Act.3 青い海と試練の夏(7)
06 きみのとなりへ(2)
空が夜の色へ塗り替えられると、海辺の街はまばゆい光を纏いはじめた。目を刺すような光の波のなかを泳いでいく人々は、どことなく浮き立っている。
きっと傍から見た俺は、ひとり場違いな表情をしているに違いない。ほとんど通行人を押しのけるようにして雑踏のなかを突き進む。後方から上がる非難の声にもかまう暇もなく、街を彩る光のなかにある文字を求めて絶え間なく視線をめぐらせた。
薄闇に漂うネオンライトの多くは、飲食店や土産物屋、ゲームセンターなどの看板だ。おそらく海水浴客を目当てにしたそれらのどこかに、カラオケボックスのものもあるはずだった。
男がナンパした女の子を連れこむような場所。携帯電話がつながらない場所。大人数で、何時間居座っても怪しまれない場所。何が起こっても、だれにもわからない場所――。
真っ先に思い浮かんだのが、カラオケボックスだった。
長年彼女に片想いしていたとはいえ、俺にだってナンパの経験くらいはある。そういうことに対してすこぶる熱心な香坂に引きずられてというか乗せられてというか、まあ興味がないわけでもなかったので。
そんなとき、とりあえず向かった先がカラオケボックスだった。初対面の相手とも適当に時間が潰せ、なおかつ財布に余裕があるとは限らない学生にも手軽な料金。おまけにこちらから呼ばない限り、だれかに邪魔される可能性も低い。
そう、カラオケボックスは個室が基本だ。商売柄、防音設備も整っている。たとえ大声で助けを呼んだとしても、溢れ返る音の洪水に掻き消され、他の部屋にいる客の耳に届くことは難しい。
腹の底からどす黒い何かがせり上がってきた。思考は冷え冷えと冴え渡り、凍りついた水面のように静かだった。
感情はとっくに沸点を通りすぎ、急激に温度を低下させていた。それでいて、今なら簡単に人を殺せそうな衝動が渦巻いている。
「――本原!」
流れていく人の波の向こうから、焦ったように俺を呼ぶ声が聞こえた。振り返ると、見慣れた長身が人混みを掻き分けて近づいてくる。
「いきなりひとりで飛び出すなよ! みんなで手分けしたほうが……」
宮野は息を整えながら言いかけた言葉を、驚いたような顔で呑みこんだ。
「……本原」
「なんだよ」
「おまえ、……ごめん。やっぱなんでもない」
珍しく宮野が口をつぐむ。困惑と心配がない混ぜになったまなざしが、窺うように見つめてきた。
「その、大丈夫か?」
俺は宮野から視線を逸らした。
「別に――それより、他のやつらは?」
「女子は海の家で待機中。香坂と長谷は、街の向こう側を探してくるって」
「そっか」
ゆるめていた歩みを再び速めると、宮野が隣に並んだ。器用に人を避けながらついてくる。
「おまえ、どこ行くんだ?」
「カラオケ」
「は?」
俺はからかうように舞い踊る光の群を睨んだまま、答えた。
「カラオケなら女連れこんでもおかしくないし、密室を作りやすい。声も聞かれにくいだろ? 確証はないけど、思いついたからには行ってみる」
「長谷もおんなじこと言ってたぞ。丈部たちは街のほうまでは探してないって。ただ、向こうが車だったら……」
「そのときはそのときだ」
考えれば考えるほど、希望も絶望も生まれてくる。それでも立ち止まるわけには、あきらめるわけにはいかなかった。
「どうすんだ?」
「追いかける」
きっぱりと断言すると、宮野は沈黙した。しばらくして、ため息をつくように呟く。
「……なんか気ぃ抜けるなぁ」
「なんで」
「だってあの長谷がカリカリするほど焦れったかったくせに、自覚した途端これだろ。なんか肩透かし食らった気分っつうか……まぁ、いいことなんだけどさ」
苦笑の気配につられ、俺は宮野を見上げた。だいぶ高い位置にある優しげな目を更に和ませ、彼は笑っていた。
「おまえって、神崎のことだけじゃなくていろんなことに対して一歩引いてるだろ。自己主張しないっつうか、結構他人を優先してるよな」
俺は口を挟まなかった。挟んではいけないような気がした。
「それはおまえのいいとこなんだろうけどさ。手を伸ばせば届くもんまで見過ごしてんのは、かなり歯痒かったな。だからこうやっておまえから動き出して、ちょっと安心した」
そんなことを言う宮野の顔が本当にほっとしたようなものだったから、俺はなんの言葉も返せず前に向き直るしかなかった。
どうしてこうも俺の周りにはお人好しばかりいるのだろう。ふざけているようでいて、その根底にある思いは限りなく真摯だ。
馬鹿にすることは簡単で、だが気づかずに裏切っていたら、きっと悔やんでも悔やみきれなかった。
「だから、今度こそきっちり奪い返してこいよ。逃げるなんてナシだからな」
「……ああ」
背を叩く力強い掌に、俺ははっきりと頷いた。決意と覚悟を拳の中に握りこむ。
そして何気なく視線を向けた先に、俺は探し求めていたものを見つけた。あまりにも唐突な、あっけない発見に、思わず自分の目を疑う。
「あ、あそこ!」
遅れて宮野も気づいたらしい。それが見間違いではない何よりの証拠だと理解した瞬間、俺は走り出していた。
