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俺と女王様  作者: 冬野 暉
本編
7/19

Act.3 青い海と試練の夏(5)

 05 結び目をほどくとき




 覆水盆に返らず。こぼれ落ちた水のように、一度失われたものは決して元に戻らない。

 その事実に思い至ったとき、俺は壁に頭突きをかましたくなった。

「女子のおしゃべり攻撃に煽られてイライラしまくった結果、やけになってせっかくの降伏の機会を逃した――と」

 テーブルの向こうで頬杖をついた長谷は、呆れを通り越して哀れむようなまなざしを向けてきた。

「なんていうか……本原って」

「頼むから言わないでくれ。そしてそんな目で見ないでくれ」

 この世から消えてなくなりたい気分とは、こんな感じだろうか。俺は額をテーブルにくっつけながら考えた。

 ひと晩経って、頭が熱いような冷めているようなおかしな状態が落ち着いた途端、俺は昨夜の自分の行動に沈没した。

 後悔なんてものではない。もしもタイムマシンに乗れるなら、三回回ってワンと吠えたっていい。ドラえもぉん! ……なんていう現実逃避に走りたくなるほど、マリアナ海溝よりも深く落ちこんだ。

 昼時のラッシュを過ぎ、海の家は束の間の平穏を味わっていた。俺と長谷は、宮野や香坂と交代して休憩に入り、店の隅で遅い昼食をとっていた。

「まあ、女子もちょっとやりすぎたかもねぇ。あれは素で楽しんでたし」

「特におまえのカノジョとかな……」

 松下経由の長谷の情報によると、昨夜の女子のおしゃべりは、彼女の依頼による俺への精神攻撃あてつけだったらしい。道理で妙なしつこさを感じたわけだ……。

「果林のいいところは、いつでもどこでも自然体でいられるところだよ?」

「さりげなくのろけてんじゃねぇよ。時と場合によるだろうが。少しはTPOをわきまえろ!」

「大丈夫。なぜか僕らがわきまえる前に、周りが僕らに合わせてくれるから」

「……おまえらって、ホント似た者カップルだよな」

「そう? 嬉しいなぁ」

「褒めてねぇよ!」

 ああ、もう。こんなときにもツッコまずにはいられない自分の性が悲しい。

 再びテーブルに沈みかけた俺を、ほんの少し口調の変わった長谷の声が引っ張り上げた。

「でもさ、本原たちも充分似た者同士だよね」

 あの心臓の裏まで射抜くような目とかち合う。

「……どこが」

「意地っ張り」

 ふふ、と長谷は吐息のような笑い声を洩らした。

「きみも神崎女史も、相当な意地っ張りだよね。負けず嫌いっていうか、傍から見てるとこっちが苛つくぐらい頑なになってる」

 柔和な笑顔で吐かれた台詞は、長谷のひんやりとした怒りを滲ませていた。

「何をそこまで抵抗するの? さっさと捕まってくっつけばいいのに。今はまだ笑って傍観してられるけど、そのうちみんな怒り出すよ?」

 もう怒ってるじゃねぇか、とは言えず、俺は口をつぐんだ。不機嫌な長谷に図星を指すのは、火に油を注ぐことに等しい。ごまかすように焼きそばをつつくしかなかった。

「今日だって、そんなに落ちこむくらいなら止めればよかったのに」

 そう。

 勝手にすればいいという俺の答えどおり、彼女は例の大学生と出かけていた。休憩に入るや否や、あの水着姿のままで。すれ違い様に向けられた視線は、絶対零度を下回っていた。

「神崎女史もムキになって、ちょっとあれは危ないよねぇ。どうするの?」

「……わかんねぇ」

 俺は箸を紙皿に置き、拳を握りしめた。

「どうすればいいか、わかんねぇんだ。追いかけられると逃げたくなるし、追いかけてもらえなくなるって考えたら、怖い。だれかに持ってかれるなんて我慢できねぇ。……だけど」

「手に入れられるかも、なんて考えられない?」

 大袈裟なくらい喉が鳴った。

「本原はさ、最初からあきらめて――ううん、満足してたよね。神崎女史のことが好きでも、追いかけてはなかった。だって隣にいられたんだから、そんな必要なかったんだ」

 でも、と長谷は続けた。

「それは幼なじみっていう前提があったからこそで、その前提が崩れてようやくきみは焦り出した。それでまぁ、あんな失態をしちゃったわけだけど」

「……笑うなよ」

「ごめんごめん。それで逃げ出して、ところがどっこい相手は避けるどころか追いかけてきた。自分の完全な片想い、神崎女史にとって自分は幼なじみでしかないと思ってたきみには、まさに寝耳に水、鳩に豆鉄砲だったわけだ」

 何か少し違わないだろうか?

 俺の微かな違和感を置き去りにして、長谷はさらりと、まるで明日の天気でも話すかのように最終宣告を下した。

「つまり――本原は、神崎女史の気持ちを信じられないんだろう?」

 絶句、というものを俺ははじめて体験した。

 俺が、彼女の想いを。彼女を。

 ――信じられない?

「本原にとって、両想いなんて絶対ありえないことだから信じられないんだ。きみは神崎女史の隣にいたいけど、彼女の気持ちを信じられない矛盾を抱えて苦しい。これからもふたりが一緒にいるためには、恋人っていう関係じゃなきゃいけないから」

 長谷は凪いだ水面のような表情で頬杖を外し、組んだ両手を口元に当てた。

 ……俺は。

 俺にとって彼女は、だれよりも近くにいる、いてほしいと望む存在だ。

 少しでもたくさんの時間を共有したい。笑顔も涙も、すべて知りたい。知ってほしい。

 裏切りだとか不信感だとか、そういう次元からこの世で一番遠いはずの彼女を、俺が。

 俺が、信じられない、なんて。

「そんなの……最低だ」

 こぼれ落ちた呟きは、今にも消えそうなほど震えていた。

 何が最低最悪の女だ。

 俺が、俺こそが最低最悪の男だ。

 吐き気がした。

 嘘だと笑い飛ばせたらどんなにいいだろう。だが長谷の言葉はどこまでも真実で、俺は打ちのめされるしかなかった。

 死ねばいい。

 死んでしまえばいい、俺なんて。

 闇のような絶望に囚われかけた思考を、ふっと、長谷の声が掬い上げた。

「……所詮、部外者の僕が判断すべきじゃないけど」

 彼の顔は厳しく、けれど――優しかった。

「まだ間に合うなら、きみは最低にはならないと思う」

 長谷は本当に容赦がない。相手がどんなに弱っていようと、躊躇なく鋭い真実の刃を突き立てる。逃げるな、目を逸らすなと。

 それが相手を思っているからこその行いだと、俺は知っている。

 世渡り上手のようでいて、本当はとても不器用なこの友人の心根を、知っている。

「すべては本原と神崎女史次第だ。ねぇ、本原」

 もつれて絡まり合った糸を、その固い結び目をそっとほどくように。

 静かな声が、するりと俺の心に染みこんでいく。

「きみは、どうしたいの?」

 どうすべきかではなく、どうしたいか。

 俺は。

 俺は――。

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