなかった。

「わっ!? 痛っ……!」

 もう何度目になるだろう。巨木の根に足をとられ、派手な音を立てて転んでしまう。

本来ならどうってことないのだが、今の俺はカンストしている《素早さ》に物を言わせて全力疾走している。そのため、ただ転ぶだけでも大ダメージになってしまうのだ。

 辿り着く前に自滅とか勘弁してくれよ……と願いながら、擦り剥いた足に《ハイポーション》を振り掛け、すぐにまた走り出す。背中に背負った布袋の中で無数の剣がぶつかり、ガチャガチャと音を立てた。

 時刻は午前0時前。

 このペースで飛ばし続ければ、ギリギリ間に合う可能性がある。もし《闇の森》エリアまで侵入を許してしまえば、相手に地の利が働き、とてもじゃないが対抗できなくなる。

 あの後――真っ赤になって寝たふりを続けるエーラを放置して階下に下りた後――俺は、サクラちゃんのお母さんからとんでもない話を聞いた。

《死の洞窟》にいたあの悪魔は、基本的にあの場所を動くことができない。それは、あの悪魔が《ドラゴン》から直接、その場所を守るように言われているからだそうだ。

しかし、そんな悪魔が唯一、動くことを許される夜がある。

それが『満月の晩』――今夜なのだそうだ。

 悪魔はその夜、洞窟から森を抜け、《クルエール村》までやってくる。その悪魔に『生贄』を差し出さなければ、村をめちゃくちゃにされるらしい。そのため《クルエール村》には、満月の晩の度に生贄を差し出す風習があるらしい。

 そして、今夜の『生贄』は――――サクラちゃんだと聞かされた。

 聞いた瞬間、笑ってしまった。なんてレトロな設定なんだ。今時、RPGゲームにだってそんな設定は存在しない。どれだけチープで使い古された、ステレオタイプのストーリー展開だと思っているんだ。

 だけど、爆笑を続ける心とは裏腹に、俺は全然笑えなかった。

サクラちゃんが今夜、殺される?

あの悪魔に?

――――ふざけるな。

 無意識に強く、拳を握り締めた。俺の表情は哄笑ではなく、怒りによって歪められていたと思う。

だけど……どんなに強く怒りを感じても、あの悪魔の強さは俺とエーラが一番よく理解している。たとえ俺たちが《勇者》と《魔法使い》だったとしても、力が無ければただの人間だ。

 サクラちゃんのお母さんの話……お願いはもちろん、〝悪魔を倒してほしい〟ということだった。サクラちゃんを守ってほしいということだった。それは当然の願いだと思う。今の今まで……悪魔がやって来る晩になるまで俺たちに話さなかったことからも、相当悩んだのだと感じられる。

 だが、俺たちにどうしろというのか。

 俺とエーラがボロボロにやられ、逃げ帰ってきたことはサクラちゃんのお母さんも知っている。だから、俺たちにどうにかできる問題じゃないということは、サクラちゃんのお母さんにだって解っているはずだ。それなのに、俺たちに頼ってどうしようというのか。俺たちが悪魔に立ち向かったところで、サクラちゃんの前に死体が二つ増えるだけだ。

 心中には様々な思いが渦巻いていたが、俺は「わかった」とだけ答えた。

「サクラちゃんは必ず守る」でも「悪魔を倒す」でもなく、「わかった」と。

 これまで様々なハッタリをかましてきた俺だが、俺は『嘘』が嫌いだ。特に大事な場面で言う『人を傷つける嘘』には反吐が出る。ゆえに俺は、サクラちゃんのお母さんにそう答えるしかなかった。

 話が終わって部屋に戻り、ベッドに入った。

 エーラは本当に眠ってしまったようで、向かいのベッドからは規則正しい寝息が聞こえていた。その音に耳を傾けながら、俺はベッドの上に転がり、腕を組んで枕にした。

「どうする――――?」

 天井を睨みつけたまま無意識に零れたその問いに、俺の中で三つの答えが用意された。

 一つ目は、サクラちゃんのお母さんの頼みに「ノー」と答える。

 このままこの部屋で眠れば、俺とエーラはあの悪魔に出合うことなく朝を迎えられる。サクラちゃんのお母さんには恨まれるかもしれないけど、俺たち二人は命を永らえたまま、明日にでもこの村を去る。

 ……そんな選択をできるわけがない。

 後でそれを知ったエーラは深く傷つくし、俺だってサクラちゃんを見殺しにするなんてできない。よって、この選択肢は却下だ。

 ならば二つ目――サクラちゃんのお母さんの頼みに「イエス」と答える。

 俺は今からエーラを起こし、二人で《死の洞窟》へ向かう。そして、あの悪魔を倒す。

 ……でも、もし失敗したら。

 今度こそエーラは死ぬかもしれない。万全の状態だった前回、全く歯が立たなかった相手だ。それなのに今回は、完治していない傷を抱えたままの戦闘になる。

 危険すぎる。どう考えても。

 俺を庇って悪魔の鉤爪に引き裂かれたエーラの光景がフラッシュバックする。あの時はギリギリHPが残ったけど、次もそうなるとは限らない。

 俺の目の前で、エーラが死ぬ。

考えただけで頭痛がする。目の前が真っ暗になる。それだけは、絶対に駄目だ。エーラが死ぬくらいなら、俺が死んだ方がよっぽどいい。

加えて、エーラはさっき「もう旅をやめたい」と言っていたじゃないか。そんな気持ちになったエーラを……そんな気持ちになってくれたエーラを、再び戦場に連れ出すのか? そんなこと、できるわけがない。

 そうして結局、俺は三つ目の答えを選んだ。

選ぶしか、なかった。

 三つ目の答えは――――

「俺が……一人であの悪魔を倒すしかない……!」

 考えるだけで体が震える。

 言葉にした今は、失神して倒れてしまいそうだ。

 いくら俺でも、これを「武者震いだ!」と言えるほどハッタリは上手くない。今、俺が震えているのは……完全に、死の恐怖が原因だ。

 それでも、もうこれしか手がない。

 エーラを危険な目に遭わさず、サクラちゃんも守り抜く……そんな俺の個人的なワガママを通すには、俺自身がその身を削り、対価を支払うしかない。

 頼りない松明の灯で足下を照らしながら、全速力で真の《闇の森》を駆け抜ける。

「……できる。きっと俺には、できる……」

 俺のオリジナル呪文が虚しく闇に吸い込まれていく。

ハッタリとは、相手を威圧するためのものだ。どんなに素晴らしい呪文を詠唱しても、自分自身には全く効果がない。

それでも……自暴自棄になって夢幻を見ているだけ、というわけでもないのだ。客観的な事実として、可能性はゼロではない。

他の何でも勝負にならないが、たった一つの俺の取り柄――スピード。

 この世界ではどんなに脆弱な者でも、攻撃さえすれば1ポイントだけ相手にダメージを与えられるようになっている。そのため、エーラが23ポイントしかダメージを与えられない悪魔にも、俺の攻撃が1ポイントとしてカウントされたのだ。

