第三章 クルエール村
初めての敗走から三日が過ぎた。
俺はエーラを背負ったまま《死の洞窟》を戻り、《闇の森》を抜けて、再びサクラちゃんの村――《クルエール村》まで引き返した。
もちろん《死の洞窟》を抜けてすぐエーラにも解毒剤で回復してもらったのだが……状態異常やHPの数値よりも傷自体がかなり重く、「歩けます! いいから、下ろしてください!!」と騒ぐエーラをおんぶしたまま、再びサクラちゃんのお家をノックすることになった。
貸してもらえる部屋へ着くまで散々文句を言い続け、ベッドに寝かした後も「もうお嫁に行けません……」と人妻らしからぬセリフを呟いていたので、大事には至らなかったのだと思いたい。
ただ、それでも傷の具合は軽くなかったので、この半年で初めての休暇をとることになった。《闇》属性の傷は回復アイテムこそ効かないが、安静にしていれば自然治癒で少しずつ癒えていく。あの生真面目なエーラを寝かしつけるのには苦労したが、治療の方はあまり心配しなくてよさそうだ。
「ふわぁ~あ……」
そんなわけで、俺は今日も、あくびをかみ殺しながら薪割りをやっている。
森の中だけあって早朝の空気は清々しい。《闇の森》の一部であっても、朝露の光る木々は美しかった。
修行にうるさいエーラが療養中なので早起きする必要はなかったんだけど……習慣になってしまったのか、いつも通りの時間に目が覚めてしまう。さらに、早朝の修行もしなければ体の調子が悪いため、サボりたいという意思に反して修行も継続中だ。
俺はこの半年間で、すっかりエーラのペースに慣れてしまったらしい。なんだかそう考えると、エーラの何かが俺の中に生きているようで、照れるようなこそばゆいような、変な気持ちになる。
「もぅ、エーラったら。俺をこんな体にして……。責任とってよねっ!」
「せきにん?」
「…………」
デレデレしながら気持ち悪い独り言を呟いているシーンをサクラちゃんに目撃されてしまった。
「お、おほん。そうなんだよ、サクラちゃん? 大人っていうのはね、自分の言動に責任を持たないといけないんだ。だからお兄ちゃんも、常に自分の言動に責任をだね――」
「そうなんだー」
サクラちゃんがキラキラした目で見つめてくる。その純粋さが、今の俺には痛い。
この半年間、俺が言動に責任をもったことなど一度もなかった。むしろハッタリばかりで、積極的に責任をとらなかったことの方が圧倒的に多い。
なので、だらだらと嫌な汗をかきながら、必死に話題を逸らす。大人とは、非常に汚い生き物だ。
「さ、サクラちゃんは、こんな朝早くから何してるのかなー?」
「えっとね。こんど、村のお祭りで舞を踊るの。そのれんしゅう」
「そっかー。偉いねー」
「えへへー」
頭巾の上から頭を撫でてあげると、サクラちゃんは嬉しそうに目を細めた。
か……可愛いっ!
「エーラもこれくらい可愛げがあるといいんだけどなぁー」
「誰が可愛げないんですか?」
聞き慣れた声にさらなる嫌な汗をかきながら振り返ると、案の定と言うか、当然の如くエーラさんが立っていらっしゃった。……のだが。
「…………」
「確かにわたしは可愛げがないかもしれませんけど、言っていいことと悪いことがあると思います――……って、どうかしましたか?」
「……いや、なんつーか……」
俺が驚いたのは、エーラの格好のせいだ。
療養中なので当たり前だが、エーラは今、ミスリル銀の鎧を装備していない。純白の法衣も着ていない。この村の寝間着なのか、ワンピース形状のシンプルな衣服を身に纏っている。いつもはサイドで一房だけ編まれている髪も、全てストレートだ。
その姿は十七歳のエーラにとても似合っていて……端的に言って、見蕩れてしまった。
「綺麗だ…………」
「え? え? じ、ジン先輩……?」
「…………あ」
しまった。思わず本音が漏れてしまった。
真顔でハッタリをかませる俺はポーカーフェイスに自信があり、決して胸中を悟られないことを特技として自称してきたのだが……その看板も、今日で下ろさないといけないかもしれない。
「あ、いや、えっと……! ほ、ほら、その服! 綺麗だなー、と思って! 俺の世界には無いデザインだからさぁー!!」
「は、はあ……。そうですか……」
我ながら苦しい!
こんな単純なタイプの衣服が無いなんて信じられないし、実際、俺の世界ではワンピースが非常に近い。誤魔化そうとしたけど、全然誤魔化せてないぞ!
「そ、そうだ、エーラ。お前、なんで外に出てきてんだよ。ちゃんと療養してろよ」
「それはそうですけど……さすがに三日も寝たきりだと飽きちゃいますよ……。体力は万全なのですから」
唇を尖らせてそっぽを向くエーラ。
……やばい。可愛すぎる。
普段、鎧を着て剣を振り回しているからすっかり忘れていたけど……エーラって、俺の好みのタイプど真ん中だったのだ。この世界に来た当初はことあるごとにドキドキしたり見蕩れたりしていて、最近ようやく落ち着いてきたところだったのにっ!
「そ、そうだ、サクラちゃん! 舞の練習をするなら、ぜひ見せてくれないかなー?」
情けなかったが、このままだと色々ボロが出そうだったので緊急退避。
「いいよー」
そんな汚い大人(俺)の事情など知らず、笑顔で返事をくれたサクラちゃんがその場でくるくる回った。
余程練習しているのか、その動きには全く乱れがない。こう言っては何だが、小さな子供というのは普通に歩くのさえ危なっかしいのに、サクラちゃんの舞はむしろ、動きが鋭くさえあった。
「す、すごいね……。いや、お世辞抜きで本当に上手いと思うよ」
「えへへー」
照れているのか、頭に手をやって微笑む。ほっぺも桜色だ。
「どうやってるの? えっと……こう、かな?」
あまりにも美しい舞だったので、つい動きを真似てみる。……が、客観的に見なくても判るほど下手だ。全然スムーズに回れない。ただ回るだけなのに、こんなにも難しいとは思わなかった。
「違うよ、お兄ちゃん。こっちの足をがんばったまま、こっちの足を出すの」
片方の脚を小さな手でぺちぺち叩きながら、もう一方の足をふんわり動かす。
……なにその動き。
そんな挙動、人間にできるものなの?
