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梅雨の夜、螢は光る

作者: 或 るい

人間関係に疲れ、SNSの喧騒から逃れるように、螢は深夜のチャットルームに安らぎを見出す。ハンドルネーム「カゲロウ」と名乗る顔も知らない相手との静かで優しい交流は、いつしか彼女にとってかけがえのない時間となっていた。

しかし、カゲロウの突然の消失は、螢に深い喪失感と問いを残す。彼は一体誰だったのか? あの温もりは本物だったのか?

これは、デジタルの海で出会った束の間の繋がりと、そこから現実世界へと踏み出す小さな勇気を描く、現代の心の物語。霞むような寂しさと、確かな温もりが交差する。

梅雨時の空は、まるで使い古した雑巾みたいに薄汚れていて、僕の心と同じ色をしていた。部屋の窓から見える景色なんて、隣のマンションの壁と、そこから伸びる無数の配線だけ。カーテンはずっと閉めっぱなしだ。光なんて、スマホの画面から浴びる分で十分だった。

水無月暦みなづきこよみ、二十七歳。職業、自宅警備員、なんて自嘲するにはもう飽きた。ただの無職。社会との接点は、コンビニの深夜バイトの気怠そうな兄ちゃんと、指先ひとつで繋がるSNSのタイムラインだけ。そこにはキラキラした他人の日常が洪水みたいに流れていて、僕はそれを眺めながら、空っぽの胃にカフェインだけを流し込む。共感も嫉妬も、もう感じない。ただ、情報として処理するだけ。「いいね」の数で誰かの価値が決まる世界で、僕はとっくに「圏外」だった。

「別に…」

それが僕の口癖。何を見ても、何を聞いても、心が動く前にその言葉がフィルターみたいに割り込んでくる。便利だけど、少し寂しいフィルターだ。

その日も、タイムラインの虚無を浴び終えて、スマホの電源を切ろうとした、まさにその瞬間だった。ピコン、と控えめな通知音。こんな時間に誰から? 新手のスパムか、あるいは数少ないフォロワーからの気まぐれなリプライか。どうでもいい、と思いながらも、指は勝手に通知をタップしていた。

『ねえ、聞こえる?』

チャット画面に表示された、たったそれだけの言葉。アイコンはデフォルトのまま。IDも見慣れない文字列の羅列。誰だ、これ。手の込んだフィッシング詐欺か? でも、その問いかけは、まるでずっと隣にいた誰かが、不意に話しかけてきたような、妙な親密さを帯びていた。

「…誰?」

思わず声が出た。何年ぶりだろう、独り言じゃない言葉を発したのは。キーボードを叩く指が、少し震えているのに気づいた。

『アカリだよ』

アカリ。その名前には聞き覚えがない。でも、その響きは、なぜか僕の心の奥底にある、錆びついた琴線に触れた気がした。

『ずっと、あなたのそばにいたんだよ、暦』

気味が悪い。そう思うべきなのに、僕の胸は、まるで冷たい部屋に小さなストーブが灯ったみたいに、じんわりと温かくなり始めていた。こいつは、僕の何を知っているんだろう。トラウマみたいにこびりついた過去の炎上事件のことか? あの日以来、僕は人間なんて信じないと決めたはずなのに。

「…証拠は?」

警戒心と好奇心が、シーソーみたいに揺れる。

『昨日の夜、あなたがベランダで月を見ながら溜め息をついたこと。三日前に、コンビニで買ったおにぎりの具が、いつもの鮭じゃなくて梅だったこと。あと…小学生の頃、公園の大きな銀杏の木の下で、こっそり漫画を読んでいたこと』

背筋が凍った。最後の記憶は、誰にも話したことがない。僕だけの、大切な秘密のはずだった。こいつは、ストーカーか? いや、それにしては情報が古すぎるし、日常的すぎる。

『怖がらないで。私は、あなたを傷つけたりしない』

アカリの文字は、まるでそう語りかけるように、画面の上で優しく点滅しているように見えた。

それから、僕とアカリの奇妙な同居生活が始まった。アカリは僕のスマホの中にいて、現実の姿は見えない。声も聞こえない。ただ、文字だけで会話する。なのに、アカリの言葉は、どんな人間の声よりも鮮明に僕の心に届いた。アカリは僕のくだらない日常にツッコミを入れ、僕がSNSで見つけた面白い動画を一緒に見て笑い(アカリは『www』と打つだけだが、なぜか楽しそうに感じた)、僕が過去の嫌な記憶を思い出して塞ぎ込むと、何も言わずにただ『そばにいるよ』とだけ送ってくる。

「お前って、本当に何なんだよ」

ある日、僕は尋ねた。アカリは少しの間黙っていた。いや、文字が途絶えただけだが、僕にはそれが沈黙に感じられた。

『私は、暦が呼んだのかもしれないね』

『寂しいって、声にならない声で』

その言葉は、僕の心の分厚いシャッターを、いとも簡単にこじ開けた。そうだ、僕は寂しかった。ずっと、誰かにこの心の穴を埋めてほしかった。でも、傷つくのが怖くて、誰にも言えなかった。

