第一章 魔法使い
その日、俺――いや、〝僕〟は、職員室に呼び出されていた。
どこにでもありそうな田舎町の、どこにでもありそうな機械系専門学校に通っていた僕は、留年もせずに二学年へと進級し、このまま行けば来春にこの学校を卒業することになっていた。
もちろん、卒業するからには就職する。そのための進路希望調査が行われ、それに伴って僕、木崎仁は呼び出されていたのだった。
「木崎くん。これは、なに?」
「……進路希望です」
目の前にはクラス担任の山梨先生。
『山なし』の名前を裏切るかの如くボディラインは起伏に富んでおり、それとは裏腹に顔は中学生にも見えるほど童顔だ。なので、学生には非常に人気の先生なのだが……今はその童顔も、怒りの笑顔によって歪められてしまっていた。
「じゃあ、声に出して読んでもらえるかな?」
「…………はい」
先生から手渡されたプリントに視線を落とす。名前の欄には見慣れたシャーペンの文字で『木崎仁』と書かれており、それが間違いなく僕の進路希望調査票であることを示している。続いて、なんとなく職員室中に視線を巡らせると……何人かの教師が机についており、思い思いに過ごしていた。
その状況で自分の進路を口にするのは少しだけ恥ずかしかったが、音読しろと言われるならば仕方ない。
「進路希望調査。木崎仁。第一希望――魔法使い」
「ブーッ!?」と、近くの席でこちらのやりとりを聞いていた教頭先生がお茶を噴き出した。正面の山梨先生は笑顔に青筋を浮かべている。
「ねえ、木崎くん。ふざけてるの? ふざけてるわよねぇ?」
確認というよりも、自分の希望を押し付けるように二度も尋ねてくる先生を前に、非常に申し訳ないとは思いつつも……ぼそりと言い返す。
「えっと……ふざけてない、です」
お茶が気管に入ったのか、教頭先生は苦しそうに咳をしてハンカチで涙を拭っていた。
「……あのね、木崎くん。先生も色んな生徒を見てきたし、少々変わった価値観を持った生徒がいても、できるだけ受け入れようとして生きてきたの。……でもね? さすがに、二十歳の大人が、将来の夢に「魔法使いになるー」って言うのを受け止められるほど、人間ができていないのよ?」
気まずげに視線を逸らし続ける僕に何か思ったのか、教頭先生が「まあ、いいじゃないか。夢は大きな方が……」と助け舟を出し、即座に山梨先生から睨まれて、すごすごと職員室から出て行く。それを見届けた後、「……チッ。他人事だと思いやがって……」と、童顔に似合わない毒を吐いたと思ったら、すっかり素のままの山梨先生でプリントを僕に押し付けてきた。
「大体、『第二希望・剣士、第三希望・トレジャーハンター』ってのもどうなの!? いい加減にしてよ! 私だって色々と大変なのよ!? 問題を増やすのはやめて頂戴!!」
若干自分都合の言い分も聞こえたが、先生が怒る気持ちは十二分によく分かったので何も言わなかった。大体、ここは機械系の専門学校だ。世界に誇れる日本企業である『ト○タ』とか書いた方が、まだ笑える冗談になるだろう。
「とにかく、もう一度よく考えてきなさい。理系の企業が比較的遅くまで募集しているからといって、もう四月も中旬なのよ? それでなくても昨今の不況で求人が減っているのに……ふざけている場合じゃありません!」
「別に、ふざけているつもりはないんですけど……」と言いたかったが、どう考えてもその言葉を口にすると火に油を注ぐ結果にしかならなそうだったので、黙ったままプリントを受け取って「失礼しました」と職員室を後にした。
教室に向かって廊下を歩きながら、先生の主張は至極真っ当だな、と当たり前に思った。どこの世界に二十歳にもなって(誕生日が三月なので正確には十九歳だが)、「将来の夢は魔法使いです」なんて言う人間がいるのだ。
だけど――僕は、本気なのだ。
本気で魔法使いになりたいと思っているのだ。
自分でもおかしいとは思っている。こんなファンタジーな夢を持つのは、せいぜい小学生までだろう。いや、昨今の大人びた小学生を見る限り、現在では幼稚園児でも笑われてしまうかもしれない。
普通は逆だろう、と思う。
誰にだって「世界征服したい!」とか「大金持ちになりたい!」とか「ゲームの世界に入りたい!」とか思う時期はある。ただ、それが小学生の頃には「プロ野球選手!」になり、「美容師さん!」になり、「……公務員」になっていく。僕の周囲の人間はそうだった。それが普通だと思う。
しかし僕は、「優しいお父さん!」に始まり、「プロ野球選手!」になり、「アメリカの大統領!」になり、「大富豪!!」になり、「世界征服!!」になり、ついには「魔法使い!!!!」になった。話としてはそれだけのことだ。
自分が飛び抜けておかしいとは思うが、自分だけがおかしいとは思わない。
きっとみんなだって、心の底ではファンタジーに憧れているはずだ。ファンタジーまでは行かなくても、口で言っているよりずっと大きな夢を持っているはずだ。それなのに、リアリティが低いからと言って、その夢を諦めているんだと思う。