だれかとすれ違うたびに体当たりするような勢いで、ひたすらカラオケボックスの看板目指して突進する。宮野とともに人混みを抜けると、薄汚れたガラスのドアを押し開いた。
「いらっしゃ……って、うわ!」
入ってすぐ目の前にあるカウンターでにこやかに出迎えた店員が、ぎょっとしたように身を退いた。それにかまうことなく、俺はまくし立てるように尋ねた。
「女連れで入った大学生ぐらいの男、いませんか? ポニーテールの、水色のビキニ着た女の子と一緒なんですけど」
「え、あ……ええっと、確かご来店されたかと」
「何号室ですか!?」
「へっ? あの、二階の二◯五号室……っちょ、お客さん!」
すぐに階段に向かい、一気に駆け上がる。慌てたように店員が喚いていたが、何を言っているのか耳に入らなかった。
階段を上がった先には、細い廊下がまっすぐ伸びていた。両側の壁にずらりとドアが並び、突き当たりでふた股に分かれている。あちこちの部屋から洩れてくる微かな音楽が混じり合い、背中がむずむずするような不協和音を奏でていた。
俺たちは、ドアに記された部屋番号を確かめながら廊下を走り抜けた。二◯一、二◯二、二◯三……。
「あった!」
宮野が声を上げた。ぴったり閉じたドアにくすんだ金色で記された部屋番号は、二◯五。
俺は迷わずドアを開け放った。どっと押し寄せてくる大音量の津波。
カラオケボックスの個室のなかでは広い部類に入るであろう部屋には、人影が八つ。大学生とおぼしき男が五人、彼らと同じか少し下かという年頃の女が三人。
そこに、彼女が、いた。
突然の乱入者に固まっている他の連中と同じように、茫然と目を瞠っている。肩を竦め、壁に背を押しつけて――まるで、隣の男に追い詰められたように。
彼女の隣に座っていたのは、間違いなくあの高見沢という男だった。
俺は深く長く息を吐き出すと、部屋の中に踏みこんだ。
声にならない声で誰何してくるいくつもの視線を無視して、彼女の前に立つ。さすがに街中へ来たからか、水着の上に見覚えのあるパーカーを羽織っていた。それでも白い胸元やそこから続く滑らかな腹部は顕で、俺は臓腑が焼け爛れる錯覚を抱いた。
「…………はじめ?」
ぽかんと、そう表現するしかない顔で彼女は呟いた。俺は無言で手を伸ばすと、その細い腕を掴んで立ち上がらせた。
「帰るぞ」
力をこめて手首を握り締めると、彼女はゆっくりと瞬いた。深い色合いの瞳がようやく現状を理解したように、まっすぐ俺を見つめる。
「うん、……うん」
震える唇を引き結び、最初は小さく、次はもっと大きく頷いた。彼女の体からゆるゆると強張りが解けていく。
「お……おいおい、ちょっと待ってよ」
高見沢が引きつった笑みを浮かべ、もう一方の彼女の手を掴んだ。彼女の薄い肩がぴくりと跳ねた。
「いきなり入ってきて、それはないんじゃないの? ってか、きみだれ? この娘は俺らのほうが先約なんだけど」
彼女の肌に触れる男の手。真っ白な半紙が悪意のような墨の色に染まっていく、そんなおぞましさ。
彼女が、汚れる。
「……手ぇ放せ」
「は?」
「こいつに触んな」
殺意と憎悪が迸る。その毒が一瞬で全身を駆けめぐったように、高見沢の顔から血の気が引いた。
「な、なん……」
高見沢はなんとか口を動かそうとしていたが、どもるだけで言葉になっていなかった。静かに身の内を蝕んでいく昏い感情の命じるまま、男との距離を詰めかけて――。
「ちょっとお客さんたち、何してんですか!」
騒々しく駆けこんできた店員の怒鳴り声に、俺は踏みとどまった。
店員の登場に驚いたのか、高見沢の手がゆるんだ。俺は素早く彼女の体を引き寄せると、踵を返して宮野に声をかけた。
「宮野、行くぞ」
「ん。ああ」
「……っ、おい、待てよ!」
しつこく食い下がろうとする高見沢を一瞥すると、やつはぐっと押し黙った。盛大な舌打ちのあと、忌々しそうに目を逸らす。
彼女の手を引いて部屋を出る。戸惑いのまなざしを向けてくる店員を無視して、俺たちはカラオケボックスをあとにした。
追いかけてくる者はいなかった。もう彼女に対してどうこうしようとする意志はないのだろう。それならそれでいい。
彼女はずっと黙っていた。俺も何も言わなかった。今はただ、掌の中のぬくもりを感じていたかった。生まれたときからそばにあった、これからもそうであってほしいと願うもの。
大切なものを取り戻せた。その事実が、ようやく安堵となって胸を満たす。
手放してしまえば、あっけなくだれかにさらわれてしまう。それが我慢できないのなら、つないだ手を放さなければいい。
なんて簡単で、困難なことなのか。
それでも、俺の答えは決まっている。迷って迷って、遠回りの果てにたどり着いた場所は、すべてのはじまりだった。
だからもう、そこから逃げ出したりなんてしない。世界中のどこを探しても、俺の居場所はただひとつなのだから。
カラオケボックスの看板が乱舞する光に埋没した頃、俺は彼女の手を握り直した。それに応えるように、儚さすら感じる指がしっかりと握り返してくる。
それだけでよかった。それ以上の言葉なんて、なかった。