Act.3 青い海と試練の夏(1)
波瀾万丈(かもしれない)決着編。
01 試練の夏、来りて
夏は、試練の季節。
そんなことを言ったのは、いったいだれだったろうか。今となっては思い出せないが、全力で頷きたいほど納得したことは憶えている。
そう。夏は試練の季節だ。
――男にとって。
「青い空、青い海……そして白い砂浜で微笑む水着のエンジェルたちー!」
ガッツホーズとともに、香坂京平が焦げつくような陽射しにも負けないほど熱い歓声を上げた。その眦にはうっすらと涙が滲んでいる。
馬鹿だ。
「来た来た来たよ、夏休みー! 海水浴ー! おれはこんな熱い日々を待ってたんだぁ!」
「遊びにじゃなくてバイトに来たんだけどな」
灼熱の太陽に向かって吠える友人に、俺は空気の入っていない浮き輪の束を押しつけた。
「ほら、空気入れて並べてこい。ちゃんと大きさ別にだぞ」
「……おい、本原」
香坂は拳を下ろすと、呪い殺さんばかりの目でこちらを見た。
「お〜ま〜え〜はぁっ! せっかく盛りに盛り上がったテンションを急降下させるようなことをぉ!」
「事実を言ったまでだろ。もうすぐ昼だから、それまでに終わらせとけよ」
「あーもー、この朴念仁が! はいはい、わかりましたよ〜。働きゃいいんだろ、働きゃぁ」
「そうそう。あ、ついでにそこにあるビーチボールとかボートもよろしく」
「何気にパシりやがってるな、こんちくしょう!」
うがー! っと香坂はしばらく頭を掻きむしっていたが、結局がっくりと項垂れて浮き輪の束を受け取った。
「あぁ……グッバイ、おれのマーメイドたち……」
先ほどまでの暑苦しさが嘘のような、生気の薄い顔でぶつぶつと呟いている。俺はため息をつくと、小柄なためにやや低い位置にある香坂の肩を叩いた。
「まぁ、元気出せ。接客中にいやっていうほど天使だか人魚だかの水着姿を拝めるし、仕事が終われば声もかけ放題だろ」
「マジでか!?」
たちまち香坂の顔に生気がみなぎる。器用だよなぁ、と呆れながら、俺は期待に輝く目に頷いた。
「ああ」
たぶん。
「いよっしゃぁ! そうと来ればじゃんじゃん働いてやるぜー! 待ってろよ、渚のフェアリーたち!」
鼻息荒く、香坂は再び拳を突き上げる。……こいつ、本当に馬鹿だ。
「元気だなぁ、香坂」
屋外の客席用のビーチパラサルを広げていた宮野照史が苦笑した。俺は肩を竦めると、もうひとりの友人の許へ向かった。
「いつものことだろ。……なんか手伝うことあるか?」
「いや、これでちょうど終わりだ」
ぱんっと張ったビーチパラサルをテーブルの中央に空いた穴に差し、宮野はひらひらと両手を振った。
「お疲れさん」
「おまえもな。これから昼だっけ?」
「ああ。飯は手が空いてるときに、各自適当に食べろってさ」
「うっわ、マジかよ」
Tシャツの胸元をつまんでぱたぱたと扇いでいた宮野は、顔をしかめた。
「超いい加減だな」
「まぁ、しょうがないだろ。海の家のバイトなんて、どこもそんなもんだ」
俺は額に浮かんだ汗を手の甲で拭った。刺すような熱気に体中の水分が蒸発してしまいそうだ。恨めしいくらい見事に晴れ上がった空を仰げば、その真ん中で太陽がぎらぎらと輝いている。
視線を下ろせば、視界に飛びこんでくるのは果てしなく広がる真夏の海。波頭のきらめく遥か彼方、まっすぐに伸びる水平線の上に朧な船影が見える。砂浜は海水浴客でごった返し、ビーチパラサルや人々の水着の色が目に痛いほど鮮やかだ。
一学期を終え、ようやく迎えた夏休み。俺は友人たちとともに、海の家へアルバイトにやってきていた。期間は一週間。海の家と経営者が同じ民宿で泊まりこみだ。ハードだが、それなりに報酬はいい。
文句はない。――あるひとつを除けば。
「そういや、神崎たちは?」
ふと宮野の口から飛び出した名前に、思わず心臓が跳ね上がった。
「あ、ああ。店ん中で片づけしてる」
