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ロゼレム

 ゾルピデム王国の都市、ロゼレム。

 誠司がそこについたのは朝も早い時間であった。太陽は薄曇りの向こうにあり、早朝ということも合間って肌寒い。馬車では御者が気を効かせて毛布をくれたが、降りるときに返した。その御者ももういない。街門を通ってすぐに別れた。誠司はひとりきりだ。

 道の隅に寄り、人々の流れを見る。時間のせいかエスタゾラムと比べると喧騒は大人しいが、道行く人の多様さは変わらない。獣の体を持つもの。大きな角を持つもの。巨体で窮屈そうに人混みを縫うもの。矮躯で大荷物を抱えてゆくもの。

 未知なる闘争への期待。

 鼻から吸いこんだ冷たい空気は肺腑いっぱいに満ち、そこで熱され、吐き出される時には獣気を帯びていた。運動もしていないのに肉が熱くなっている。準備運動なしで今すぐにも動けそうだ。陽炎すら立ち登りそうな熱気を、しかし誠司はもう一息とともに吐き出した。

 こんなところで昂ぶっていても仕方がない。まずは腹ごしらえだ。

 歩き出した誠司の爪先は、大きな通りと垂直に向いていた。


 ◯


 主要な通りから外れること二本。誠司の歩く通りは暗くも剣呑でもなかったが、人の数はだいぶ落ち着いている。先程までいた通りがこの街に来たばかりの、いわば観光客向けの通りとするならば、この辺りは地元民の使う通りといったところだろうか。

 並ぶ建物の上部に看板が掲げられている。どれもイラストだけの看板だ。いくつかの商店と、酒場があるようだ。

 

「あそこにするか」

 

 誠司がその酒場を選んだことに理由はない。ただ目についたから入るだけだ。それはつまり、立地だったり店構えだったりが目につきやすい造りをしているということだ。であれば、誠司以外にも多くの客入りが見込めるはずだった。


 きぃ、と軋む木戸を開ける。年期のいった店構えにふさわしい、どこか淀んだ空気が漂ってきた。それと同時、すん、と鼻につく臭い。酒や料理ではない臭いの元は、客の何人かが(くゆ)らせるタバコのようなものだろう。ベタつくような甘い匂いもあれば、重く苦い臭いも漂っている。おそらく味も濃いであろう、臭いの強い料理のそれと混ざりあい、混沌とした空気を醸成していた。

 木戸の音に反応し店主らしき男が横目に誠司を見た。少なくとも顔はヒトに見える。大柄で厳めしい顔の中年男だ。カウンターの影になっているが、手元ではなにか作業をしているようだ。誠司は数人の客の視線を感じながら歩き、カウンター席についた。


 ちょうどそのタイミングで店主が手元から料理を取り出し、カウンターに置いた。それをテーブル席の男が取り、席に戻っていく。それを店のシステムなのだろうと誠司は理解した。

 店主は着ている前掛けで乱暴に手を拭うと誠司の前にやってきた。


「なにか食うか。飲むだけか」

「食うだけだ。肉が多いやつを頼む」

「はっ。口に入れるもん選びたきゃ、もっと行儀のいい料理屋に行きな」

「どういう意味だ」

「どういうって……、そのまんまの意味だよ」

「メニューから選ぶんじゃないのかい」

「そりゃ料理屋の話だろう? うちは酒場だ」

「酒場じゃメニューはない?」

「当然だろ」


 店主は呆れた様子でため息を吐いた。誠司の常識からすれば呆れられるのは心外だが、こちらでは常識なのだろう。郷に入っては郷に従え。そういうものならそういうものだと受け入れるほかない。


「あんた旅人か? 物知らずだな。この国の金持ってるんだろうな」


 胡乱な目を向けられ、誠司は小袋から宝石を取り出した。ひとつ摘まんでカウンターに乗せる。


「金は無いんだが、これでは足りないかね」

「こりゃぁ、紫凍石か?」


 誠司の見せた宝石──紫凍石と言うのだろうそれを見た店主は、眉根を寄せて「けっ」と機嫌を悪くした。


「そんなもんで騙されるかよ。金も持ってねぇのに紫凍石だけ持ってますーなんて、そこらのガキだってもっとまともな嘘がつけるぜ。偽物売り付けようってんならもっと頭の悪い奴を狙いな」

