プロローグ
深緑が広がる視界の中、二百メートルほど先に一センチ四方のピンク色が見えた。
そこから上方数十センチの位置に、底辺八ミリ、高さ五ミリほどの三角形ブラウン。それらの物体が示す質感から、そこに一人の少女がいることに気づいた俺は、文字通りその場を飛び出した。
周囲の景色が動画を早送りした時のようにブレ、一気に加速する。
その間、俺の耳には、空気抵抗による風の摩擦音に混じって獣の呼吸音が届いていた。
「うるぁぁああああああ!!」
四秒以下で二百メートルの距離を駆け抜けると、微かに聴こえた呼吸音の方向に突っ込む。両腕をクロスさせて人間砲弾の体当たりをお見舞いすると、そこには予想通り、熊型のモンスターが存在していた。
「グルォォォ……」
俺の人間砲弾などまるで堪えていないというように一啼きすると、標的を俺に見定めるかのように前足を地面に付き、臨戦態勢をとった。後ろの少女はそこで初めてモンスターの存在に気づいたらしく、悲鳴も出せないまま、ぺたん、とその場に座り込んでしまう。
「安心しろ。俺が助けてやる」
少女に笑顔を向け、腰にある刀を抜く。
一見しただけで業物だと判る朱鞘の日本刀。この世界では西洋の剣がメジャーだが、日本人の俺にはこちらの方が親しみ深い。着ている衣服が洋服なので、見た目のバランスが悪いと言えばそうなのだが。
俺は日本刀――《一期一振》を右脇付近で垂直に構え、半身になって熊型モンスターの攻撃に備えた。その瞬間、まるで刀の煌きに戦意を感じ取ったかのようにモンスターの筋肉が爆発的に膨張し、凶悪な肉塊となって襲いかかってきた。
正面衝突は分が悪いと判断し、一歩だけ斜めに踏み込む。モンスターの直撃を避けると共に俺の一撃を――
「どわぁぁあああ!?」
……無理だった。
どう考えてもウェイトに差がありすぎる。俺の日本刀は綺麗な軌跡を描いてモンスターの顔面にヒットしたが、向こうはそんな攻撃がなんでもないかのように突進を続け、俺は刀ごと吹き飛ばされた。
「痛ってぇ~……」
地を転がり、大木の幹に打ち付けられた体をどうにか持ち上げると……眼前には、既に止めの攻撃を仕掛けた熊の頭があった。「ヤバい……詰んだ……」と半ば呆然とする俺の目の前で、突進していた熊が業火に包まれる。
「ウグォォォオオ!?」
今度は熊がのた打ち回る番だった。先ほどの俺もかくや、というように地面を転がり回るが、炎は一向に消える気配を見せない。おそらく、かなり高位の火炎魔法なのだろう。そのまま熊の動きは緩慢になり、最後は光の粒子となって消滅した。
「……まったく。この森で最強のパワーと強度を誇る《ビッグベアー》に真正面から力勝負を挑むなんて、なに考えてるんですか。……まあ、何も考えてないんでしょうけど」
横合いから、純白の法衣にミスリル銀の鎧を装備した小柄な女の子が優雅に歩み寄る。先ほどの戦闘で全身泥だらけの俺と違い、塵一つ付いていないその姿はとても美しい。
「いや、エーラ……これはその、緊急事態だったからさ……」
居心地悪く、微妙に正座っぽい姿勢で言い訳を口にしてみるも、女の子……エーラは、ため息をつくばかりだ。
「……この間、滝つぼに突っ込んだ時もそう言ってましたよね? その前に山岳で盗賊団に突っ込んだ時も。さらに前の、幽霊騒ぎが起こった廃墟に突っ込んだ時も、そう言ってましたよね?」
「いや……それも全部緊急事態だったって言うか……」
「ジン先輩は毎日、一事が万事全てが緊急事態なんです! いい加減、それらのことが日常で当たり前でノーマルだということを自覚してください!!」
年齢的にも身長的にも俺より下の女の子が「毎回言ってますけど、ジン先輩は~~」なんて敬語口調のまま、正座で項垂れる俺に説教を続ける。特定の人種にとってはご褒美と呼ばれるシチュエーションらしいが、生憎俺にその手の性癖はないため、ひたすらに辛いだけだ。
そんなわけで、究極の文句を試みる。
「…………シンデレラのくせに」
「何か言いましたか? 言いましたよねぇ! シンデレラ、シンデレラって、ジン先輩の世界での常識を主張されても通・り・ま・せ・ん!! この世界ではこの世界の常識に従ってくださいっ!!」
そう。先ほどから俺に向かって全力で説教をしている真面目人間で見目麗しいちびっ子・エーラは、シンデレラだ。正しいスペルは【Ella】と書き、エラ、と発音する。
【シンデレラ】という御伽噺を知らない人はいないと思う。
昔々、継母に扱き使われて姉にいじめられる毎日を過ごしていたシンデレラは、ある日、魔法使いに準備を手伝ってもらい、お城で開かれるパーティーに出席する。そのパーティーで王子様に見初められるが、魔法が切れる時間のため、途中で帰らなければならなくなってしまう。急いで帰る途中でガラスの靴を落としてしまい、後にそれがきっかけでシンデレラの所在が判明。王子様と結婚してハッピーエンド。
バリエーションは色々とあるが、大まかに言えばこんなストーリーだったと思う。
ただし、それは俺の世界の常識であり、この世界のシンデレラは……エーラは、違う。
エーラは、法衣の上にミスリル銀の鎧を装備した《勇者》で、剣の達人で、最上級魔法が使え、《ドラゴン》を退治することに全力を注いでいる。俺はその勇者パーティーの一人で、ジョブは《魔法使い》だ。
比喩なしで手のひらから火の玉が出せる俺が言うのも何だけど、俺だって、ついこの間までは専門学校に通う普通の学生だった。卒業と就職を控え、しかし進路が決まっていない、ニート予備軍だった。どこにでもいるような、ただの〝生ける屍〟だった。
そんな俺がどうして、シンデレラとドラゴン退治しているのかというと、話は半年前まで遡る――