第1章:婚約破棄から始まる新たな道
まだ暗い廊下を、一人のメイドの足音が静かに響いていた。
「失礼いたします」
エマは小声で挨拶しながら、レティシアの執務室のドアを開けた。夜が明ける前から灯りが漏れている部屋。案の定、レティシアは机に向かったままだった。
「お嬢様、また徹夜なさったのですか」
心配そうな声に、レティシアはようやく顔を上げる。机の上には積み上げられた書類の山。その多くは王太子の印章が押された公文書だった。
「ええ、少し」
レティシアは疲れた様子も見せず、淡々と答える。しかし、エマの目には、彼女の顔の疲労の色が痛々しいほど見えていた。
「お嬢様、このままではお体を壊してしまいます」
「大丈夫よ」
そう言いながらも、レティシアは思わず目を押さえた。どれほど疲れているのか、その仕草が如実に物語っている。
エマは即座に窓際に歩み寄り、重たいカーテンを開けた。朝日がまだ昇っていない空は、うっすらと白みかけている程度だった。
「まずは朝食を。それと、今日のスケジュールをご確認ください」
エマは手際よく朝食の準備を始めながら、一日の予定を告げ始めた。
「午前中は北部開拓計画の会議、その後、東部貿易港の査察報告の確認、午後からは...」
途切れることなく続く予定。その一つ一つが、本来なら王太子が担うべき仕事だった。
「ここ最近、王太子様からの書類が増えていますね」
エマが心配そうに机の書類を見つめる。確かに、ここ数ヶ月で王太子からの仕事は倍増していた。それは単なる怠慢ではない。意図的な嫌がらせのように思えた。
「仕方のないことよ」
レティシアは静かに答える。彼女の仕事ぶりを快く思わない者たちがいることは、十分承知していた。むしろ、その状況を受け入れることで、自分の立場を保ってきたとも言える。
「お嬢様...」
エマが言葉を濁す。彼女の胸には、主への深い憐れみの感情が渦巻いていた。