Act.3 青い海と試練の夏(9)
08 満開の花火の下で
夜が世界を呑みこんでも、その日は砂浜から人気が絶えることはなかった。
昼間ほどではないが、細長く伸びた砂浜のあちこちに固まった人影が見える。その多くが波打ち際から離れた場所に陣取って、これから起きることへの期待にざわめいていた。
暗い空に雲は少なく、山吹色の月が威風堂々と輝いている。闇に溶けた波間に月影が落ちて、ゆらゆらとたなびいていた。
微かな潮風に運ばれてくる波の音に紛らわすように、俺はこっそりとため息をついた。ちらりと隣を盗み見れば、Tシャツにショートパンツという出立ちの彼女が膝を抱えて座りこんでいる。長い髪はいつものようにほどかれたまま、上目がちに前を向いている横顔を撫でるように小さく揺れていた。
俺は彼女と並んで地面に腰を下ろし、両手を後ろについて片膝を立てていた。彼女との距離は、およそ拳ひとつ分。周りに友人たちの姿はなく、近寄ってくる者もいない。
つまり、ふたりきり。
これが自称参謀の考え出した『作戦』だった。今夜開かれる花火大会に彼女を誘って告白せよと。
……提案というよりも脅迫に近かったかもしれない。なんだかんだ言いつつ女子も乗り気だったらしく、あれよあれよという間に俺と彼女はこの場に置き去りにされた。こんなときに限って友人たちは見事な連携プレーと手際のよさを発揮する。まったくもって器用なことだ。
俺は携帯電話の液晶画面を開き、現在の時刻を確認した。花火の打ち上げがはじまるまであと少し。
この状態になってからすでに十分以上経っているが、未だに会話らしい会話をしていない。何から話せばいいのかわからない、微妙な沈黙。
いつまでも無言でいるわけにはいかないのだが、うまい言葉が出てこない。口にする前にあれこれ考えてしまい、形になりきらず溶けてしまう。
たぶんここに長谷がいたら間違いなく凶器を持ち出してるよな、と半ば現実逃避めいた考えが脳裏をよぎったとき、
「この前は、ありがと」
不意に、まるで呟くように彼女が口を開いた。
「迎えにきてくれて、ありがと」
「……ああ」
いったいなんのことかと思ったが、すぐに先日のことだとわかった。俺は鮮やかな月を見上げながら、口調を強めて言った。
「我慢できなかったから」
わずかに伏せられていた彼女の視線が浮上し、こちらを向く。俺は今度こそ彼女を見据えた。
「たとえ本気じゃなかったとしても、おまえがだれかの隣にいるなんて我慢できなかった」
彼女はじっと俺の言葉を耳を傾けていた。一言一句聞き漏らすまいとするように。
一度口火を切ってしまえば、あとはするすると言葉が溢れてきた。湧き上がる想いが水泡となって水面から現れ、弾けた瞬間、声となって響く。
涸れることのない泉から流れ出したものが静かに胸を満たし、指先まで浸透していくようだった。
ああ、俺はこんなにも渇いていたのだ。だから苦しくてたまらなかった。
ささくれ、ひびわれていた心を潤す感情は全身はめぐり、体の奥底から力となってこみ上げてくる。
今ならなんだってできる気がした。
人を想うということは、こんなにも、こんなにも。
――幸せで、胸がいっぱいになるのだ。
「おまえに試されて、本音を思い知った。俺はおまえが俺以外のやつの隣にいるなんて、いやだ。おまえは俺の隣にいてほしい。おまえの隣にいるのは、俺でありたい」
それ以上なんてない。十全であることを知ったとき、人はだれでも無敵になれる。
何かしたいと願う、その人のために。
「……どうしてそう思うの」
彼女が小さく訊いてくる。震えているような、掠れた声で。