「ジン先輩。軸足に重心を残して、反対の足には体重を乗せず動かすんですよ」
隣で見ていたエーラが補足しながら、サクラちゃんの動きを真似る。
ゆっくりとやってくれたので、俺にもなんとなく原理が解った。ほとんど片足で突っ立ったような状態から、もう一方の足を動かすわけか。
「……よっ。……ほっ」
お。今度は中々いい感じだ。
「それでねー。目が回るから、顔もそのままの位置でがんばるの」
エーラの教え方を真似したのか、サクラちゃんも今回はゆっくりと回ってくれた。
体が半回転する辺りまでぷるぷるしながら顔を同じ位置で固定。そして、限界が来た時に勢いよく元の位置まで一回転させた。
「へー! すごいな! そうすれば確かに、ほとんど前を向いていられるかも!」
理屈を理解したので、いざ実践してみようとするも……中々上手く行かない。
うーむ……。まあ、こんな動き日常じゃほとんどやらないしなぁ……。
「意識を顔の動きだけに集中すればいいんじゃないですか? 重心を残したまま一歩を踏み出すなんて、普段の戦闘で無意識にやっていることでしょう?」
そう言いながら、エーラは手刀を作り、一歩前に踏み込むと同時に手を振り下ろした。
その動きが見事すぎて、何も言えない。
この半年間、一日も欠かさず愛刀と共に戦闘を行ってきたが、そんなことを意識したことは一度もなかった。どうりでエーラの斬撃に比べ、俺の攻撃が貧弱すぎると思った。大剣であることや《腕力》などのステータスを考慮しても、俺の日本刀で与えるダメージは少なすぎる。
俺は、物は試しと刀を抜き、切り株の上に放置していた薪に向き直った。
正眼に構え、後ろに開いている左足で踏ん張って右足を前に出し、日本刀を振り下ろす――途中で、右足が突っ掛かって、前にコケた。
「……ジン先輩? まさかとは思いますが……今まで、ただ力任せに剣を振っていたわけじゃありませんよね? 一〇〇をギリギリ超えるかどうかの《腕力》を頼りにしていたなんて、言いませんよね?」
エーラの視線が痛い。
こういう時は、アレしかない。
「いやぁー! ボケだよ、ボケ! ほら、朝から笑顔だと一日中幸せになれるって言うじゃん?」
「……それはジン先輩の世界で、ですか?」
「そう、それ!」
「…………はぁ」
手で顔を覆い、エラーが深いため息を吐いた。どうやら、俺のハッタリは機能していないらしい。
誤魔化すように重心移動を練習しながらの薪割りを再開してみるも、突っ掛かったり狙いが外れたりで全然思うように行かなかった。
新しい修行のメニューが増えちゃったな……。
「あ。薪割りなら手伝いますよ」
足下にまだ割ってない薪があることに気づき、エーラが背中に手をやった。
「…………」
しかし、そこには涼しげなワンピースの生地があるだけだ。いつもの厳つい大剣は存在していない。
「……ぷっ」
「わ、笑わなくたっていいじゃないですかっ!」
「ごめん、ごめん。そういうの、俺の世界じゃ『職業病』って言うんだぜ。これは本当」
「まったく! 相変わらずジン先輩は意地悪ですねっ!」
恥ずかしそうにちょっと赤くなりながら頬を膨らませる。剣も鎧もないので、普通の少女のようで愛らしかった。
「あ。そうです。いい機会だからジン先輩の剣を貸してくださいよ。一度それ、振ってみたかったんです」
「いいけどさ……。体は、大丈夫なのか?」
「激しい運動じゃなければ大丈夫ですよ」
好奇心に満ちた目で両手を差し出すので、我が愛刀をその手に乗せてやった。
受け取ったエーラは「ふむふむ」とか言いながら、感触を確かめるように片手でヒュンと振り回す。……なんだろう。俺がどんなに力いっぱい振ってもあんな音は出ないので、すごく負けた気がする。
「それじゃあ、ちょっとお借りします」
重さはエーラの大剣よりも断然軽いはずだが、癖なのか、大剣を扱うように両手でしっかりと支え、下段に構える。それを見て、俺はなんとなく嫌な予感がし、すぐ傍でくるくると舞の練習を続けていたサクラちゃんを後ろへ下がらせた。
「えいっ!」
可愛い掛け声と共に生み出された斬撃は、全然可愛くなかった。
俺の愛刀《一期一振》の刃は、薪を割り、切り株を斬り裂いても止まらず、地面に突き刺さって十センチ近くも埋まってしまう。それだけでなく、あまりにも斬撃スピードが速かったために衝撃波が生まれ、正面の木々がプラスチックのオモチャのように撓った。
「わわっ……!」
エーラ自身も力加減が上手くいかなかった余波を受け、前につんのめる。
「ふう。軽いせいで、意外と扱いが難しいですね!」
「…………」
爽やかな笑顔で額の汗を拭うエーラの肩に、ぽん、と手を乗せる。
「……エーラ。お前は一生、軽い剣を使うな」
「どうしてですかぁっ!」
力のある人間は怖いが、力をコントロールできない人間の方がもっと恐い。エーラが軽い剣を振り回したら、隣でパーティーを組んでいる俺は数秒でデッドエンドだろう。
「あ、痛っ……!」
「エーラっ!?」
元気よくツッコんでいたエーラが突然胸に手をやり、体を丸めた。
押さえたのは見るまでもなく、悪魔から受けた傷に違いない。
「だから言っただろう……。完治するまでは大人しくしておいてくれ……。頼むよ……」
「すいません……。ちょっと痛みがぶり返しただけなので、大したことないです。……あはは。やめてください、ジン先輩。ジン先輩にそんな真面目な顔は似合いませんよ……」
そんな軽口を叩く間も、手は胸に添えられたままだ。
三日経ってかなり傷が癒えてきたとは言え、まだまだ全快にはほど遠い。
「そうかよ。それじゃあ、俺がそんな顔しなくても済むように、大人しく俺が薪割りしてる様子を見学しといてくれ。……早朝の修行だって、サボったりしないからさ」
「はい……。それじゃあ、お言葉に甘えさせてもらいますね」
健気にも無理な笑顔を浮かべたまま、少し離れた切り株まで歩いて、腰を下ろした。
エーラを心配させないためにも、俺はサクラちゃんがくるくる回る隣で一生懸命薪を割り続けた。
ところで、この半年間、俺が何をしてきたかを説明しようと思う。
それを説明するにはたった一言、一単語だけで事足りる。『冒険』だ。
それは決して比喩でも誇張でもなく、この半年間、ただ坦々と未踏破エリアの前進だけを行ってきた。もちろん、その道中で村があれば寄るし、怪しい雑貨屋・道具屋を冷やかすこともあった。その村特有のご馳走を食べたり、泊めてもらう村に住んでいる人達と交流を深めることもあった。他の勇者パーティーに出会ったこともある。