大体、最近の若者……つまり僕と同い年くらいの人間ということになるが、彼らは『公務員志望』が多過ぎる。別に公務員の仕事を軽んじるつもりはないけれど、だからと言って、ここまで『公務員の仕事に魅了される人間』が大勢いるとは思えない。本当の志望理由を訊くと、きっとこんな答えが返ってくるはずだ。――「安定しているから」。
確かに、公務員は減給されたり解雇されたりする可能性の低い職業だとは思うけど、それを理由に職業を選択するのもどうなのだろう。価値観の一つとしてはアリだと思うけれど、少なくとも僕は嫌だ。『安定』のために、自分のやりたくもない仕事をして、自分の時間を――『人生』を浪費していくのに耐えられない。
「……まぁ、機械系の学校に来てる時点で、僕も偉そうなことは言えないんだけど」
周囲に誰もいないことを確認してから、ぼんやりと呟いた。
僕も『安定』を追い求める人達と同じだ。「将来、何になりたいか?」と訊かれて、自分の正直な気持ちを言えば「魔法使い!!!!」だが、そんなものになれるわけがない。ぎりぎり可能性のある進路として第三希望のトレジャーハンターがあるが、それだって現実的とは到底言い難い。だから僕は、『就職に有利』という世間的な噂だけで、とりあえず理系の機械系専門学校に来たのだ。
四年生大学ではなく、専門学校にしたのが最後のプライド。
勉強が嫌いなんじゃない。学校が嫌いなのだ。学校で習う勉強をどんなに頑張ったって、僕の目指す場所には全然近づけないのだから。
「ほんと、みんなはすごいよなぁ……」
『安定』に『人生』を懸けられるのがすごい。
そういう意味では僕が一番出来損ないだ。安定を選んだ人。夢を追った人。その人たちの間で、ひたすら『保留』してきたのだから。もっとも僕の場合は、夢を選んだとしても、今度は『魔法使いになるにはどうすればいいか?』という、思わず両手を上げたくなるような問題が襲いかかって来るわけだけど。
窓の外に見える桜の樹は、八割以上の花びらを散らせてしまっていた。もうすぐゴールデンウィークだ。去年までなら嬉しいばかりだったけど、就職活動を行っている今年に限って言えば、時間が経過するのは全然芳しくない。安定を選ぶのなら、さすがにそろそろ内定をもらっておかなければマズイからだ。
「でも、就職したい会社とかないんだよね……」と、さらに独り言を呟きつつ、辿り着いた教室のドアを開けた。
「…………」
そこに、女の子がいた。
クラスメイトだ。僕は友達がいないことに定評があるため、クラスでも一人でいることが多い。というか、ぶっちゃけ、ハブられている感がある。なので、実は二年生になった今でも自分のクラスメイトの名前がほとんど判らないんだけど、幸い、彼女はクラスで唯一の女生徒であり、容姿が端麗であり、名前が特殊だったので覚えていた。
――時宮輪廻。
まるでマンガやアニメに登場するキャラクターのような名前だ。常日頃から希望進路に対して自分の本名が名前負けしていることを悩んでいる僕としては、非常に羨ましい。
少々ポーカーフェイス過ぎると言うか、無表情であることを考慮しても、顔立ちは整っていて好印象だ。今はその綺麗な黒髪が若干乱れているが、それでも彼女の魅力は衰えない。……おっと。意外と胸もあったんだな、と――
着替え中の時宮を見て思った。
「…………」
上半身は下着のみ。下半身は下着ではないとは言え、ほとんど下着と変わらないブルマだ。「うちの学校の指定体操服ってブルマだったっけ?」とか、「そもそも、うちの学校って体育の授業あったっけ?」とか、嫌な汗と共に思考をぐるぐるさせていると、新たな服も着ないまま、時宮がつかつかと歩み寄ってきた。
「…………」
殴られると思ったが、頬に熱を感じることもなく、至近距離から顔を覗き込まれる。
「…………」
「…………」
顔だけでなく、背中にもじっとりと嫌な汗をかき続ける。これなら、ひと思いに殴られたり、叫ばれたりした方がマシだ。
「…………」
「…………」
ひたすらに無言。
時宮は女子の割に背が高く、僕と同じかそれ以上の数値を記録しているようで、真正面からしっかりと睨まれ続けた。本当なら目を逸らすなり謝罪するなりして、今すぐここを立ち去るべきなのだろうが、人間、あまりにも想定外の事態に遭遇すると体が固まってしまうらしい。なるほど。これが痴漢される側の人間心理か。
湿度89%は越えているであろう手のひらの中で、進路希望調査票が湿り続ける。とにかく、一刻も早くこの状況を変えるため、僕は頭で考えず、反射神経的に行動を起こした。
「…………魔法使いを、信じますか?」
今すぐ自殺したい。むしろ、殺して欲しい。着替えを覗いたという罪で、時宮には僕を殺害する権利が充分にある。
だから何も言わずに、今すぐ僕の腹を刃物で掻っ捌いてほしかった。
「二分四十三秒ほど、廊下で待っていなさい」
「はい」
即答して廊下に向かった。
教室を出て時宮から逃れたというのに、顔と背中と手のひらは、びちゃびちゃだ。冷静に考えれば逃げ出すことも可能だが、あの無表情で睨まれた僕にその選択肢をとる勇気は無かった。結局、肝心な場面で『保留』を選んでしまう僕は、時宮の指示に従って、嫌な汗をかきながら廊下で待ち続けるしかないのだ。
