15 ジゼル⑤
「けっこん……って」
ジゼルは呟いたきり目を瞬かせると、やがてのっそりとした動作で首を傾げた。
言われた意味がよくわからない。けっこん、とは何だっただろうか。
「……血の跡?」
「血痕ではない。結婚だ」
血痕ではない。けっこんだ。けっこんだ……結婚だ?
……結婚だ!?
「結婚ですか!?」
「そうだ。私と結婚してくれ」
ロードリックが堂々とした態度で言い切るので、ジゼルは逆に恐慌状態に陥った。
握られた手がどんどん熱を蓄えていくのがわかる。今の話の流れでどうしてそんなことになるのかまったく読めない。
「な、なななぜでしょうか!? どうしてそんな話になるのか、よく! わかりません!」
「後妻を狙う辺境の狒々爺などより、私の方がよほど旨みがある。ホプキンソンめも納得するはずだ」
冷静な口調で告げられた説明はわかりやすかった。ジゼルは徐々に落ち着いてきて、握られた手から力を抜いた。
つまりロードリックは、たまたま出会っただけの哀れな女を騎士道精神から助けようとしてくれているのだ。
本当に亡国騎士物語のオズワルドのよう。物語の終盤、かの騎士は自身を暗殺しに来た子供を殺すことができずに命を落とす。
オズワルドは誇りを汚さないために自らを犠牲にした。ロードリックはそれと同じことをしようとしているのだと気づいてしまえば、切なく微笑まずにはいられなかった。
「いけません。そのようなことを、貴方様にさせるわけには参りませんわ」
ホプキンソンからすれば、傷物の娘が隣の領地と縁を繋ぐのに役立ってくれるなら万々歳だろう。しかしロードリックには損はあっても得のない話なのだから、やはりこれ以上の迷惑をかけるわけにはいかない。
ジゼルは握られた手をそっと解こうとした。しかし、大きな手は頑として力を緩めようとしない。戸惑いを滲ませて顔を上げると、浅葱色の瞳が切実な色を宿してこちらを見つめ返してくる。
「……何故だ? やはり、私のことが嫌いか」
問いかける声が酷く沈んでいるように聞こえたので、ジゼルは慌てて首を横に振った。
「嫌いだなんて! そんな筈ありません」
「だが貴女はあの時、走って逃げて行った。私に触れられたのが嫌だったのではないのか」
「そ、れは、その……」
オドランの言った通り、やはりロードリックはあの時のことを気にしていたのだ。ジゼルは居た堪れない気持ちになって、できうる限り彼の視線から逃れようと身を縮めた。
「申し訳ありません……。あの時は、ただ、恥ずかしくて。大人にあらざるべき振る舞いでした……。ですから、その。決して、嫌だったわけでは」
精一杯の勇気を振り絞って伝えたことは、ロードリックの心持ちを少しは回復させたらしい。包み込む手の力が強くなるのだから、ジゼルは赤くなった顔を持て余してしまう。
「ならば……いや、違うな。どうも私は口下手で良くない」
ロードリックは暫しの間言い淀んで目線を逸らしていたが、またすぐに正面からジゼルを見つめた。
これは彼がたまにする仕草だ。とても優しい人だから、いつも他者に気を遣っている。見た目は格好良すぎてちょっと怖い印象すらあるのに、意外と表情に出やすくて人間味があって。
「私は貴女のことが好きだ。だから結婚してほしい」
この人のそういうところを、好きだと思ったのだ。
「な……」
なんで、と問う音が喉に詰まって出てこない。
知らずのうちに手が震えていて、それに気付いた大きな手がますます握る力を強くした。ジゼルは驚いて肩を揺らしてしまい、その反動でようやく息を止めていたことを知る。冗談を言っているのかもしれないと彼の顔を見つめ返すが、どこにも揶揄う色は見当たらない。
「どう、して。だって、私は……」
酷い傷痕があるのだと、口にすることはできなかった。先程痛む胸を無視して説明したことがもう一度刃になって、全身を切り刻んでいく。
そんなことを言わないでほしい。だって、想像してしまう。
彼と過ごした春が、とても優しかったから。
夏には生い茂る緑の匂いを感じて、
秋は舞い散る落ち葉の音を聞き、
冬になれば降りしきる雪の白を美しいと思う。
そんなありふれた四季を二人で歩む未来を。
信じたいと、思ってしまう。
「……火傷の痕を、ご覧になってください。きっと見たら、幻滅しますから」
アンブラーのように罵りはしなくとも、きっと彼の熱は冷めるだろう。
ジゼルは震える唇を引き結んで、ワンピースのボタンに手をかけた。一つはずし、その下のボタンに触れる。
