戦後の夢想
誠司がテンジを打倒して程なく。朝日の登る直前の薄暮の空の下、駆け付けた全身鎧の男たちによってテンジは治療、捕縛された。鎧の男たちは自身を王都の兵士だと名乗った。病院の警護にあたった衛兵が言っていたのはこのことだったらしい。
テンジがこの街に君臨できたのは純粋な武力によるものではなかった。一帯を統治している領主の根回しによるものだった。その貴族はテンジに捕り物の予定を教えて衛兵から逃がし、被害のいくつかを握りつぶして悪事を揉み消していた。その貴族はこれから王都で審問にかけられることになる。
多少腕が経つとはいえ一介のチンピラを相手に、なぜそこまで便宜を図ったのかは分かっていないという。
本当に分かっていないのか、それとも誠司に話せる内容でないのか。誠司にはどうでもいいことだった。
◯
「いらっしゃいませー!」
ニトラの元気な声が店内に響いた。
誠司がテンジを倒してから数日。金竜の餌場はかつての賑わいを取り戻していた。店内には絶え間なく人の声が響き、客はそこかしこで食器を鳴らしている。テンジの一党のほとんどが衛兵に捕まったことを受け、客も従業員も戻ってきていた。
「セージさん、おかわりお持ちしました」
「おう、あんがと」
松岡誠司もまた、その喧騒の一部だった。テーブルに並べられた料理を片端から空にしていくさまは初めてこの店を訪れた時のようである。あのときと違って今日は金を払っている。客だ。もう用心棒は辞していた。
辞していたが、他に行く宛もない身の上である。変わらず兄妹に寝床を借りていた。兵士からまだ話を聞くかもしれないから居所が分かるようにしてくれと頼まれた結果だ。であればと宿の手配を頼んだのだが、それを聞いていた兄妹からの提案に乗ったかたちだった。
「あ、昨夜フルニが、退院したら稽古をつけてもらおうかなって言ってましたよ」
「ははは。目覚めてそうそう元気なこった。でも、おれに出来ることはないぜ。尻尾一本とはいえ、造りが違うんじゃ下手なことは教えられん。試合ってんなら願ってもないがね」
「ふふ、伝えておきます」
「ついでに旦那にも、このナンみてェなのにつける汁が絶品だ、と頼む」
「では、それも」
楽しそうに笑い、ニトラは厨房に入っていった。
医者の腕が良いのかフルニが頑丈なのか、はたまた医療そのものが誠司の知るものと違うのか、フルニは早々に意識を取り戻した。半年もすれば元通り動けるだろうと聞いて、誠司は驚愕にだらしなく口を開けたものだ。ならテンジの一党ももっと痛め付けてやればよかったかとも思ったが、さすがに潰れたものはどうしようもないらしい。テンジは今後の、罪人としての人生を隻眼玉無しで歩む。
店の賑わいを聞きながら誠司は料理を口に運ぶ。フォークと呼んで差し支えない道具をなにかの肉に突き刺す。うまい。野趣溢れる風味を楽しむ。誠司が旅した異国の中にはどうにも口に会わない料理もあったが、こちらに来てから口にしたものはどれも美味だった。もし日本で店を開いたなら、物珍しさもあいまってたちまち人気の店となることだろう。
料理を食べる。
テンジの門弟……手下たちもそのほとんどが確保された。されなかったものもいるが、元々が徒党を組んでようやくいっぱしを気取る半人前。ほどなく全員の居所が知れるだろう。
料理を食べる。
兄妹は持ち前の明るさに拍車をかけるように賑々しくなった。ゼパムもニトラも今まで以上によく笑い、仕事をする様も楽しそうだ。常連たちの表情からも以前の厳しさは消え去り、従業員たちも声高らかに客に応対する。なるほど、この賑やかさを知っていれば、誠司が来たばかりの様相など、閑古鳥が鳴こうというもの。客の入りはこれまでの揉め事の埋め合わせをするかのようだ。
料理を食べる。
兄妹は無事。フルニは回復の見込み充分。治療費は蓄えで購えるし、店もかつての賑わいを取り戻した。損失はあっただろうが、テンジの財産から補償が出ることは間違いないと、王都の兵士が断言していた。貯蓄が大きく目減りすることは間違いないだろうことが気がかりか。
料理を食べる。