未踏破エリアの進撃に関しても荒野だったり湖だったり山岳だったりで景色は違うし、そこに生息するモンスターも違う。ボスモンスターの姿には毎回驚かされたし、時には盗賊などの人間を相手に戦うこともあった。
だけど、それも全て『冒険』だ。
俺――正確には俺とエーラの二人だが――は、この半年間、一日も欠かさず冒険をし続けてきたのだ。冒険をしなかった日は一日もない。エーラが馬鹿みたいに生真面目なせいと馬鹿みたいに強いせいで、一日も休むことなく、ただ前進だけをしてきた。
その間、楽しかったり辛かったり、嬉しかったり悲しかったりしたのだが……そういう感情の波に揺られっぱなしで、『何もない日』というのが一日もなかった。
毎日がジェットコースターのように痛快で、「今日は何が起こるんだろう?」とワクワクしながら生きてきた。
何が言いたいのかと聞かれれば、それも一言で事足りる。
つまり、今の俺はこれ以上なく、
「ヒマだ…………」
というわけである。
時刻は昼過ぎ。
サクラちゃんのお家で昼食を頂いた後、サクラちゃんの家で手伝える仕事を全てこなし、村中で仕事を手伝わせてもらい、それでも暇だったので魔法の修行に加え日本刀の素振りまで自発的に千回してしまったほどである。
そこまでしても太陽が僅かに頭上からずれただけという事実に愕然とした。これ以上、俺に何をしろというのか。
この村に引き返して一日目はエーラに付きっ切りだったし、二日目は村中で仕事をもらうことでなんとか凌いだ。しかし、さすがに三日目ともなるとそれも尽き、ついに俺は『勇者パーティーなのにプータロー』という究極のジョブを手にしてしまったのだ。
「ふわぁ~あ……」
……そんなわけで。
俺は今、《クルエール村》の近くにある小さな湖で釣竿片手に釣りを楽しんでいる。
いや、嘘だ。確かに釣りはしているが、別に楽しんではいない。元の世界にいた頃はボーっとして時間を過ごすなんて得意中の得意だったのだが、この半年間で俺は『動いてないと体が気持ち悪くなる病』に罹ってしまったようだ。どれくらい重症なのかというと、釣れない竿を握ったままその場でスクワットし始めてしまうほど末期である。
「……ほんと、変わったよなぁ」
そう思う。
こちらの世界に来てからまだ半年しか経っていないということが信じられない。それほどまでに濃密な半年間だった。元の世界にいた頃の自分がどんな人間だったのか、もう思い出すのが難しい。きっと今の俺とは性格も考えもまるで違うのだろう。
「……あー。確か俺、『木崎仁』って名前だったんだよなぁ……。んで、一人称も〝俺〟じゃなくて〝僕〟だったんだっけ……」
その辺のことを思い出す作業は五歳の頃の自分を思い出す作業とほとんど変わらない。とても朧で、蜃気楼の幻影を探すみたいだ。
エーラはひょっとするとカタカナ発音で『ジン先輩』と呼んでいるのかもしれないが、俺の理解としては『刃先輩』となっている。俺は『鬼裂刃』であって『木崎仁』ではない。『木崎仁』というパーソナリティーはどこかへ行ってしまった。
考えようによると、それはとても危険な状態なのかもしれないが……俺個人としては全然構わなかった。『木崎仁』であった自分や元の世界への未練は皆無と言っても過言ではない。実際、蜃気楼から拾い上げる過去の思い出を掬ってみても、それに価値があるとは微塵も思えなかったのだ。
幻影に映る自分は、死んでいた。
生物的にはきちんと生きているのだが、鏡に映る自分はゾンビのような眼をしている。そして、そんな自分に全く疑問を抱いていなかった。それが何よりも異常であったということが、今の俺にはよく解る。『生ける屍』とは、正にあの頃の自分を言うのだろう。
そして、どうして今の自分が昔の自分をそんな風に見ることができるのかということもはっきりしている。その理由もたった一言だ。『エーラが隣にいるから』。
……そう。この半年間、薄々と感じつつも一度も言葉にしたことがなかったが。
つまり、今、俺は――
「……幸せ、なんだな……」
無意識に口から零れたその言葉に、誰よりも俺が驚いた。
だって……有り得ない。他の誰かが、というならともかく、この俺が『幸せ』になるなんて……。
無論、幸せになりたいと思ったことがないわけではない。むしろ、元の世界にいた頃の俺はいつもそんな風に叫んでいたと思う。喉が枯れるほどに。あまりにも叫びすぎて、自分が叫んでいるのも忘れるほどに。
しかしそれと同時に、自分が幸せになれるなんて欠片も信じていなかった。「どうせ無理だ」と、口にすることもなく当たり前に思っていた。いや、思っていた、という言い方は温い。地球に重力が存在するように、自分が幸せになれないのは、〝当然だった〟。
それが、いつの間にか手に入っていたなんて。
「…………」
自分でも気持ち悪いという自覚はあるが、自然と口の端が歪み、ニヤけてしまう。
もうほとんど顔が思い出せない時宮に改めて感謝した。あの日、こちらの世界へ送ってもらって本当によかったと思う。あれが俺の、これまでの人生で一番の幸運だった。
「なにしてるんですか?」
その声で、自分が釣竿の先を見つめ続けていた事実に気づく。
そう。俺がボーっとするのが得意だったのは、確か、こんな風に思考の海に溺れるのが得意だったからだ。
「いや、べつに。ちょっと昔のことを思い出してただけだよ」
振り返りもせず、糸の先を見ながら答える。
この俺が、自分の幸せを聞き間違えるはずがない。
「へー! それって、ジン先輩が元の世界にいた頃のことですか? ぜひぜひ、詳しく聞かせてほしいです!」
回り込んで俺の右側に座ったのは、間違いなく世界で一番大切な女の子だった。普段は身長差のせいで遠い顔も、こうして座ればとても近くから見惚れることができる。療養中はずっとそれで過ごすつもりなのか、今も服装はワンピースで、髪も編んでいなかった。
……今なら、言えそうな気がした。
「その服と髪形、似合ってるな。可愛いよ」
「…………え」
湖面に映る秋模様と先ほどの思考でセンチメンタルになっていた俺だが、エーラは通常運転だ。俺の言葉が余程予想外だったのか、真っ赤になってフリーズし、頭から湯気を出した。
「な、な、な……!」