これを外せば傷痕の一部が見えてくるし、なんなら上半身を全て露出したって構わない。後になって哀れみの目を向けられるくらいなら、今この場で終わらせた方がよっぽど——。
「ジゼル、そんなことはしなくていい」
静かな声が聞こえて、同時にボタンにかけていた手の上に大きな手が重ねられた。有無を言わせぬ体温が切なくて、動きを封じられたジゼルは戸惑いに揺れる瞳をロードリックに向けた。
「自分を傷つけるようなことはやめてほしい。それに、傷痕くらいで私が諦めると思わないでくれ」
「そんな……本当に、醜いのですよ」
ジゼルの葛藤を正確に読み取ったロードリックが、力強く言葉を紡いだ。
「傷跡なんて関係ない。私は貴女が側にいてくれれば、それだけでいい」
たぶん微笑んでくれたのであろう彼の顔は、見えなかった。
感情を自覚するよりも早く涙腺が決壊して、大粒の涙をこぼし始める。ロードリックが息を呑む気配を感じたけれど、ジゼルは次々と溢れる雫を止める術を持たなかった。
ただただ嬉しくて、幸せで。そう感じてしまう自分の罪深さに、心が千々になりそうだった。
「なっ……何故泣く⁉︎ ど、どう……そうだ、布を!」
何やら泡を食ったような声が聞こえたと思ったら、暫しの間を置いて目元に柔らかい布が押し当てられる。それがロードリックの病院着の袖であると気付いた頃には、壊れ物を触るような仕草で涙が拭い取られつつあった。
「これしかない、許してくれ! 着替えたばかりだから清潔なはずだ」
いきなり泣いたりしたら変だし、大人なのにみっともない。そんなことくらい重々承知なのに、彼の手つきがあまりにも優しいせいで、ますますしゃくりあげてしまう。
「わ、私っ……」
「何だ、どうした?」
「私、23歳、ですよ。そろそろ嫁ぎ遅れ、です」
途切れ途切れになりながらでも、自分がいかに結婚相手として相応しくないのかはちゃんと説明しなければならない。義務感に駆られてのジゼルの言い分は、しかしあっさりと返されてしまう。
「ああ。貴女のような人が結婚していないだなんて、奇跡的なことだと思う」
まっすぐな言葉と共に、ぽんぽんと涙が拭われていく。
「むしろ私の方が大概だぞ。もう33だからな」
気にならないかと問われて、ジゼルはついいいえと答えてしまった。
そろそろ袖口が涙を含んで重くなっていて、恥ずかしさと申し訳なさで目頭よりも頬が熱くなってくる。
「しゃ、社交界なんて、見たことすらない、です」
「私もとんと縁がないな。何せ、女王を弑逆しようとした元謀反人だ」
そういえばすっかり忘れていたが、マクシミリアン・ブラッドリー公爵はつい最近謀反を起こして禁固刑に処されたばかりなのだったか。かの公爵の擁する黒豹騎士団のトップがロードリックだと言われても、ジゼルにはいまいちピンと来ない。
「元、謀反人……」
「ああ。気になるなら説明する」
「いいえ」
「……そうか。他に、言いたいことは?」
ロードリックが優しく問いかけてくれたのに、早くも言うべきことが尽きてしまい、ジゼルは途方に暮れた。
本当に良いのだろうか。やっぱりどう考えたって釣り合わない。けれど。
——伝えないと。だって私は、色んな人に助けてもらってここにいるのだから。
そうして溢れた最後の言葉は、ありふれていて、そして夢を見ているように頼りない響きをしていた。
「私も、貴方をお慕いしています」
いつの間にか涙は止まっていた。声が震えていないことに気付いたロードリックが手を引いてゆき、彼の丸くなった瞳が露わになる。
「……本当か?」
「はい」
伝えたことを実感すれば顔に熱が集まってきた。ジゼルは膝の上で組んだ両手を意味もなく動かして、その様を見ていることしかできなくなってしまった。
「私などで良いと仰っていただけるのなら……どうぞ、よろしくお願いします」
最後の方はだいぶ細く掠れた声になってしまったが、何とか言い切ったジゼルは俯いた姿勢のまま頭を下げた。
しかしいくら待っても反応がない。ジゼルは怖くなってきて恐る恐る顔を上げたのだが、その先ではロードリックが呆けた様子で顔を赤くしていた。
「あの?」
「あ……ああ、いや。そんなことを言ってくれるとは思わなかったから、驚いた」
そうか、うん。
噛み締めるように呟いたロードリックは、赤くなった顔の下半分を手で覆った。
やっぱりわかりやすい人だ。ジゼルの方はと言えばまだ実感が湧かないが、だからこそ微笑ましい気持ちになって、久方ぶりに心から笑った。
花開くような笑顔を浅葱色の瞳がじっと見つめて、愛おしげに細くなって。そんな小さな表情の変化を見逃すくらいには、心の底から幸せだったから。