Act.3 青い海と試練の夏(10)
09 されど試練の夏は続く
夏の空には、今日も太陽が輝いていた。
光の粒のような飛沫を弾いて笑う人々。砂の上に刻まれた足跡を、打ち寄せる波があっという間に消していく。だが陽気な喧騒は絶えることなく、それどころか熱気となって広がっていくようだった。
もうすっかり見慣れた光景だ。この数日のうちに日常となりつつあるそれが、なぜか愛しい。
ここにいるだれもが同じ時を分かち合い、それぞれの夏を過ごしている。まるでひとつの物語を織り成すたくさんのエピソードのように。
俺も、彼女も、友人たちも。
「なぁににやけてるのかなぁ?」
含みを感じる声とともに、長谷が肩に手を置いて顔を覗きこんできた。おまえのほうこそ笑顔がにやにや言ってるぞ、とツッコみたい。
「昨夜の甘〜い逢瀬でも思い出しちゃってるの? いやらしいなぁ、本原ってば」
「違ぇよ! なんで断定形なんだよ!?」
「照れない照れない。で、結局どこまでいったの? まさかキス止まりなんてことはないよね?」
「デリカシーもプライバシーもない質問だな! 断固黙秘する!」
「うわぁ、ABCのAで満足しちゃったの? やだやだ、これだから初心者は」
「おまえら絶対覗き見してただろーッ!?」
あまりのありえなさに切腹したくなった。だれか、だれか出刃包丁を持ってきてくれ……!
最悪だ最低だ、と地面にめりこむ勢いで落ちこんでいると、ふ、と長谷が軽い吐息を洩らして笑った。
「でもまぁ、これでようやく安心できたよ。百点満点にはほど遠いけど、なんだかんだがんばってたと思うよ」
手のかかる教え子を見る教師のような目で、そんなことを言う。
鼻の奥がツンとするような切なさがこみ上げてきて、俺はわざとらしく鼻をこすった。
「だれかさんたちにさんざん尻を蹴っ飛ばされたからな」
「そうでもしなきゃ動かないようなヘタレだったからね」
くすりと喉を鳴らす長谷は余裕そのもので、俺は素直に降参した。
「……感謝してる」
どんなに馬鹿でも情けなくても見捨てずに、最後まで手を差しのべて背中を押してくれた。
彼らにめぐり会えたことは、俺の人生における最高の幸運のひとつに違いない。
「ありがとな」
長谷はくすぐったそうに目を細めた。
「僕らは、僕らにとっての当たり前のことをしただけだよ。……でも、その気持ちは受け取っておく」
大切にしてね。
最後に続いた言葉に、俺は力をこめて頷いた。
「ああ」
はっきりと口にはしない。だがそれはまぎれもない、俺と長谷との――彼女を思い、俺を思ってくれる彼らとの約束だった。
「……おや。噂をすればお姫様のお越しだよ」
何かに気づいたらしい長谷に促されて振り返ると、波打ち際からこちらへ向かって駆けてくる彼女の姿があった。
お姫様というよりも、女王様と称するほうがふさわしい――俺の恋人。
そう呼べることが叶えられた、今までもこれからもただひとりの、俺の好きなひと。
「また水着だけだし……」
「これから苦労するねぇ」
肩を叩く長谷の生ぬるい笑みが心に痛い。
「ふたりとも、せっかくの半日休みなのにそんなところで何してんのよ!」
再びポニーテールに結い上げた髪を弾ませながらやってきた彼女は、降り注ぐ陽光よりもまぶしかった。まっすぐ俺の傍らに寄ってきた時点で、頭のねじが二、三本ゆるんだ。
しかし、それでごまかされてはいけない。
「おまえなんで上に羽織ってねぇんだよ? あれだけ注意しただろうが」
「だって海に入んのよ? 塩水に濡れたら、洗濯してもべたべたになっちゃうもん」
「四の五の言わずに着ろ! あーもーいい、取ってくる!」
「ちょ、なんでそんなにうるさく言うわけ? 日焼け止めなら、水に濡れても落ちにくいやつだから大丈夫だってば!」
「そうじゃねぇぇ……っ!」
どこまで鈍感なんだと怒鳴りかけたとき、それまで静観していた長谷がにっこりとのたまった。
「神崎女史、神崎女史。本原は妬いてるんだよ。周りの男がみんなきみのこと見てるから」
「ばっ……」
「え?」
俺は一瞬呼吸困難に陥り、彼女はきょとんと目を瞬かせた。言葉を失ったまま硬直した俺に、彼女の大きな瞳が問いかけてくる。
「そうなの?」
ここで頷ける男がいたら、そいつは勇者だと思う。
固まり続ける俺に彼女は瞬きをくり返していたが、やがてにまぁっと口の端を持ち上げた。
「そっかぁ、そうなんだぁ……つまり俺の前だけで着ろってことね? だったら言ってくれればいいのに」
長谷と同種の表情を浮かべた彼女は、凍りついている俺から上着を奪って袖を通した。男物であるためにサイズが合わず、胸元を残して前身頃のチャックを閉めると、まるでそれだけ着ているようだ。これはこれでいい……よくない気がする。
「これでいいでしょ?」
満面の笑顔で小首を傾げ、腕にすり寄ってくる。俺はぎこちなく首を縦に振ろうとして、
「……って、ちょ、苑香さん!?」
「なぁに?」
離れようとすればするほど、彼女はますます密着してくる。腕に当たるやわらかい何かがふにゃりとたわんだ感触に、俺は総毛立った。
身長差から見下ろす形になってしまう俺の視線の先には、狙ったかのように上着から覗く彼女の胸元。白い肌に刻まれた影の意味を考えるな……!
彼女は爪先立って俺の耳元に唇を寄せると、息を吹きこむようにささやいた。
「今度はふたりっきりで来ようね。――もちろん、お泊まりで」
ごちそうさま、と呟く長谷の声が遠く聞こえた。
一難去ってまた一難。
どうやら、俺の試練の夏はまだまだ続くようだ。