「おいおい人聞きが悪いな。確かにおれは無一文だが、人からもらうことだってあるだろう」

「紫凍石といやぁ小粒ひとつで野郎ひとりが一年は食える額で売れるそうじゃねえか。それをおまえみたいな小汚ない格好の男にくれてやるって? ハッ! 俺もそんな奇特なお人に会ってみたいもんだな」


 そう吐き捨てた店主は、もう誠司を見ていなかった。カウンターの下で道具の手入れをはじめた様子から自分の相手をするつもりはないと読み取り、誠司はおとなしく席を立った。店の戸口へと歩きながら思案する。

 安くはないだろうとは思っていたが、偽物と疑われるまでとは思わなかった。いや、宝石の現物を持ってくる流れ者など、はなから信用されなくて当然か。

 しかし困った。多少安く買われるぐらいなら構わないが、また偽物と思われて買い取りを拒否されていては一文無しを解消できない。

 誠司が一日に必要とするカロリーは常人と比べ物にならない。肉体を維持するためにも食事を欠かすことはできない。空腹を衝かれて負けたとして、相手を卑怯と罵ることなど断じてないが、それで死ぬことがあれば誠司は自分を許せまい。

 なぜコンディションの維持を怠ったのか。死ぬその瞬間まで自分の不手際を呪うだろう。気持ちよく闘い、気持ちよく負け、気持ちよく死ぬためにも、充分な食事は不可欠だった。そのためには勿論、食事はなるべく正当な手段で得るべきだ。


 ひとまず、大通りだ。店を出た誠司は二本の通りを戻って街門から見える通りに帰ってきた。人の波を頭越しにながめ、さてどの店ならこの石を買い取ってくれるだろうかと考えるが、見当もつかない。商才は元よりろくな学歴も持たない男だ。経営顧問の顔がちらと浮かぶが、いないものは仕方がない。片端から試すことにして、誠司は歩き出した。


 ◯


「紫凍石の買い取りでしたら、当商会はいつでも引き受けております」


 人のよい笑顔でそう言ったのは、誠司が交渉の真似事をはじめてから三番目の店舗の代表だった。他の店ではやはり信用がなく門残払い同然だった中、まともに話を聞いてくれたのが、ここシープ商会ロゼレム支部の代表を努める、大きく垂れた赤い鼻を持つ中年の女、テグだった。早い段階で当たりを引けたことは喜ばしい。

 今誠司の腰には金貨銀貨のじゃらりと擦れる袋が下げられている。重くかさばりはっきり言って邪魔だが、金貨ばかりでは釣りが出せない店があると言われては仕方がない。

 紫凍石はひと粒しか売らなかった。全部売ってしまっては重さも総量も何倍にも膨れ、とても持ち運べるものではなかっただろう。


「また入り用になったら来るよ」


 きらきらと飾りのついた豪奢な扉を開け、誠司はおよそ一時間ぶりに外に出た。日はずいぶん高くに昇り、遮るもののなくなった陽光に目を細める。外の人いきれはよりいっそうの賑わいで出迎えた。

 分厚い手を腹に当てる。紫凍石の売り込みに際して甘い菓子を供されたが、空き腹にはとても足りない。半端に食べたことでむしろ強調されたように感じる。餓えを抱えながら手頃な食べ物はないかと見回していると、声をかける男があった。


「そこのあなた、道案内を雇いませんか?」


 顔を向ける。声の主は黒豹の獣人だった。骨格はほぼヒトのそれ。しかし肌は濡れ羽色の毛に覆われ、顔は黒豹そのものに見える。手足もヒトに近いが、やはり毛と、五指に肉食獣としての爪を備えていた。背は誠司と同じくらいか。飾りのついた服が体型を隠しているため、体重は知れない。


「私はパンシーカ。この街生まれこの街育ちの、生粋のロゼレムッ子です」


 パンシーカと名乗った男は優雅に頭を下げた。体の動きも表情も、つむじから爪先までを人に見られることに慣れ、意識した動作だった。声は低いが、張りがある心地のよい声だ。