茶を一口啜り、息を吐く。ふぅ、と吐いたそれは腹がくちくなった安堵が、それとも退屈からくるため息か。
そう。誠司は明確に退屈していた。
兄妹に怪我がなかったことを嬉しく思う。フルニの怪我が治ると聞いて嬉しく思う。店が繁盛して嬉しく思う。補償もされると聞いて嬉しく思う。
しかし、もうここには暴力がない。
平穏が、安寧が、穏やかな空気が、誠治を息苦しくさせる。
急に店の賑わいが遠くなったように感じられた。分厚い透明な板が差し込まれた。鮮明な映像を観ているような隔絶。自分の求めるものが遠退いてしまった寂寥。
嬉々として暴力を振るうものについて回る孤独が、遠く地球から追い付いてきた。
◯
昼下がり。食後の誠司はひとりでエスタゾラムの街を歩いていた。考えてみればこの街を散策するのは初めての経験だ。初日は街に入ってすぐにフルニと衝突し、そのまま金竜の餌場へ直行した。その晩に用心棒となったため不要な外出などしていないし、警護対象である兄妹も店に籠っていたこともあって誠司も店に詰めていた。
新鮮な気持ちで顔を巡らせる。相も変わらず誠司の常識とはかけ離れた人々の往来だ。ついつい不躾な視線を投げてしまうが、その視線の多くは、同じく視線で受け止められた。向こうも誠治を見ているのだ。
長くこの街に巣食っていたテンジ一家は、街の住民にも当然認知されていた。直接被害にあったものもいただろう。そうでなくても、被害の話を聞いたものもあっただろう。そういった人々の心の片隅に、あるいは大きな位置に、テンジ一家は常に居座っていたのだ。暗く重い不安として蟠っていたのだ。
その不安を払ったものがあると、たちまち話題になった。テンジ一家の新たな標的となった店の用心棒が、たったひとりでテンジ一家を壊滅させ、テンジ本人の逮捕にも大きく寄与したと、他でもない街の衛兵が触れを出したのだ。
件の用心棒がどんな人物であったのか。人々は噂しあった。特定は用意だった。標的になった店は街でも目立つ土地にあるし、獣人やオークを叩きのめして晒し者にしている姿も、多くの目に触れている。
曰く、壮年の男である。
曰く、棘無しである。
曰く、擦りきれ薄汚れた白衣に、同じく使い古した黒の帯を締めている。
そういった噂を聞いた人たちからすれば、道行く誠司をそうだと見抜くのは容易だった。一目瞭然である。
なにせ、纏う雰囲気が違う。ただ道を歩いているだけだというのに、ふと目が合うと背筋を寒いものが駆け上がる。通りすぎてからなんだろうと首を傾げる間に、噂を思い出す。そうして口々に語る。今の男が、件の捕物の男ではないかと。
一方注目される側であるところの誠司だが、自分の背中に突き刺さる数多の視線にも、潮騒のように言の葉にのる噂話にも気がついていなかった。もし噂の男の実力を見てやろう、と襲いかかる者でもあればそれにはすぐに気がついただろうが、ことはただの会話である。往来の喧騒で千々に紛れ、意味ある言葉として聞こえはしなかった。
誠司が道行く人々を眺めていたのは、なにも物珍しさからだけではない。例えばそこの獅子の肢体を持った男はどう闘うのかとか、そっちの下半身がぶっとい蛇の姿をした女にはどう対処すればいいのかとか、平たく言えば喧嘩のしかたを考えながら歩いていた。
日本にいたころからの悪癖のひとつであるが、こちらに来てからはこれがまた楽しい。テンジ達との闘いこそいまいち盛り上がりに欠けたものの、己の異形をしっかり武器として磨き上げた武人はこちらの世界にもいるはずなのだ。テンジのように真似事でなく、きちんと道場で指導しているものが、少なくない数。
衛兵、兵士にしたってそうだ。誠治の予想もつかないような体質の、想像だにしない使い方が、必ずある。そう考えるとわくわくする。
自分は、松岡誠司は、そうした敵と相対したとき、どのように応対するのか。それが楽しみでならない。
そうした昂りにぶるりと体を震わせると、次に去来するのは罪悪感であった。
世界が違ってしまう前の、故郷地球に残してきた門弟、友人、仕事仲間たちへの罪悪感。門弟たちは道半ばで指導者を失った。無論誠司だけが指導者ではない。長く鍛えた弟子などはみな熟達の空手家で、日本各地で汗を散らして指導してくれていた。誠司ひとりがいなくなったところで、指導者が足りなくなることはないだろう。
