未知の大きさ
バジャが去っていったことで人混みも解消された。ある者は仕事に、またある者は買い物に、めいめいに日常へと戻っていく。その中で四、五人の男たちがバジャの後を追うように歩いていったが、誠司はそれを見た上で無視した。あるいはさらにその男たちの後を追っていけばまた喧嘩にありつけるかもしれないが、今誠司は用心棒の身分。いたずらに雇い主から離れるわけにもいかない。
怪我をしている今、複数人で闇討ちでもされれば最悪の事態もあるかもしれないが、それはバジャの行いが帰ってきたに過ぎない。バジャとて、それを承知でいるはずだし、そうでなくてはならないのだ。
さてと誠司は簡易的な看板の解体に取り掛かることにした。紐をほどいて鍋の蓋を外し、棒として使っていたフルニの稽古用の槍と一緒に、片手に持って店に戻る。解消された人混みの何割かは金竜の餌場に入っていった。多少なりとも売り上げに貢献できていればいいが。
好奇の視線を払って歩く誠司は、不意に背中に粟立つものを感じ、後ろを振り返った。素早い転身で向いた先にひとりの巨人が驚いた顔で佇んでいた。
「あんのぉ……」
大きくずっしりとした声が、どこか頼りなさげに降ってきた。濃緑色の肌をした巨人だ。誠司とて巨漢と言われた経験は豊富だが、目の前の男はものが違う。誠司が遥か見上げる上背は二メートル半にもなろうか。誠司の頭は胸の辺りまでしかない。服代わりらしい粗末な布を身に付けている他は靴すら履いていない。とぼけた顔でボサボサの髪を掻いている様はいかにも間抜けに見えるが、分厚い筋肉と脂肪を持つ体から発せられる圧力は、決して凡庸なものではなかった。
「この辺で、バジャって人見ねがったですか」
自信なさげな訛り声が続けて言った。誠司はバジャの去っていった方を指差した。
「そいつならあっちに歩いていったよ。お前さんくらいデカイと、上から見えないかね」
「あっちってぇ、あの赤い建物の方け?」
「いやいや、大通りの方だよ」
「んー、よぐ分がんねすなぁ」
のっそりと巨人が歩を詰める。掌でまびさしを作って身を屈めた。
「ほら、あっちだ」
「ん~……」
指差して示す誠司をのっそりと影が覆う。途端、巨人の両手が誠司を挟むように迫り、バチンと柏手の音を立てた。
「捕ったぁー!!」
喜びの声が轟く。が、直後に「いでぇっ!」と短い悲鳴に変わった。誠司が前に駆けて身を躱し、代わりに稽古用の槍を横向けて掌に挟ませたのだ。槍は小枝のように折れてしまったが、巨人は両の掌から小さく出血していた。眦を吊り上げじろりと睨み付けてくる。
「オラの作戦を見破るとは、お前、頭いいなぁ」
「褒めてもらうほどのことじゃねェさ。おれをどうにかしてやろうって助平心が、隠せてなかったからな」
「生意気なチビめ。お前は手足もいでからテンジ様んとごさ連れでってやる」
「なんだい、お前さんもテンジとやらんとこから来たのか」
「んだ。オラはテンジ様んところで座敷を守っとる、オグタっちゅうもんだ。お前を捕まえたらテンジ様が金くれるっちゅうで、それで肉と女買うだ」
オグタと名乗った巨人は嬉しそうに言った。今にもスキップでもしそうな喜びようだ。誠司は困り顔で頭を掻いた。
「その場合、おれはどうなんのかな」
「お前はテンジ様んとこで門弟たちにぼこぼこにくらわされて、死んだら見せしめに通りに捨でられる。お前のいねぇ間にあの兄妹の店は壊すし、兄は好き者が遊んでから殺す。妹は全員で遊んでから殺す。オラのイチモツはお前らチビの女には入んねがら、悲鳴ば聞いて楽しむ。後で入んの買う。チビは得だなぁ」
オグタはにたにたと笑っていた。嗜虐心が毛穴からぷつぷつと噴き出しているような笑みだ。誠司の人生を振り返ってみても、これほど下品に笑う者を見たことがなかった。顔形ではない。心根が醜悪であった。
誠司が黙っていると、オグタは今までにどんなことをしてきたかを嬉々として語っていた。挑んできた男をどうやって殺したか。浚った女をどうやって遊んだか。オグタは誠司に聞かせることで誠司の心を縛ろうとしているのだ。降りかかる恐怖に手足が強張るか、沸き上がる怒りに冷静さを失うか。どちらかの効果を狙っている。
「テンジ様んとごにはたぐさんの荒くれがいるでよ、お前みでぇなイイカッコしいが何人も来だ。けんど、テンジ様はびくともしねぇ。衛兵もわがってるから手ばださねぇ。歯向がうのはお前みでぇな馬鹿だけだ」
だらしなく笑う口から涎がこぼれる。いやらしく細められた目は誠司を観察していた。怯えるか、怒るか。どんな反応を見せるかと。
対する誠司は、大きなアクビをしていた。「くあ~ぁ……」と、間抜けな声が誠司の喉から絞り出た。目尻に浮かんだ涙を、太い指が拭った。
「ずいぶんお喋り好きなんだな。聞いたことの十倍も帰ってくるもんで、退屈しちまったよ」
呑気な調子で喋りながら無造作に歩いて行く。あっという間に距離が縮まり、誠司が止まった時には、もうそこはオグタの手の届く位置だった。
