Act.2 臆病者の秘密
いわゆる発端編。
きっとこの秘密は、だれにも言わずに墓まで持っていくに違いない。
これは幸運というべきか、それとも不運というべきか。
俺はドアを開けた姿勢のまま、目の前の光景を喜ぶべきか嘆くべきか悩んでいた。
いつものように押しかけてきた女王様の仰せに従い、ふたり分の麦茶とポテトチップスを持って階下から戻ってきてみれば、彼女はベッドの上で気持ちよさげに熟睡していた。思いきり抱き締めているのは俺が愛用している抱き枕だ。
一瞬、据え膳だとか棚からぼた餅なんていう言葉が脳裏をよぎる。
「……いやいや、そうじゃねぇだろ」
いくらハイハイもできなかった頃からのつき合いである幼なじみだからといって、普通健全な男子高校生の部屋で寝るだろうか。しかもベッドの上で。
なんだかいたたまれなくなって、俺は無防備すぎる彼女の寝顔から視線を逸らした。
とりあえず足音を忍ばせて部屋の中に入り、そっとドアを閉める。女王様ご所望の品が載った盆を座卓の上に置くと、重いため息がこぼれた。
「なめてんのか、ホントに……」
ある意味、これは彼女が俺が信頼してくれているという証だ。だが同時に、俺は彼女にとって異性ではないという、無情な宣告でもあった。
素直に嬉しいとは思えない。むしろ、冗談じゃねぇと吐き捨ててやりたい。
苛立ちのような、虚しさのような、苦い感情がこみ上げてくる。
俺はちらりと、眠る彼女を一瞥した。
腕の中に抱えこんだ抱き枕に頬を寄せ、しっかりと瞼を閉ざしている。微かに聞こえてくるのは規則正しい寝息。目を覚ます気配はまるでない。
……いったい、どうすればいいのだろうか。
いや、起こすべきなのだろう。そうしなければならないと頭ではわかっている。しかし――実行できそうに、ない。
俺はもう一度ため息をつくと、そろりと立ち上がった。できるだけ静かにベッドへ近づく。
スカートから覗く白い膝が目に飛びこんできた瞬間、思わず泣きたくなった。どうしてよりよってスカートなのだ。「あともう少し!」なんて思う余裕は、俺にはない。
抱き枕をぎゅっと抱き締めている、シャツの七分袖から伸びた細い腕。彼女に頬を寄せられている抱き枕が羨ましいとか考えてしまう俺は、もう駄目かもしれない。
ベッドに膝をかけると、スプリングが小さく軋んだ。ひやりとしたが、彼女は睫毛の一本すら動かさない。俺は薄い肩の横に片手をつき、身をかがめた。
長い髪は首の後ろへ落ち、滑らかな頬、すっきりとした顎の線が顕になっている。生白い肌の上に俺の影が落ちた。
――けれど、そのまま覆い被さることはできなかった。
彼女は寝入っている。こんなに近くにいても気づかない。
「……馬鹿にしてんのか?」
いや、違う。
無意識にこぼした恨めしげな呟きに、自嘲がこみ上げてきた。
彼女は何も知らない。恨むとすれば、幼なじみという曖昧な関係に甘んじている俺自身だ。
だから俺がどんなに苦虫を噛み潰そうが、彼女は関係ない。そもそもの原因を作ったのは、他ならぬ俺なのだから。
俺は中途半端に身をかがめたまま、唇を噛んだ。
ときどきわからなくなる。俺はどうしたいのか。今のまま、幼なじみという確固たるポジションを保っていたいのか。それとも、一か八かの勝負に出たいのか。
彼女に手を伸ばしたくても、拒絶されることが怖い。だったら幼なじみのままでいい――そう決めたはずなのに、歯痒くてたまらなくなる。
わがままな女王様。だがいつか、その存在は俺だけのものではなくなる。おそらく、そう遠くはない未来に。
近くて、こんなにも遠い。胸を掻きむしりたくなるような焦燥感が、じりじりと心を焼いた。
それでもなお、……手を伸ばせない。
「なっさけねぇなぁ、俺」
本当に情けない。あまりにも情けなさすぎて、乾いた笑いが洩れた。
――ああ、けれど。
たぶん潮時なのだ。あやふやな安心感で自分をごまかすことは、もうできない。漠然と、そんな予感があった。
ならば、残された選択肢はひとつだけ。
足りないのは、手を伸ばすための勇気。
俺は眠る彼女を見つめた。翳りのない、安心しきった寝顔。
薄く開きかけた唇に視線が留まる。
――どうせ奪うのなら、正々堂々と勝負したらどうだ。
だが今の俺には、こんな姑息な手段が精いっぱいだ。寝こみを襲うなんて最低だけれど、最後のあと一歩を埋めるためには、どうしても必要に思えてしょうがなかった。
彼女には秘密だ。
いや、きっとこの秘密は、だれにも言わずに墓まで持っていくに違いない。
女王様が目覚めないよう祈りながら、俺は残りの距離を静かに詰めた。