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10 ジゼル①

 ジゼル・マンシェはホプキンソン侯爵の私生児としてこの世に産まれた。


 物心付く頃にはホプキンソンと母の間に繋がりはなく、母子は貧しいながらも幸せに過ごしていた。

 ささやかな暮らしが失われたのは、ジゼルが10歳の時のことだった。


 目の前で慣れ親しんだ部屋が燃えている。倒れた母はジゼルに向かって手を伸ばしたが、二人の間に瓦礫が降り注いだせいで握り返すことは叶わなかった。

 服に火がついたことなんかどうでも良くて、母の姿が見えなくなったことが悲しくて大声で泣いた。すると消防隊員がやってきて、ジゼルをアパートの外へと連れ出してくれた。

 お母さんがまだ中にと必死で抵抗したけれど、当然ながら部屋に戻ることは許されずにそのまま病院に運ばれて、そこからの記憶は曖昧だ。治癒魔法の使い手まで動員しての治療の甲斐あって、ジゼルは1週間後に目を覚ました。


 出火原因は隣人の火の不始末で、本人もこの火事で亡くなっていた。母を失った憤りを向ける相手はおらず、体に残った醜い火傷の痕がこれが現実であるということを嫌というほどに主張していた。


 そんな経緯があって、実の娘を放置するのでは外聞が悪いと考えたホプキンソンにより、ジゼルは侯爵邸に引き取られた。


 当然ながら歓迎などされなかった。

 肩から腹にかけて残った火傷の痕のせいで、侯爵家の駒として嫁に行く使い道すらないお荷物の私生児。唯一血のつながりのある父は妾腹の娘に関心を持たず、代わりに関わるのは義母と義姉だけ。

 義母は突然現れた貧相な娘がとにかく気に入らない様子で、ジゼルは幼い頃から使用人と同等かそれ以上の労働を強いられた。


「ヴィクトリア、私は紅茶が良かったのよ。コーヒーだなんて誰が淹れろと言ったの?」


 コーヒーを用意しろと言われて義母の元に持っていくと、覚えのないミスを指摘される。

 ヴィクトリアという名前は侯爵家の娘として恥ずかしくないようにと用意されたものだった。ジゼルにとっては耳慣れず、不快な文字列でしかない。


「申し訳ありません、奥様」


「本当に愚図ね! あのメイドの女に似たのかしら?」


 嫌がらせをされることよりも、母をなじられることが何よりも苦しかった。

 助けてくれるものはおらず、少しミスをすれば食事を抜かれ、日の当たらない地下室で寝起きする日々は、確実に少女の身体と心を削っていく。

 ジゼルは母を想って何度も泣いた。あの小さなアパートに帰りたいと、いつもそればかりを願った。


 そんな中で唯一安らぎを得る手段が物語を読むことだった。特に亡国騎士物語が大好きで、主人公の騎士オズワルドが王女を救い出すシーンは何度読んだか分からないほど。

 高い塔のてっぺんに幽閉されていた王女の元に颯爽と現れて、亡国の騎士は手を差し伸べながらこう言うのだ。


「姫君、私と共に参りましょう」


 ジゼルは台詞を口ずさむと、小さなため息をついて本を閉じた。

 自分にこんなことが起こるだなんて夢を見るほど子供でもなく、ただ純粋に憧れているだけだ。物語を読んでいる間は苦しいことも思い出さずに済むのだから。


 次の日も早く起きて水を汲む。

 洗濯をこなし、掃除をして、夜は冷えた地下室で眠る。


 たまにミスをして食事抜き。

 家具の移動なども一人で行う。

 義姉に用意した焼き菓子がまずいとゴミ箱に捨てられる。


 夜は冷えた地下室で眠る。


 赤狼騎士団の者たちに貧民の子がいるぞと罵倒される。

 洗濯をして掃除をする。

 義母に掃除が下手だと顔を打たれる。


 夜は冷えた地下室で眠る。


 毎日が痛くて苦しかった。色のない日々は長いような短いような感覚で過ぎ去って、ジゼルはいつの間にか15歳になっていた。


 その出来事がどういった経緯で起きたのかはよく覚えてない。


 いつものように中庭を掃き清めていたジゼルは、気づいた時には木立の中に引きずり込まれて、騎士団長アンブラーに組み敷かれていた。

 体中を無遠慮な手が這い回り、その感触の気持ち悪いことと言ったら無かった。下卑た笑みを浮かべた顔も、抵抗の効かない大きな体も何もかもが恐ろしくて、それでもジゼルは震える声を絞り出す。


