第三十八章 オレンジローズ 4
微かな花の香りで、目が覚めた。起き上がろうとすると、両手が縛られていて動かなかった。匂いのするほうへ顔を傾けると、窓際に鮮やかなオレンジ色のバラが2本ガラスの器に差してあった。
「オレンジローズ。」
そうつぶやくと、傍らにいた女の子が覗き込んできて目が合うと、足早にそこからいなくなった。
イリアは自分がどこにいるのか、理解した。満月の夜、アンの家から抜け出し、月明かりを全身に浴びることができる崖の上まで上り詰め、エミリアの意識を支配した。自分の体がどうなっているかわからない状態だったが、崖の上からおろされ、部屋に連れてこられたことは理解できた。そして、ここから、また追い出されるのだろうと考えていた。どこへ連れて行かれようと、自分の居場所がないことを嘆いても仕方ないと思っていた。
「その花はね、シモンの息子ダニエルが持ってきたのさ。」
アンがそう話しかけると、イリアは首をかしげた。
「ダニエルがイリアを懸命に探して、あの崖の上から下ろしたのさ。自分は自分で、酷くエミリア嬢から殴られてあっちこっち青あざだらけだったのにだよ。」
イリアは思い出した。エミリアを支配してから、ガラファンドランドドックのオーナーであるシモンの息子ダニエルを誘惑し利用してエアジェットを用意した。彼を殴り倒して気を失わせて、エアジェットで塩山脈を目指したのだ。
「ごめんなさい。」
目を閉じてそう言うと、アンはため息をついた。
「クレアが置いていった荷物を背負い込むのは別にかまわないさ。それであの子達が成仏してくれるならね。」
イリアは目を見開いてアンを見た。
「クレアはイリアの面倒を見てくれるようにと遺書を残していった。あんたがクレアをどう思っていたか知らないが、ここから先はどこも行くところはないよ。」
アンはイリアの顔に手をやり、頬を撫でた。
「私は薬草の調合を駆使して、イリアの解毒に勤めるよ。イリアの能力を抑制させる薬くらい作れるさ。だから、その能力を使うのは今回で終わりだよ。」
イリアはアンの手に自分の手を合わせ、涙を拭った。
「どうしてオレンジローズなのかしら。」
「イリアを運ぶ最中ずっと、『オレンジローズ』と唸っていたんだとさ。」
アンの脇にいた女の子が顔を出し、言った。
「『オレンジローズ』って絆っていう花言葉があるんだって。」
「だめだ、行かせない。」
ホワイトソードの艦長であるテオはレイン救出作戦においてエミリアを同行させることに反対した。最初の段階ではテオの面が割れているので、レオンが行くことになっていたが、黒尽くめの服装で行く場合顔も隠せるのでテオ自身が作戦に参加できることとなった。
「この作戦に同行させてください。せめて、エアジェットを操縦・・・。」
「行かせない。もし何かあったら、君の父上に申し訳が立たない。」
「父は関係ありません。」
傍らにエミリアの父であるサンジョベーゼ将軍の指示で動いているジェフがいた。テオを制止し、エミリアに言った。
「君をだますつもりはなかったんだが。この作戦にはサンジョベーゼ将軍の意思があるんだ。」
「父の?」
「君の父としてではなく、将軍としてだよ。」
エミリアは口をつぐんで悔しさを押さえ込んだ。
「君も知っていると思うが、将軍は民族解放派であり、皇帝や皇帝排除派から敵対視されている。皇帝排除派に加担していると思われるグリーンオイル製造会社の社長を表ざたにすることで、力関係が浮き上がる。そうすれば、皇帝排除派の面子が割れて、動きやすくなる。」
「レインを私を騙してまで、価値のあることですか。でしたら、尚更、動向させてください。この目でこの体できちんとこの作戦の主旨を把握したいです。」
目は真剣だった。気持ちは揺らいでいた。エミリアの中で決心がついていたはずのレインへの思いは意外な形でまっすぐ力強く方向転換していった。
ベッドに横たわるレインを心配そうに見ているトニーはレインの頭を撫でていた。一度眠りに着いたら、目が覚めるのに時間がかかっていた。息をしているとわかるが、死人のように穏やかに眠り続ける。こころの奥底で、この作戦の成功を危ぶみ、レインにしてきたことを後悔する時を恐れた。
どこからか吹き付ける風が花の香りを運び、レインの意識を目覚めさせた。
「トニー。」
「目が覚めたかい。なかなか起きないから、死んでしまったのかと思ったよ。」
トニーの笑顔が心に突き刺さり痛みを感じてしまう。レインはつかさず話題を変えようとトニーの後方にある花を指差した。
「あれは、オレンジローズ。君がしきりに寝言で言うものだから、用意してもらったんだよ。」
ガラスの器に差しているオレンジローズは1本だけだった。
「オレンジローズは二本だったはず。」
「どうして?」
「どうしてかはわからない。」
「そうだなぁ、ここ『ビーハイブ オブ グラス』は高いところにあるから、花だけでも貴重なんだよ。2本用意できなかったんだ。」
「そう。」
どうして2本だと思ったのだろうかと考えてみたが、答えは出なかった。
「2本に何か意味があるんだね。何だろうね。」
トニーに手を差しのべられて、レインは起き上がった。トニーの手は相変わらず冷たく感じた。そして、レインはつぶやいた。
「寒さで凍えていた。」
「夢の中で?」
「そうかもしれない。でも、温かい風を感じたと思ったら、オレンジローズのなかにいたんだ。」
「へぇ。そうなんだ。で、それからどうしたの?」
「食べられた。」
「はぁ?」
「誰かに食べられちゃったんだ。」
トニーはクスッと笑った。レインは恥ずかしそうにすると、トニーは大声で笑った。
「あははは。食べられちゃったんだ。」
トニーは内心、気が気でなかった。食べたのが誰だろうかと。レインはトニーの笑い声で気持ちが高揚してきた。
「ああでも、わかるんだ。食べたのが誰だか。」
「誰?」
穏やかな笑みを浮かべてレインは「秘密」と言った。トニーはその言葉に救われる思いがした。
「そう、それは良かった。」
その意味をレインは理解できずに、トニーに困った顔を向けた。
「なんとなく分かった。だから良いんだよ。」