激しくなりそうになる鼓動を鎮めながら、できるだけ平然と答える。宮野は特に気にするでもなく、「そっか」と呟いた。
俺はこっそりとため息を洩らした。
そう、文句はない。ただひとつ――彼女がアルバイトのメンバーに入っているということを除いて。
以前だったら素直に喜べたのだろうが、今はその反対だ。香坂ではないが、思わず頭を掻きむしりながら唸りたい気分だ。
なぜなら。
「男子ぃ、そっちは終わったぁ?」
ひと際明るい声とともに、店の中からこちらへやってくる姿があった。女子メンバーのひとりである水沢明音と、……彼女だ。
他のメンバーと似たり寄ったりの、白い半袖のパーカーに灰色のショートパンツ、明るい水色のビーチサンダルという出立ち。長い髪はひとつに結い上げられ、不揃いな毛先が項のあたりで揺れていた。
彼女は平均よりもやや細めの体型をしていて、そのせいか手足がすらりと長く見える。しなやかに伸びた四肢は、思わずハッとするほど白かった。
彼女の肌に釘づけになり、俺は慌てて目を逸らした。遠慮なく突き刺さってくる鋭い視線を感じる。
睨んでいる。絶対睨んでいる。氷のように冷ややかな怒気がひしひしと伝わってくる。
――逃げたい。
もうアルバイトなんぞ放り出して、今すぐここから逃亡したい。情けないと笑われようが、それが偽らざる俺の本音だった。
しかし。
現実はそう甘くない。事情を知らない友人たちの手前、仕事を押しつけてひとり逃げ帰ることなんてできない。それに、彼女は決して逃げることを許さないだろう。本当ならアルバイトのメンバーは俺を含めた男子だけだったのに、俺が海の家のアルバイトに行くと聞くなり、わざわざ男子と同数の女子に声をかけて参加したのだから。用意周到というか、身の危険を感じるのは気のせい……ではないはずだ。
そもそもどうしてこんなことになったのかといえば――完全な自業自得だ。
俺は幼なじみである彼女に、まぁいわゆる片想いというものをしていた。そしてつい最近、俺の気持ちが彼女にバレたのである。
……寝こみに口づけようとしたところで彼女が目覚めるという、最低最悪な形で。
それ以来、俺は彼女を避けている。
わかっている。自分でも悲しくなるほどのヘタレだと思う。今までさんざん幼なじみという関係に甘んじていたくせに、勝手に焦って自滅するという、どうしようもない駄目っぷりだ。彼女に非はないのに、まるで自分が被害者のように逃げ回っている。
吐き気がするくらい、俺は臆病で卑怯だ。
それでも。
どうしても、彼女と向き合う勇気を持てない。彼女の瞳をまっすぐに見ることができない。
そしてついに、彼女が動き出した。
逃げられない。
だったら――。
「――はじめ」
驚くほど近くで響いた彼女の声に、俺は思わず息を呑んだ。
「えっ、な……」
「なぁにぼさっとしてんのよ。さっきの話聞いてなかったの? あたしとあんたは売り歩き! ほら、行くわよ」
彼女はじとりと大きな目を半眼にすると、俺の腕を両手でしっかりと掴んだ。俺よりずっと握力は弱いはずなのに、俺は彼女を振り払うことができず、そのまま引きずられるように歩き出した。
「おい、ちょっ……苑香!」
「今日ものすっごく暑いんだから。さっさと売って戻るわよ」
どんどん先を行く彼女は俺の言葉を遮るようにまくしたてると、ちらりとこちらを一瞥した。逸らすこともできず、深みのある瞳とまともにぶつかる。
その瞬間。
彼女はすぅっと目を細め、うっすらと、けれど確かに笑った。まなざしの奥に氷片を秘めたような、獲物を追い詰める獰猛な獣を思わせる笑み。
逃がさないわよと、とびきり甘く、毒々しい声でささやかれた気がした。
今は激しく太陽が燃え盛る季節だというのに、背筋を寒気が駆け抜ける。
――俺に残された選択肢は、彼女に捕えられること、ただひとつ。
俺の、短くて長い、試練の夏がはじまろうとしていた。