第二十六章 空飛ぶ翡翠 2
カスターが靴紐を結びなおして立ち上がった瞬間に、頭上から叫び声が聞こえて見上げた。
「きゃ~、キャス、避けて~。」
「え?!」
上からレテシアが飛び込んできたのだが、カスターには避ける余裕などなかった。咄嗟に頭を抱えて下に倒れ掛かった。
「うぎゃ~っ。」
「大丈夫?」
うつ伏せになったカスターの上に、正座で座り込むレテシアはその場から避けることなくカスターの身を案じた。
「わき腹が!!」
レテシアは右膝から落ちてきて、カスターのわき腹に当たった。
「ごめんなさい。」
顔をカスターの背中にうずめてあやまると同時に鼻をひくひくと動かせた。そして、笑顔になった。
「懐かしい臭いがする。」
「おはようございます。レテシア少尉。何をやっているのですか。」
冷ややかな目でジリアンが見ていた。
「あ、おはよう、ジル。」
カスターは気絶したかのように見うごきしなかった。
その様子にようやく、自分が背中に乗ったままだと気がついたレテシアはその場から離れた。
冷たい目線に取り繕うこともできずに、ただ、カスターに謝ってばかりいた。
「キャス、いい加減、死んだ振りするのはやめようよ。」
「振りじゃない。本当に死ぬほど痛かったんだ。」
「ああん、ごめんなさい。」
ああ、なんて、かわいらしい声なんだろうと思いながらも、どうしてこんな痛い思いをしているんだろうともカスターは考えた。
「でも、とっても、懐かしい臭いがしたの。なぜかしら。」
レテシアはカスターの作業服を引っ張って、臭いを嗅いだ。
「ロブの臭いかな。」
その言葉でカスターは胸が痛くなる思いがした。
(この人はロブの事を・・・。)
そう、いえば、クレアさんがと思い出しながら、わき腹をさすり、起き上がった。
「大丈夫?」
「いえ、大丈夫じゃないです。」
「ど、どうしょう。」
「いえ、気にしなくていいです、少尉。」
ジリアンはそっけなくそういった。
「カスターとコミュニケーションとらなくてもいいですよ。」
「え、でも。・・・どうしてロブの臭いがするの?」
カスターはすこし考えていたが、答えたのはジリアンだった。
「ロブ兄さんの作業服を着ているんだもの。」
「ええ!!でも、ちゃんと洗濯しているんだよ。ずいぶんと僕が着崩したのに。」
自分で臭いを嗅いだカスターは、グリーンオイルの臭いと汗臭さに混じって何かが匂っていた。
「ああ、ロブが使っている石鹸の臭いかな。」
カスターに指をさしたレテシアは満面の笑みになった。
「そう、それよ!お母さんが好んで使用していたと言ってたわ。」
二人はハーブの利いた石鹸を使っていたことを思い出した。
「それより、どうして、上から・・・・飛び降りてきたのですか、少尉。」
カスターが上を指すと、レテシアは満足げに上を見上げた。
「ねぇ、上を見て。何が見えるかしら。」
二人が上を見上げると、ポールが立っているのがみえた。
「ポール・・・。」
「その先は?」
「先?・・・旗?」
「そう、旗。旗を立てていたの。」
二人の頭のなかに、エクスクラメーションマークがいくつも並んだ。
「白い旗が見えるでしょ。今、日光浴をしているのよ。」
満足そうに、二人をみているレテシア。ポールはタンクの向いにある手すりの上に取り付けてあったが、旗の端を紐で結ばれているだけだった。
二人はスタンドフィールドでのタンク仕様を思い出していた。
スタンドフィールドでは、サイレンが鳴る。空挺が着岸する時と、グリーンオイル製造タンクが日光浴するために扉が開く時に鳴る。
それぞれ鳴り方が違うのだが、グリーンエメラルダはサイレンが緊急用なので、旗を仕様としているのだった。
「ああ~、あんなところから、飛んできたのですか。」
「ええ。でも手前にあるポールでワンクッション置いたけどね。」
タンクの側面にポールが突き刺さっている。それに一度回転させて飛び降りて来たらしい。
スカイエンジェルフィッシュ号と近接した時にも見たアクロバット飛行のことを思い返した。
あんな危ない事を日常茶飯事的にしているのかと、カスターは寒気がする思いだが、ジリアンは無関心だった。
