Act.3 青い海と試練の夏(6)
06 きみのとなりへ(1)
泣いている女の子がいた。
寂しいと、ひとりぼっちはいやだと、泣いている女の子がいた。
(泣かないで……)
俺がしてやれたのは、彼女の隣に並んで俯いた頭を撫でながら、必死に慰めることだけだった。
(おれがそばにいるから。ずっとずっと、一緒にいるから)
彼女の涙なんて見たくなかった。
いつだって、笑っていてほしかった。
だから、約束をした。
傲慢な思いこみかもしれないけれど、俺の隣にいる彼女は、どんなときも笑顔で、楽しそうで――幸せそうだったから。
そばにいると。ずっと一緒だと。大人になろうとじいさんばあさんになろうと、決して離れないと。
約束を、した。
――俺が、彼女の隣にいたかったから。
「ねぇ、苑ちゃん見なかったっ?」
どこか焦っているような水沢の声に、俺は思わず振り返った。
「どうしたの?」
不安に追い立てられたような表情で駆けこんできた友人に、松下はテーブルを拭く手を止めた。店じまいの準備をはじめていた仲間たちの視線が、自然とふたりに集まる。
「お昼休みに出かけたっきり帰ってこないの! もう夕方なのに……」
一瞬、呼吸が止まった。松下は眉をひそめる。
「一度も帰ってきてないの?」
「うん。交代の時間までには戻ってくるって言ったのに……苑ちゃんに限って、おかしいよね!?」
「ケータイは?」
長谷の冷静な指摘に、水沢は首を横に振った。
「つながんないの。何度かけても――電源、切れてるみたいで」
「おいおい、それって……」
声を上げかけた香坂は、何かに気づいたように口をつぐんだ。その隣で、宮野が腕を組んで唸る。
「神崎、だれかと一緒に出かけたんだよな?」
「昨日ナンパしてきた大学生とね」
松下は呟くように答えると、両手を固く握りしめている水沢の肩にそっと手を置いた。
「いつ気づいたの?」
「一、二時間ぐらい前。さすがに遅いと思って、でもケータイもつながんなくって……藍ちゃんと一緒に探したんだけど、全然見つかんないの!」
水沢は唇を震わせると、崩れ落ちるようにしゃがみこんだ。
「どうしよう。苑ちゃんに何かあったらっ……」
「あっちゃん、落ち着いて」
松下は膝を折ると、水沢の背を優しく撫でた。そこへ勢いよく丈部が飛びこんでくる。
「丈部、神崎は?」
「いや……」
尋ねる宮野に、丈部は息を整えながら言葉を濁らせた。水沢は顔を歪ませ、深く項垂れた。
「――それより、いやな噂を聞いた」
「噂?」
「ああ。別の海の家の店員が言ってたんだが、あの高見沢っていう大学生、ここらじゃあまり芳しくない評判で有名らしい。見かけに似合わず、毎年何人も女を引っかけては遊んで捨ててるそうだ」
すうっと腹の底が冷えるような感覚を覚えた。おまけに、と丈部が苦い口調で続ける。
「仲間がいるらしい。そいつらも似たり寄ったりの連中だそうだ」
吐息まで凍りつきそうだった。
ざわざわと項が粟立つ。寒気を感じているというのに、握りこんだ掌の内側がじっとりと湿っている。
彼女は今、どこにいる?
最後に交わした、冷たいまなざしがフラッシュバックする。次いで、彼女に親しげに話しかけていた男の笑顔が。
彼女を手放したのはだれだ? 好きにすればいいだなんて言ったのは、大切なものを見誤ったのは。
俺だ。
だから、俺の隣に彼女はいない。
だから、彼女がいるのは――。
俺ではない、俺以外のだれかの隣。
脳裏で、白い光が爆ぜた。
「……本原!?」
驚きに染まった香坂の声が聞こえたときには、もう走り出していた。蹴るたびに舞い上がる砂は熱を失い、あたりは夕闇に呑まれつつあった。どこへ行けばいいのかなんて思いつかず、ただ心の叫ぶままに足を動かした。昼の賑わいが嘘のように人の声は途絶え、自分の荒い息だけが耳を掠めていく。
後悔か怒りか嫉妬か、それとも他の感情か。爆発するように噴き出すものにどんな名前をつければいいのか、わからなかった。
ただ、ただ、彼女がいないという事実が許せなかった。俺の隣ではなく、他人の隣にいることが我慢ならなかった。
俺以外のだれかが彼女に触れることも、笑わせることも、怒らせることも、泣かせることも、傷つけることさえ認められなかった。
笑うがいい。俺は馬鹿だ。とことん追い詰められなければわからないような大馬鹿者だ。
勝負に負けることがなんだ。雀の涙のような男のプライドを踏みにじられても、俺には譲れないものがあるのだ。
俺は、彼女が好きだ。
腐れ縁よりもたちの悪い幼なじみが。どうしようもなくわがままで自己中心的な女王様が。
守れるかどうかもわからない約束に、心の底から嬉しげに笑った女の子が。
神崎苑香が。
好きだ。
ただひとりの女として想う。これからの人生すべてを捧げてもかまわない。欲しい。手に入れたい。
好きだ。
好きだよ、――苑香。
おまえのことが、だれよりも。
好きに決まっている。
手遅れかどうかなんてわからない。間に合わないかもしれない。だからどうした。
奪わないでどうする。取り戻さないでどうする。
女王様の思惑も、友人たちのお節介な親切心も関係ない。俺が望むから、だからこそ。
覚醒しきった獣が吠え猛る。荒々しい響きは身の内を駆けめぐり、俺はひたすら残照に染まる砂浜を疾走した。