書籍発売記念SS◆恋の指南書!?
ロイド・ハリントン公爵の婚約者としてこのお屋敷で過ごすようになってから、半年ほどが過ぎた。
元々ここでメイドとして働いていた私には他に家はなく、婚約者となった今でも引き続きここに住まわせてもらっているのだけれど、あくまでまだ婚約者。夫婦となったわけではないので、当然寝室は別だ。
一緒に過ごせる日もあれば、夜になるまで顔を合わせない日もあるし、領内の大がかりな視察を兼ね、ロイド様が数日間留守にすることもある。
大好きな人と一つ屋根の下で暮らしながらも、私たちの間には、常にもどかしい距離があった。
それでも、結婚に向けての準備が確実に進む中、私はハリントン公爵夫人となるための勉強をひたすら続けていた。
そんなある日の午後だった。私は書類の束を持ち、書庫へ向かい廊下を歩いていた。するとその途中、扉がうっすらと開いている小サロンから、複数の女性が楽しそうに話している声が聞こえてきた。ちらりと中を覗いてみると、休憩中の若いメイドたちがいた。このお屋敷も最近は女性の使用人が随分増えた。
「ふふ、そしたらね、彼が私の手を取って引き留めたの」
「まあっ! 本当に?」
「本当なのよ! この本に書いてあった通りなの。“視線を外して去った後、十歩歩いて振り返るべし”って!」
……一体何の話だろう。
キャッキャとはしゃぐ彼女たちの様子と会話が気になり、私はサロンに入ると声をかけた。
「楽しそうね。何のお話?」
私が近寄ると、テーブルを囲んではしゃいでいたメイドたちが驚いた顔でこちらを振り返る。
「ミッ……ミシェル様っ!」
「たっ、大したお話じゃございませんわっ」
「え、ええ! ただの雑談でございます。うふふ」
……誤魔化された。しかも一人が、本らしきものを後ろ手にサッと隠したのだ。
気になって気になって、私は空いている椅子に陣取るとしつこく彼女たちを問いただした。
「……恋の、指南書?」
「そうでございます、ミシェル様。この本は今若者の間で大層流行っているのですよ」
「この子が街の書店で見つけてきて、今皆で読んでいたのです! 本当に効果があるようで!」
メイドたちはそう言って、目をキラキラと輝かせている。手渡してもらったその本を、私はパラパラとめくってみた。
「……一体何が書かれているのかしら」
「まぁ簡単に言ってしまえば、意中の殿方の気を引く方法や、恋をいい方向に進めるための心得、ですかね」
「恋って、気持ちだけじゃ上手くいかないことも多々ございましょう? たまにはこうして、皆で殿方のお心に響く仕草を研究するのもアリだなって。ね? ふふ」
そう言うとメイドたちは顔を見合わせて楽しそうに微笑む。
なるほど。恋にはそんな裏技があったのか。
何せロイド様と恋に落ちるまで、ときめきとは無縁の人生を送ってきた私。恋にそんな小技集が存在することさえ知らなかった。
マナーブックや歴史書、語学の本ばかりを読んでいた私には、なかなか新鮮だった。夢中でページをめくりながら、私は感心する。そうか。殿方はこうした仕草や表情をする女性を可愛いと思うものなのか。……ふーん……。
「……皆努力しているのね」
「そうですよミシェル様! ミシェル様のように、あんな完璧な公爵様から見初められてすんなりご婚約できるなんて、滅多にないことなのですから!」
「そうでございます、まるでおとぎ話のようなものですのよ。普通は起こり得ないことなのです。羨ましゅうございますわぁ〜」
「……。そう……」
うっとりとため息をついているメイドたちのその言葉に、私は真剣に考えた。いや、私も決してすんなりではなかったのだけど……そうよね。ロイド様がこんな私を選んでくださったのは、ほぼ奇跡のようなもの。ハリントン公爵夫人となるための勉強も大事だけれど、ロイド様のお心が私から離れていってしまわないように、もっと私も頑張らなきゃいけないんだわ。迂闊だった……!