そうして、おそらくジャスト二分四十三秒で、時宮が教室から出てきた。
「ついてきなさい」
「はい」
どうするつもりなのだろう。まさか、このまま警察に向かうつもりなのだろうか。せめて職員室を経由してほしかったが、被害者である時宮がそうしたいのならば仕方ない。
下駄箱で靴を履き替え外に出たので、僕もそれに倣った。喉はカラカラだ。
「木崎くん。『エリクサー』を知っているかしら?」
「え、えくさりー? し、知りません」
敬語になってしまったのは仕方ない。
「エリクサー、よ。飲めば不老不死になれるとも言われている万能薬。よく『ロールプレイングゲーム』なんかで回復アイテムとして登場するわ。木崎くんは、ゲームはやらない方かしら?」
「それなら……知っています」
僕はそれなりにゲームをするので、エリクサーという名のマジックアイテムには馴染みがあった。主にゲームの終盤で手に入ることが多い回復アイテムで、よくある効果はHPの全回復だ。
「そう。話が早くて助かるわ。私はエリクサーに非常に興味があるの。端的に言って、とても欲しいと思っているわ」
「は、はあ……」
「ところで木崎くんは、私の家がどんなお店を営んでいるか知っているかしら?」
「本屋……だっけ……?」
本来は同い年のクラスメイトなので、こっそりとタメ口に戻しつつ、記憶に検索をかけた。確か、クラスの男子が時宮の家が古い本屋をやっていると知り、何人かで冷やかしに行ったはずだ。目的はもちろん、容姿端麗の時宮とお近づきになるため。
そこまで思い出したところで、後日、その男子達が時宮の名前を出すと顔を青くして震えるようになり、露骨に時宮を避けだしたという事実まで記憶の検索にヒットする。最初から嫌な予感しかしなかったが、過去のクラスメイト達の挙動のせいでさらに不安になってきた。
そういえば、これほど外見の優秀な時宮が、クラスの男子と一緒にいるところを見たことがない。僕みたいな人生のソロプレイヤーはともかく、普通の男子学生ならクラスの女の子にくらい声をかけそうなものである。ということは、僕と同じく、この時宮にも人から避けられる何らかの――
「着いたわよ」
急に立ち止まった時宮が見上げている方向を向くと、そこには小さな本屋があった。
本屋というよりも、その店が醸し出す雰囲気としては『古本屋』と呼ぶ方がしっくり来る。もちろん本は新刊も扱っているのだろうが、建物が古く、入り口から見える本の多くが日に焼けているため、どうしても普通の本屋には見えづらい。
何も言わずに店に入っていくので、僕も慌てて後を追った。すたすたと前を歩く時宮についていく道すがら、店内を眺める。店にある本は、全てが日に焼けていた。まるで何年も前に業務を停止し、売れ残った本がそのまま放置されているような有様だ。
歩くペースを落とさず、時宮は当たり前のように奥にあった階段を下っていく。階下を覗き込み、下りようか迷っていると、「何をしているの? 早く来なさい」と下から声がかかった。地下へと続く階段に一歩足を踏み入れただけで、湿った空気と微かな冷気を感じた。
階段を下りると――そこは、本の墓場だった。
古いランプの明かりに照らされたその部屋には、数え切れないほどの本が乱雑に散らばっている。日本語だけでなく、英語、ドイツ語、フランス語……僕では識別できない言語で書かれた本もいっぱいあった。部屋の壁には全ての面に天井まで届くほどの背の高い本棚が設置され、ぐるりと部屋を取り囲んでいる。それらの本棚にも、縦だったり横だったり……およそ持ち主にしか解らないであろう秩序の下、無限の本が鎮座していた。
部屋には古い本独特の甘い匂いが充満している。それが、ここにある本たちの死臭なのだと思った。
「……『魔法使いを信じますか』、だったかしら」
「…………?」
「あなたの質問よ」
「!」
あまりの光景に圧倒され、すっかり忘れていた自殺衝動が甦る。それこそ魔法なしで火が出せそうなほど赤面し、必死に何か言い繕おうとあたふたした。しかし……部屋の中心で平らに積み上げられた本の山に腰を落ち着けた時宮は、真面目な雰囲気を作った。
「答えはイエスよ。イエス。魔法使いは存在するわ」
そこで初めて、時宮はニヤリと笑った。
「……あら。今のは笑うところよ」
「え、あ、あははは……」
表情が固まったまま、渇いた声だけはどうにか笑ったようにする。
「この私が表情を浮かべるなんて、とても面白いじゃない」
「そっちかよっ!」
思わずツッコんでしまった。先ほどの一瞬で笑みは消え去り、時宮はいつも通りの無表情に戻っている。
「あらあら。元気がいいのね、覗き魔の木崎くん」
「う……。い、いや、あれは本当に申し訳なかったと……」
「そうよ。あの状況を作り出すために、私は二時間も人生を浪費したのよ。土下座して謝ってほしいわ」
「ああ、本当にすまな――」
思わず土下座しようとして、膝をつく寸前で体が止まった。今、こいつは何て言った?