「なんだよ。既婚者なんだから、こういうことは死ぬほど言われているだろう?」
「い、い、いえ! 既婚といっても、式より前に王子様が攫われてしまったので、誓いのキスもまだですし、それどころか手を繋いだことすら……!!」
どうもパニクっているようで、訊いてもいない嬉しい情報を暴露し始めた。
悟りを開いた気分だったので、エーラが他の男と結婚しても陰から支えていく気分になっていたのだが……こうなったら是が非でも俺のものにしたくなったぞ。
「……聞かせてくれよ、【シンデレラ】の物語」
「え?」
「俺の世界にもシンデレラって話はあるけどさ。こっちの世界のシンデレラは……エーラは、違うんだろ?」
「はあ……それはいいですけど……。わたしじゃなくて、ジン先輩の昔話を聞くはずだったのに……」
「俺の世界では『他人に何か訊く時は、まず自分から話す』って風習があるんだ。エーラの昔話を聞いたら、俺も話すさ。……なーに、時間は死ぬほどある」
未だ頭上で燦々と輝く太陽を示すと、つられて空を見上げたエーラも苦笑した。彼女も時間の流れが遅いことに焦れていたのだろう。
「……こほん。それでは、わたしから昔話をさせて頂きますね。むかしむかし、あるところに、一組の夫婦と娘がおりました。娘は、母親に捨てられました」
「…………」
冒頭から超ヘヴィ展開だった。
「それでも娘は優しい父親がいたので幸せでした。ある日、優しい父親は娘に母親がいないのは可哀想だと思い、新たな女性と結婚しました。その女性にも娘が一人いましたが、二人ともとても優しい人でした。しかし、それまで懸命に頑張ってきた父親が体を壊し、流行り病で亡くなってしまいます。あとには、小さな娘二人という重荷を背負わされた、継母だけが残されました」
「…………」
「継母は若く、これから幸せになれる可能性を大いに持っていましたが、小さな娘達のせいで次の結婚が決まりません。継母は徐々に、娘をいじめるようになりました。継母の連れ子の方が年上だったため、二人は一番小さな娘をいじめました。娘をいじめることでストレスを発散した継母は、生気を取り戻していきました」
「…………」
「あ、あの、ジン先輩? 大丈夫ですか?」
「……ああ。大丈夫だ」
「い、いえ、だって、釣竿……」
手元に目をやると、釣竿が粉々に砕け、破片が地面に転がっていた。どんな超常現象が起こったのかと目を剥いたが、俺の右手には木屑がしっかりと握られ、鋭いものは手のひらに突き刺さっている。なんのことはない。俺が握り潰したのだ。
《握力》というパラメータもあるが、俺はほとんどいじっていない。そんな弱小ステータスでこんなことができるなんて、信じられなかった。
「お、落ち着いてください。あれはわたしも仕方なかったと思いますし……」
「……エーラがいじめられるのが、仕方ない?」
「…………っ」
息を呑んで距離をとるエーラ。
それでハッとなった俺は「……すまない」と即座に謝る。
我を忘れるほど怒りを感じた自分に、自分自身でも戸惑った。かつてこれほど『怒り』という感情を感じたことはない。エーラ本人に怒気をぶつけるなんて……なにをやっているんだ、俺は。
「え、えっと……。とにかく、大丈夫です。この後、ちゃんとハッピーエンドになりますから……」
《素早さ》と《視力》以外の全ステータスで俺に圧勝しているはずの少女は、なおも怯えた様子で言葉を続ける。レベル的には倍くらいも差があるのに、そんなに俺が怖かったのだろうか。
「あー……ほんと、すまん。自分でもよくわかんないんだけど、目の前が真っ赤になっちまって……。反省してる。続きを話してくれ」
これ以上怯えさせたくなくて、湖の対岸に視線を投げながら、謝罪とお願いの言葉を重ねる。初対面ならここで逃げられていたかもしれないが、俺たちには半年間もの時間を共有した過去がある。だからエーラも「……はい」と返事をしてくれた。
「それから数年経って、お城で舞踏会が開かれることになりました。継母と姉は着飾って家を出て行きましたが、小さな娘には舞踏会に着て行くようなドレスがありません。あったのは、お小遣いを貯めてなんとか買ったガラスの靴だけです」
「…………」
「娘はこの舞踏会が、今の生活を変える最大にして最後のチャンスだと思いました。友人や知り合いの家を回り、洋服屋さんに泣きついて、なんとかドレスを用立てようとします。しかし、惨めな娘にドレスを貸し与えようという人は一人もいませんでした」
「…………」
「途方に暮れ、広場に佇んでいた時……娘は、この国をモンスターの大群から守った《魔法使い》に出会います。そんな方にみすぼらしい娘が話しかけること自体、大変失礼なことでしたが、娘は躊躇なくお願いをしました。「ドレスを貸してくださいませんか?」と。枯れ草色のコートに身を包んだ魔法使いは穏やかな笑みを浮かべ、持っているお金を全て出して、街で一番高価だったドレスを貸し与えてくださいました」
「枯れ草色のコート……?」
「はい。ちょうど、今、ジン先輩が着ているのにそっくりなコートです」
俺は自分のコートを見下ろした。
このコートは初期装備だ。こちらの世界で手に入れたものではない。だからなのかは判らないが、このコートのデザインは元の世界に存在しているものにかなり近いように思える。こちらの世界では、こんなコートを着ている人間には一人も出会わなかった。
「ドレスを借りた娘は魔法使いにお礼を言い、舞踏会の開かれているお城を目指しました。その舞踏会でも数々の幸運に恵まれ、王子様と踊らせて頂きました。その時、午前0時の鐘が鳴ってしまいます。娘が借りたドレスは0時までに返却しなければなりませんでした。けれども、ただこの場を離れたのでは全ての努力が水泡に帰してしまいます。苦悩の末、娘が思いついたのは……階段の途中に、ガラスの靴の一方を残すことでした」
「…………え?」
「……ふふっ」
呆気にとられてぽかん、と口を開けて固まる俺に、エーラが悪戯っぽく笑った。
「そ、それじゃあ、エーラはわざとガラスの靴を落としたのか!?」
「そうです。そんなことしたら、その女の子が気になりますよね。一生懸命探して、見つかったら、運命だと思いますよね」
ちろっ、と舌を出して笑うエーラは可愛かったが、それ以上にその話は衝撃的だった。
これほど知略に富んだシンデレラは聞いたことがない!