 ならば、俺のやることは一つ。

 敵の攻撃を全て避け、敵のHP回数分――斬る。

 そうすれば勝てる。理論上、確かに勝てる。モンスターのHPは九九九でカンストすることがないため、下手したら一万くらいあるかもしれないが……その場合も、一万回斬れば俺でも倒せる。

 わかってる。自分でも、無茶苦茶なことを言っているのは解っている。

 だけどもう、これしかない。

俺のワガママ全てを叶える方法は、これしかないんだ……!

「はぁ……っ! はぁ……っ!」

 何度も転びながら、やっとの思いで辿り着いた洞窟の入り口。

 夜なのでエンカウントするモンスターも強力な奴が多いはずだったのだが……結局、ここに来るまで一度もモンスターに襲われなかった。

通常モンスターが隠れるほど、あの悪魔は怖いのだろうか。……怖いんだろうな。俺だって、できるなら二度と遭いたくない。

「…………」

 入り口で息を整えていると、内部から地震が伝わってきた。おそらく、あの悪魔がこちらに向かって歩を進めているのだ。

 俺は腰のポーチから《ハイポーション》を取り出し、半分ほど中身が残っていたそれを一息に飲み干した。その瞬間、上がっていた息が整い、十分に睡眠を摂った寝起きのように体が軽くなる。

こちらの世界に来て半年になるが、この《魔法》には何度もお世話になった。本当にありがたい。《エリクサー》なんかじゃなく、《ハイポーション》を持ち帰りたいくらいだ。

 続いて俺は腰の朱鞘から《一期一振》を抜き、その場で軽く振ってみた。基礎的な修行を続けていたとはいえ、三日間もグータラしていたので体が鈍っていてもおかしくなかったが、ステータス補正のお陰かそんな心配も必要ないらしい。

 刀を鞘に戻し、俺は《死の洞窟》へと足を踏み入れた。ボスのスペースまでモンスターが出現しないことは分かっていたので、漆黒の回廊を一気に駆け抜ける。

 そして……エーラと初めて来た時に立ち止まった、この洞窟で一番広いスペースまで辿り着いた。

初めて訪れた時には不在だった主が、精緻に造り上げられた雛壇の上で仁王立ちしていた。無駄と思えるほどに高かった天井は、この状態の悪魔にはぴったりの寸法だ。

 もう二度と見たくないと思っていたネームタグが表示される。

 ――――【DEMON OF DEVIL】。

 そのタグを見た瞬間、不意に、その名の真の意味が判った。

「は……ははは…………」

 あれは名前が被っていたわけではなかったのだ。

 英語が苦手なせいで、どちらも『悪魔』と訳してしまった。同じ言語に全く同じ意味の言葉が二つあるはずがない。当然『DEMON』と『DEVIL』には、それぞれ微妙に異なった意味があるのだろう。

 しかしこの場合、俺の愛する日本語には、こう訳すのが適切なのだ。

《悪魔の鬼》。

 見れば、頭こそ山羊の形をしているが、角を含めた諸所のフォルムは東洋の鬼にかなり近い。……そう。こいつは『鬼』なのだ。

「……まさか、こんなことになるなんてな……」

 半年前、アドリブでつけた自分の名が、状況に当て嵌まりすぎて笑える。

――――『鬼を裂く刃』と書いて、【鬼裂刃】。

 それは、俺とエーラの全ての始まり。

あの日、俺がエーラにハッタリをかましたからこそ、この大冒険が始まった。我ながら本当に稚拙なハッタリだったが、あれがなければ今の俺はエーラの隣にいない。

そして、それからずっと……今日、今、この瞬間まで、俺はハッタリにハッタリを重ね続けてきた。借金をし続けた。

そのツケを払う時が、ようやく来たのだ。

「――――――――」

「……うるせぇよ」

 一言も発さず、ただこちらを憤怒の眼で射抜く鬼にそう呟く。

 いつの間にか、体の震えが止まっていた。

 もう半端は許されない。俺がこの洞窟から生きて出るには、目の前の鬼を倒すしかない。

 俺のハッタリを、〝ホンモノ〟にするしかない。

「……来いよ。俺がテメーを――斬り裂いてやる」

 まるでその挑発が通じたかのように、鬼が一歩踏み出してきた。あの巨体で動きまで俊敏だったらさらに厄介だったが、最悪のケースだけは避けられたようだ。

 雛壇を一歩で降り、フィールド中央まで歩いてくる。そんな鬼を睨みつけながら、俺は背中の布袋をひっくり返した。中に入っていた無数の剣が足下に散らばる。

その数、十数本。これらの剣は全てモンスタードロップで、銘すらない脆弱な剣だ。

 ――――しかし。

「……挨拶代わりだ。受け取りなッ!!」

《腕力》がない分を助走による得意の《素早さ》で補い、足下にあったシンプルな剣を一本、鬼に投げつけた。

 刃は鬼の体に当たったが、鎧のような毛皮に弾かれ、突き刺さることもなく地面に転がる。そして……俺の生き写しのように脆弱な剣が、音も無く鬼のHPを1ポイントだけ奪った。

 間を空けず、次々に足下の剣を投げつける。その全てが鬼の毛皮に弾かれ、地面に転がる。全ての剣を投げ終わった頃に、鬼がフィールドの中央に辿り着いた。鬼から奪ったHPは20ポイント弱。

……これは恐るべき数値だ。なぜなら、レベル50アンダーで『へなちょこ魔法使い』なこの俺が、エーラの《ブリザードストーム》とほぼ同等の攻撃をしたことになるのだから。

「…………」

 弾かれた剣の位置をざっと確認する。バラつくように投げたつもりだったが、俺から見て右前方の方向に多くの剣が散乱していた。

 さあ――ここからが本番だ。

「……行くぜ」

 俺は鬼に向かって真っ直ぐに駆けた。

 当然、凶悪な鉤爪が俺の命を狙ってくる。巨躯全体を移動させる歩行と違い、鉤爪での攻撃は腕力や手首のスナップによって行われる。そのため、移動する速度とは比べ物にならないくらい俊敏だ。

 それでも――俺ほどじゃない!