「聞こえなかったかしら? 今日から私があなたのご主人様だと言ったのよ」
「言ってないだろ!」
「そうね。本当は木崎くんに死んでほしいと言ったのよ」
「いや、それも違う!」
「ごめんなさい。私ってばツンデレだから、なかなか本心が口に出せないの。だから木崎くんは、私の発言の裏側から本心を察してくれると助かるわ」
「自称するツンデレなんて聞いたことないけどな……」
「勘違いしないでよね。べつに木崎くんに死んでほしいなんて思ってないんだからね」
「やっぱり死んでほしいと思ってる!?」
なんだ!? なにがどうなってる!?
入学してから今まで一度も話したことなかったけど、時宮ってこんな子だったのか!?
「私の下着&ブルマ姿にはそれだけの価値があると伝えたかっただけよ。眼福だったでしょ? ブルマフェチの木崎くん」
「僕はブルマに対して、多大なる関心は持ってねーよ!」
「嘘ばっかり。男の子はブルマとスクール水着を避けては通れないのよ。別に恥ずかしがることじゃないわ」
「お前の中の男性観はどうなっているんだぁーーーー!!」
「別に私の男性観じゃないわ」
もう何がなんだかわからなくなって頭を抱えていると、時宮が指で何かを弾き、それが僕の足下まで流れ落ちてきた。
拾い上げてみると、それは写真のようだ。独特のツルリとした手触りを感じながら裏返すと……その写真が写されている場所は見慣れた教室で。上半身下着姿&下半身ブルマ姿で目に涙を浮かべている時宮が、興奮した様子の男に襲い掛かられていた。正に決定的瞬間だ。
この後どうなったかは定かでないが、男の興奮しきった様子を見るに、ただで済んだとは考えづらい。写真を見る限り、とても合意の上とは思えないので、この数秒後の出来事が時宮に深い爪痕を残したのだろうと考え、胸が苦しくなる。
……だけど、不幸中の幸いだ。こんな決定的瞬間の証拠が残っているなら、これを警察に提示すればいい。男の法的措置は確実だろう。
そこまで考えて……僕は、何と声を掛けるか迷った末、とにかくこれだけは言わねばならないと思い、顔を上げた。
「ってこれ、僕じゃねぇかぁぁぁああああああああ!!」
まさかの展開だった。
「犯人はこの中にいる!」と声高に叫ぶ探偵が真犯人だなんて、今時古すぎるトリックだと思ったが、そんなことはどうでもいい。というか、僕は犯人じゃない。
「元気いっぱいね。性犯罪者さん」
「僕は罪なんか犯してねーよ! それはお前が一番知っているはずだろうが!!」
「ええ、そうね。ただ……もし今後、この写真について警察から言及されるようなことがあれば、私は涙を流しながら黙秘権を行使するわ」
「いやいや! そこは黙秘する場面じゃねーから! 素直に「これは合成写真です」って認める場面だから!」
「失礼ね。この写真は合成写真なんてチープなものではないわ。警察でも判別できないほどの謎技術で加工してあるのだから」
「合成写真じゃねーかっ!!」
「違うと言っているでしょう。合成写真だと判断できない写真は全てホンモノよ。たとえ真実がニセモノであったとしても、その事実を証明できる人間が一人もいなければ、ニセモノはホンモノになれるわ」
本の山に座っている時宮は尊大な態度で顎を上げ、値踏みするように僕を睨み付けてきた。その挑発的な態度で冷静さを取り戻した僕は、慎重に言葉を選びながら反論する。
「……確かに、写真を加工する素材は入手できたかもしれない。だが、それを謎のクオリティで合成する時間はなかったはずだ」
「あったじゃない。二分四十三秒」
「…………」
「私にかかれば充分すぎるほど十分な時間だわ」
相変わらずの無表情だが、その鉄面皮の下はとても愉快そうに歪められている気がした。
とにかく、ここまでの状況を整理しよう。僕は半裸+ブルマ姿の時宮に教室で襲い掛かり、罪を犯した……ことになってしまった。完全に冤罪だが、なぜ『冤罪』という言葉がこの世にあるのかと言えば、冤罪というものが存在するからである。
以上から、僕にとれる選択肢は一つだけだった。
「……要求を聞こう」
「あら。意外と素直でクレバーなのね。もっと暴れられたり、駄々を捏ねられたりすると思っていたのだけど」