「後日、王子様はガラスの靴の持ち主を探し、娘は見つけられました。そして、王子様の妃として迎えられることになったのです。しかし……式を挙げる前に、王子様は《ドラゴン》に攫われてしまいました」
「…………」
「そこで娘は《ドラゴン》を退治し、無事に王子様と結婚して幸せになりました。めでたし、めでたし」
ぱちぱち、とエーラが両手を合わせる。
なんと言うか……俺の知っているシンデレラとは随分話が違った。
いや、ラストの端折りも相当なものだが、それ以上に俺が衝撃を受けたのは、絵本のラスト周辺だ。小さな頃に読んだシンデレラは、数々の幸運に恵まれ、それを享受するだけのスーパーラッキーガールだった。
だけど……エーラは、違う。エーラはずっと、準備してきたのだ。
継母と姉のいじめに耐え、少ないお金を遣り繰りして靴を買い、チャンスを待って。それを掴むため、恥をかくことも厭わず走り回って、最後の最後まで頭を使って足掻き、あり得ないはずの未来を勝ち取った。それが理不尽に奪われそうになれば、今度は自力で奪い返そうとする。
……まったく。本当にこいつは。
「すげぇ奴だよ……」
その言葉は、感嘆のため息と共に吐き出された。
「あはは……すいません。ちょっと自慢話みたいでしたね」
照れくさそうに頬を掻くエーラ。謙虚な彼女も、さすがにこの『成功』には誇りを持っているのだろう。
…………『成功』。
そう。これは『成功』だ。
この物語のヒロインは『成功』であって、『成功』でしかない。
――――昔。
まだ俺が、小さな子どもだった頃。
おばあちゃんに初めてシンデレラの絵本を読んでもらった時に、ふと、素朴な疑問が浮かんだ。
その疑問の源は、強烈な違和感を発する最後の一文だった。
『こうしてシンデレラは王子様と結婚し、末永く幸せに暮らしました』
……本当にそうか? 本当にそうなのか?
そこには……何か一つ、とんでもなく大きな落とし穴が空いてないか?
「…………エーラ」
小さな頃からずっと感じていた疑問。違和感。
何の因果か、俺はそれを直接本人に尋ねる機会を手にしてしまった。
「お前……王子様を愛しているのか?」
笑顔で返事が返ってくるまで、コンマ一秒もかからなかった。
それはきっと、エーラにとっては当たり前のことだったのだと思う。
「愛してはいませんよ。でも『幸せ』になれるから、とっても嬉しいです」
「――――――――」
絶句した。
解る。今の俺には、解ってしまう。
今現在、真の意味で『幸せ』のピークにいる俺には解ってしまう。
今日まで異世界で過ごしてきて、驚くようなことがたくさんあった。俺が元いた世界との違いに何度も戸惑った。だけどこの問題は、そんなチンケなスケールの話じゃない。もっと根本的な……言わば、俺の世界とエーラの世界の根底に関わる相違だ。
エーラは、本当に、よく頑張ったと思う。
にわかには信じ難い話だ。俺が同じ境遇に置かれたとして、エーラと同じことができるとは到底思えない。俺でなくとも、エーラと同じことができる人間が何人いるだろうか。この世界にも、元の世界にも……そんな人間、一人もいないかもしれない。
だから『成功』だ。大成功だ。エーラは自らの手で奇跡を起こした。絵本ならここでハッピーエンド。「めでたし、めでたし」で背表紙を閉じ、次の本を読むなり、休むなりすればいい。
だけど、そうじゃない。たとえここが異世界だとしても、この世界は絵本じゃない。エーラは生きているし、生きているのなら続きがある。王子様と結婚して、継母や姉にいじめられなくなって、そこで「はい、終わり」とは、ならない。
人生は続いていく。ずっと、続いていくのだ。
確かに生活は楽になると思う。お金だって一杯手に入るだろう。なんてったって、一国のお姫様だ。毎日美味しいものを食べ、素敵なドレスを着て、好きなだけ踊り、たっぷりと眠るんだろう。――王子様と一緒に。
それがエーラの価値観だと言うのなら、俺も止めはしない。大好きな女の子を他の男に奪られるのは口惜しいが、それでエーラが幸せになれるのなら、血の涙を流しながらだって祝福してやる。
でも……たぶん、そうじゃない。
この半年間、ずっとエーラと一緒だった俺にはわかる。エーラは、普通の女の子だ。ちっこい体で大剣を振り回すけど、馬鹿みたいに生真面目で、ちょっとのことですぐ怒り、俺がハッタリをかます度に呆れ、恋愛関係の話題で赤面し、困っている人がいれば当然のように助ける……誰よりも優しくて魅力的な女の子。
そんな女の子が好きでもない男と結婚して、『幸せ』になれるとは思えない。
その先に――『幸せ』は無い。
「ジン先輩? どうしたんですか?」
黙ったまま脳内をぐるぐるさせていた俺に、エーラが心配げに声を掛けた。
「……いや、なんでもない。……エーラ、さ。エーラは……好きな人って、いる?」
「すっ、すきなっ!? そ、そんな人いるわけないじゃないですかっ!!」
いつものように真っ赤になり、まるで俺がセクハラでもしたかのように睨みつけるけど、俺が真面目な眼差しで見つめ返すと徐々に顔の火照りも引いていった。
そして視線を対岸に逃がし、両手の人差し指をこねくり回しながら、ぽつりと尋ねた。
「ジン先輩は……その。すっ、好きな、人っ……とか、いらっしゃるんですか……?」
「いるよ」
俺も対岸に視線を流し、あっさりと答える。
「いる。……好きなんてもんじゃない。『愛している』……そんな風にはっきりと思えるような女の子が、いるよ」
「…………」
エーラが固まった。やはり、恋愛関係の話題は得意ではないらしい。
突如訪れた静寂のせいで、森の音が一気に甦った。落ち葉が風に流され、湖面に舞い降りる音まで聴こえてきそうだ。
「あの……訊いても、いいですか?」
「……うん」
「好きって……どういう感じですか……?」
おそらくは頬を朱に染めているだろうから、隣は向かないであげる。湖に映る森の木々を見つめながら、自分の胸にある気持ちを飾らず言葉にした。
「それはきっと、人によってそれぞれだと思う。俺の場合は……隣にいるとドキドキしたり、その人が笑ってくれると嬉しかったり、その人を抱きしめたいと思ったり、キスしたいと思ったり、その人を『幸せ』にしたいと思ったり……これからもずっと一緒にいたいと思ったり、かな」
「そう……ですか……」
「そう。そんなことを四六時中考えてる。そんな毎日が……すごく、幸せなんだ」
「『幸せ』…………」
エーラがぼんやりとした口調でその言葉を繰り返す。
俺の想いが伝わったかどうかは判らない。だけど、この辺りが俺の限界だ。俺だってまだ二十年弱しか生きていないガキで、本当に大切なことなんてサッパリわからない。ひょっとしたら俺が間違えていて、エーラの方が正しいのかもしれない。
だから、後の判断はエーラに任せる。この賢いがんばり屋さんなら、きっと自分にとって最高の答えを導き出せるはずだ。俺は、それがどんな答えだったとしても受け入れようと思う。
これから先は、ただ見守ることにしよう。君を信じて。……君の、隣で。
「……う~~~~~」
未だセンチメンタルモードでカッコつけ続ける俺に対して、エーラは比喩なしで頭をぐるぐる回し、奇声を上げて唸った後……こてん、と俺の右肩に頭を預けた。
「…………え?」
俺、フリーズ。センチメンタルモードが消し飛ぶ。
なにこれ。なんのイベントシーン?