「この街のことならなんでも知っていますよ」

「ああ、そりゃありがたい」誠司は太い声を弾ませた。「腹が減ってるんだ、盛り付けのいいところ教えてくれ」


 二つ返事の様子の誠司を、パンシーカは目を丸くして見ていた。


 ◯


「まいったなぁ」


 朝。薄曇りの空の下をパンシーカはひとり、歩いていた。ひんやりした空気に呟きが溶ける。もう少し厚い上着を着てくるべきだったかもしれない。

 そう思いながらも引き返しはしない。顔を隠すように襟を立てて道を歩く。


「まいったなぁ」


 もう一度呟く。誰かに聞かせるための言葉ではない。ただ心情が口から溢れていた。

 パンシーカが足早に向かうのは酒場だ。夜半から昼前まで開いている店で、味の濃い料理が日々汗を流す体にちょうどよい。安酒しか出さないが、パンシーカが日々の食事に喘いでいた頃から通っている馴染みの店だった。

 ほどなくして店の前についた。木戸を開けると独特の臭いが鼻をつく。料理の匂いやタバコの臭い、客の汗の臭いが長い間漂い、すっかり染み付いてしまっている。店主は鼻が麻痺しているようだが、二、三日も間隔が空くと毎度鼻に新鮮な衝撃をもたらしてくる。とはいえ過激な悪臭と言うわけでもなく、どうせ食事の間に慣れてなにも感じなくなる。パンシーカは臭いを全身に浴びながらまっすぐ店主の元へ向かった。


「やぁクッカ」

 

 手元でなにか作業をしていた店主──クッカが顔を挙げた。


「よおパンシーカ。調子はどうだい」

「悪くないよ。今すぐ仕事したいぐらいだ」

「是非そうして、そんでツケの一部でも払ってくれよ」

「そうしたいのは山々なんだけどね。残念ながらしばらく休業さ」

「休業? なんかあったのか」

「客席がね、壊れちまったんだよ。大人が二、三人呑まれるような、大きなヒビが入ってね。まあ、あれも、激しい使われ方をしてたから、いい加減寿命だったんだろう。それでオーナーがね、どうせなら前よりいいものにしようって、石工やら大工やら、一流の職人を呼ぶってロゼレムを出ていっちまったのさ」

「いつ戻るんだ?」

「さあ? どこに行ったかも知らないよ。おかげで我々はいつまで仕事がないものか、気が気じゃないんだ。蓄えのない連中なんかは、興業のある他の街に向かったよ」


 話しながら、パンシーカはカウンター席についた。席の、一番壁際だ。左肘に壁がつくくらい寄せたそこが、この店でのパンシーカの指定席だった。


「へぇ、お前に蓄えがあるとは驚きだな。そんな余裕があるならさっさとツケ払えよ」

「まさか。ないよ」

「だろうな。とは言ってもお前は花形だろう。いくらか知らんが、オーナーも食うに困らんだけの金は置いていってるんじゃないのか」

「ああ……、うん……」


 クッカの言葉にパンシーカは歯切れ悪く頷いた。事実その通りであるのだ。クッカとオーナーは直接の面識はないが、通い詰めるパンシーカから度々話に出しているだけあって、人柄程度は知れている。


「それでツケを返せとは、しょうがねぇ言わないでやる。ただし、今日はちゃんと金払って飲み食いしろよ」

「……わかったよ」パンシーカは観念したように頷いた。「客として金は払うが、どうだろう。友人として金を貸してはくれないか」

「ああ? お前、今どれぐらいツケてるかわかってないのか? もうたっぷり貸してるだろうが」


 水を注いだコップを寄越しながら、クッカは心底呆れた顔で言った。パンシーカは顔の映る水面を見ながら、まいったなぁと、心中で溢した。


 ◯


 たった一品の料理と二杯目の水をちびりちびりと時間をかけて消費していると、キィと木戸が鳴った。

 外気を伴って入ってきたのは、一見してとても太った男だ。纏う白衣は見たこともないしつらえだが、擦りきれ薄汚れていてみっともない。黒い髪を後ろに撫で付け、太い首をぐるりと廻して店内を一別すると、巨体に似合わず滑るようにカウンターへと歩いてきた。

 他の客はちらりと視線をやってすぐに興味をなくしたようだったが、パンシーカは目を奪われていた。


「なにか食うか。飲むだけか」

「食うだけだ。肉が多いやつを頼む」


 男はカウンターについてクッカと話している。パンシーカはしずかに食事を摂りながら横目で男を見ていた。座っている姿までが目を引く。立ち居振舞いから匂い立つものがある。

 そうこうしている間に、男はクッカと揉めて店を出ていってしまった。支払いが問題らしい。意識を向けていたパンシーカにはよく聞こえた。紫凍石。貰い物。まさかあの袋いっぱいに?