「人質を捕ってる犯人を刺激するか。ここまで巧妙にハメられたんだ。ある程度の事態には対処されるに決まってる」
時宮は「つまらないわ……」と、スカートのポケットから黒光りするハンディサイズの物体――おそらくはスタンガン――を部屋の隅に放り投げ、続いて自分が座っていた本の山から一冊を抜き出すと、僕の方に放った。
本の表紙には【シンデレラ】と書かれている。
「今から木崎くんはその世界に行って、エリクサーを入手するのよ」
「…………」
なんだろう。時宮は頭がおかしい子だったのだろうか。
もっとも、警察にさえ判別できないレベルの偽造写真を用いてクラスメイトを脅すような女の子が、普通の頭をしているとは思えないけど。
「私は『魔法使い』なのよ」
「…………」
超展開だった。
「と言っても、世間的にイメージされる魔法使いと、私が名乗っている『魔法使い』は別物なのだけれど。その辺の人は魔法使いと聞くと、黒尽くめの格好で箒に跨って空を飛び、手から炎とか出してしまう安易なファンタジーをイメージするみたいね。……滑稽だわ」
僕を含めた一般人を心底蔑むように、口許に手をやってサディスティックな笑みを浮かべる。クラスメイトが時宮を避けていた謎は、完全に氷解していた。
「魔法とはそもそも、『常人には不可能な手法や結果を実現する力のこと』と定義されることが多いのよ。ということは、発明王と呼ばれたトーマス・アルバ・エジソンだって、当時は『魔法使い』だったということじゃない」
上から目線の態度は癇に障るが、その主張は的を射ているように思えた。
僕が進路希望調査票に書いた『魔法使い』は、もちろん時宮が最初に言ったような安いイメージの黒尽くめだったわけだが、そう考えると現代の世界には魔法が溢れ返っているように思える。今僕が持っているシャーペンだって、ある意味、魔法だ。
「でもね、木崎くん。解り易くエジソンで例えたけれど、私に言わせればエジソンは『魔法使い』ではなのよ。だって、せっかく見つけた魔法を全世界に向かって公表してしまったんだもの」
「……なるほど。あらゆる科学の便利グッズを公表してしまった瞬間、魔法は魔法でなくなってしまったということか」
「その通り。ゴキブリ並みには脳みそがあったみたいね」
「今の考察、ゴキブリにできるかなぁ!」
「さておき、木崎くんの思った通り。本当の『魔法使い』というのは、己の魔法を公表したりしないのよ。……決して」
時宮がそう言った瞬間、部屋の温度が数度下がった――ように感じた。
それは、僕が恐怖したからだ。
同じだと思っていた世界。平等だと信じていた世界。しかしその実、周囲の人間は僕が知らないような技術・力を……『魔法』を持っているかもしれないのだ。
単純な話だ。現在、この世界では《拳銃》という魔法が公表されているが、もしそれが秘匿され続けていた場合――何かの拍子で戦争にでもなったら、僕は真っ先に殺されてしまうだろう。
考えたことがなかった。
いや、信じたかった。信じていたかった。
自分の知らないことなど何もなく、自分に足りない力など何もなく、この世界は平等で安全で、心の底から安心して暮らせる世界なのだと――
「――タイムマシン」
僕の心中を見透かしたように、時宮がさらに追い討ちの言葉を呟く。
「宇宙人。幽霊。妖怪。ツチノコ。ネッシー。どこでもドア。スモールライト。大量殺戮兵器。空を飛ぶ箒。前世を写す鏡。……なんでもあるわ。なんでも。木崎くんが想像できるレベルのものは全てある。当然じゃない。想像さえできれば、その魔法を実現するために、世界のどこかの『魔法使い』が、オリジナルの呪文を編み出すわ。ただ、その呪文を公表しないだけ」
ランプの炎が揺らめいた。
窓一つ無い本の墓場。
目の前に居座る『魔法使い』は、ゆっくりと僕の持つ絵本を指差した。
「それは私の家――時宮が守る《魔法》の一つ。本を通して《異世界を創造する》という魔法。私自身は、《人を異世界に転移させる》という魔法が使えるわ。そして、その異世界には――《エリクサー》という《魔法》が、ある」
それを取って来い、と。
圧倒的強者の時宮がニタリと嗤った。