フラグはいつの間に成立したのでしょうか……?
完全に想定外だった状況に固まり、地蔵のようにカチコチになった俺の耳元で、エーラの声が囁くように響いた。
「……ジン先輩が難しいこと言うから、疲れちゃいました。責任とって、わたしの頭を休めるのに協力してください」
「あ、ああ。もちろんオールオッケーでございますでありますやんす押忍」
ちょっと待て。……ちょっと待て!
いやいや! 仕方ないって、バグるのは!!
だってエーラの体温を肩に感じるし、絹のような髪の毛からはクラクラするような甘い匂いがするし、耳をすませば零れる吐息の音色まで聴こえちゃったりなんかして、心臓が爆発寸前っていうかもう爆発しちゃってるでやんす押忍!!
「……そうだ。すっかり忘れていましたが、今度は、ジン先輩の番です。わたしはちゃんと話しましたよ?」
「おおお、俺のターン? そ、それはつまり、俺からエーラさんにアプローチしてもいいという、少年誌にありがちなご褒美シチュエーションってことですか!?」
「……なにを言っているんですか? わたしが話したら、ジン先輩も昔話をしてくれるって言ったじゃないですか」
「あ、ああー! 昔話ね! オッケー任せて、大丈夫!!」
「いえ……全然大丈夫じゃないというか、むしろ、とても不安なのですが……」
ツッコむために顔をしかめたのかもしれない。肩に乗せられている頭が微妙に動く。
それが俺には、エーラが俺の肩に頬擦りしているような感触として伝わって、さらなるパニックへと陥る。
い、いかん! この半年間、恋愛話題でエーラがパニクることはあっても、俺がパニクることなんて一度もなかったから、どうやり過ごせばいいのか全然わかんないっ!!
ていうか、十九歳なのに、好きな女の子から寄り掛かられただけで取り乱すとか、情けなっ! 中学生かよ、俺!!
「えええ、えっとぉー! それじゃあ、一体全体何からお話ししてしんずればよろしいでございやんしょ!?」
「ジン先輩、本当にどうし――いえ、そうですね。それじゃあまずは、ジン先輩の好きな人の名前と特徴を教えてください」
「任せてオッケー、楽勝よ! えっと、俺が好きなのは、エ――……!?」
「エ? なんですか?」
「…………〝絵〟を描くのが好きなんだよねー! 昔から!!」
「……。……。……そうですか」
あ・ぶ・ねーーーーーっ!!
こんな所でエーラの名前を出したらシャレにならん!
いや、別に告白するのをビビってるわけじゃないんだよ? でも、こんなぐだぐだな状況で告白してもいい返事がもらえるわけないし、そもそも俺は根っからのロマンチストであるからして、女の子は皆お姫様のように扱うべきというか、そういう主義というか、そんなコンプライアンスだし、うんたらかんたら。
「え、えっと……昔話ね、うん。昔話……」
「はい。……そろそろ落ち着きましたか? どうして取り乱していたのかは、わからないですけど」
……貴女様が原因でございます。
「ええと。じゃあ、俺のターンね。むかしむかし、あるところに――」
そこまで言ったところで、意図せず言葉が止まってしまった。
……何を話せばいいんだろう。いや、何を〝話せるんだろう〟。
釣りを始めた当初。そして、今。俺の二十年弱の人生を振り返ったけど……劇的なことなんて、何一つなかった。
話せることが何も無い。
――――空っぽだ。
「……あるところに、普通の少年がいました。少年は普通に生き、普通に死にました。めでたし、めでたし」
エーラがずるっ、とコケた。
右肩にあった幸せな温もりが消える。
「ちょ、ちょっと、ジン先輩! 冗談はもういいですよ~。そろそろ、ちゃんと話してください」
「いや、でもさ! 俺って『普通であること』をモットーに今まで頑張ってきたから! 特に話すようなことはないっていうかー!」
なんだ、そのモットーは。
なんだよ『普通』って。
嘘をつくんじゃない。それはお前が一番嫌いだったものだろう。だから将来の夢が『魔法使い』だったんじゃないか。
お前は一体、この二十年間……何をしてきたんだ。
俺は恥ずかしかった。エーラは自分の望む未来のために、自分の歩ける精一杯の歩幅で今日まで歩き続けてきた。それに比べて、俺は何なんだ。
ずっと何もせず、怠惰に生き。上手く行かないのを、世界のせいにして。
自分だけ被害者ぶって、一歩を踏み出すこともなく、今いる場所に留まり続けた。
『保留』し続けた。
本当に……何をやっていたんだ、俺は。
そんな空っぽの男が、エーラの……シンデレラの隣に立てるとでも思っているのか。
「……ジン先輩?」
黙り込んだ俺を、エーラが心配そうに覗き込んでくる。
「あの……すいません。どうしても話し難いのでしたら……」
「いや、そうじゃないんだ。……うん。ただ、やっぱり俺の世界ってこっちの世界とは全然違うからさ。どうやって話そうかと考えていて……。俺の世界ではさ、俺みたいに二十歳くらいになるまでは『学校』ってとこに通わなくちゃいけないんだよ」
嘘だ。そんな義務は無い。
ただ単に、なんとなく通わないといけない気がしていただけだ。
「そうなんですか! 『学校』って、どんなところなんですか?」
「学校は……えっと。将来働くために必要な知識を、勉強するところ、かな?」
「へー! ジン先輩の世界はすごいんですねー! ……あ、そうです。ジン先輩はどんなことを勉強していたんですか?」
「俺は……機械関係を……。……ああ、『機械』ってのがこっちの世界にはあんまりないけど、『機械』は……向こうの世界の魔法みたいなもんで――」
……嘘だ。
学校の勉強なんてどうせ役に立たないと、毎日授業を聞き流していた。
「それじゃあ、ジン先輩は向こうの世界でも《魔法使い》だったんですね!」
「……ああ、そうだな」
情けない思いを噛み締めながら、無理矢理に笑みを浮かべる。それが俺の、精一杯だった。
本当に……何をしていたんだろうか。
さっきまで温かだった右肩にエーラの温もりはなく。
なんでもなかったはずの秋風が、やけに冷たく感じられた。
サクラちゃんの家に帰ってからもずっと、エーラは俺の言葉の意味を考えているようだった。
それはまるで、難しい宿題を出された小学生のようでもあり、興味のあるオモチャで時間を忘れて遊ぶ子どものようでもあった。先ほどの夕食でも、パンを口に運びながらぼんやりとして狙いが外れ、ほっぺにちぎったパンを押し付けていた。
俺はといえば……まあ、落ち込むような事実に気づかされたりもしたけど、結局、「今が楽しいから、それでいいや」ということで保留した。
いや、ほら。過去はどんなに嘆いたって変わらないし、人は未来に向かって今を精一杯生きるべきだと思うんだよね、うん。……というのは建前で、本音を言えばエーラといるのが幸せすぎてまともに頭が回らないというだけなんだけど。
その事実は現在、より強調されている。
…………なぜなら。
「……あの、エーラさん? なぜワタクシこと鬼裂刃さんは、ベッドの上で貴女様を抱きしめているのでしょうか……?」
