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12 ジゼル③

 それから幾日かが過ぎた。今日も今日とて病院へとやってきたジゼルは、お気に入りの中庭で一休みしてから帰ることにした。


 すぐに見慣れたキジトラ柄が歩み寄ってくる。オズワルドと名付けた猫は勝手に膝の上に乗って丸くなり、さっさと撫でろとばかりに顎を差し出してきた。

 相変わらず懐っこくて可愛い猫だ。ゴロゴロと喉を鳴らす姿を見ていると大変癒されるし、治療の不安も忘れることができる。

 しばらく撫でているうちに「もしここにあの人がいたら喜ぶだろうか」と考え付いて、ジゼルは慌てて首を横に振った。


 ——もうチェンバーズさんと会うことは無いのに、どうしてふと思い出してしまうのかしら。


 ここで髪を切ってあげたから何となく思い出しただけ。そうに決まっているとジゼルは己に言い聞かせた。

 ロードリックはたまたま行き合っただけの人物だ。あんなに立派な人に、自分のような訳有りは関わるべきではない。

 彼の病気がすぐに良くなってこの先も健康で過ごせますように。そう祈るだけなら、きっと許される。

 ジゼルはオズワルドの背中をそっと撫でた。いつもなら飽きてどこかに行ってしまう頃なのに、どっしりと丸くなって動く気配がない。


「……温かいわ。ありがとう、オズワルド」


 猫騎士に礼を言ったその時のことだった。芝生を踏む音が柔らかく耳をくすぐって、ジゼルはふと顔を上げる。

 そこに立っていたロードリックと目を合わせた瞬間、時が止まったような心地すらした。

 どうして。もう二度と会うことはないと思っていたのに。


「チェンバーズさん……」


「ジゼル嬢か」


 ロードリックは驚きを顔に浮かべて、そうすることが当たり前であるかのように歩み寄ってくる。


 ——どうしましょう。びっくりしてしまって、何を言ったらいいか。ああでも、まずは挨拶、よね?


 ジゼルは立ち上がろうとして、オズワルドが膝の上に鎮座していることに気付いた。気持ちよさそうに目を瞑る猫を強引に押しのけることはできず、立ち上がって挨拶ができないことを詫びると、ロードリックは目元を緩めて首を横に振った。


「いや、構わない。……その猫は?」


「ここに住み着いているみたいですね。私、よくここで休憩してから帰るので、懐いてしまって」


 ジゼルが猫の小さな頭を撫でて見せると、ロードリックは腕を組んで明後日の方向に視線をずらした。ほう、などと気の無さそうな相槌を打っているが、彼のこの様子はもしかして触りたがっている……のだろうか。


「可愛いでしょう? 触ってみませんか」


「いいのか?」


 提案をしてみると食い気味の返事と満面の笑みが返ってきた。ロードリックはまずいと思ったのか再び表情を引き締めたが、ジゼルからすれば後の祭りだ。

 どうやらロードリックは猫が好きらしい。もしかすると、動物自体が好きなのかも。怜悧な見た目とそれに見合った厳格な喋り方からは想像がつかなかったけれど、知ってしまえばしっくりくるような気もする。

 ロードリックは諦めがついたのか、断りを入れて隣に腰掛けてから猫を撫で始めた。毛並みの背中を手が滑るたびに顔が緩んでいくあたり、恐らくはよっぽど好きなのだろう。


「……うむ。癒されるな」


「ふふ、そうですよね。私もついここに寄りたくなってしまうんです」


 春の空気が周囲を包み込んで、心地の良い風が吹いた。

 整った横顔が雲の浮かぶ青空を見上げている。出会った当初よりだいぶ顔色が良くなって、目の下に作っていたクマも無くなったようだ。


 多くの人に必要とされている人だから、早く良くなって元の場所に帰れたらいい。この春の日差しと穏やかな風を浴びれば、きっと治りも良くなるはずだ。

 思いがけず手に入れたこの幸せな時をもう過ごせないであろうことは、少しだけ寂しいけれど。



 オズワルドをロードリックの膝に乗せてやったことで、猫に付けた名前について聞かれてしまった。

 ジゼルは気恥ずかしい思いを堪えつつも由来について素直に話す。騎士が姫を救い出したシーンが好きと言ったあたりで、ロードリックは考え込むような様子を見せた。


 ——は、恥ずかしいわ! こんな夢みがちなことを二十歳もとっくに過ぎた女が言ったりしたら、困らせるに決まっているのに!