 パンシーカは一瞬後を追うかと腰を浮かせたが、追ってどうすると座り直し、またひとり、しずかに杯を呷った。しかし今度のそれは、先程までのように遅くはなかった。


 ほどなくして食事を終えたパンシーカは、ロゼレムの街並みを歩いていた。先ほどの男が頭に引っ掛かりながらも、悩みは金である。是が非でも今夜までに、まとまった金を用意したい。しなければ。

 金を借りられそうな友人を訪ね歩く。しかしどこにもすでに借金がある。まずは貸した金を返せと言われれば、大人しく引き下がるしかない。

 脳裏には金を借りられそうな知人友人の顔が浮かんでは消え、また浮かんでは、やはり消えていく。時間とともに通りの活気が増すのとは対照的に、パンシーカの肩と気分は落ち込んでいた。今着ている服はそれなりに飾りがついた、いいものだ。いくらで売れるだろうか。


「紫凍石の買い取りでしたら、当商会はいつでも引き受けております」

「また入り用になったら来るよ」


 うつ向いて歩くパンシーカがそんなことを考えていると、目の端に映るものがあった。反射的に顔を向けると、そこにはクッカの店で見た白衣の男がいた。背後には大きく立派な構えの大店(おおだな)と、白衣の男に丁寧に頭を下げる店の使いとおぼしき者。その様子からは白衣の男が上得意であることが伺えた。


 パンシーカは驚いた。よくよく見てみると、その店はシープ商会のものだったのだ。シープ商会といえばカイゼル領に本店を置く、ゾルピデム王国で最も有名な大商会だ。主要な都市にはすべて支店を置き、外国からの覚えも良い。総資産は小国の運営費すら賄えると言われている。

 そんな大店に薄汚れた格好で入り、見れば門前払いされた様子でもないとくれば、白衣の男の正体は名の知れた貴族かどこぞの商人か……。ともかく持っていたと言う紫凍石は本物だと保証されたも同然だろう。

 そう解釈したパンシーカは白衣の男に爪先を向けた。キョロキョロと周囲を見渡す様子はロゼレムに不馴れであると言っているも同然。なぜ供回りがいないのかは分からないが、パンシーカにとってはその方が好都合だ。パンシーカは歩きながら襟を正し、服のシワを伸ばし、毛並みを整えていく。


「そこのあなた、道案内を雇いませんか? 私はパンシーカ。この街生まれこの街育ちの、生粋のロゼレムッ子です」

 

 ◯


 売り込みに来るだけあって、パンシーカの案内は見事なものだった。パンシーカの一押しだという飯屋に入った誠司は、あぶく銭で気前よくパンシーカの支払いも持つと、従業員が驚くほどによく食べた。クッカの店で食事を終えていたこともあって、軽食を早くに食べ終わったパンシーカは、胃の隙間を厭うかのように詰め込む誠司に向けてこの街のことを話し始めた。

 

 曰く、通行の要衝。国でも屈指の大都市で、人と金と物の行き来は大河の如く怒濤で絶え間無い。

 曰く、他国からの観光、行商も頻繁で、一説には一番儲けるのは両替商だとか。

 曰く、ゾルピデム王国の文化芸能は百年の昔からこの街で花開いてきたと。


 時に声を落とし、時に張り上げ、身振りを交えて熱弁を振るう様は一流の役者のようにも見えた。自然と他の客を耳目を集め、すぐに誠司の周りは小さなひとだかりができていた。中には誠司の健啖ぶりに目を剥いて拍手を鳴らすものもいる。