ないだろうが、無責任であることに違いはない。組織の代表が雲隠れしてしまっては、求心力が大きく落ちることは間違いがあるまい。そうすれば多くの人間が道場を去るだろう。残った門弟にも迷いが出るかもしれない。
門弟が減るとは収入が減ることだ。今まで誠司が応じていたテレビや雑誌の仕事も無くなる。果たして給料は変わらず払えるだろうか。慌てる経営顧問の顔が浮かぶが、誠司にはどうすることもできない。誠司個人の通帳と印鑑、現金の入った金庫の暗証番号は教えてあるし、自由にしていいとも言い含めてあるが、妙に義理堅いあの男のことだ。本当にギリギリになるまでは、手をつけないだろう。
日本に帰ることができるのかどうかも、定かではない。
そして、帰る方法が見付かったとして、帰るという選択を誠司に下せるかどうかも、またわからない。
今、誠司は人生でも最高峰に楽しんでいる。燻り、消えかかっていた情熱は真っ赤に燃え上がり、誠司自身を焼き殺さんばかりの大火となって身を焦がす。息を吐けば、口から煙が出てきそうだ。
未来への希望が、その燃料である。
監視カメラがない。
発達した警察機構がない。
地球の先進国のような倫理観もない。
そしてなにより、誠司が負けても失うものが、ない。迷惑がかかる人間が、いない。
であればできる。
強さ比べができる。
自由な闘いができる。
大好きな喧嘩ができる。
見たことも聞いたこともないような強者と、飽きるまで喧嘩ができる。その夢想が、誠司の胸の火を無限に大きくしていくのだ。
日本に帰る方法が見付かったなら、日本に帰って混乱の建て直しをする。そうと胸に決めつつも、どこかでそれが遅くなればいいと思わずにはいられない。
それとも行って帰って来られるならば、自由に行き来は出来ないものか。もしそれが出来れば、可能な限り早く職を辞し、こちらで無宿渡世の無頼漢でも気取りたいものだ。
具体案のない想定は、誠司に都合のいい夢を見せることしかできなかった。
◯
思索に耽ると言えるほど高尚なものではなかったが、今後の身の振り方に一応の方針が見えた誠司は金竜の餌場に帰っていた。方針と言っても「日本と行き来する方法を探しながら喧嘩旅行をする」程度のものでしかないので、休むに似るものでしかないが。
金竜の餌場の裏手で、誠司はひとり斜陽に炙られていた。帯と上衣は脱いで傍らの椅子に掛けられ、筋肉の隆起した屈強な上半身が露になっている。稽古をしているところだった。もう用心棒ではないため、気を張った内容ではない。朝に型や基本となる技や足運び、シャドーなど技術的な練習を、夕に筋力トレーニングをするのが誠司の地球での日課であった。
こちらにはダンベルもバーベルもないので、使っていない壺に砂を詰めて重りにしたり、右手の手首を左手で掴んで負荷をかけるアームカールなどで工夫した。他にも倒立腕立て伏せ。空気椅子。ジャンピングスクワット。ドラゴンフラッグ。バイシクルクランチ。手を変え品を変え、全身くまなく酷使していく。体中に汗が玉と浮かび、岩のような筋肉の谷間を流れていく。
筋力トレーニングの合間にはレンガを打つ作業もある。拳を、手の甲を、手のひらを、肘を膝を額を脛を足の甲を手足の指先を、とにかく打撃に使える部分はすべて痛め付ける。周囲に響く音の大きさから、そこに大きな力が込められていることがわかるだろう。空手における特徴的な鍛練のひとつ、部位鍛練である。
硬質な物を打ち続けることでその部位の皮膚は硬く分厚く角質化し、度重なる衝撃で骨や軟骨もそれに備えて強くなる。それを繰り返すことで空手家は五体に硬い武器を備えるに至る。加えて、物を打ち慣れることで、人体を打つときに起こる、体を守るための無意識のセーブを外す目的もある。
また、以外と硬い人体を打つ上で避けられない、攻撃した側の負傷のリスクを下げるというのも、大きな効能だろう。