「…………話は解った」
そんな化け物と対峙して、僕は可能な限りクールを装う。
「あら。ここまで世界の真実を知っても冷静なのね。不愉快だわ」
「正直、話のスケールが大きすぎてな。世間的一般人で小市民の僕としては、思考を停止するのがまともな反応だ。だから、そっちのビッグスケール理論については保留させてもらう」
「保留するのが上手なこと」
「ほっとけ。急を要する問題は別にある。お前の話が全て本当で、その異世界とやらに行けと言われるなら、僕は従うしかない。……が、『魔法使い』でもなんでもない僕が行ったところで、何もできないだろう?」
「安心しなさい。向こうには向こうのルールがあるのだから。こちらの世界でどうしようもなく小市民でモブキャラDの木崎くんでも、やり方次第でなんとかなるはずよ」
数十分前までなら元気良くツッコめたはずの『モブキャラ』発言も、今となっては現実味がありすぎて文句も言えない。
僕が諦めたのを認めたのか、時宮は僕に背を向け、部屋の中心に直径二メートル程度の円をチョークで描いた。さらに、円の内部に奇怪な模様を描き足し始める。その様があまりにもイメージ通りの魔法使いで、もはや笑える勢いだ。
五分ほどで準備は終わったようだ。時宮は満足気にチョークを置いたが、その顔はやはり無表情だった。
「脅えて、泣きながら逃げ出すと思っていたのだけど」
「どうせ逃げられないだろ。それに、これから先の成り行き次第でお前の話が本当かどうかも判るしな」
「……つまらないわ」
わざとらしく肩を落とし、部屋の壁に備え付けてあったスイッチを切り替えた。明かりなんてランプしかないのに、見慣れた蛍光灯のスイッチが一体何のためのものだったかは、知らないほうが吉だろう。
仄暗い墓場の中央、円で描かれた……素人が感じるイメージ的には、まさに『魔法陣』と呼べそうなものの中央に立つ。
「最後にもう一度確認するわ。今から木崎くんは、その【シンデレラ】の異世界へ行って、《エリクサー》を入手する」
「…………」
小脇に抱えている絵本に視線を落とす。一見しただけでは異常の見つからない、ただの古い絵本だ。
「《エリクサー》さえ入手できれば、その瞬間に私がこちらの世界へ連れ戻してあげるわ。だから、《エリクサー》を手に入れなさい。……どんな手段を使っても」
表情はいつも通りだが、声が僅かに真剣みを増した。
結局聞きそびれてしまったが、どうして時宮はエリクサーを欲しがるのだろうか。
「それでは、武運を祈るわ」
それを契機に、まるで眩暈でも起こしたかのように僕の視界がぼやけ始める。徐々に体も感覚が無くなり、自分でも立っているのか座っているのか寝ているのか、判らなくなった。
そんな未だかつて体験したことがない状態の中、時宮の声が直接、頭に響いた。
「気をつけなさい。その世界で死んでしまったら、こちらの世界でも死んでしまうから」
◇
目を覚ますと……という表現が適切かどうかは判らないが、次に視界が戻った時、僕は荒野に立っていた。
時宮の弁については半信半疑がいい所だったのだが、さすがに自分の目で見てしまった以上、異世界の存在を認めるしかあるまい。
もっとも、僕のこの不思議体験についても、合成写真と同じく大掛かりなトリックであるという可能性は捨て切れないんだけど。その場合もまあ、こんなびっくり体験は異世界と何ら変わりがない。
周囲は弱い砂嵐のせいで視界が悪かった。なんとなく自分の姿を見下ろしてみると、いつの間にか服も替わっている。体にぴったりとフィットした黒のインナーに黒革のパンツ。足下は頑丈そうなブーツに包まれ、裾がブーツまで届きそうなほど長い枯れ草色のロングコートを羽織っていた。場所も相まって、雰囲気的には西部劇のガンマンのような出で立ちだ。しかし、腰にあるのは大口径リボルバーとホルスターではなく、目にも鮮やかな朱鞘の日本刀だった。
「なんてアンバランスな……」
そんなことを無意識に呟いた時。
「て、転移魔法……!?」
背後から子供のような高い声が聞こえた。
瞬間、勢いよく振り返る。全身を緊張が包んでいた。