「…………」
二人でベッドに横になり、向こうを向いたエーラを背中から抱きしめている俺。
断っておくが、これは決して、俺が強引ぐマイウェイ的に若い青少年の迸るパトスを暴発させたわけではない。夕食を終えて借りている部屋に戻ると、エーラが「ちょっと傷が痛いので撫でてくれませんか」と言い、なぜか怪我をしていないはずの背中を指し示し、体勢が辛いから横になりたいと言い出し……エーラの要求に次々応えていると、あれよあれよと言う間にこんな状況になってしまったのだ。
背中越しに見えるエーラの顔は髪の隙間にある小振りな耳と頬くらいだが、どちらも大丈夫なのかと心配したくなるほど真っ赤だ。
状況を考えれば当然と言える。あの超純情少女なエーラがこんな状況に陥っているのだから、その程度で済んでいるのが不思議なくらいだ。……と思ったら、頭の上からリアルに湯気が出ていた。熱があるらしい。
「あの……エーラ。やっぱりさ、若い男女が一つのベッドの上って、危険が危ないと思うんだ。だから、そろそろ離していいでござい押忍?」
いかん。俺もそろそろ限界だ。
ていうか、よくここまで持ったものだと自分を褒めてやりたい。好きな女の子をベッドで抱きしめたまま待機って、世界中のあらゆる拷問よりも残虐だと思う。ある意味、死刑よりも辛い。
「……一応、もう少しこのままでお願いできますか……?」
…………なぜ。
一応って、なに。
言葉とは裏腹にエーラの体は微かに震え、羞恥で手や足まで朱に染まりつつあった。にもかかわらず、この状況を改善する意思がないとはどういうことなので押忍? ……かく言う俺も、モノローグがバグるほど『いっぱいいっぱい』なんだけど。
こういう時の定番は素数を数えるのだが、無駄に理系な俺は素数を数えるのがそれほど苦にならない。だからここは、エーラの好きなところを数えることにしよう。
一つ、可愛いところ。二つ、優しいところ。三つ、ちっこいところ。四つ、笑顔が……ってこれ、完全に逆効果じゃねーかっ!!
俺が心中で一人ボケツッコミしている間もエーラは沈黙し、ただ俺の腕の中で固まり続けた。
いかん。これは本当に、マジで危険が危ない。エーラのおへそ辺りでクロスされている俺の手が、次の瞬間、全く別の場所にスライドしてもなんら不思議がない状況だ。というか、むしろそっちの方が自然な流れの気さえする。
とにかく会話だ。エーラがそういうつもりでない以上、色恋沙汰以外の普通の会話をして、なんとか煩悩様にはお帰り頂く他ない。
「そ、そういえば、今日の昔話、ラスト周辺は端折られまくってたけど、エーラが《勇者》のジョブを手にして冒険し始めた辺りのこと教えてくれよ!」
「は、はい!? 全然おっけーですよ!?」
エーラもこの雰囲気に耐えられなかったのか、適当に投げた話題に食いついた。
ならばなぜ、この状況を維持しようとするのか。謎は深まるばかりだ。
「わたし、王子様が《ドラゴン》に攫われたって聞いた時、本当は旅に出るかすごく迷ったんです。だって、怖いですし」
「…………怖い?」
これはまた、エーラとは縁遠い単語が出たものだ。
これまで数多のモンスターや盗賊なんかと戦闘をしてきたが、エーラが苦戦したことなんて一度もなかった。それどころかむしろ、『敵が善戦したことが一度もなかった』と表現した方が適切なくらいだ。もっとも、その驚異的な記録も先日の悪魔のせいで止められてしまったんだけど。
しかし、だからといってエーラの評価が下がるなんてあり得ない。バグっているのは、あの悪魔の方なのだから。数々のステータスはもとより、レベル自体がカンストに近いという事実がそれを証明している。
「……ふふっ。ジン先輩と出会った時は、わたしが旅に出てから大分経っていましたからね。そのせいで多少余裕があったのですが……最初はわたし、村の近くで《イージーラット》ばかり倒して経験値を稼いだんですよ? ……そうですね。きっと、レベル50くらいまでは全部の経験値ですね」
「レベル50!?」
レベルのカンスト数値は確か、99だったはずだ。
そして《イージーラット》は、その名の通りかなり簡単に倒せるモンスターで……俺の知る限り、この世界で一番弱いモンスターだ。きっとサクラちゃんでも余裕で勝てる。その代わり経験値はスズメの涙なんだけど。
「《イージーラット》だけでレベル50って……一体何千匹倒したんだよ……。時間だって相当かかっただろ」
「そうですね。ほとんど寝ずに頑張ったのですが、三ヶ月くらいはかかったかもしれません」
むしろ、たった三ヶ月で達成できたことの方が驚くべき事実だ。
俺なんか、半年間エーラの隣で良質な経験値をもらっていたのに、未だにレベル50以下だし……。
「……本当は、冒険なんてしたくなかったんです。でも王子様が攫われたままだと、わたしは元の生活に戻るしかなくなってしまいます。だから……本当に仕方なく、泣きながら頑張ったんですよ?」
後ろからでも、苦笑しているのが雰囲気で分かった。
「そうだったのか……。いやしかし、俺には全然そんな風には見えなかったなぁ……。いつも勇敢に強いモンスター目掛けて突撃しているイメージしか……」
「それはそうですよぅ~。だってわたしが頑張らないと、ジン先輩なんてすぐに死んじゃうんですから」
苦笑している雰囲気が拗ねている雰囲気に変わる。口先でも尖らせているのかもしれない。
「いや、それはまあ、なんというか……本当に面目ない」
「ジン先輩を高レベルの魔法使いと勘違いしちゃって、うっかりパーティーに誘ったわたしにも責任はありますけどね。……でも。ジン先輩がそんなだったお陰で、わたしは勇気を出すことができました。だって、わたしが死ぬより、ジン先輩が死んじゃうことの方が怖いんですから」
エーラの前で組んでいた俺の手に、小さな手が重ねられる。
あの日の悪夢を思い出したのか、その手は微かに震えていた。
「本当に……本当に、怖かったんです。いつも……いつも……。特に、あの時は……」
俺も組んでいた手を離し、両手でエーラの手を包み込んだ。
……わかってる。別に、俺がエーラにとって特別な人間だというわけじゃない。
今日までの旅の途中、エーラは困っている人たち全てを助けた。だからきっと、今、エーラのパーティーにいるのが〝たまたま〟俺だっただけで、俺以外の奴が仲間だったとしても、エーラはそいつのことを心底心配したはずだ。
だけど……それでも俺は嬉しかった。
ずっと足を引っ張ってきて、邪魔ばかりしてきて……俺はエーラにとって完全にお荷物だったから。ひょっとしたらとっくの昔に嫌われていて、「早く脱落しろ」なんて思われているんじゃないかとビクビクしていたのだ。
もちろん、エーラはそんなことを思うような女の子じゃないけど、そう思われても仕方ないほどに、俺は迷惑をかけてきた。
「……ごめんな、心配かけて」
そんなありきたりの言葉しか言えない自分が情けない。
少しだけ沈黙が落ちると、僅かに鼻をすする音が聞こえてきた。
……泣いているのだろうか?
