第二十八章 衝動の波紋 1
エミリアが実家に到着すると、家政婦のマリアンヌが出迎えた。マリアンヌはサンジョベーゼ家で家政婦としてだけでなく住み込みで家を守っていた。
「お嬢様、お疲れになったでしょう。お父上は1時間後には到着されますので、それまでお体を休めてください。」
「ありがとう、マリアンヌ。」
自分の部屋に戻り、眠りにつくことなく、考えるのはレインのこと。レインの写真を見つめては何度破棄しようと思ったことか。そうすることができない自分の弱さを忌み嫌った。フェリシアに励ましの言葉をかけながら、自分自身の気持ちも諦めきれず、つながっていたいと願っていた。
父親が家に到着したというので玄関へ出迎えた。
「お帰りなさいませ。父さま。」
「ああ、息災でなによりだった。」
父親は男性をひとり連れて来ていた。
「ご無沙汰してましたね。エミリア。」
エミリアにとって見慣れぬスーツ姿で身を包んだ婚約者のクリス=アザロが立っていた。思いもよらぬ来客に驚きを隠せなかった。
「幽霊でも見たような顔つきをするんじゃない。失礼だぞ。」
「す、すみません。」
「いえいえ、婚約者なのに、顔をみせることが出来なかった私が悪いのですから。」
クリスは端正な顔だちに優しい目つきをした好青年だった。出身は一般人だが、エミリアの兄とスカイロードで同期生だったこともあり、エミリアの父が目を掛け、婚約させた。クリスにとっては願ってもないことで将軍との縁を期に軍での昇進を狙っていった。優しいまなざしの奥には栄達を願い剛毅な思いが隠れていた。
エミリアの胸のうちは落胆で満たされていた。レインへの想いを断ち切りたかったのは、婚約者の存在があればこそだった。想い募らせたのも、好きでもない相手を婚約させられたことへの反発心でもあるかもしれないと思った。フェリシアへの言葉で「心は誰のものでもない。」という思いは自分のためでもあった。心を自由にさせてくれたのがレインの存在であったと考えさせられ、胸が痛くなった。
嘘はつけない。こころがそう叫ぶものの、父親に逆らうことはできなかった。
夕食を終えて、父親に促されて、クリスと二人っきりにされた。他愛もない会話が繰り返されて、エミリアにとって退屈で仕方がなかった。相槌しかうてない自分がまるで人形にでもなったかのようだった。
クリスは突然エミリアの手を取り、見つめた。
「エミリア、僕の気持ちは君にあるよ。変わらず。」
クリスの言葉にただ、戸惑うエミリア。ここから、何が始まるというのか。それまで避けていたクリスとの男女の付き合いが卒業と同時に進行するというのか。
一方、クリスにはエミリアの気持ちを考慮しない父親の言葉に動かされていた。家に招いたのはエミリアの父だが、目的は卒業を伴に祝うことだけではなかった。エミリアのオンナとしての卒業させるためだった。
父のサンジョベーゼ将軍には思惑があった。エミリアを皇女殿下と一緒にスカイロードに行かせたのは人質扱いでもあった。卒業を期に、組織を本格的に動かす準備を進める決断をしていた。娘の命が保障された期間を過ぎては下手に動くこともできないが、軍内でも評判の良いクリスに守らせておけば、安心だという安易な考えがそこにはあった。そして、父親特有の欲望もそこにはあった。娘の処女喪失は自分が選んだオトコでないと困るという思いだった。クリスにその思いをそれとなく伝えて、「強引にでも。」という言葉を付け加えて促した。エミリアの父は夕食を終えると、家政婦のマリアンヌだけ一言伝えて、荷物をまとめて家を出て行った。
クリスは言われたとおりに強引に事を運ぼうとした。唇を奪い、抵抗するエミリアを客室に連れ込んだ。エミリアには拒む理由がなかった。この機会を逃してレインへの思いを断ち切ることはできないと抵抗する力を弱めた。自分の弱さが心を傷つけてしまうことを知らないまでに、婚約者のクリスに身を委ねた。
家政婦のマリアンヌが戸締りを確認するために、玄関に赴き、明かりを消そうとした瞬間に、素足で駆け降りてくるエミリアに出くわした。エミリアはナイトガウンを羽織り、胸元を両手で握り締めて、唇はガタガタと震わせていた。マリアンヌが目に入らなかったかのように、目をあわさず、一階のトイレに駆け込んで行った。トイレの扉が閉まると同時に、嗚咽する声がすこし漏れていた。マリアンヌは恐る恐る扉に手を掛けると鍵が閉まっていないので、開けて中を覗いた。
「お嬢様、どうかなさったのですか。」
トイレの便器に向かって、嘔吐するエミリアの姿から、何が起きたのかと想像せずにはいられなかった。そっと手を伸ばし、ナイトガウンをすこしめくって、下には何も着けていない裸だと知った。そして、力強くエミリアを抱きしめた。
「お嬢様、おかわいそうに。堪えてくださいね。」
「マ、マリアンヌ。」
エミリアはマリアンヌに強く抱きしめられて、千切れそうになるこころを必死につなぎとめようとしていた。思いを断ち切るために、自分を汚してしまうことが、こんなに辛いことなのかと、後悔せずにはいられなかった。しかし、もう、後戻りはできない。
「声は小さめにでも、思いっきり泣いてください。」
マリアンヌの言葉がこころに暖かく感じた。枯れてしまうくらいに泣いてしまおうと思った。