「〝阻め〟っ!」

 鉤爪が眼前まで迫ったところで《エアシールド》を二重にして展開させる。

無論、そんな小細工がこの鬼に通用するわけはない。鉤爪は僅かに速度を落としたものの、当たり前のように貫通し、俺に襲い掛かってきた。一度目は驚愕のあまり固まってしまったが、知っていればどうということはない。

 俺は鉤爪を軽々と避け、鬼の左側――多くの剣が散乱する場所へと走った。すぐさま剣を拾い、鬼に投げつける。派手な効果音も断末魔も上がらない。だが、確かに鬼のHPが1ポイント減少した。

続いて迫る右の鉤爪を同様に躱し、剣を投げ、距離をとる。

 ……行ける。このまま、同じことを繰り返せば――

 そんなことを考えた時、これまで一定のペースを保っていた鉤爪の攻撃が止まった。

「…………!」

 すぐさまバックステップで間合いをとり、体を反転させると同時、鬼から離れる方向へと全力で疾走する。

 入り口まで辿り着いてから振り返ると……案の定、フィールド全体に黄色のブレスが滞留していた。目算で、鬼を中心に半径二百メートル程度。俺のMAXスピードなら四秒以下。七秒あれば確実に走れる自信がある。

 ――――怖くない!

「うおおおおおおおおおおおおっ!!」

 ブレスが薄まったところで戦闘再開。

鉤爪を回避し、落ちていた剣を三~四本まとめて放った。一本だけ外れてしまったが、他は毛皮に弾かれる。削られた鬼のHPはもちろん、1ポイント以上だ。

 このまま、永遠に投剣を続けてやろうと思った瞬間。

「――――――――」

 鬼が、落ちている剣を踏み潰した。

俺の分身にも思える剣が、ガラス細工のように粉々に砕け散る。

 偶然じゃない。赤い眼は、明らかに剣を睨みつけていた。どうやら、落ちている剣が自分にとって有害なものであるという認識ができたらしい。俺の世界のゲームでは、主人公が規定以上の剣を持つことも、敵モンスターがシステム外の行動をとることもできないが、この世界は違う。

どんなにファンタジーゲームに似ていたとしても、ここではこれが『現実』だ。

「くっ……!!」

 全ての剣を失う前に僅かでもHPを削るため、落ちている剣を拾い、投げ続ける。

 だが、先ほどまでほぼ命中していたはずの剣は、鉤爪に阻まれ、踏み潰されて消滅していく。

 鬼の行動パターンが変わった。ただ暴力を振り回すだけでなく、きちんと状況に応じて戦法を変えることが可能らしい。

「はぁ……っ! はぁ……っ!」

 腰のポーチから《ハイポーション》を取り出して一息に呷る。

 当然だが、どんなに俺の《素早さ》がカンストしていたとしても、体力がなければ意味がない。HPが全開でも運動量に比例して体力は削られていく。MAX値の《素早さ》を永遠に常用できるわけではないのだ。

 そして、今の俺は鬼の攻撃を回避する行動に加え、攻撃のためにも全力疾走してしまっている。体力の消費量は尋常ではない。

 飲み干した《ハイポーション》の瓶をその辺に放り投げ、戦場を確認すると……散乱していた剣は全て破壊されたようだった。これで残る武器は、俺が今握っている剣一本と、腰に装備したままの《一期一振》だけだ。

 当然だが、鬼のHPはほとんど減少していない。これで一割でも削れていれば希望も持てたが、やはり相手のHPは数千~一万はありそうだ。

 ……考えろ。

 ただ闇雲に剣を振り回していても勝てない。一万回斬れば確かに勝てるが、俺の体力と《ハイポーション》の残数を鑑みるに、一万回斬るほどの余裕は無い。

 せめて、2ポイント。

 一度の特攻で鬼のHPを2ポイント削れれば。

 しかし、二本の剣を同時に扱う技術や《腕力》を俺は持っていないし、とてもじゃないが剣で二撃を与える時間的余裕も無い。

「……そうか」

 その時、俺の脳裏に過ぎったのはキマイラ戦で編み出した《二重魔法》だった。

 俺の取り得はスピードだけだと思っていたが、この《二重魔法》はエーラには使えない。ということは、これも立派な俺の武器だ。

 俺が《二重魔法》を使える理由。

 通常の魔法使いよりも詠唱呪文が短く、異常なほど簡単だということ。

「――――――――」

 洞窟内に散らばる全ての剣を破壊し尽くした鬼は、標的を俺だけに見定めてこちらへ歩み寄って来ていた。

 その巨躯を睨みつけ、俺は全速力で走り出す。

 まるで五月蝿い虫でも払うかの如く、鬼が凶悪な鉤爪を振るってきた。

 これまではここで二重の《エアシールド》を展開していたが、今回はそれを行使しない。どうせ貫通され、僅かにスピードを緩めるだけの風壁など、使うだけ魔力が無駄だ。

 俺は、自分のスピードだけを頼りにギリギリのところで鬼の鉤爪を避け――その大木のような太い足に、右手の剣で一太刀を浴びせた。そして、そのまま鬼の背後へと駆け抜ける……直前で、小さな頃に遊んだ『鬼ごっこ』のように、手のひらで鬼の足に〝タッチ〟する。

「〝燃えろ〟ッ!!」

 零距離で放たれた火球が俺の手のひらと鬼の足の間で炸裂する。

「熱っ……!」

 本来はこんな距離で放つ類の魔法ではないため、俺自身にも反動のダメージが入った。

 そして、火球が炸裂した反動で俺の初動が加速され、鬼の背後へと一気に移動する。振り返って確認した鬼のHPは……確かに2ポイント減少していた。

 失念していたが、この鬼には〝零距離の魔法が効く〟のだ。

 初めて対峙した時、エーラの《メテオバースト》が無効化された衝撃で、無意識に魔法の使用を制限していたが……あの時、エーラ自身が言っていたではないか。〝零距離以外の魔法を無効化する〟と。

強力な大魔法が使えるエーラからすれば大問題だが、《ファイヤーボール》と《エアシールド》しか使えない俺には大して関係ない。もちろん、反動のダメージは生じてしまうが、必要ならば零距離でどんどん魔法を使ってやればいいのだ。

 自分のHPバーを確認してみると、反動で一割ほどHPが減少している。我ながら『へなちょこ魔法使い』の《ファイヤーボール》で一割もHPが減少するのは情けなかったが、それでも実用性の高い戦術だ。

 背後に駆け抜けた俺を鬼が振り返った。心なしか真紅の眼に『怒り』が増しているように思える。

 だけど――俺がやることは一つだけだ!

