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31. 押しかけたご令嬢

 その日、旦那様は珍しくお屋敷にいらっしゃった。今日は執務室で仕事を片付けるとのこと。昼食が終わり、屋敷の掃除が一段落したところで旦那様のもとを訪れる。最近ではこうして、執務室の掃除のタイミングを窺うために声をかけることも許されるようになっていた。


「失礼いたします、旦那様。お茶をお入れしましょうか」

「ああ。ありがとう。机はまだしばらく触れないでくれ」

「承知しました。……カーティスさんは外出中ですか?」


 部屋の中に旦那様一人だったので、なんとなくそう尋ねてみる。書類を捲っていた旦那様は顔を上げ、こちらを見た。


「ああ。いろいろと使いを頼んでいる。まだしばらく戻らないだろう。……ミシェル、すまないがこれを向こうへ。……それと、そっちの箱に積んである書簡を持ってきてくれるか」

「はい、旦那様」


 私は手渡された書類を奥の机へと運び、書簡の入った箱を手に旦那様の元へとテキパキ動く。

 先日のブレイシー侯爵令嬢の件で、私はますます旦那様のお手伝いをしなければという気持ちが強くなっていた。ご令嬢が「手紙の返事がない」とお怒りだったのも、きっと旦那様のこのお怪我のせい。そう思った私は自ら提言し、代筆できそうな書類は代わりに書くようにもなった。「……君は随分と字が綺麗だな」と、旦那様に驚かれ、少しギクッとしたけど。字が綺麗なのは、貴族階級出身の両親に幼い頃から丁寧に教えられてきたからだろう。

 しばらく細々とした用事を手伝い、そろそろ大丈夫そうだなというタイミングで、お茶を入れようとした、その時だった。家令が執務室を訪れ、旦那様に告げる。


「失礼いたします、旦那様。ブレイシー侯爵令嬢がお見えでございます。いかがいたしましょうか」


 その言葉に、心臓が音を立てる。……あの方だわ。また来たんだ。

 無意識に旦那様の顔を見る。すると彼は険しい表情をして、ふうっ、と深く息をついた。眉間に皺が寄っている。


「……またか。先週来訪があったと聞いた後に手紙の代筆を頼んだはずだな」

「はい。今週はお忙しいとのことで、お断りの便りをお出ししておりましたが……。時間はとらせないと、そう取り次いでほしいとのことで」


 いつも落ち着いている家令も、かなり困っているように見える。私はハラハラしながら事の成り行きを見守った。

 少しの間無言で考え込んでいた旦那様は、再び深く溜め息をついた。


「……ここに通してくれ」

「……応接間でなくて構わないのですか?」

「こちらが断っているのに勝手に押しかけてきたんだ。構わんだろう」

「承知いたしました」


 若干戸惑った様子の家令だが、すぐにそう言うと執務室を出ていった。旦那様が私に向き直る。


「ミシェル、すまないが、紅茶は二人分頼む」

「……はい。承知いたしました」


 てっきり「外してくれ」と言われると思っていた私は、内心ガーンとショックを受けていた。嫌だ。あの人にはもう会いたくない。けれど侯爵家のご令嬢相手にお茶も出さないのはさすがにマズいと、旦那様も思われたのだろう。ならば私は旦那様のお望みのままに動くのみだ。

 あのご令嬢とは目を合わせないようにしよう……。そんなことを思いながら、私は執務室の片隅にある給湯所で準備を始めた。

 しばらくすると、甲高く甘い声が室内に響いた。


「ごきげんよう。ロイド様。ようやくお会いできましたわね。執務室でも、嬉しいですわよ。うふ」


 ……あれ? 違う人かな?

 背を向けて紅茶の準備をしていた私は、先日のご令嬢とのあまりの声の違いにそう思い、咄嗟に振り返った。けれどそこにいたのは違う人ではなく、正真正銘ブレイシー侯爵令嬢だった。ただ、その表情も先日とは違い優しくたおやかで、優雅な笑みを浮かべたまま一心に旦那様のことを見つめている。今日のドレスの色は、先日の真紅のものより暗めのボルドー。……赤系統のお色がよほどお好きなのだろうか。


「……ブレイシー侯爵令嬢。申し訳ないが私は非常に忙しい。あまり時間はとれないが、よければせめて紅茶を一杯召し上がってくれ」


 旦那様は机に向かったまま立ち上がることもせずにそう言った。どう聞いても「紅茶を一杯だけ飲んだらすぐに帰れ」と言った意味に聞こえるが、ご令嬢はウフンと鼻を鳴らすと、嬉しそうに旦那様の前に進み出た。


「ロイド様ったら。お仕事の手を止めてくださいませんこと? せっかくお会いできたんですもの。あちらで一緒にいただきましょうよ」


 そう言って奥のテーブルを指差しながら、ブレイシー侯爵令嬢はふと私の方に視線を滑らせた。すると、たった今まで見せていたその女神のような微笑みが、一瞬にして消え去った。


「……あら。まだいたの? ()()()


 そして先ほどより幾分か低い声で私に向かってそう言った。今日は“お前“呼ばわりではなく”あなた”だ。

 ブレイシー侯爵令嬢は扇をパッと広げると、顔を隠すようにし、その隙間から私のことをギロリと睨みつける。

 

「……この新しくお雇いになったメイドも、平民なのでしょう? なぜ、わざわざこの子になさったのです? ロイド様。人手が足りていないのでしたら、もっと身元のしっかりした子を何人かご紹介しましょうか。執務室にまで入りこませてしまうだなんて、不用心ですわよ。やはり身の回りの世話をさせるなら、貴族階級の者が安心して使えますわ」







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