硬いものを打つ痛みと引き換えに手に入る武器は、しかし手に入れて終わりではない。完成してもなお叩き続けなければならない。数時間おきに叩かなければ、岩石のような拳足は赤子の柔らかさに戻ってしまう。一度手に入れたからこそ、失われるのは耐えられない。想像もしたくない。
日々の食事、睡眠と同じように、ものを叩くことは必要不可欠な行事なのだ。
「ふぅ」
全身の汗を洗い流し、掛けておいた上衣を着て帯を締める。誠治にとって空手着はもはや第二の皮膚のように馴染む服装だが、帯を締める瞬間はいつも、初めて身に付けたときと変わらない緊張がある。身を引き締めてくれる。稽古終わりの緩みかけた気持ちを締め付け、夕食を食べるべく店に入ることにした。
稽古の間に日は落ち、地平線に沈んだ太陽の残光がぼんやりと視界を担保する。
逢魔が時。金竜の餌場の扉の前で、誠司はその男と出会った。
「──白い服に黒い帯の壮年の男」
見た目は二足歩行のヤギ。やや猫背だ。声からして年嵩の男。仕立ての良い服を貴金属や宝石で飾った姿から、一見して富裕層であることが窺える。真珠色の手袋が五指であることから、顔はともかく手はヒトの骨格をしているようだ。
「もしや貴方が、ここの用心棒ですかな?」
人骨のように白い毛のヤギが、琥珀色の目で誠司を見ていた。
◯
ヤギ顔の男はゴートペス・デアブレラ・カイゼルと名乗った。供回りに金髪の青年を連れて、金竜の餌場で卓についている。他の客はいない。通常の営業時間は過ぎていた。
「いやぁ、大事なくてよかったですよ」
「ありがとうございます。カイゼル様」
笑って言うゴートペスに応じたのは同じく笑顔のゼパムだ。テーブルにはゴートペスと誠司が向かい合って座り、ゼパムとニトラは並んで誠司の背後に立っている。
「火急の事態と聞いて飛んでくれば、もう終息しているのには驚きました」
「セージさんのお陰です。もしセージさんがいなかったら、妹などは無事ではいられなかったでしょう。カイゼル様につきましては、せっかくご足労頂いたのに申し訳ない……」
「いやいや、やめてください。ワタシが勝手に来ただけですので。何事もなくて本当によかった」
頭を下げようとするゼパムをゴートペスが制した。
以前にニトラが言っていた王都から来る貴族の客というのが、ゴートペスのことだと紹介されたのが数分前。ゴートペスはテンジを倒した誠司に感謝を示し、夕食は彼の奢りで食卓を共にすることになった。テーブルには供回りの青年が持参したキメ細やかで刺繍の美しい真珠色のクロスが掛けられ、芳しく鮮やかな花が小壺で飾られている。どちらもが日中の雑多な喧騒とは違う店のような雰囲気を演出していた。
並べられる料理も昼に食べたのとはまるで違う。一皿一皿にこじんまりと乗る料理は美しいがどれも誠司の一口大で、こちらの世界でも品と量は両立しないのだろうかと益体もないことを考えた。これでは満腹になるまでに何度追加すればいいやら。
「セージさん。この店を守ってくださって、ありがとうございます」
そう言って、ゴートペスは誠司に軽く頭を下げた。誠司は同じく頭を下げる。
「礼には及びません。私は雇われ仕事をしただけです」
「優秀な仕事ぶりにはそれなりの報いがあるべきです。ツィーナ」
「はい、旦那様」
ツィーナと呼ばれた青年は懐から紫色のビロードの小さな袋を取り出し、静かに卓上に置いた。袋自体も高そうだが、中から小さなものが擦れる音が聞こえた。
「お納めください。ワタシからの、ほんの気持ちです」
「いただけません。仕事の報酬は報酬として、すでにもらっています。それに、カイゼル様は雇い主じゃない」
「個人的な礼と思ってください。この店の味は気に入っているし、ゼパムさんもニトラさんもフルニさんも、大切な友人です。ワタシの友人と、他では出会えない味を守ってくださったお礼です」
「いや……」
ヤギの顔でにこやかに微笑みながらゴートペスは右手を伸ばし袋を手のひらに乗せると、ずい、と誠司に向けて差し出した。誠司は尚も断ろうとしたが、ゼパムが顔を寄せて耳打ちした。
「セージさん、受け取ってください。右手ですすめられたものを断るのは失礼にあたります」