「うおおおっ!!」

 俺は再び鬼の下へ駆け、鉤爪を躱し、剣で斬りつけ、火球を零距離で見舞った。

 これまで《ファイヤーボール》を使用する際には両脚をしっかりと踏ん張っていたが、今回のように敵から離れる際には優秀な加速装置となることが判った。HP全体の一割ほどダメージは受けてしまうが、一瞬でMAXスピードまで加速するため、鬼は俺を捉えることができない。

 同じ要領で五回ほど攻撃を行った後、鬼から十分に距離をとって二度目の回復を行った。半分ほど《ハイポーション》を飲み、残りは負傷した体に振り掛ける。

「――――――――」

 鬼が全身から怒りのオーラを発生させ、こちらへ歩み寄ってくる。

 突破口が開け、このまま2ポイントずつダメージを与え続ければ勝てるような気がしていた俺だが……その考えは、己のポーチを見ることで改まった。それでもまだ、《ハイポーション》が足りない。

 まだ十本以上あるが、このまま体力の回復と怪我の回復を行っていたのでは確実に持たない。与ダメージを2ポイントにすることで戦闘時間を加速度的に低減することができたが、それに対する《ハイポーション》の消費量はあまり変わっていなかった。

 なにか……さらなる方法を考えなければ……。

 思考の海に溺れかけたところで、鬼がかなりの距離をこちらに詰めてきていた。

 俺はすぐさま鬼の下へ駆け、また同じく剣と火球による攻撃を行おうとし――

棒立ちになっている鬼の姿を見た。

「なっ……!」

 ブレスを警戒して急ブレーキをかけたのがまずかった。鬼はあえて自分から攻撃せず、俺から仕掛けるのを待っていたのだ。

 俺を近距離まで誘い出し、そのタイミングで鋭い鉤爪が襲い掛かってきた。

「――っ!! 〝燃えろ〟ッ!!」

 右手の剣を放り出し、迫り来る鉤爪に対して唱えたのは、二重の《エアシールド》ではなく、二重の《ファイヤーボール》だった。

 足を踏ん張ることもせず、見ようによっては投げやり気味に放たれた二重の火球は、もちろん鬼の鉤爪に当たる寸前で消滅する。

 しかし、《ファイヤーボール》二発を同時に放った衝撃で、俺の体は数歩分後退した。そのお陰で、一撃必殺の威力を秘めた鉤爪が僅かに俺の体を掠めるに留まった。

 全身の体温がなくなってしまったと錯覚するほどの悪寒を感じ、それとは裏腹に足が動いて鬼から遠ざかった。激しい動悸を抑えながら確認したHPバーは……僅かに1ポイントだけ残されていた。

「…………」

 安堵のため息を吐くとともに、ようやく体温が戻ってくる。

 力が抜け、ごつごつとした岩に体を預けてしまった。そのまま、ポーチから《ハイポーション》を取り出して一気に飲み干す。本来なら傷口にかけるべきだったが、何よりもまず『HP残数1』という状況を脱したかった。

「――――――――」

 俺を殺す絶好の機会をふいにしたというのに、鬼は悔しがる素振り一つ見せない。

 ……あの鬼は学んでいる。

 今この瞬間も、俺という敵を把握し、確実に殺せる方法を模索し続けている。ならば、俺もあの鬼を上回るスピードで思考を続けなければ確実に殺られる。〝HPがなくなるまで剣と火球を浴びせればいい〟などという安易な考えは、もう通じないと見たほうがいいだろう。

 一つ前の《闇の森》エリアのボスだった《キマイラ》を始め、これまでのボスモンスターは、文字通り『モンスター』だった。知恵などは存在せず、ただ目の前の敵を倒すため、感情に任せて単調な攻撃を繰り返すだけの猛獣ばかりだった。

 だけど――こいつは、違う。

 こんな異形な姿をしていながら、この鬼は頭を使っている。

 あのエーラがやられたくらいだ。きっとこれまで、この鬼がやられたことなんてないだろう。俺なんて、ゴミにしか見えないはずだ。

 しかし、そんなゴミが倒せないとなると、当然のように頭を使って倒す方法を模索する。誰が見たってこの鬼よりも俺の方が格下だが、だからといって驕ることは決してない。感情に任せて暴れることもしない。

 ただ静かに、淡々と獲物を殺すことを考え、行動を起こしている。

 俺は初めてこの洞窟に入った時、『神殿のようだ』という印象を持った。その印象はやはり、間違っていなかったのかもしれない。この鬼は倒すべき敵で、なおかつエーラを傷つけた許し難いモンスターだ。だが……それとは別のところで、俺はこのモンスターを尊敬する。

 きっとこの鬼に試されているのは、俺の『力』ではなく『知恵』だ。

「…………」

「考えるな、感じろ」なんて、誰かが言っていた。

だけど、俺は違うと思う。『知恵』は人間が持つ最も強い武器だ。考えずに、自分の感じたまま闘って勝てる人間なんてのは、一握りの選ばれた奴だけだ。俺みたいに何の取り得もないゴミクズは、考えるしかない。

 そう。キマイラを前に《二重魔法》を生み出した時のように――

「…………」

 俺は腰の朱鞘から《一期一振》を抜き放った。

 きっと、あの鬼はもう二度と『剣と火球』のように二段階で攻撃する隙は与えてくれない。俺の攻撃にカウンターで鉤爪を合わせ、迎撃してくるはずだ。

 俺に与えられるチャンスは一度。

 その一度に2ポイントのダメージを与える方法は――

「うおおおおっ!」

 俺は、鬼に向かって駆け出した。

 鬼は悠然と佇み、ただ俺の攻撃を待ち構えている。足下に辿り着き、十分に引きつけてから、鉤爪での迎撃を狙っている。

その一瞬前に、一度だけ俺には先制攻撃のチャンスがある。

 俺は《一期一振》を上段から振り下ろした。

「〝爆ぜろ〟っ!!」

 刀が敵にヒットする前に、自分の刀に向けてオリジナルの《ファイヤーボール》呪文を詠唱する。

 根拠はなかった。ただ、そのように発声する必要があると考えた。

 そして……俺のイメージが現実となった。

刀が敵の足を斬りつける瞬間、その刃に紅蓮の炎が走る!