目から鱗が落ちた私は、早速指南書の内容を実践してみることにしたのだった。
その夜。夕食も済んだ時刻にようやくお帰りになったロイド様の執務室を、私はいそいそと訪れた。
「失礼いたします、ロイド様。お帰りなさいませ」
「ああ。ただいま、ミシェ……」
カーティスさんと一緒に奥の本棚のところにいたロイド様は、いつも通りの優しい声で私を迎えてくれた。けれど、私の姿を見た途端、ピタリと固まった。カーティスさんも目を見開いてこっちを見る。
「うおっ!? どうしたんだよミシェル様! そんな格好して」
「……変ですか?」
指南書にあった通り、“後ろの髪を上げうなじを見せるヘアスタイル”と、“鎖骨から胸の谷間までをチラ見せする”無防備な夜着、そして“色っぽさを際立たせる艶やかな唇”にするために桃色のリップを塗ってきたのだけれど。てんこ盛りすぎたかしら。
「風邪ひきますよ、そんな薄着してたら」
カーティスさんがハンガーラックからロイド様のカーディガンを取ってきて、そそくさとこちらに寄ってくる。そしてそれを問答無用でバフッと私に着せ、ボタンを留めた。……これで鎖骨と胸元は隠されてしまった。
「……一体何事だ? ミシェル」
真顔で私を見つめるロイド様のそばにススス……と近付くと、私は彼の服の腰の辺りをちょこんとつまみ、ツンツン引っ張りながら見上げた。
「お、お仕事お疲れ様でした。早くお会いしたかったです」
「……」
次の項目、“彼の服を控えめに摘んで引きながら、上目遣いで見上げる”、“彼に素直な気持ちを伝える”を実践してみた。ロイド様はしばし私を見下ろし、いつもと変わらぬ優しい笑みを見せる。
「嬉しいことを言う。私も早くミシェルの顔が見たかったよ」
(や、やったわ! 効果があったみたい)
ロイド様が喜んでくださったことに気分を良くし、私はさらなる項目の実践へと移った。
“悩ましげなため息をつきつつ目を逸らし、ミステリアスな雰囲気を演出する”だ。
「……はぁ。ロイド様、私、時々どうしようもなく、胸が苦しくなるんです」
こういうことを言うといいって書いてあった。何だか分からないけれど、男性が虜になるそうだ。
でも、カーティスさんもそばで聞いている。どうしよう。もしもカーティスさんが私の虜になってしまったら。……なんて、そんな心配はいらないか。ふふ。カーティスさんとアマンダさんはラブラブだしね。
ところが、カーティスさんは虜になるどころか眉間に皺を寄せ、変な生き物でも見るような目でこちらを見ている。
「どうしたんだよ、ミシェル様。食あたりか? 何食ったんだ?」
「な、何も変なものは食べていませんっ! カーティスさん、今大事なところですので、ちょっと静かにしててもらえますかっ」
「?? 大事なところ?」
私たちのやり取りを、ロイド様は目を細め、楽しそうに見ている。そして一度執務机のところへ行くと、上から書類の束を取って戻ってきて、それをカーティスさんに手渡した。
「これを家令に持っていってきてくれ」
「承知しました」
受け取ったカーティスさんは、最後にもう一度訝しげな顔で私をちらりと見て、そのまま執務室を出ていった。
(よしっ。今がチャンスよ!)
