道標
パンの焼け焦げる匂いから、僕の記憶は動き始める。
頬を押し潰す生温い木板にうっすらと瞼を開くと、半開きの隙間から入る空気に乾ききった口内をならしながら気怠い頭を持ち上げた。薄いレースのカーテン越しに差し込んだ眩いほどの白色が影を祓い、[[rb:人気 > ひとけ]]のない室内を明るく染めあげている。
座り疲れた椅子に背を丸めながら椅子に浅く腰掛け、机の前方にあるキッチンをぼんやりと見つめていると、やがてその冷たい銀の輝きに紛れ佇むトースターへと視線が吸い寄せられた。無意識のうち短く吸いこんだ息に、鼻の奥がじんと熱くなる。
パンの匂い。
椅子を鳴らして席を立つと、ぺたぺたと足音を立てて迫ったひんやりとした台に手のひらを押しつけ、トースターの縁に指先を押しつけてみる。特に使いこまれた形跡もない、パン屑の跡も見えない二口のトースターは予想に反して冷たく、想定していた痛みに思わず引っ込めた指先には当然のこと何の痕も残らなかった。
「焦げてる……」
何がかは分からない。だけど、確実に何かが焦げたような臭いがしている。パンだ、と何の味もしない指先を舐めながらそう思った。なぜなら、焦げるものといえばパンであると相場が決まっているからだ。うん、きっとそうに違いない。
家の中からでないのなら、外からしているのだろう。生活感に彩られた無色透明な室内を歩きまわり、カビ一つないカーテンを引いて窓を開けてみる。網戸越しに広がった街並みは目に痛いほど眩く光を返して、吸いこまれてしまいそうな地面の低さにここがマンションの一室であることを思いだした。
外は暑そうだ。日差しがきついから、帽子を被っていかないと。そう思ったことは覚えている。だから、次の瞬間、見下ろしていたはずの道路に足をつけて歩きだしていた僕の頭には、大きな鍔広の麦わら帽子が乗っかっていたのだ。
じりじりとした白色光が酷く息苦しい。アスファルトの放射熱に脛を焦がされながら、日の下でぼやける人工物の林立を遠方に眺め街中を歩き続けた。パンの匂いは、やっぱり外からしていたらしい。
こんなにも明るく、熱いのに、交差点には人はおろか車ですらも見当たらない。そういえば、蝉の声もしない。いつからだっただろう、そればかりは昔からのことであったのかもしれないけれど。
日差しの下に焼かれ歩き続けて尚、室内で嗅いだ焦げた臭いがする。一体どこからしているのだろう? きょろきょろと辺りを見渡しパン屋を探すも、周囲はただ鬱蒼としたビル群に囲まれているだけでそれらしい看板も見当たらない。絶えず、こんなにも近くなように匂っているのに、いくら歩いても根源が見つかるような気配がしない。
「……眩しいなあ」
照り返しのせいか、帽子を被っているのにやけに目元がちらつき思わず顔を顰めながらそう呟いた。眩しい。熱いほどの白色。気付くと手足は動かず────僕はただ灼きつくような光を浴びながら、横たわっていた。
パンの焦げる匂いがする。水の中に沈んだ籠もった音の反響が段々と輪郭を持ち始め、慌ただしい男の怒声が鮮やかしく鼓膜を震わせる。
「おいっ意識が! 量を増やせ、早く、早く!」
ばたばたと音がする。何度かちらちらと光が遮られる。持ちあげかけた瞼は、しかし動くことはなく僕は再び長い眠りについた。
────パンの焼け焦げる匂いがする。だから僕は、トーストが嫌いだ。