「――――――――」

 鬼は変わらず無言だった。

 それでも俺は、初めて悲鳴を上げたような気がした。

 炎を纏った刃は鬼の体を斬り裂き、その瞬間に爆発した。

 俺の体はその反動で一気に鬼から遠ざかる。《ファイヤーボール》を零距離で放った時以上の衝撃だ。俺を狙っていた鉤爪は虚しく虚空をさ迷った。

 後ろに吹っ飛び、岩を背後にしてようやく止まる。

 足下から煙を上げる鬼のHPを確認すると……21ポイントも減少している。エーラの零距離ブリザードストームとほぼ同程度の威力。

 もともと、俺の《ファイヤーボール》はエーラを含めた他の《勇者》・《魔法使い》が使用するものよりも威力が高い。それを二重で詠唱し、刀での斬撃と全く同じタイミングで炸裂させたのだ。個々の威力が低くとも、全てが同時に命中した場合のダメージは、単純な足し算では収まらない。

「……ありがちな技だけどな。でも、こっちの世界じゃ一度も見たことがない。……こういうのを《魔法剣》って言うんだよ」

 足下から煙を上げる鬼に語りかける。

 エーラの《ブリザードストーム》と同じに見えるが、その理屈はまるで違う。

エーラの大剣ミストラルには、それ自体の能力として吹雪の刃を生み出す力が備わっている。だから、エーラでなくとも《ミストラル》を装備した人間ならば、同じ攻撃を行うことが可能だ。

しかし、《一期一振》にそんな能力はない。俺が無理矢理、普通の日本刀に魔法を詠唱して《魔法剣》を創り上げている。よって、俺ならばエーラの《ミストラル》を使用しても《魔法剣》を創ることが可能だ。

 ゴールが――見えてきたぞ!

「らああああああっ!!」

 感覚を忘れない内にもう一度特攻する。

 鬼が迎撃で繰り出す鉤爪よりも速く接近し、炎が走る刃で斬りつける。

 そして、その反動で距離を――

「!!?」

 俺の攻撃は成功した。

 炎を纏った《魔法剣》での攻撃は、攻撃した瞬間に俺の体が衝撃で後退するため、その後の回避も楽に行える。そのため、敵の反撃についても心配する必要はない。

 だから俺が驚いたのは、敵の攻撃がヒットするからではない。

 その逆――鬼の攻撃が、あまりにも俺から遠かったためだ。 

 エーラの大剣ほどもある鉤爪で地面を掬うように切り上げると――硬質な印象を与えていた漆黒の床が面白いように抉れ、大小様々な破片が凶器となって俺に襲い掛かってきた。

 まともに喰らえば致命傷になりかねない攻撃だが、今の俺は《魔法剣》の反動で後ろに下がっているため大事には至らない。……しかし。

 ――ビシッ。

 俺の腰のポーチから、何かが割れるような嫌な音が響き渡る。

 鬼から距離をとってポーチの中を確認すると……案の定、《ハイポーション》を含めた回復アイテムの瓶が割れている。

「くっ……!」

 体力回復アイテムの残数、二本。麻痺などに対する解毒剤も数本残っているが、こちらでは体力を回復させることはできない。

 ……考えてやったのか、これを。

 だとすれば、本当にとんでもないモンスターだ。いや、最早『モンスター』などという呼称は相応しくない。こいつにはやはり、『強い者』という意味を込めても〝鬼〟と呼ぶのが適当だ。

 今後はもう、《ハイポーション》による体力回復は頼れない。

 正真正銘、俺の実力で勝負だ!

「うおおおおおおあああああああああ!!」

 真紅の瞳を煌かせながら俺を待つ鬼に特攻する。

 回復アイテムを破壊したことで強気になったのか、先手で鉤爪を振るってきた。ただ、これまでのような単体での攻撃ではなく、右手の一撃に時間差を置いて左手の鉤爪も迫ってきていた。

「――――っ!!」

 歯を食い縛って死の恐怖に耐え、スピードだけを頼りに紙一重で左右の爪を躱す。

 そして俺は、鬼の背後に駆け抜けるのではなく、大木のように太い左右の足に挟まれた鬼の股下に陣取った。

「〝爆ぜろ〟ッッ!!」

 鬼の右足を魔法剣で斬りつけ、反動で下がると同時に振り返り、左の足にもう一撃を見舞う。

 そしてまた、右足目指して駆け出した。

「――――――――」

 沈黙を保っているが、俺には分かる。

 苦しんでいるはずだ。鬼からは攻撃しづらい間合いで、かつて味わったことのない攻撃を連続で喰らっているのだから!

 鉤爪で攻撃することを諦めたのか、鬼は両手をだらりと脱力させた。

 その瞬間、俺には次の攻撃がイメージできた。

「〝爆ぜろ〟!!」

 俺は鬼の足ではなく、漆黒の床へと魔法剣を振り下ろした。

「――――――――」

 それとほぼ同じタイミングで、鬼が黄色のブレスを吐き出す。

 このままでは俺は麻痺によって動きを封じられ、鬼にトドメを刺されてしまう。この攻撃を先読みした瞬間、回避に打って出なかったのは、頭の中にイメージが浮かんだからだ。

 できるはずだ。今の俺なら。

この《魔法剣》なら!

「行けぇぇぇええええええええええ!!!」

 先ほどの鬼がそうしたように、俺の魔法剣によって漆黒の床が粉々に砕け散る。

 同時に破片と爆風が生まれ、黄色の吐息を吹き飛ばした。俺の周囲数メートルには麻痺効果のある吐息は残留していない。

 そして、鬼はブレスでの攻撃を行った後、数秒間行動が停止する。

「喰らえぇぇええええええっ!!」

 回復アイテムを失った事で、俺の中で何かが吹っ切れた。

 頭の中がスパークし、余計なことは一切思い浮かばない。ただ、鬼の攻撃を先読みするイメージ映像と、その対処法と、鬼を斬り裂くということしか頭にはなかった。

 右足を炎の刃で切り裂き、反動で左足に飛び、左足を斬り裂く。そしてまた右足へ――

「――――■■■■……」

 真っ白な思考の中、確かにその音を聴いた。

 いや、音ではない。『声』だ。エーラの高位呪文のようにノイズにまみれていたが、それは確かに悲鳴だった。

 自分の攻撃が有効であることを確信し、俺はさらに刀を振る速度を速める。

「――――■■■■……」

 何度が連続で斬撃を見舞った頃、鬼が再び奇声を上げ、膝を突いて倒れてきた。

 このまま股下にいたのでは潰されてしまう。俺は二重の《ファイヤーボール》を放ち、その勢いを利用して一気に間合いを開いた。

「――――――――」

 片膝を立てた状態で屈む鬼が、真っ直ぐに俺を睨みつける。

 姿勢を低くすることで先ほどのような連続攻撃を抑える魂胆だろう。奴も常に思考を続け、俺を殺す方法を模索している。

 かつてないほどの強敵を前にし、俺の体が震える。武者震いとはこのことだ。

「――――――――」

 再び特攻を仕掛けた俺に向かって、鬼がブレスを吐き出した。

 左右の鉤爪も微妙な時間差を置いて迫ってくる。全ての攻撃を合わせた三連撃!