誠司は開きかけていた口を硬く結んだ。そんな風習があろうとは思わなかった。
ここゾルピデム王国においては、右手で差し出された物を受け取らないのは、その手に武器を隠しているのではないか、その爪で引き裂くつもりか、そう疑っているぞ言っているに等しいのだ。ひいては、相手を礼儀知らずの野蛮人だと非難するも同然。
貴人を目の前に長々と内緒話をするわけにもいかないためそこまでは話していないが、普段より語気も強く言われた誠司は、渋々袋を受け取った。ゼパムから制止がかからないのを確認しながら、ゆっくりと右手で。
「……では、ありがたく」
受け取った袋は手のひらにすっぽり収まる大きさながら、ずしりと重みがあった。重さを確かめていると思われてはたまらないので、すぐに懐にしまった。すべすべとした、肌触りの良い袋だった。
しまってから、これは無礼に当たらないかと懸念したが、空気が硬化した様子はない。おそらく大丈夫だろう。内心でほっと息をついてから、なぜここまで気を使わなくてはならないのかと小さな不満が灯った。
店の面子を潰すわけにもいかないかと納得は出来るが、不満は不満。図体のわりに人一倍子どもっぽいこの男は、ムスッとした顔を造って目の前の料理を口に詰め始めた。ゴートペスと兄弟は楽しげに話しているが、そこに入ることもしなかった。ふて腐れているようでもあるが、旧交を暖めているのに割り込むのも無粋と思ってのことでもあった。
「ようやく王都での生活にも馴染みましてね。人の多さにも驚かなくなりましたよ」
「カイゼル様の領地も栄えているじゃないですか」
「ワタシの好みで人通りの少ないところに館を建てて、引きこもってましたからね。不慣れなんですよ。倅はまた違うところに建てて、都市部で孫と暮らしているそうですがね」
「カイゼル領といえば、最近特別なジャムをつくっているとか」
「おや、気になりますか」
「料理人としては、とても」
「ふふ、実は現物があるんですよ」
ゴートペスの言葉に応じてツィーナが手のひらサイズの小さな壺を三つ、テーブルに置いた。それぞれを同じくツィーナの取り出したクラッカーに乗せて色がどうの味がなんのと楽しげに話し合っている。
この頃には誠治はもう料理を平らげ、茶を飲みながらテンジとの闘いを頭の中で反芻していたが、料理談義となると誠司は門外漢も甚だしい。
しばらく黙って座ってはいたものの、元来気の短い男である。いい加減焦れてきた。食事も摂ったことだし、ここいらで離席して食後の散歩でもしようかと尻を浮かせた。その瞬間を待っていたように、琥珀色の眼差しがそれのはまった頭ごとぐるりと動いて誠司を捉えた。
「ああすみません、セージさんをほったらかしにしてしまった」
そう声をかけられた時は誠司は中腰であった。もう一度尻をつけようか、一秒の四半分ほど迷ったが、結局そのまま立ち上がった。
「いえ、気にしないでください。私は少し体を動かしてきますので」
「ご一緒しましょう。実はこの」ゴートペスは横目でツィーナを示した。「側付きのツィーナも闘いに身を置くものでして。口さがない言い方をすれば棘無しでしょうか。その先達として、セージさんに一手ご教授願えればと思っていたのです」
いかがですか? とゴートペスは笑った。誠司はチラと兄弟の様子を伺ったが、そちらは微笑んでこちらを見ている。一手ご教授、という言い回しに含意はないのだろうか。
次いで、ツィーナを見た。年の頃は二◯前後だろうか。身長は誠司よりやや小さい。一七五センチほどだろうか。飾りのついた服を着ているため分かりづらいが、二の腕が太い。衣服の上からの類推になるが、胴や胸と比べて突出して太かった。ずいぶん片寄った鍛え方をしているらしい。指は白い手袋に遮られて見えない。体重は八◯キロに届かぬ程度だろう。
先ほどから剣呑な目付きで誠司を見ていた男だ。ヤる気は十分あるらしい。誠司からすれば願ってもない話。例え筋力トレーニングの後だろうと、勝負を挑まれて時と場所を改めるようなことは、誠司はしない。
「私なぞで力になれるかは分かりませんが、ツィーナさんの歩みの一助になれれば幸い」