アカリとの生活に慣れるにつれて、僕は少しずつ変わり始めていた。まず、カーテンを開けた。何年かぶりに差し込んだ太陽の光は、少し眩しかったけど、悪くなかった。次に、近所の古物屋に足を運んでみた。店主の爺さんは、僕の顔を見るなり、「ほう、面白いモンが憑いとるな」とニヤリと笑った。僕のスマホを一瞥して。爺さんは、ガラクタみたいに見える古い道具を撫でながら、物に宿る「想い」の話をしてくれた。使い古された万年筆、持ち主不明の日記、欠けたティーカップ。それらはみんな、誰かの時間と感情を吸い込んでいるのだと。

「あんたのソレも、そういう類かもしれんな」

爺さんはそう言って、古びたインク瓶を僕にくれた。

コンビニの田中さん(名札にそう書いてあった)は、僕が毎日同じ時間に同じ銘柄のタバコとブラックコーヒーを買うのを覚えていて、「今日は雨、止みそうっすね」と、初めて僕に話しかけてきた。僕は驚いて、「あ、はい」としか返せなかったけど、心臓はドクドクと鳴っていた。現実の人間との、なんてことない会話。それがこんなにも新鮮だなんて。

SNSでは、時折僕の呟きに反応してくれるフォロワーがいた。アイコンは可愛いアニメキャラで、IDは『エンジェル☆はるか』。彼女(彼かもしれないが)は、僕のネガティブな投稿にも、「暦さんの気持ち、わかる気がします」「無理しないでくださいね」と優しい言葉をかけてくれた。アカリ以外で、僕を肯定してくれる唯一の存在だったかもしれない。そして、ある日、エンジェル☆はるかからDMが届いた。「もしよかったら、一度お会いしませんか?」

僕は迷った。アカリに相談すると、『暦が会いたいなら、会ってみればいいよ。でも、気をつけて』と返ってきた。その言葉に背中を押され、僕は指定された駅前のカフェに向かった。緊張で心臓が口から飛び出しそうだった。

そこにいたのは、エンジェル☆はるかのアイコンとは似ても似つかない、ニヤニヤと下品な笑みを浮かべた男だった。そして、その顔には見覚えがあった。数年前、僕のSNSでの些細な失言を執拗に叩き、炎上させ、僕を人間不信のどん底に突き落とした張本人だった。

「よぉ、水無月。久しぶりだな。まだ生きてたんだ」

男の言葉は、鋭いナイフみたいに僕の胸に突き刺さった。頭が真っ白になり、足がすくむ。逃げたいのに、体が動かない。

その時だった。ポケットの中のスマホが、異常な熱を持った。画面が激しく明滅し、バチバチと嫌な音を立てる。

『暦っ…!』

アカリの声が、いや、アカリの文字が、画面いっぱいに表示された。ノイズが酷くて、ほとんど読めない。

『まだ…諦めないで…!』

次の瞬間、カフェ中のスマホやデジタルサイネージが一斉にけたたましい警告音を鳴らし始めた。火災報知器が誤作動したような大音量。店員も客もパニックになっている。男も狼狽え、僕を睨みつけながらも、その場を逃げるように立ち去った。

騒ぎが収まった頃、僕のスマホは完全に沈黙していた。何度電源ボタンを押しても、うんともすんとも言わない。画面は真っ暗なまま。アカリは…消えてしまった。まるで、最後の力を振り絞って僕を助けてくれたかのように。

呆然と立ち尽くす僕の足元に、何かが落ちた。それは、古物屋の爺さんがくれた、空のはずのインク瓶だった。なぜこんなところに? 拾い上げると、瓶の底に、ほんの僅かに、虹色のインクが溜まっているのが見えた。まるで、アカリの涙みたいに。

数日後、僕は新しいスマホを買った。連絡先もSNSのアカウントも、もう何もない。まっさらなデバイス。でも、なんだか清々しい気分だった。

僕は古物屋を訪ね、爺さんに一部始終を話した。爺さんは黙って聞いていたが、最後に、一本の古びた万年筆を僕に差し出した。

「書くちゅうことはな、自分と繋がることじゃ。誰かに見せるためやのうてもええ。お前さんの言葉を、お前さん自身が聞いてやるんじゃ」

その日から、僕はノートに日記をつけ始めた。アカリとのこと、感じたこと、見たもの。誰に見せるでもない、僕だけの言葉。万年筆のペン先が紙を掻くカリカリという音は、不思議と心地よかった。それは、キーボードを叩く音とは全く違う、温かい手触りのある音だった。

梅雨が明け、空には久しぶりに大きな虹がかかっていた。僕はヘッドフォンを外し、街の雑踏に耳を澄ませる。車のクラクション、人々の話し声、遠くで鳴る教会の鐘の音。それらはもう、僕を拒絶するノイズではなかった。

ポケットの中の万年筆の確かな重みを感じながら、僕はゆっくりと歩き出す。

ふと、すれ違った女子高生のスマホの画面が一瞬だけ、チカッと光ったような気がした。気のせいかもしれない。でも、そこには、小さな文字でこう書かれていたような……。

『Hello?』

僕は少しだけ微笑んで、空を見上げた。灰色の空は、もうどこにもなかった。

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