「はじめは、どうしてあたしの隣にいたいって思うの」
波の上に映る月のように揺らぐ双眸が、どうしようもなく愛しかった。
その愛しさのままに、俺は一番伝えたかった言葉を紡いだ。
「おまえのことが、好きだから」
次の瞬間、ドォンと空気が震えた。
彼女の頬が夜目にも赤く染まり、見開かれた瞳のなかに鮮烈な光が映りこむ。ほぼ同時に空を仰ぐと、月にしだれかかるように大輪の花火が咲いた。
赤、青、緑。次々に原色の光が花びらを広げ、月の独壇場だった夜空に美しい模様を織り上げる。
満開の花火。
刹那の艶姿を網膜に残し、目を凝らす間もなく消えていく。
「……あのとき逃げたのは、なんで?」
月を背景に咲き乱れる花火を見上げたまま、彼女が問うてきた。俺は視線を隣に戻した。
「あのとき?」
「あたしの寝こみを襲おうとしてたとき」
少し棘のある声とまなざしが返ってくる。一瞬言葉が詰まりそうになったが、どうにかため息で押し出した。
「……怖かったんだよ」
情けない限りだが、それが俺の本音だった。
「おまえに拒絶されんのが、怖かったんだ。あんな馬鹿なことしといて言えることじゃねぇけど」
自嘲せずにはいられなかった。
彼女は――再び黙りこんでしまった。きゅっと唇を引き結び、痛いくらいの強さで睨んでくる。ほんの一瞬、花火に染まる瞳が大きく震えた。
「ホンっトに、馬鹿じゃないの」
くしゃりと歪んだ彼女の表情に、俺は思わず息を吸いこんだ。みるみる潤んでいく双眸に緊張してしまう。
「なんでそうやって決めつけるのよ。いつあたしがいやだって言った? ひとりで勝手に思いこんで逃げ出して、あたしがどれだけ……っ」
とうとう溢れた涙が、彼女の頬を流れ落ちる。彼女は膝の上で両手を握りしめていた。
「……っ、嬉しかったのに!」
ドォン、とまた花火が上がった。
「そりゃびっくりしたけど、いやじゃなかった。嬉しかったの!」
彼女は飛びこむような勢いで俺の胸を叩いた。反射的に受け止めた細い体のやわらかさに、電流が頭のてっぺんまで駆け抜ける。
胸元に顔を埋めた彼女は、本格的にすすり泣きはじめた。くぐもった泣き声に合わせて肩が震える。俺のTシャツを掴んで放さない手を見て、俺はようやく彼女の背に腕を回した。
「……苑香」
名前を呼ぶと、彼女はますますすがりついてきた。俺は唾を飲み下し、彼女を抱き締める腕に力をこめた。
「苑香」
潮の香りに混じる彼女の甘い匂い。頭の芯が熱でとろけてしまいそうで、首筋をくすぐる彼女の髪の毛の感触に、俺はたまらず目を閉じた。
腕の中の彼女が、世界のすべてだった。
「苑香。……顔、上げて」
抱擁をゆるめると、彼女はゆっくりと面を上げた。頬に残っている涙を拭ってやると、喉を鳴らす猫のように目を細める。
……本気で鼻血を噴きそうになった。
幸福感に窒息しそうになりながら、俺は彼女の頬を両手で包みこんだ。ほとんど吐息のような声で訊く。
「キスしてもいいか?」
あの日、臆病で卑怯な俺は勇気が欲しかった。
まっすぐに彼女と向き合う勇気を。想いを告げ、そして彼女の答えを受け止める勇気を。
それは嘘ではなく、だが言い訳に過ぎなかった。
俺があんな馬鹿げた失敗をした理由は、俺が本当に欲しかったものは。
――苑香。
俺だけの女王様。
「……今更訊かないでよ」
彼女らしいひねくれた返事に笑ってしまう。彼女は拗ねたように唇を尖らせたが、やがてゆっくりと瞼を下ろした。
花火が上がるたび、鮮やかな光に彩られる彼女の顔に見とれながら、俺はそっと唇を落とした。
はじめての口づけは、彼女の涙の味がした。