「嫌、やめて……!」


「大丈夫ですよ。すぐに良くして差し上げます」


 近頃のアンブラーの目に、どこか品定めするような色が含まれていたことには気付いていた。

 しかしこんなことになるなどとは思っても見なかったし、騎士という存在がこのような行為に及ぶとは信じたくもなかった。


「随分と美しくお育ちになられたのに、体に傷があって嫁に行けないとはもったいない。気の毒だから私が慰めて差し上げます」


 そんなことは頼んでもいない。けれど嫁に行けないという言葉には、冷や水を浴びせられたように体が動かなくなった。

 それでも拒絶の言葉でか細い抵抗を続けていると、胸元のボタンを外されたところでアンブラーの動きが止まった。


「うわっ……! なんて醜い傷だ!」


 まるでこの世でもっとも汚いものを見たとでも言うような声だった。


「ちっ……想像以上だな、これは。顔が良くても無理だ」


 アンブラーは低く吐き捨てると、罵倒する言葉を並べ立ててその場を去っていった。


「良かった……」


 ジゼルはシャツのボタンをかき合わせて、安堵のため息をついた。

 体がどうしようもなく震えるのは、地面に押し付けられて冷えたのと、恐ろしくて仕方がなかったから。そうだと思い込みたいのに、頭の中には先程のアンブラーの言い様がこびりついてしまっていた。


 ——なんて醜い傷だ、か。


 そんなことは自分が一番良く知っている。肩から腹にかけて広がる火傷の痕は、ジゼルにとっては母を差し置いて生き残った罪の証だ。


 あのおぞましい騎士団長がいる場所にはもういたくない。実の父とは話した記憶もなく、義母と義姉には邪険にされる日々。

 ジゼルはもう成人しているし、良く考えればここにいる理由などないのではないか。


 思い立った瞬間に体の底から衝動が沸き起こって、行動せずにはいられなかった。

 ジゼルはその日のうちに荷物をまとめると、忌まわしい侯爵邸を後にした。






 こうしてジゼルは領地の果ての宿場町にたどり着き、最も安い宿にて住み込みの仕事を得た。使用人として働いてきた能力がそのまま役に立って、宿を運営する人の良い夫婦はいつも働きぶりを見て喜んでくれたものだ。


「ジゼルちゃん、髪の毛切ってもらっていいかしら?」


「はい、もちろんです」


 自分が愛した名前で生きることができるのも嬉しい。何より手先が器用なジゼルを、皆が頼ってくれることが幸せだった。

 綺麗に髪をカットされて明るい笑みを浮かべた仲間が、心からの感謝を告げて去っていく。ジゼルは笑顔で頷いて、明日の分の食材を買い出しに行くことにした。


 夏の日差しも夕刻となれば和らぎ、乾いた空気が賑わう街を押し包んでいる。家路を急ぐ人々の笑みを眺めていると、手を繋いで歩く親子連れとすれ違った。

 仲の良さそうな夫婦と小さな女の子が一人、幸せそうな笑みを浮かべて家路を辿っていく。


 ——いいな。


 ついそう思ってしまう自分のことが、ジゼルは嫌いだった。


 本当は家族が欲しかった。幼い頃、無条件でジゼルを守ってくれた母のように、小さな幸せを守ることのできる自分になりたかった。

 けれどいい加減諦めるべきなのだ。一目見て醜いと謗られるような傷痕を持つ身体では、結婚など夢見ることすら許されないのだから。


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