 そうして集まった人々の、決して少なくない口がパンシーカの名を呼んでいた。呼ばれたパンシーカは笑顔を手を振って応じている。誠司は食事の手を止め、薄めた酒で湿らせた口を開いた。


「あんた、ずいぶんと有名人みたいだね」

「ん? ああ、そうですね。まあ、それなりに繁盛させてもらっていますよ」

「へえ」


 それ以上詮索することはなく、誠司は再び食事に戻った。まだ食うのか。驚いたような呆れたような声が、集まった人々の間から聞こえてきた。


 ◯


 食事を終えてから三時間ほど経っただろうか。パンシーカの案内はいまだ続いていた。街の要所の説明だけでいいと誠司は言ったのだが、パンシーカが張り切ったのだ。どこの宿にはどんな歌を吟じる詩人がいるだとか、どこの賭場のなんとかいう胴元に子どもができただとかいうことを、誠司の生返事を気にすることもなく喋り通しだ。

 それでいて声の調子が悪くなる様子もない。

 

 誠司はパンシーカの指し示す先をチラと見て、すぐに視線を後ろ姿に戻した。無論。パンシーカの後ろ姿だ。その歩き方を見ているだけでも、背筋をぴりぴりとした期待が走る。尻から脳天までが痺れるようだ。誠司の口元ににんまりと太い笑みが浮かんだ。


「よお」


 誠司が声を投げた。胸のうちの高揚が、口腔からじんわりと吐き出されていた。


「あんた、闘う人だろう?」


 あんた、とは、この場合、もちろんパンシーカのことである。

 初めてパンシーカを見たときから、ぴんと線の通った立ち姿に予感があった。歩き方、お辞儀の仕草の中に見える重心の残し方もそうだ。ダンスをする者にも似た特徴は表れるが、誠司の勘は、パンシーカから荒事に慣れた者の特有の気配のようなものを嗅ぎとっていた。


 声をかけられたパンシーカは、ぴたりと足を止めて誠司を振り返った。振り返り、右手を大きく広げて横合いの建物を示した。


「おっしゃるとおり。私はパンシーカ。ゾルピデム王国が都市ロゼレムで屈指の、拳闘士です」


 パンシーカが示した建物はこれまで見てきたものと比べるとひと回りもふた回りも大きいものだった。大きな入り口を持った石造りの偉容。平時であれば行き交う人の大半が吸い込まれるであろう偉容だが、巨大な扉は固く閉ざされ、吸い寄せられた人々はその扉を眺め、声と身ぶりで嘆いて肩を落として去っていく。


「そしてここが、ゾルピデム王国でも最大の闘技場──私の職場です。もっとも、」と肩をすくめた。「今は休業中ですがね」

「休業?」

「ええ。客席の一部にヒビが入ってしまいましてね。これを機に大きく造り直そうということになりまして」

「客席か……」誠司は口の中で転がすように呟くと、目を細めた。「ってぇこたぁ、見せるつもりがないなら、かまわねぇよな」


 パンシーカは誠司の言葉を聞き、驚いたように目を丸く見開いた。そのまま頭の中で咀嚼し、意味を理解すると、小さく返した。


「えぇと……。今から私と、闘いたいと……?」

「おう」


 事実確認の意味合いが強いパンシーカの問いかけに対し、誠司はなんの気負いもなく、笑みすら浮かべて、当然だと軽く応じた。

 なんなら、今ここででも……。そんな逸る気を感じ取ったのだろう。パンシーカが声をあげた。


「まさかそんな! 嫌ですよもったいない!」


 今度は誠司が面食らった。

 断られることが意外だったのではない。こうも真っ向から喧嘩をふっかけられて、むしろ応じるものの方が少ないだろう。無論誠司はその少ない部類の筆頭だが、自分がマイノリティだという自覚はとっくに芽生えてる。

 誠司が驚いているのは、パンシーカの断り文句にだ。

 もったいない、とは、どういう意味か、はかりかねるではないか。

 ではどうすればもったいなくなくなるのか、誠司が問おうとするが、パンシーカの突然の大声が耳目を集めた。場所が闘技場の目の前というのも手伝い、闘技場の休業に肩を落としていた者たちがパンシーカに気が付いたのだ。