俺がいなくなっても、困ることなんて何もないのに……。
そんな風に自嘲していると、エーラがゆっくりと口を開いた。雰囲気だけで、大切な話をするつもりなんだと解る。
「……ねえ、ジン先輩。わたしのお願いを……ワガママを、聞いてくれませんか……?」
「……うん」
「ひどいワガママです。こんなことを言ったら、ジン先輩はわたしのことを軽蔑して、嫌いになってしまうかもしれません。それでも、どうか……わたしのことを嫌いにならないでください……」
「俺がエーラのことを嫌いになるわけないだろ」
嘘じゃない。
たとえこれまでの全てがハッタリだったとしても、今のセリフだけは純度百パーセントのホンモノだ。
「もう……旅、やめませんか……?」
「……わかった」
「あの悪魔は、わたしたちでは倒せません」
「……わかった」
「わたしはもう……ジン先輩が危ないところなんて、見たくないんです……」
「……わかった」
「だから……もう《ドラゴン》退治は諦めます。わたしの村に戻ってもいいことはないので、この村か……ダメならどこか、遠い村で静かに暮らしたいです」
「……わかった」
「それで……もし……もしよかったら……。……ジン先輩にも……つ、ついてきて、ほしいです」
「……わかった」
「…………ほんとうに?」
背中を向けていたエーラがころり、と寝返りを打った。俺の腕の中で半回転して向き直る。涙で光る綺麗な瞳が、丁度俺の目の前にやってきた。
「これだけは……嘘ついちゃ嫌です。お願いですから、誤魔化さずに……ちゃんとジン先輩の気持ちを聞かせてください……」
「……嘘じゃねーよ。たとえ旅をやめたって、俺は《エーラの魔法使い》さ。ウザいからいらないとポイ捨てされたって、このジョブをやめるつもりはねーぜ?」
ニヤリと強気の笑みを見せると、エーラもニッコリ笑ってくれた。
「……約束ですよ。破ったら、許しませんから」
「ああ。俺は、ハッタリはかますけど、約束は守るんだ。エーラは絶対に、俺が守る」
超至近距離で好きな女の子を抱きしめ、見つめ合っているのに……さっきまで悩まされ続けた煩悩はどこかへ行ってしまった。
たとえ間接的だったとしても、王子様より俺を選んでもらえたのが嬉しかった。
まあ、恋人じゃなくて護衛や話し相手という感じなんだろうけど。とりあえずは、それでもいい。この幸せな〝今〟が続くのなら、それがどんな形だって構わない。
……それにしても。
「はぁ……ったく。そんな話をするために、わざわざこんな体勢をとったのか? 顔を合わせて話すのが辛いんだったら、普通に後ろ向いたまま話せばよかっただろうに……」
もっとも、俺としては役得というか超絶ハッピーな展開だったので文句はないし、むしろウェルカムだったけど。一応、指摘しておく。
「あ、いえ。べつにそういうわけじゃないんです。これはちょっと、ドキドキするか試してみたくて――……!?」
「ドキドキ?」
って、あれか。俺がエーラに話した『好き』っていう感じ。
つまりエーラは、俺がエーラに惚れてるかどうかを確かめようとしたわけだ。
そんな回りくどいことをしなくても、真正面から「わたしのこと好きですか?」と訊いてくれれば、普通に答えるのに……。いや、ビビって逃げ出す可能性もないわけではないけど。ていうか、たぶんビビって逃げ出すけど。しかし、それにしたって。
「……あのなぁ、エーラ。男ってのは、可愛い女の子にこれだけ密着されれば、誰だってドキドキするんだよ。それで好きかどうか判断したってなぁ……」
「え? え? ち、違いますよ、わたしが確かめたかったのは――って、か、かわいっ!?」
――――コンコン。
「「!!?」」
不意にドアがノックされたせいで、二人して文字通りその場を飛び上がる。
この家にはサクラちゃんとサクラちゃんのお母さんしか住んでいないのだから、このドアをノックする人物は二人のどちらかだ。そして、そのどちらだったとしても、エーラと俺が一つのベッドで抱き合っているシーンというのは見られていいものじゃない。
「~~~~っ!!」
「ごふっ!? ちょっ、エー、ラ…………」
再び真っ赤になったエーラがステータス補正の腕力で俺の腹部を殴り、ベッドから転がり落とした。そしてすかさず、頭まで掛け布団を被る。
気持ちは解るが、それでもひどい。
さっきまではあんなにも心が通じ合っていたのに……。
床で一通り悶え苦しんだ後、フラフラと立ち上がる。背後のベッドを確認すると、不自然なほど寝息をたてながら、シンデレラ様がご就寝なされていた。……どうやら、自分が出る気はないらしい。
仕方なく俺がドアを開けると、そこには、寝間着の上にストールを身につけたサクラちゃんのお母さんが立っていた。話があるようなのだが……エーラは相変わらず、不自然ないびきをかきながら眠り続けている。
ため息を吐きながら痛む腹部をさすり、俺は一人でリビングへと向かった。