「おお、受けていただけますか!」
「はい」
「ありがたい。外に車夫を待たせてあります。広いところに行きましょう」
ツィーナに椅子を引かせ、早速と立ち上がったゴートペスは兄弟に別れを告げた。後日また食事にくる、と約束を交わしている。ニトラはついてきたそうにしていたが、仕事が残っているためか、貴人の決定に口を挟むことを嫌ったのか、同行を申し出ることはなかった。
◯
「おっと、これは……」
店を出た誠司は、ゴートペスが言う車夫を見て目を見開いた。彼は禿頭に見事な筋肉を持つ立派な上半身を持っていたが、腰から下は巨大な黒い蜘蛛であったのだ。
誠司がこの街に来た直後に同じ体つきの人物を見ていたが、改めて近くで見ると壮観だ。剛毛の生えた脚の一本一本が太く逞しく、頭の高さなどゆうに三メートルはあるのではないか。体重などもはや想像もつかないが、牛より軽いということはないだろう。
驚いている誠司にゴートペスが声をかけた。
「おや。蜘蛛人を見るのは初めてですか?」
「ああ……、実はそうなんです。失礼しました、不躾にもじろじろと」
「構いませんよ。彼もこれしきで気を悪くするほど狭量でもありませんとも」
「旦那様のおっしゃる通りで。気にしてないんで、お客人もお気になさらず」
にかっと笑う顔は爽やかそのもので、明るい人柄をうかがわせた。人力車、と呼ぶのが相応しかろうそれは、しかし馬車のように大きかった。誠司も筋力は強いが、これを牽いては一◯メートルもスピードを維持できまい。それを軽々牽くのが蜘蛛人であるのだという話を、揺れる車内で聞いていた。
「アラクニド、アラクノイド、半蜘蛛……色々言い方はありますけどね」
誠司はテレビで見たイギリスの馬車を思い出していた。朧気な記憶の中のイギリスは、木造の馬車を金で飾り、内装は鮮やかな赤に柔らかそうな、クッションの効いた座面が見えていた気がする。誠司が乗るこの人力車も、同様だった。進行方向に対し向かい合うように作られた座席。ゴートペスと誠司が向かい合って座っていた。ゴートペスの隣にはツィーナの姿もある。本来並んで座ることはないが、車内を主と誠司の二人きりにも出来ないためだろう。
「彼らは総じて力が強いですから。初速は馬を遥かにしのぎますし、並足も馬より速い。体調不良は訴えてくれる。本人に限って言えば馬と違って道を選びません。ワタシの領地では多くの蜘蛛人が流通に従事してくれているお陰で、ずいぶん稼がせてもらいました」
和やかに笑うゴートペスの言葉は、意味の半分ほどしか誠司に届いていなかった。今誠司が考えられるのはただひとつ。蜘蛛人と闘うならどうすればよいか。それしかない。
まず正面からぶつかり合うのは愚策だ。体重が違いすぎるし、敵の攻撃は上から降ってくる。あの脚による踏みつけは防御を許さないだろう。下手に受けようものなら受けた箇所ごと潰されてしまうはずだ。かといって、踏みつけを避けてから脚を攻撃出来るかというと、それも難しそうだ。オグタと違い、蜘蛛人の脚は硬そうな甲殻が覆っているように見えた。もし本当に覆われていれば、生半な打撃などなんの痛痒ももたらさないだろう。その上体毛もある。嘘か真か、象の体毛は針金のように太く固く、鞍なしに乗っては尻に無数の穴が空くと聞く。蜘蛛人の体毛の固さはどの程度だろうか?
いやそれ以前にだ。一本の脚を避けてもまだ七本残っている。体重のかけ方によっては五月雨のように踏みつけが降ってくるのではないか?
ゴートペスの話はもはやほとんど誠司に届いていない。相槌も「ははあ」「なるほど」と曖昧なものが増えていった。
実のところ考えても仕方がないのだ。蜘蛛人の体の構造が、誠司には想像もできない。実は甲殻に見えるのは象やサイのような分厚い皮膚かもしれない。実は踏みつけができるほど脚が上がらないかもしれない。実は脚がとても強靭かつ柔軟で、闘いとなれば六本の脚が蹴りの波状攻撃をしてくるかもしれない。
結局は妄想の域を出ないのだが、考えることは止められなかった。これは武術家としての性であると同時に、とても楽しい遊びでもあるのだから。