 それに気づいた俺は、ポーチから麻痺の解毒剤を取り出し、頭から被った。普段ならこんな危険なことは絶対にしないが、感覚が研ぎ澄まされた今なら全てのタイミングが解る。

 麻痺効果のある吐息に当たり、その効果が発動。俺のステータスが『麻痺』になったのと同時、頭から被っていた解毒剤の効果が現れた。事実上、これで麻痺攻撃を受けなかったことと同義だ。

「うおおおおおおおおっ!!」

 先ほどよりも洗練された連携で襲ってくる鉤爪を避け、炎の魔法剣を――振るおうとした瞬間に、再び鬼が獰猛な口を開いた。

 鬼の口腔に見えるのは、紛れもない炎だ。今までに見たことのない攻撃。

……三連撃ではなかったのだ。

 四連撃――――!!

「――っ! 〝燃えろ〟っ!!」

 反射的に二重の《ファイヤーボール》で方向転換するが、直前まで全力疾走を仕掛けていたため、充分な体勢とは言えなかった。

 俺は鬼の炎こそ避けられたが、バランスを崩して床に倒れてしまう。そこは……鬼から一〇〇メートル程度の位置。チェックメイトがかかる距離だ。

「――――――――」

 俺の予想通り、次の鬼の攻撃は黄色のブレスだった。

 直前で解毒剤を取り出して頭から被ったため、回復は約束されているが……僅かなタイムラグが絶望的な結果を生む。

 ――――ここまでか。

 そんな考えが脳裏を過ぎった。

 俺なりに一生懸命頑張った。それでダメだったのだから、仕方ないじゃないか。

 この状況はもう『詰み』だ。

 まさかあの鬼が攻撃力のあるブレスを使えるとは思わなかった。……いや、あの鬼のことだ。きっと、最後の切り札――隠し技として、ここぞという時まで温存しておいたのだろう。そういう意味では、完膚無きまでに俺の負けだ。

 鬼の鉤爪が迫ってくる。

 最期の瞬間、俺の頭に浮かんだのは……エーラの、眩しい笑顔だった。


「ジン先輩ーーーーーーーーーーーーーーーーっっっ!!!!!!」


 全てを諦めて目を閉じた俺に、空間が裂けるほどの悲鳴が届いた。

 直後、俺の体を浮遊感が包み込む。

「がはっ!?」

 すごい勢いで硬質のものが背中にぶつかった。

 堪らず咽ながら目を開けると……俺はいつの間にかフィールドの出入り口付近まで移動しており、壁を背中に逆立ちしていた。どうやら、先ほどの衝撃は俺の背中に何かがぶつけられたわけではなく、俺自身が壁にぶつかったらしい。

 何が起こったのかと起き上がると――

「~~~~~~~!!」

 俺のすぐ隣を、小さな人影が転がるように吹き飛んできた。

 純白の法衣にミスリル銀の鎧。そして、小柄な少女の身の丈ほどもある大剣。

「エーラっ!?」

 俺が世界で一番好きな女の子を見間違えるわけはなかったが、それでも信じられなくて確認してしまう。

 派手に吹き飛んでいた少女はガバッと起き上がると、自分のダメージを確認することもせずにこちらへ駆け寄り、俺の顔を小さな両手で触ってきた。

「……よかった……。生きてる……。ジン先輩が……ちゃんと生きてます……」

 真っ白な頬を透き通った雫がいくつも伝う。

 どうしてエーラがここにいるのか。先ほどのダメージは大丈夫なのか。鬼の動向に注意しないと――

様々な思いが渦巻き混乱する俺とは対照的に、彼女の行動は迅速だった。

「《イージス・ウォール》!!」

 そう叫ぶと同時、フィールドを鬼と俺たちに分断する壁が出現する。クリスタル状のその壁は初めて見たが、見た目からして防御用の魔法なのだろう。

 壁が鬼の鉤爪を一撃受けても破損しないことを確認してから、エーラはようやく落ち着いて俺を振り返った。

 ――――パン!

