Act.3 青い海と試練の夏(2)
02 少年たちの夜
長い、本当に長い一日を終えて。
宿泊先の民宿に戻った俺たちは、風呂で汗を流し、素朴ながらも海の幸がふんだんに使われた夕食を堪能したあと、早々に男女別にあてがわれた部屋へ引っこんだ。明日に備えてあとは寝るだけである。夜更かしできるほどの元気は残っていなかった。
俺としては非常にありがたかった。彼女と一緒にいるのは、泣きたくなるほどいたたまれなかったのだ。せっかくの夕食も味わうどころではなかった。部屋へ戻るとき、振り向いたら瞬殺されそうな視線に背中を抉られたような――気のせいではないだろう。正直、明日が怖い。
「も、もう駄目だ……」
部屋に着くなり、香坂は精も根も滓が残らないほど搾り取られたような声で呟くと、そのまま畳の上にくずおれた。
「おい香坂、寝るなら自分の布団敷いてから寝ろよ」
俯せのまま動こうとしない体を爪先でつつくと、死んだ魚のように虚ろな目が見上げてくる。
「……無理、絶っ対無理。今そんな重労働したら、おれ死んじゃう」
「まったく重労働じゃねぇし、布団敷くだけで死ぬようなやつがいるか」
「いーるーのぉ! ここにいーるーのぉ! なんなのおまえ、そんなにおれを過労死させたいわけ!?」
「だから過労死するわけねぇだろ! 駄々こねてねぇで、さっさと起きろ!」
「本原の鬼ぃ! サド! 友人虐待で訴えてやるぅ!」
「そんな虐待の分類あるかっ!」
本気で泣き叫ぶ香坂。小学五年生の彼女の弟だって、こんな馬鹿らしいというか阿保らしい醜態は見せないぞ……?
「なんだぁ、どうした?」
自分の布団を敷き終えた宮野がやってくると、すかさず香坂が泣きつく。
「宮野ぉっ、ヘルプミー! 本原がいじめるんですけど!」
「そうなのか? 駄目だろ、本原」
「いや、明らかにいじめてねぇし。こいつが布団敷かねぇって駄々こねてんだよ」
俺の反論に、宮野は腕を組んだ。
野球部でキャッチャーを務める宮野は、香坂とは対照的に大柄で実年齢よりも老けて見られやすく、こういう親父臭い仕種がよく似合う。
「まぁ、かなり仕事きつかったしな。宮野は文化部だし、へろへろになってもしょうがねぇだろ。俺が代わりに敷いてやるよ」
「マジで!? やったぁ、さっすが宮野! 頼れるみんなの兄貴!」
俺は思わずよろめきそうになった。
「おいこら待て、宮野。甘やかすな! こいつはおまえの弟じゃなくて同級生なんだぞ!」
「まぁ似たようなもんだろ」
「似てねぇよ! しかも香坂のほうが誕生日早かったじゃねぇか!」
「そんな細かいこと気にすんなって」
あっはっはと豪快に笑う友人に、俺はこめかみに痛みを覚えた。というか、たかが布団を敷く敷かないということに何を大騒ぎしているのだろう……。
虚しさに黄昏れていると、どこかのんびりとした声がかかった。
「僕も本原の意見に賛成かなぁ」
部屋の隅を陣取るように敷かれた布団の上に胡座をかき、文庫本を読んでいた長谷悠也が顔を上げて、にっこりと笑った。
「ほら、テレビの子育て特集とかで、甘やかしすぎると将来自立できなくなるっていうじゃない。優しさも大切だけど、敢えて厳しく突き放すのも愛だと思うよ? 『飴と鞭』って言葉もあるしね」
正論だが、ところどころにツッコみたい箇所があるのはわざとに違いない。しかし期待に添えるだけの余力はなかったので、俺は黙っていた。
長谷の言葉に宮野は目を瞬かせると、ふむ、ともう一度思案した。
「言われてみればそうかもな……うん、そうだな。手を出したくても我慢して見守ることも大事だよな」
「えぇ! ちょっ、そんなあっさり!?」
驚愕に目を剥いた香坂の肩を叩き、宮野は父性溢れる笑みを浮かべた。
「がんばれ、香坂。俺はおまえならやり遂げるって信じてるぞ!」
「…………マジっすか」
いつの間にかスポ根漫画のワンシーンのようなやりとりをしているふたりからそそくさと離れ、俺は自分のスペースに布団を敷きはじめた。実は長谷の隣だったりする。
「さっきの、本原なら冴え渡るツッコミを入れてくれると思ったんだけどなぁ」
つまらなそうな視線を向けてきた友人を、俺は力なく睨み返した。
「いちいち確信犯的なボケにまでつき合ってられっか……」
「友人甲斐のないやつだなぁ」
くすくすと心底おかしそうに笑われても真剣味がない。
俺は黙々と布団を敷き終え、待望のシーツの海にダイブした。優しく体を受け止めてくれるやわらかい感覚に、全身の筋肉が一瞬でゆるむ。
「うお〜……なんかもう天国だ……」
心地よい眠りに引きこまれた意識を、しかし笑みを含んだ長谷の声が容赦なく掬い上げた。
「だいぶお疲れみたいだねぇ。まぁ、あれだけ殺気をビシバシ飛ばされれば神経もすり減るよねぇ」
――頭から冷水をかけられたようだった。
かばっと顔を上げると、爽やかでありながら腹黒さを感じずにはいられない笑顔の長谷と目が合った。
「で、神崎女史と何があったの?」
肌の白さとは対照的な黒い前髪の奥から、同色の双眸が見つめてくる。心の奥底まで見透かされそうなまなざしは、彼の恋人のものとよく似ている。
「おかしいなぁとは思ってたんだよねぇ。最初は僕らだけで来るはずだったのに、突然神崎女史たちもだなんて。まぁ、果林と一緒にいられるから不満なんてないんだけどさ」
さりげなく惚気ながら、長谷はじわじわと追い詰めてくる。瞳孔と虹彩の区別がつかない瞳をよぎるのは、愉悦の光。
絶対おもちゃにされている……。
憤りたいような嘆きたいような、なんとも微妙な心境になり、俺は押し黙った。今更ああだこうだと騒いだところで、長谷の性格が変わるわけではない。用意周到に張りめぐらされた蜘蛛の巣のごとく、この友人から逃げることなど不可能なのだ。おとなしく糸に巻かれ、妥協しながらつき合っていくしかない。
人生、あきらめが肝心である。
俺は、深く長く重いため息を吐き出した。
まったく、彼女といい友人たちといい、どうしてこう俺の周囲には灰汁の強い人間が多いのか。そしてなぜ、俺はそんな彼らとつき合っているのだろうか。
類は友を呼ぶ? いやいや、俺は平々凡々な一般人だ。そのはずだ。
後ろのほうでは、宮野と香坂がまだスポ根漫画を演じているようだった。
「無理だ……っ、おれには無理なんだ!」
「逃げるな! つらくても苦しくても、勝利はその先にしかないんだ!」
俺の本当の休息は、まだまだ先のようだった。