はからずも二人きりになれたことで、私はいよいよ大胆に指南書の項目を実践しはじめた。“視線は言葉よりも雄弁。語らずとも熱く見つめるべし”と、“声に想いを込め、いつもよりしっとりと名前を呼んでみる”を同時にやってみる。
「……。ロイドさま」
「うん? なんだ」
「…………。ロイドさま」
「……ふっ」
おかしい。ロイド様が肩を揺らして笑いはじめた。まるで「もう耐えられない」とでもいわんばかりに、口元を手で覆い、顔を背けてクスクスと笑っている。
「……可愛く見えませんか? 私」
不安になり、思わずそう尋ねる。慣れないことはするものじゃなかったかしら。そもそも自分でもこれらの行動の一体何がいいのか、その意味が全く分かってはいない。それなのに実践すること自体、無理があったのかもしれない……。
思うような反応が返ってこず少し落ち込んでいると、気を取り直したらしいロイド様が、私の方に向き直り、優しく髪を撫でてくれる。
「いいや。君はいつも可愛いよ。……それで? 次は何をするつもりだ? それとももう終わりなのか?」
「な、何をするとは?」
ギクッとして彼を見上げると、ロイド様は相変わらず楽しそうな顔をして言った。
「大方、恋愛指南書のようなものでも目にする機会があったのだろう。意味は分からないなりにも、書いてあったことを実践してみよう。そう思ったのだろう?」
(────っ!??)
「ど、どうして分かったのですかっ!?」
「ははは」
驚いて思わず後ろに一歩下がると、ロイド様はまた笑い、そして突然、私の体を横抱きに抱き上げた。
「きゃっ……!」
「一体どこで目にしたのかは知らないが、君には必要ないだろう、そのような類いの指南書は。こうしてすでに私の心を、しっかりとその手中に収めているのだから」
私を愛おしそうに見つめそう言いながら、ロイド様はソファーへと移動した。そのまま彼が腰を下ろしたので、私の体はロイド様の膝の上に乗るかたちになった。見抜かれていた気恥ずかしさと、彼に抱かれているドキドキで、顔が真っ赤に茹だる。
「だ、だって……。今までの私はロイド様のお心を繋ぎ止めておくための努力が、足りていなかったように思うんです。ハリントン公爵家に嫁ぐための勉強ばかりで、もっと……その、ロ、ロイド様に愛されるための努力というか……。女性としての、魅力を上げるための、努力を……しなきゃって……」
情けなさと羞恥心で涙ぐみながら、私は真っ赤な顔で必死の言い訳を続ける。
するとロイド様は、私の額にそっとキスをした。
「……君は自分の魅力を随分と低く見積もっているらしいな。例えば、今の言葉もそうだ。君が私に愛されたいと努力しているというその事実だけで、私の胸がどれほど掻き乱されるか、君は全く気付いていないだろう」
「……へっ?」
間の抜けた声を出してしまった私に、彼は包み込むように微笑む。
「そんな努力などしなくとも、君はもう充分すぎるほど魅力的だ。考えてもみてくれ。あれほど女性という生き物を毛嫌いしていたこの私を、こんなにも夢中にさせたんだぞ、君は。その上そんなに必死になって、私の前で可愛い自分を見せようとするなど……。愛おしすぎて理性を保てなくなる」
「ロッ……、ロイド様……」
私を抱き上げ見つめたまま、片方の手で私の頬をゆっくりと撫でる彼の指が、やがて私の唇をそっとなぞった。
「……こんなにも可愛い君の姿は、他の誰にも見せたくない」
低く囁くようにそう言うと、ロイド様の唇がゆっくりと近付き、私の唇と重なった。
「……んっ……」
「……せっかくだから、もう少しここで披露してくれてもいいぞ。学んだ技を」
唇を離し、けれど吐息のかかるほど近い距離を保ったままで、ロイド様がからかうようにそう言った。
「い、嫌です。バレているのに実践するなんて、恥ずかしすぎますっ」
「はは。……こうは書いてなかったか? 婚約者のもとを夜訪れる時は、いつもより大胆に、情熱的に甘えろと」
「そん……、……ん……っ」
ロイド様はそのまま、唇を重ねるだけの優しいキスを何度も繰り返した。
執務室の中に入るタイミングを失ったカーティスさんから、「扉の前で二十分くらい待ってたんすけど」とあとで文句を言われた。