 音と熱を感じた。

 何が起こったのか解らなかった。数秒の間を置いて……ようやく俺は、エーラが俺の頬を平手打ちしたのだと認識した。

「…………」

 唖然として振り返ると……エーラは怒りで顔を真っ赤にし、涙を流し続けていた。

俺は、彼女が本気で怒っているところを初めて見た。

 これまでの半年間、俺がエーラを怒らせたことは何度もあった。その度に半笑いで謝り、許しを得てきたのだが……手を上げられたことは一度もなかった。

 茫然と自分の頬に手をやり、エーラを見上げていると……エーラが膝を崩し、俺の体を抱きしめてきた。

「何を……やっているんですか……ジン先輩は……。自分が何をしているか、解っているのですか……?」

「…………」

 エーラの体は震えていた。信じられないほどに。

 声もかすれ、心底恐怖していることが分かる。

「……約束、したじゃないですか……。やっぱり、あれは嘘だったのですか……?」

 エーラがもう冒険を辞めたいと言ったこと。

 冒険を辞めても俺はエーラの魔法使いで、これからもエーラを守り続ける約束。

「……嘘じゃない。むしろ、俺は約束通り『エーラを守る』ために……」

「違います」

 即答すると、エーラは俺から体を離し、真っ直ぐに俺の目を見つめてきた。

「わたしが……わたしが約束してほしかったのは……。……これからも、わたしと一緒に……」

 そこまで言ったところで再び大粒の涙が溢れ出し、エーラは俺の肩に顔を押し付けた。


 ――――ズズン。


 この世界を根底から揺らすような音に二人して顔を上げる。

 壁の方を見ると……鬼が鉤爪と炎のブレスで《イージス・ウォール》を破壊しようとしていた。

「……話は後にして、今は逃げましょう」 

 俺を立ち上がらせようとして握ってくれた温かい手を……俺は決死の覚悟で手放す。

 不思議そうにする顔を見て、エーラが事情を把握していないことを悟った。

「エーラ……ここには、どうやって?」

「……夜中に目が覚めたら、ジン先輩がベッドにいないじゃないですか。それで、サクラちゃんのお母さんに尋ねたら……《死の洞窟》に行ったかもしれないって……」

「……そうか」

 それで、《クルエール村》を飛び出してここまで来てくれたのか。

 それは本当にありがたい。もしエーラが来てくれなかったら、俺はあそこで死んでいた。

 だけど……俺はここを離れるわけにはいかない。あの鬼を倒さない限り、今夜、《クルエール村》の人達が殺されてしまう。

 俺はエーラに全ての事情を説明した。

 鬼が自由に動ける晩のこと。《クルエール村》の風習のこと。今夜の生贄がサクラちゃんのこと。生贄を差し出さないと村全体をメチャクチャにされてしまうこと。

 聴き終えたエーラは唇を噛んで俯いていたが……しばらくして考えがまとまったのか、毅然とした表情で顔を上げた。

「ジン先輩は……わたしとサクラちゃん、どっちが大切なんですか?」

「…………」

 聞いた瞬間、不謹慎にも苦笑いを浮かべてしまった。

 だって、そんなセリフはあまりにもエーラに似合わなかったから。

 その証拠に少しの間沈黙して待つと、意識して無理矢理作ったと思われる厳しい表情が跡形もなく崩れ去った。

「……ごめんなさい。ずるいですよね、こんなこと言うの……。でも……あの悪魔は、わたしたちでは倒せません。ここでわたし達が頑張っても、わたしと……ジン先輩が、サクラちゃんの前に死ぬだけじゃないですか」

 正しい事実をありのままに語っているはずなのに、エーラの視線は泳ぎ、あらぬ方向に向けられていた。そして、どんどん目線が下がり、俯いていく。

 エーラ自身も『らしくない』ことを言っているのは自覚しているのだろう。

 これまでだってこんなことは何度もあった。その度にエーラは、どんなに自分が不利でも、自分の身を投げ出してでも見知らぬ他人のために尽くしてきた。

 そんな彼女が今回、突然『らしくない』ことを言い出した理由が俺には解らなかった。

 ステータス上の不利を排除しても、これまでだって違った形でのピンチはいくらでもあった。それなのに、今回に限ってこんなことを言うのはなぜなのか。

 それほどまでに、エーラはあの悪魔――鬼に、恐怖を感じているのだろうか……?

「……わかった」

「……本当ですか?」

 反射的に顔を上げたエーラに、俺は残酷な言葉を贈る。

「あの鬼は俺が一人で倒すから、エーラは一人で帰ってくれ」

 エーラの体がよろめき、瞳が不自然に揺れる。

 激しいショックを感じているらしいエーラに、俺は慌てて付け加えた。

「いや、エーラが助けに来てくれたことには心から感謝してる。……だけどさ。やっぱり俺は、サクラちゃんを見殺しにはできないんだ」

「ジン先輩は……わたしよりも……サクラちゃんの方が……」

「違うよ」

 何を言っているんだ、この馬鹿デレラは。

 俺がエーラ以外の人を一番にするわけないのに。

「エーラのためだ。……ここでサクラちゃんを見殺しにしたら、エーラは絶対に後悔する。すごく傷つく。一生、罪の意識を感じながら生きていくことになる。……俺は、エーラにそんな思いをさせたくない」

 もちろん、サクラちゃんを助けたいという気持ちもある。

 だけど、やっぱり一番はこれだ。他の誰でもない、エーラのためだ。

 もし今、俺の隣にいるのがエーラでなかったら……俺は、こんな化け物と一騎打ちする決意なんてできず、とっくの昔に逃げ出していたに違いない。

「わたしの……ため……」

「当然だろ」

 言葉の意味を反芻するエーラに優しく囁く。

 俺が頑張るのは、全部君のためだ。

 俺にたくさんの〝ホンモノ〟をくれた、大好きな君のためだ。

「……それにさ。あいつ、悪魔であると同時に『鬼』なんだ。……覚えてるか? 『鬼を裂く刃』と書いて【鬼裂刃】。俺には、鬼を斬り裂く力があるんだよ」

「だって……それは……」

「……ハッタリじゃない。本当だ。これは、嘘じゃない」

 そうだ。きっと俺には、鬼を裂く刃がある。

 俺は目の前の鬼を斬り裂くことができる。

 きっと。

 俺の力は〝ホンモノ〟だ。

「だけど、その力を使うには少しだけ時間がかかる。だから……十秒だけ、あの鬼の攻撃を食い止めてくれないか?」

 正直、信じてもらえるなんて思わなかった。

 エーラが他人を信用しない人間だというわけではない。エーラに信用されなくても仕方ないほどに、俺がハッタリを重ね過ぎたから。銀行だって借金まみれのニートにお金を貸すことはない。

 それでも、エーラは。

「……はいっ!」

 と、半年前の出会いを彷彿とさせる笑顔で快諾してくれた。

 ……わかってる。俺が特別じゃないっていうのは、解ってる。

 エーラはこういう人間なのだ。頼みや信用を拒絶するという選択肢が、前提として存在しない。だから、これまでだって何度も俺のハッタリに騙されたし、今のお願いだってイエスと答えるしかない。

 それでも、その期待を裏切るかどうかは俺次第だ。

 ガシャァァァアン、と。

 まるでそのタイミングを見計らったように、鬼が《イージス・ウォール》を破壊した。

「頼む、エーラ! きっかり十秒でいい! 持ち堪えてくれっ!!」

「はいっ!」

 小さな少女が身の丈もある大剣を振りかざし、鬼に向けて駆け出した。

 その姿は半年前のものと全く同じに見えた。……だけど、違った。体は微かに震え、モンスターに向かう足取りは僅かに重い。傷が完治していないので当然だ。

 俺は半年前、この少女が十秒の時間を稼ぐ間、あたふたしているばかりで何もできず、少女の期待を裏切ってしまった。

 だけど――今は違う。

 今の俺は、半年前の俺じゃない。エーラと共に大冒険をし、数々の修羅場を掻い潜ってきた。エーラからたくさんの〝ホンモノ〟をもらってきた。

 そんな俺が、こんな鬼ごときを倒せないわけがない。積み重なった借金は、今この場で利子をつけて返してやる。

 無論、今この瞬間、俺には鬼を打倒する力など存在しなかった。 

 俺は、今この瞬間、間違いなくニセモノだった。

 それでも、俺はもう二度とエーラに嘘をつきたくない。

 だから、ホンモノにする。

 これまでの俺のハッタリを。

俺のニセモノ全てを――――!!