「どうしたの?みんな上を見上げて。」
レインが声をかけて、三人ともそちらを振り向いた。
「おはよう、レイン。」
「おはようございます。少尉。」
何気に寂しく思って、悲しい顔をするレテシアにレインは言った。
「僕は軍人じゃないけど、お母さんは軍人だからね。きちんと挨拶はしておかないと。」
それは鬼艦長から言われたことだった。
「そうね。」
カスターはレインの袖を引き、上を指して耳打ちした。
「上に旗があるのが見えるだろう。その旗の説明を受けていたんだ。」
レインは上を見上げて、それが何を意味するのか考えていた。」
「で、何なの?」
「日光浴してるのよ。みなさんには、種のある場所に案内するわね。」
そういうと、レテシアは背を向け、歩みを進めた。
「日光浴?」
「うん、タンクの扉を開けているってことだよ。」
ジリアンはレテシアのほうへ指差して、二人についていくよう促した。
レインとカスターはひそひそと、話をしながら、ジリアンと後についていった。
「本当はレテシア少尉が飛んできて、びっくりしていたんだ。」
「飛んできた?」
「上から落ちてきたと言っていい。」
レインはそこから言葉にできなかった。
そして、鬼艦長と二人っきりになって、話をされたことを思い出していた。
グリーンエメラルダ号に着任してしばらくした後、レインだけがハートランド艦長に呼ばれて艦長室に入った。
「レイン=スタンドフィールドです。入室します。」
「入りたまえ。」
「失礼します。」
艦長室は、雑然としていた。いろいろな書物が積まれていて、足の踏み場もないくらいだった。
机らしきものがあって、艦長が喫煙をしていて、書類に目を通していた。
「御用とは何でしょうか。」
「御用というほどでもないが。すこし話をしたいと思って、呼び出したまでだよ。」
緊張気味に、直立不動だったレインはその場で息をもらした。
「その椅子に座って、くつろいでくれ。」
周囲をみても、椅子らしきものが見えなかった。艦長が指を指す方向をみると、書類がつまれた下に椅子の足らしきものが見えた。
「書類を横に置いてくれないか。座れるだろう。」
言われたとおりにした。
ようやく座れることができて、顔を上げてみると、かなり笑顔の艦長の姿をみて、度肝を抜かれた。
「そんなに怯えなくてもいいよ。小僧。」
一瞬、しかめっ面をしたレインだがすぐに笑顔になった。
「小僧じゃないです。レインです。」
「そうだな、レイン。赤ん坊のころはよく抱いてやったが、いつも泣いておった。」
嫌そうな顔をしないようにするのが精一杯のように、拳を握り締めて耐えていた。
「話しをしたいというのは、レテシア少尉のことだよ。」
「はい。」
「私はもう、老いぼれだ。時期が来れば引退しないといけない。」
神妙な面持ちで艦長の話を聞いていた。
「実際、ここを去るとして、レテシアはどうするかということになるのだが。あいつのことだ、ここに残ると言い出すだろう。」
「そうでしょうね。」
「エアジェットの操縦士として居続けたいと言い出すだろう。しかし、あいつも年だ。男なら、ともかく。オンナだから30代になってまでアクロバット飛行されては身が持たないだろう。」
艦長の言いたい事を意味している先のことがわからずにいた。
「わたしはレテシアにも引退して欲しいと思っているのだ。」
「引退ですか。」
「そう。引退するために、あいつが納得するために、ぜひともレインの力が必要だ。」
「僕の力が?」
「ああ、そうだとも。」
艦長は天井を仰いだ。
「レインはスカイエンジェルフィッシュ号のクルーになる少し前に、ロブが自分の父親である事を聞かされたのだろう。」
「ええ、そうです。」
「そして、レテシアの事を聞かされたのだね。」
「はい、そうです。」
「ロブがレテシアをどう思っているかは知らないが・・・。」
艦長は悔しそうに天井を見つめ、間をおいた。
「レテシアは不憫なくらい、ロブを想っている。」
「え?!」
不憫という言葉に引っかかりながらも、レインは艦長の悔しそうな顔を見つめていた。