――異世界。その名の通り、僕が住む世界とは異なった場所。次の瞬間、宇宙人が現れて、怪光線で僕の体をバラバラにしても、なんら不思議はなかった。
しかし、僕が振り返った先に人はいない。いや、正確にはいたのだが……あまりにも背が低いため、頭の先しか見えなかった。一四〇センチは……ギリギリあるだろうか? 一四五センチは絶対にない。そんな小柄な女の子が、唖然としてこちらを見ていた。
「あ、あのっ! ひょっとして、《魔法使い》ですか!?」
「ま、魔法使い……?」
一瞬、僕の恥ずかしい希望進路がバレたのかと思ったが、目の前の女の子がそんなことを知るはずはない。
荒野という場所のせいでガンマンをイメージしてしまったけど、このロングコートは確かに魔法使いに見えないこともなかった。朱鞘の日本刀も、鍔の辺りを持てばギリギリ杖に見えないことも……いや、こっちは無理があるか。
そんなつまらないことを考察してしまう僕は、久しぶりに舞い上がっていた。どうしてそんなことになってしまったのかと言えば、我ながら恥ずかしい限りなのだが……端的に言って、その女の子がとても可愛かったからだ。
身長はすごく低いのに、顔立ちや雰囲気は大人びていて、そのアンバランスさが神秘的な美貌を創り上げていた。かと思えば、僕の方をキラキラした瞳で見る仕草はあどけなく、サイドで一房だけ編んだ髪の毛が猫の尻尾のように揺れている所も愛くるしい。
「お、おうっ! 僕……いや、〝俺〟は、魔法使いさ!」
なので、そんなことを口走ってしまったことも大目に見てほしい。時宮の時は状況が状況だったためすっかり忘れていたが、そもそも僕は、女の子に対して免疫がないのだ。
「転移魔法なんて初めて見ました! 《魔法使い》のジョブでも上級の上級……超一流の方しか使えないと聞き及んでおります!」
「ま、まあねー! それほどでも……あるかなっ!」
好きな女の子の前でカッコつけたがるとか……小学生かよ、僕。もとい、俺。
大体、見栄を張って大きなことを言ってもロクなことがない。恋愛マニュアルなんかによく書いてあることだが、最初の印象が良過ぎると採点方法が『減点方式』になる。つまり「えー。期待はずれー」みたいなことになって幻滅されるのがオチだ。だから、最初はむしろ悪い印象からスタートして『加点方式』で採点してもらった方が――
「あ、あのっ。もしよろしかったら……ぜひ、わたしと一緒に旅をして頂けませんか? こんな所にいるということは、お兄さんも《ドラゴン》の打倒を目指しているんですよね?」
……お兄さん?
お兄さん。なんていい響きなのだろう。この世にこれほど美しい言葉が存在するとは、夢にも思わなかった。そうか。やはりここは、異世界なのだ。
「ああ、もちろんさ! この〝お兄さん〟に、どーんと任せなさい!!」
「わー! ありがとうございますー!!」
ああ……なんてステキな笑顔を浮かべる子なんだろう。まさに、女神。
今までノーマルだと思っていたけど、ひょっとしたら僕はロリコンの気があったのかもしれません。あっちの世界ではすぐに逮捕されるけど、こっちの世界では合法だろうか。
そんな脳内お花畑状態に突入していた僕は……数秒後、砂嵐の向こうから現れた巨影によって一気に現実へと引き戻された。
「では、とりあえず、このエリアのボス――【TRYGO】を倒しましょうか!」
「…………」
変わらず愛くるしい笑顔を向けてくれる少女だったが、それに応える余裕はなかった。
砂嵐の向こう。
僕の身長の五倍はありそうな巨影――僕の世界の生き物で表現するならティラノサウルス――が、口元から唾液を滴らせながら、好戦的な眼差しでこちらを睨んでいる。
「よいしょ、っと」
隣に立つ少女は、身の丈ほどもありそうな大剣を背中から抜き放つと、まるで重さなど感じないというようにヒュン、と一振りしてから、ティラノサウルスに向けて構えた。
「わたしが前衛で攻撃を食い止めるので、お兄さんは後ろから大魔法一発で仕留めちゃってください!」
その信頼しきったキラキラとした眼差しが、今の僕には痛い。
「十秒くらいで大丈夫ですよね? たぶん、その程度のランクの魔法で【TRYGO】は倒せると思うので!」
その程度って、どの程度?