「静かな場所で話せねぇかい」

「では、こちらへ」


 自身へかかる声に笑顔で手を振るパンシーカに連れられ、誠司は闘技場の中へと入っていった。

 そうして通されたのは無人の部屋。誠司の感覚で言えばちょっとした会議室のような部屋だった。パンシーカ曰く、拳闘士たちの控え室だという。無名の若手も名うての玄人も、変わらずここで準備をして、闘技場に出ていく。なるほど言われてみれば、誠司にとっても不思議と心地よい空間だった。

 闘いの前の興奮。闘いの後の

発熱。そういった空気が、床に壁に、染み付いているのだろう。


「さて」パンシーカが言った。木製の長椅子を持ってきて、誠司と向かい合って座っている。「誠司さんはどうして私と闘いたいんですか?」


 椅子に座り長い足を組んで、手は膝の上で柔らかく重ねている。いかにも伊達男然とした佇まいだった。


「どうして、か……。」


 この時点で、誠司の熱は寂しさにも似た情動によって冷やされていた。パンシーカは誠司の同類ではなかった。わかっていたことだ。大抵の人間には、目的が先にある。目的があって強くなる。理由があって闘う。強くなること、闘うことそのものが目的である人間とは、誠司が思うよりずっと少ないものだ。

 こういう行き違いは元の世界でも再三再四経験した。であればこそ、誠司はどうやったら目の前の相手と闘えるかに意識を割かなければならない。


「拳闘士仲間にはいねぇかい? 闘うことが楽しい、勝つことそのものが嬉しい、そんな連中は」

「少ないですが、いますね」

「おれはそいつらと同類ってことさ。相手は問わない。自分がどれだけ通用するか、どれくらい強いのか確かめたい。だから闘いたい。あんたになにか闘う理由が必要だってんなら、用意しようじゃあないか」


 誠司の目が鈍く光る。挑むような太い眼光を受けて、パンシーカは組んでいた足を解いた。すぐにでも誠司が飛びかかってくるように感じたのだろう。闘う理由の、もっとも単純かつ確実なものは、防衛だろうから。

 誠司は闘いに餓えている。獣は闘うために闘うなんてことはしない。獣の戦いとはなるべく少ないリスクで食べ物を、安全を、生存を得るためのものだ。誠司のように無駄なリスクを好んで負う生き方は、ある意味では非常に人間らしいのかもしれなかった。


「金が要ります」


 パンシーカの返答は早かった。韜晦は不要だった。もともとパンシーカはそれが目当てで誠司に接触したのだから。


「できれば今夜までに、まとまつた金が要るんです」


 誠司の行動もまた、早かった。パンシーカの一言目の途中には、もう腰の袋から紫凍石をひとつぶつまんでいた。人差し指の親指の二本でつまみ、顔の高さに持ち上げている。


「こいつをやろう」


 虎の子だ。安定した収入源を持たない誠司にとり、生きる糧そのものだ。見知らぬ他人から価値ある宝石を譲られる。二度三度あるような幸運ではない。一度としてないのが普通だろう。虎の子の、はずだ。

 あぶく銭とはいえひと財産。それを切り崩しつつ職を探すのが普通だろう。先駆者ならば、元手にして事業なりを始めるだろう。

 目先の悦楽のために投げ出す誠司は、やはり愚か者なのだ。


「戦ってくれるなら、そいつを一粒やる。二回戦付き合ってくれるなら、その時にもう一粒やろう。どうだい?」

「やりましょう」


 今度もパンシーカは早かった。迷う余地などないとばかりに立ち上がり、上着をぐいと脱ぎ捨てる。下にはやはり仕立ての良い服を着ていたが、それも脱いで上半身は白い肌着一枚になった。黒々とした獣毛が窓から射す陽光を受けてつやめいた。

 いちもにもないとはこのことか。誘った誠司が目を丸くする変わり身の早さだった。

 きょとんとする誠司を尻目に、すでにパンシーカはアップをはじめている。ラジオ体操に似た、動的ストレッチに取り組んでいるようだ。

 何秒か遅れて、誠司も立ち上がった。のそりと腰を上げ、にんまりと笑う。ナンパに成功するなど、いったいいつぶりだろうか。

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