レティシア 動き出す
朝日が昇り、アイシュエット侯爵家の城に新しい一日が始まろうとしていた。
「若奥様、おはようございます」
執務室に向かうレティシアを、すれ違う使用人たちが丁重に挨拶する。
フェリエ王国では、彼女の前では目を伏せ、すぐに立ち去ろうとする者ばかりだったことを思えば、まるで別世界のようだった。
「ノーラ、今日の予定は?」
レティシアが尋ねると、新たに付けられたメイドの一人が即座に答える。
「はい、午前中は領地の会計帳簿の確認、午後からは毛織物工房の視察がございます」
到着から一週間。レティシアは早速、領地の現状把握に取り掛かっていた。
「お嬢さ…若奥様」
エマが心配そうな表情で近づいてくる。
「昨晩も遅くまで帳簿を見ていらっしゃいましたが...」
「ええ、少し気になることがあったの」
レティシアは執務室に入ると、机の上に広げられた帳簿に目を落とした。数字の羅列の中に、この領地が抱える問題が見えていた。
「歳入の大半が、国境警備と魔物討伐の報酬で占められているわ」
その言葉に、エマも理解を示すように頷く。
「つまり、国に依存した経済構造ということですね」
「ええ。これでは...」
言葉を途切れさせたレティシアの耳に、外から剣戟の音が聞こえてきた。窓の外を見ると、騎士団の訓練場でエリアスが剣を振るう姿があった。
「相変わらず、朝から稽古に励んでいるのね」
その様子を見つめていると、執務室のドアが開く音がした。
「レティシア、お仕事中?」
振り返ると、アストリッドが顔を覗かせていた。
「少し話してもいいかしら?実は毛織物工房のことで相談があって...」
彼女の手には、美しい刺繍が施された布が抱えられていた。
「もちろんよ」
レティシアが頷くと、アストリッドは部屋に入ってきた。彼女の後ろには、アルマの姿も見えた。
「実は、私たちの領地の毛織物に、とても気になることがあって」
アストリッドが布を広げながら説明を始める。確かに、その技術は素晴らしいものだった。しかし──。
「素晴らしい技術なのに、これだけの値段でしか売れないの」
彼女が示した取引記録に、レティシアは目を細めた。
「技術はあるのに、それが価値として認められていない...」
「そう、まさにそれなの」
アルマも口を開く。
「私たち姉妹で何度も改善を試みたんだけど、なかなか良い案が思いつかなくて」
その言葉に、レティシアの中で何かが繋がった。帳簿の数字、領地の気候、そして目の前の毛織物。
「この布、とても美しいわ」
レティシアは静かに布に触れた。
「寒さを防ぐだけでなく、デザイン性も高い。これは、単なる防寒具以上の価値があるはず」
「レティシア?」
アストリッドが、彼女の表情の変化に気づいたように声をかける。
「ブランド化できるわ」
レティシアの声には、確信が込められていた。
「フェリエ王国での経験から言えば、高級品として売り出す余地は十分にある。首都の貴族たちは、こういった独特の美しさを持つものに、大きな価値を見出すはず」
姉妹は目を見合わせた。
「本当に?」
「ええ。それに...」
レティシアは窓の外を見やる。エリアスは、まだ剣の稽古を続けていた。
「この領地には、もっと可能性があるはず。毛織物だけでなく、寒さに強い作物の栽培も試してみる価値がある」
彼女の言葉に、姉妹は期待に満ちた表情を浮かべた。しかし同時に、不安そうな視線も交わす。
「でも、エリアスが...」
その言葉の意味は明らかだった。次期侯爵であるエリアスは、既存の領地経営方針を変えることに強く反対するだろう。
「大丈夫よ」
レティシアは静かに微笑んだ。
「一つずつ、着実に進めていけばいい。まずは、この毛織物から始めましょう」
その瞬間、執務室に朝日が差し込んできた。まるで、彼女の決意を後押しするかのように。




