冬のあしあと
人は忘れてしまう生き物だ。
悲しいことはもちろん、楽しいこと、嬉しいことも時間が経てばどんどん忘れていってしまう。
そりゃあ、忘れないことだってある。でも、完璧に覚えているわけなくて。
かすかに覚えていても、ところどころ忘れているでしょう?
「忘れてほしくない、なあ……」
「なにが?」
「なにが、って……」
きょとん、とした表情で私を見る君に、笑みがこぼれた。
気の抜けた顔が、なんだか嬉しくて。
「んーん。なんでもないよ」
笑ってそう言えば、君もふにゃ、と微笑んだ。ああ、私、君のその笑いかた、一番好きかもしれない。
春の木漏れ日のような、優しく包まれてる感じ。それがたまらなく好きだ。
私たちはもうすぐ離ればなれになってしまう。お互い、将来のことで別々の道を選んで、進むことを決めた。
君と私は恋人とかそんな甘い関係じゃない。かといって、友達というのも違う気がする。
友達以上、恋人未満。
この言葉が一番しっくりくる。
私たちにお似合いの表現だ。
「もうすぐ、冬が来るね」
「そうだね」
冬がきて、春がくれば。君と離れてしまう。
春は私の一番好きな季節だ。逆に、君が一番嫌いな季節でもある。昔、一度だけ、尋ねたことがある。
『どうして、春が嫌いなの?』
『そんな難しい理由はないよ。ただ……』
『ただ?』
『みんな、忘れてしまうから』
そのときの私は意味が分からなかった。
なにを忘れるの?
あなたは、どうしてそんなに悲しそうなの?
声をかけたかったけど、上手く伝えられない気がしたから。だから、ふうん、としか言えなかった。
けど、今の私ならその言葉の意味がなんとなく分かるようになっていた。
みんな、忘れてしまうというのは、春は別れの季節だから。
新しい環境が始まって、慣れるのに精一杯だ。
最初は昔の友達と連絡をとったりするけど、どんどん環境に馴染んでいけば、不思議と人は昔のことを思い出さなくなる。
新しい日々に夢中になって。忘れていくのだ。
昔のこと。友達のこと。好きだった相手。……こんな顔だったっけ? って頭におぼろ気に霞むだけ。
君は、それを嫌だと言う。ひどく、嫌うのだ。
確かに、何年後かの未来は分からない。想像つかないことだらけで、不確かなものがたくさん。
いつかは今のこの気持ちや、思い出まで忘れる日がくるかもしれない。
けど。それでも。
それでも、きっと。
「私は君のこと、覚えてる」
それだけは確信できるんだ。君のことだけは、これから先も覚えていられる。
日々にもみくちゃにされても、今よりすごい将来が待っていても。
私は君と過ごしている、このかけがえのない時を。一緒に過ごした、ほんの少しの人生の一部を。
忘れることは、出来ないだろうな。
……なんて。
君に話すには長すぎるなあ。
「……俺も、君のことは忘れられないよ。だって」
長い友達関係だからか。
それとも、以心伝心が完璧すぎるのか。
さっきの一言で私の言いたいことが伝わったらしく、君は泣き笑いのような顔になっている。
そして、君の伝えたいことも手に取るようにわかった。
言葉は途切れて、続きを紡がないのだけれど。
それでも、ちゃんと伝わった。
黙って君と目が合った瞬間。
想いは一緒なんだよって。思っていることは同じで、言葉にならなくても分かりあえてるんだよって。
それがわかってしまったから、笑った。
君も笑った。
ぽとり、と頬を生暖かいものが伝う。君も私と同じものが頬を流れている。
おかしいなあ。なんでだろう?
全然止まってくれないの。ますます、溢れだしてきちゃうんだよ。
喉が熱くて。目も熱くて。
嗚咽が止まらない。
君も私と同じ顔をしている。君の姿が霞んでぼやけていく。
おかしいね。止まらない涙は、まるで私の気持ちをあらわしているよう。
ポタポタと床に落ちていくしずくはシミを作っていく。
君と私はそれを止められずに、黙って見つめ合った。そうするしかない、とでもいうように。
冬の足跡がもう、すぐそこまで来ている。
気配を感じとりながら、流れていく涙を見つめていた。