「あ……も、申し訳ありません、私ったら。変なことを申しましたわ。どうか、忘れて下さい」


 ジゼルは赤くなった顔を背けて、何とか誤魔化すべく苦笑を浮かべる。それが起きたのは、羞恥と後悔によって手のひらに嫌な汗をかいた時のことだった。

 今までとは違う強い風が吹いて、ひゅうと大きな音が鳴る。整えられた芝生に風の波が広がったのを見て、ジゼルはは反射的に目を閉じた。

 すぐに風は治まったようだ。再び目を開けると、そこには美しい景色が広がっていた。

 薄紅色の桃の花びらが舞って、静かな空間を夢のように彩っている。春の女神の気まぐれとしても奇跡的な光景に、ジゼルは感動のあまり歓声を上げた。


「まあ、なんて綺麗……! ほら、見て下さいチェンバーズさん!」


 先程の羞恥心も忘れてロードリックを振り返ると、何の前触れもなしに手が伸びてきた。

 突然のことに反応なんてできたはずもない。ジゼルは大きな手が髪に触れ、いつの間にか引っかかっていたらしい花びらを掬い取っていくのを、ただ呆然と見つめていた。


「そうだな、綺麗だ。……ジゼル嬢?」


 恐らくだが、この時のジゼルはかつてないほど赤面していたに違いない。何故ならロードリックもまた小さく微笑んでいた顔を強ばらせ、花びらを掴んだ姿勢のまま動きを止めてしまったのだから。


「あ……あ、あの、取ってくださってありがとうございます! わ、私、その、もう帰らないと!」


 ジゼルはあたふたと視線を彷徨わせた末に掠れて上擦った声で言った。傍に置いていたトートバックを引っ掴み、怒涛の速さで立ち上がる。

 落ち着くべきだと頭ではわかっていても体が言うことを聞かなかった。とにかくここから逃げなければと、確信に満ちた衝動に突き動かされてしまう。


「で、では、どうかお大事に! 失礼しますっ!」


 こうして、ジゼルは脱兎の勢いでその場を逃げ出した。

 労働で得た体力は駆ける足に力を与えてくれた。病院の門を出て大通りを走り、ようやく人気がなくなったあたりで足を止めたジゼルは、大きく弾む胸を押さえてその場に蹲った。

 なんて馬鹿なことをしたんだろう。ロードリックはただ髪についた花びらを取ってくれただけ。ただ親切にしてくれただけなのに、あんな態度を取ってしまうなんて。


「……うっ」


 知らずのうちに両目から涙が溢れてきて、ジゼルは声を押し殺すために膝に顔を押し付けた。喉に力を入れてやり過ごそうとするのに、頑張れば頑張るほど嗚咽が漏れそうになるのだからどうしようもなかった。

 どうして涙が出るのか。その理由に、今まさに気付いてしまったから。


 ——私、いつの間に、チェンバーズさんのこと。


 会った回数はたった三回。それなのに、どうしてこんなに好きになってしまったのだろう。


 怖い顔をしているけれど、優しい人。

 義理堅い人。

 真面目な人。

 猫が好きなところ。

 笑ったときの、優しい顔。


 思い浮かぶことなんて幾らでもある。恋をしたことがないジゼルなんてひとたまりもないくらい、立派で素敵な人。

 けれど駄目なのだ。彼のことを何も知らないことはもちろん、ジゼルには大きな瑕疵がある。


 この時初めて、ジゼルはこの醜い体に絶望を感じた。


 小さな幸せを守ることのできる自分になりたかった。

 いつもジゼルの幸せを願ってくれた、強く優しい母のように。


 それなのに、現実の自分は臆病で、弱くて。

 いくら治療したところで傷跡が消えることはなく、何よりも心は変えられない。

 拒まれると知って想いを伝えることなんて、できるはずが無かったのだ。


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