あと、ランクとか魔法とか、僕は全然……。
「お願い……できますよね?」
僕の沈黙が不安だったのか、少女が上目遣いに尋ねてくる。
本当に申し訳ないが、その期待に応えることはできない。僕はこちらの世界の人間ではないし、つい先ほどこちらに来たばかりで勝手だってわからない。そもそも、ここは【シンデレラ】の世界ではなかっただろうか。
とにかく、僕にできることは何もないのだから、ここは正直に謝罪を――
「――ああ。俺に任せな」
…………あっ。
「す、すいません。余計な心配でしたよね。それじゃあ、よろしくお願いします!」
「いいから。背中は俺に任せて、行け」
「……っ! はいっ!!」
元気いっぱい、笑顔いっぱいに少女が駆け出す。
それを俺は、余裕のある大人の笑みで見守った。さすが俺だ。シビれる。超憧れる。カッコ良すぎるぜ、俺! 俺が言うんだから、間違いない!
…………。…………で。
余裕のある大人の笑みを浮かべながら、その実、欠片も余裕のない僕は、衣服に隠れた体中にダラダラと嫌な汗をかいていた。な、なにこれぇー。
よ、よし。冷静になろう。状況整理。それ以外の問題はとりあえず保留する。
まず僕は、時宮の弁を信じて【シンデレラ】の世界にやって来た。降り立った場所は荒野で、その場所で女神に出会った。うん。あの子は本当に可愛い。そして、その子が一緒に旅をしてほしいと言うので、超カッコイイ俺が承諾した。そしたらティラノサウルスが出てきて、十秒後に僕が大魔法を放つことになった。
状況整理完了。結論、無理ゲー。
試しに手をかざして念じてみたが、まるで魔法は発現しなかった。当然だが。
そうなると心配なのは女の子なんだけど、彼女は小さな体で大剣を軽々と振り回し、ティラノサウルスの攻撃を軽くあしらっていた。……なんという強さだろう。あの小さな体躯で僕よりもずっと力がありそうだ。というか、僕の手助けなんてなくとも、あの子だけで楽に倒せるんじゃ――
「……十っ! お願いします、お兄さん!!」
「おう! お兄さんに任せろっ!!」
自分の正直な思いやこれまでの考察とは裏腹に、魔法の言葉に突き動かされた俺はカッコ良く返事をしてしまった。
律儀にも十秒きっかりをカウントしたらしい少女が一際強い斬撃を放ち、反動を利用してティラノサウルスから距離をとる。その動作でティラノサウルスは標的を見失い、近くにいた俺を新たな敵と認めて突進してくる。
最後まで僕には何の名案が浮かばなかったが――死ぬほどカッコイイ俺なら、きっとなんとかしてくれる! そんな脳内停止状態のまま、やけくそ気味に日本刀を抜き、ティラノサウルスに向けた時には、既にティラちゃんに薙ぎ払われた後だった。
「どわぁぁぁあああああああ!!」
無人の荒野と濃密なキスをしながらゴロゴロと転がる。
「お、お兄さん!?」
僕の惨憺たる有様に呆気にとられた様子の少女だったが、一秒後には正気を取り戻し、裂帛の気合と共に大剣を振り下ろした。剣先が藍色に輝くその一太刀でティラノサウルスの体は分断され、光の粒子となって消えていく。
「あ、あの……」
地面に伏せたままの僕に近寄り、おそるおそる、といった感じで声を掛ける少女。
……もうやめよう。こんなハッタリ……ニセモノの僕を演じ続けたところで、少女の気が引けるとは思えない。正直に謝って、誤解を解くべきだ。数年振りか、下手したら十数年振りの恋だったけど……やっぱり僕には、男だらけの専門学校がお似合いなんだ。こんな可愛い子を射止めるなんて、できっこないんだよ……。
「いやぁー! ごめん、ごめん! ちょっと気合入れすぎちゃった! もう少し下のレベルの、呪文が短い魔法でよかったなぁー!!」
…………あっ。
「で、ですよねー! もう。ほんと、びっくりしちゃったじゃないですか! 一瞬だけ、ただのルーキーさんなのかと思っちゃいましたよー!」
「あー! ひどいなー! これでも俺は、結構上位クラスなんだぜー?」
「最初に転移魔法を見たんだからわかってます! わたし、【Ella】って言います。これから、よろしくお願いしますね!」
「おう。俺は……『鬼を裂く刃』と書いて【鬼裂刃】だ! よろしくなっ!」
「……『鬼を裂く刃』で、キザキジン?」
「ああ。漢字で……って、この世界じゃ漢字とかねーのかな? とにかく、俺の故郷ではキザキジンにそういう意味があるのさ!」
「そうなんですか! よろしくお願いしますね、ジン先輩!」
「おう! よろしくな、エーラ!」
「エーラじゃなくて、エラですよぅー」
ヘタレで弱者で小市民な僕とは違う、超カッコイイ俺【鬼裂刃】の、誕生の瞬間だった。
――あれから半年。
俺のハッタリもすっかり看破され、後に聞いた数字では三つも年下のエーラに尻にひかれながら、俺たちは《ドラゴン》の待つ《城》を目指している。