「――――――――」

 鬼がエーラを標的に定め、鉤爪やブレスで攻撃する。

 いかに高レベルのエーラと言えど、あの鬼が相手では慢心できない。麻痺効果のあるブレスをまともに喰らい、癒えない傷を受ければ命に関わる。

 そんな恐怖を払いのけ、ただ俺を信じて必死に時間を稼いでくれている。そんなエーラの思いを、俺は絶対に裏切らない。

 俺の武器は何だ?

 スピード? 二重魔法? 魔法剣?

 そうじゃないだろう。

 俺の武器は〝この世界の人間ではない〟ということ。

 この世界の常識に縛られず、有り得ないモノを創り出す可能性を秘めていること。

 考えろ、あの鬼を斬り裂く刃を。

 無ければ創れ。俺の二十年の人生全てを使って。

 ヒントはあるんだ。《スピード》、《二重魔法》、《魔法剣》。

 これだけ材料があって料理できないはずがない。

 そう。きっと、こうやって――――

「……十っ! お願いします、ジン先輩!!」

 エーラが一際強い斬撃を放ち、鬼から距離をとる。

 返事をするのももどかしく、俺は地を蹴った。 

 右手には、朱鞘の日本刀《一期一振》。

左手には、地面に転がっていた最後の剣を握っている。

 エーラから強斬撃を受けたためか、鬼は脚を折って倒れ、一時的に全身が硬直してるようだった。これ以上ない、絶好のチャンス。

「――〝疾れ〟」

 静かに発声した俺の呪文によって、両手の刃に《エアシールド》が巻き付く。

風の《魔法剣》。

《エアシールド》は防御用の魔法だ。攻撃用の《ファイヤーボール》と違い、風壁で攻撃したところでダメージは知れている。

 それでも俺は、右腕を精一杯振り上げ、《一期一振》で鬼の腹を斬った。

 通常、斬撃は対象物体に接触する直前が一番速い。それがどんなものであれ、対象を斬り始めれば摩擦などによってエネルギーを失うからだ。

 しかし今、俺の刃には薄く鋭い《エアシールド》が展開されている。《エアシールド》で生み出される風壁は、『あらゆる斬撃・魔法・物体を弾く』という性質を持っている。そんな風壁が両の刃を薄く包み、『風の刃』として鬼の体を斬る。実際の刃は対象に触れることがなく、それゆえ摩擦なども発生しない。そして、鬼を斬った風は鬼の体を弾く。

……そう。つまり、この『風の刃』での斬撃だけは、上述の理から外れた性質を持つことになる。

《風の魔法剣》での斬撃。……それはむしろ。


 ――――加速する!!


 右手の斬撃で奪った鬼のHPは、1ポイントでこそなかったが、炎の魔法剣を大きく下回る一桁だった。

 だが、俺の体はまるで右手の刃に引っ張られるように回転し、左手の刃が鬼の体を斬り裂いて、さらに加速した。

 左の刃で与えたダメージは一撃目よりも断然大きい。

斬撃はパワーの他にスピードにも依存する。一撃目以上の速度で斬られたのだから、二撃目の威力が高まるのは当然だ。

 そして俺はその流れに逆らわないように体を一回転させる。

 サクラちゃんに教えたもらった舞のステップ。軸足に重心を残したまま他方の足を滑らし、スピードを殺すこと無く三撃目に連繋する――!

「うおおおおおおおおおおおおおっっっ!!!!!」

 そこからは無限ループだった。

 三撃目が鬼の体を斬り裂き、加速。

 四撃目が鬼の体を斬り裂き、加速。

 キマイラの火球すら耐えるほど高硬度な風の刃が、常識では考えられない速度で鬼の体を斬り裂く。

 ダメージは異常なペースで上昇を続け、五撃目で一〇〇〇ポイントを超えた。

 それでも止まらず、さらに六撃目・七撃目へと連繋していく。

 本来ならば鬼の反撃を警戒しなければならないが、事ここに至ればその必要もない。一撃で一〇〇〇ポイントもHPを奪う強攻撃を受けた鬼は、反動でコンマ数秒間の行動停止状態に陥る。そこに、さらなる斬撃がやって来る。こちらも無限ループだ。

 真っ白になった頭の中で微かに鬼のHPゲージが見えた。

 あれほど途方も無い長さに見えたゲージが、今は俺が一撃を与える度にガクン、ガクンと減少していく。

 ……これは、俺の力ではない。

 俺を信じ、時間を稼いでくれたエーラ。そして、俺にこのステップを教えてくれたサクラちゃん。二人の力が無ければ決して創造されなかった力だ。

 十撃目を放ったところで、俺は自分の体の限界を感じた。俺の体が俺自身のスピードに対応できなくなってしまったのだ。

 しかし、限界を感じているのは俺だけではない。

 最後の十一撃目を放つと、俺は静かに舞を終えた。

 技名が、自然と口から零れた。

「剣舞――桜散花」

「――――■■■■……」

 十一枚の桜花に斬り裂かれた鬼は、苦しげな奇声を上げながら光の粒子へと変換された。

 身体が大きかった分、光の粒子の量も尋常ではない。おそらく数百に及んでいるだろう。

 無限にも思える光の粒子は、深々と降り積もる粉雪か……風に舞う桜のように思えた。

 そんな光の中で数刻ぼんやりとしていた俺は、徐々に収束してきた風の刃を振り払い、無意識に鞘へと納める。もっとも、無銘の剣には鞘がないため、こちらは左手に握ったままという決まらないスタイルであったが。

 なんだか不思議な感慨に囚われたままエーラを振り返ると……。

「……………………」

 あんぐり、と口を開け、唖然とした表情でこちらを見つめていた。

 大剣を肩に担ぎ、今すぐにでもこちらへ飛び出してきそうな体勢だ。……俺を攻撃するつもりだろうか? 一撃で死ぬ自信があるので、絶対にやめてほしい。

 無事に鬼を倒せて『めでたし、めでたし』な状況なのだが、なんだろうこの空気は。照れくさいような、気恥ずかしいような、こそばゆいような……。

 だけど、すぐに口にするべき言葉を思いつく。

 半年前の記憶。

 俺はエーラの元へとゆっくり歩み寄りながら、最高の笑顔で胸を張り、宣言した。

「こんにちは。貴女の魔法使いで、〝お兄さん〟です」

 ……殴られた。





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