第三十七章 濃霧 5
レインには理由がわからなかった。睡眠薬から抜け出し、ようやく自分で動けるようになったころに、妙な服装をさせられて、男に面通しされた。
服装というと襟元がフリルのブラウスで、ボトムスは黒のタイトパンツ。黒のシューズを履かされて、鏡張りの部屋に連れていかれた。何が始まるか、考えることもできなかったが、現われた男は、同じ服装をした中年の男性だった。金髪天然のショートヘアー、鷲鼻と長いまつげに垂れた目、唇は分厚く、顎が割れていた。胸元のフリルからは分厚い胸毛が見えていた。妙な服装に似合わない野生的な顔つきに体つき。
男は始終レインをみて、笑顔だった。どこか、満足そうにも思えた。その様子に違和感を覚えて、レインは怯えてみせるのを恐れて、気丈に相手の目を見ていた。
足音を立てずに、レインに近づいてきた男がいた。驚いていると、中年の男は声を上げて笑った。レインはいたたまれない気持ちになった。近づいてきた男は手足が長く痩身な体つき、セミロングの金髪を片手でかき上げながら、レインに話しかけた。
「手を出して。」
「え?!」
言っても出さないレインの手を取り、もう片方の手で持っていた包帯を巻き始めた。両手を巻き終えて、スッと音を立てずに後方に下がった。レインが中年男の手を見ると、同じように包帯を巻かれた。頭の中に言葉が浮かぶ。
(殴り合い?)
言葉にせず、相手を見ていると、中年男はにやりと笑い、無言でレインに手で誘った。レインは理由がわからないので、首を振った。すると後方にいてた男が近づき、耳元にささやいた。
「戦わないと、殺されちゃうよ。」
その言葉に背筋が冷たくなったが、気丈にレインは返答した。
「どっちにしろ、殺されちゃうんでしょ。」
男はニヤリと笑って見せたが、レインの背中を押した。
「君が、アレックスの子孫なら、やるだけのことはやってみるべきだ。」
相手はレインが何者なのかを知っていた。それまで、誰にどういう理由でどこに連れてこられたか、わからなかった。しかし、「アレックス」の名がでて、スタンドフィールドの人間であることを知っている以上、ここが目的としていたグリーンオイル製造会社の社長の自宅だとしたら、連れてこられた理由がわからないわけでもなかった。アレックス=スタンドフィールドはグリーンオイルを製造会社以外で製造した最初の人物であったからだ。
顔は殴られなかった。体格からして差が感じられたが、防衛してできる限り応戦するしかなかった。殴られるのはみぞおち、そして、腕や背中。ダメージをくらいすぎると、口から血を吐き出した。中年男は平気な顔して攻撃してきた。笑顔でない分、攻撃しやすい。しかし、理由もわからず、ただ、闘っているだけでは体の動きが鈍かった。中年男が無言でいるので、レインも無言でいた。何を問いかけても答えてくれない気がした。
ダメージをくらい過ぎて、床に倒れこみ立ち上がれなくなった。何度も叩きこまれて床に伏せたが、立ち上がった。しかし、相手にダメージさえ与えることができなくて防衛するのみ、攻撃する力もなくなり、攻撃さえ交わすこともできなくなり、起き上がれなくなったのだ。
「終わりだ。」
中年男の言葉に怒りがこみ上げたが、思っている言葉を口にすることができなかった。
「これから、どうしましょう。」
「手当てが終わったら、基礎を教えてあげるといい。」
「承知しました。」
気が遠くなっていくなかで、聞こえた中年男との会話。基礎って何のことだと思いながら、レインは気を失った。
「痛い!」
口の中に痛みがはしって目が覚めた。消毒液のにおいが鼻についた。目の前には先ほどの男がいた。前髪をヘアーバンドでとめていた。
「ちょっと我慢していてね。」
男の指は細くて冷たい。レインの傷を丁寧に手当てしていたが、使わない手は体のどこかを必ず触っていた。気にしているという具合に目線を送ると、相手は笑った。
「結構、鍛えているんだね。」
口を開けると、切れているので痛い。
「あぐぅ。」
体を動かそうとすると、殴られた箇所が痛い。骨まで痛めつけられた感じがした。力を入れると痛みがはしる。
「はい、口を開けて。」
言われたとおりにできずに、睨み返した。
「そんな顔しない。はい、開けて。」
男はレインの顎を手で押さえ、口をあけさせ、薬を手に取り水と一緒に、レインの口に流し込んだ。口を閉じて両手でレイン頬を押さえた。
「ここでは主の言うことは絶対。僕たちはモルモット、おもちゃなんだ。」
一瞬にして真剣な目でレインに話しかける。
「手当ては終わった。少し睡眠をとったら、練習を始める。」
睨み続けるレインを睨み返すように男は続けた。
「言うことを聞かないなら、殺される。いや、自分が殺されるだけじゃすまない。君は眠っている間、うなされていて、誰かの名を叫んでいた。」
驚きの表情で、言葉を口にした。
「誰の名を!」
「連れてこられるよ、その子。主はかならずやる人なのだから。」
「誰の名を!」
「エミリアって言ってた。」
驚きのあまり、口で抑えた。無意識に名を叫んだのが、エミリアだということに。
「まさか、軍人だよ。」
「そうだね。サンジョベーゼ将軍の娘さんにして、皇女殿下のパートナーだものね。」
そこまで調べられているということを念押しされて、レインはその男に無理やり寝かされた。
「いい子だから、少し眠って。僕はトニー。フェンシングの名手だったが主に見初められて身売りした。」
「フェンシング?」
「ああ、君が次に目を覚ましたら、やることがある。僕がフェンシングの基礎から教えてあげる。」
レインに布団を掛けて、ベッドの横に立つと、トニーは指を鳴らした。パチンという音がスイッチになったかのようにレインは目を閉じて、寝息を立てた。
「そして、助けがくるまで、僕が君を・・・。」