オグタは無言であった。無言のまま右手を振った。長さといい太さといい、小柄な人間そのままのような腕が、無造作に振るわれ、強烈な張り手として襲ってくる。誠司は後ろにステップして躱した。すかさずオグタが裏拳で追い打ちする。振った腕を拳に握り腕を伸ばす。それを受けた誠司は今度は前に出た。タックルのように身を屈めて拳をやり過ごし、猛然と巨人に迫る。オグタの目線からは一瞬誠司が消えた形になる。拳と腕に数瞬体を隠したうちに三歩進んでいる。
オグタが腕を振り抜いた時には、もう誠司は懐に入っていた。座布団のような大きさの足の甲を踵で踏み抜き、誠司の腹ほどの高さにある睾丸を孤拳で打ち上げ、肋の下部に猿臂を叩き込んだ。短い悲鳴があがる。そしてすぐさま後ろに跳ねて間合いから外れる。
巨人は顔を苦悶に歪め膝をついたが、目はしっかりと誠司を見ていた。右手で股間をおさえているが、左手はフリーにして誠司の動きに対応できるようにしていた。
「ぐぎぎぎ……!」
強く食い縛った歯の隙間から泡をふきながら、オグタが誠司を睨んでいる。並みの胆力ではその目の持つ力だけで怯んでしまうだろう。しかし誠司は例外であった。大きなダメージを受けている今こそ好機だと分かっている。
左側へ大きく回り込みながら近付いていく。オグタは左手で体を支えながら誠司の動きを追うが、激痛のせいで動きが緩慢になっている。誠司に追い付けず、やがて完全に側面を晒した。すかさず駆ける誠司は今度は全力で右前蹴りを繰り出した。晒された脇腹に母趾球を突き刺すつもりで放った前蹴りは、惜しくも大きな肘に阻まれた。割り込まれた肘の上からでは十分な威力を発揮できなかったが、ただでさえ体勢の悪かったオグタはさらにそれを崩し、右肩から地面に倒れこんだ。
「ちぇいッ!」
追撃に飛び込み下段蹴りを放つも、オグタはごろりと転がって難を逃れていた。そのままがばりと膝立ちになり両手を大きく広げた。口の周りを泡で濡らしながら、怒りに血走った目を向けてくる。ふーっ、ふーっ、と息を吐くたびに新たな泡がついた。
「はは、すごい迫力だ」
今跳び込んではあの手に捕まってしまうだろう。ダメージの回復を狙った時間稼ぎなのは間違いないが、受けの姿勢を取られると誠司の攻め手がなくなってしまった。誠司の顔に笑みが浮かぶ。深く、獰猛で、太い笑みだ。背中にぞわぞわとした喜びが這い回り、訳もわからず跳ね回りたくなる。それほどに嬉しくてたまらない。
攻めあぐねるなど何年ぶりか。
「参ったねぇ……」
独り言のように呟いた。
「お前さん、さっきので気絶しといた方がよかったぜ。そうされちゃあ、痛めなきゃいけなくなる」
笑みに細められた目がオグタを見る。見られたオグタは脂汗の浮かんだ顔で叫んだ。
「うっせぇ! チビが生意気言いやがって! お前ぇらチビは踏み潰されんのがお似合いだ!!」
幾分苦痛が和らいだのだろう。オグタは立ち上がった。足や脇を気にしている様子は見られない。体重が違いすぎて、普通の当て身は大したダメージにならないようだった。しかし腰が引けている。金的は効いている。吐き気を伴う激痛の恐怖は、そう簡単に無くなるものではなかった。
「そうか。それじゃあ踏み潰してもらおうか」
誠司が歩く。先ほどの続きのように無造作に、気楽に歩いてゆく。迎えるオグタは一瞬うっとつまったような反応を見せたが、次には気勢を上げて大股で右足を持ち上げた。自身めがけて降ってくる足の裏を、誠司は見ている。その大きさたるや、天井の一部が落ちてくるような錯覚を受ける。梁が落ちてくるようなものだ。しかも、明確に害意を持って、ただの落下と違い筋肉の運動である。
誠司は鋭いバックステップで鼻すれすれに爪先をやり過ごすと、地響きを上げて落ちた足の指を思い切り踏みつけた。二度踏み、三度踏み、踵に分厚い爪が割れる感触が伝わる。「ぎゃっ」と短い悲鳴を上げて巨体がバランスを崩した。左膝と左手を地面に着き、辛うじて転倒を免れている。誠司が攻めた。
「ふんッ」
一息に、複数の打撃が叩き込まれる。足の側面に回ると、アキレス腱から脹ら脛に連続で回し蹴りを打ち込む。さらに膝の裏に鉤突きを打つ。逆の手の肘を大きく振って脛に強烈な一撃。骨と骨のぶつかる大きな音が周囲に響いた。
「ぐおおお!」
オグタはたまらず足を引き戻すと、両手で抱え込んだ。体を横たえ足を抱え込む様に呆気にとられた。なんと正直な反応か。誠司は困惑した。荒事に取り組む人間は大なり小なり痛みには慣れるものだ。そうすると痛みを感じても大きな反応は示さない。当然だ。いちいち痛がっていては大きな隙を晒すし、そこが弱点だと知らせることにもなってしまう。
ところが目の前の巨人はどうか。何人も殺しているらしいことを嘯いていたが、この体たらくである。
落胆しながらも誠司の攻め手は止まらない。倒れたのを見てとると素早く距離を詰め、鼻を蹴った。ぐちゃりと湿った音がして真っ赤な血が噴き出した。そうして仰け反った喉に固めた爪先が突き刺さる。日々土嚢を蹴って鍛えられた誠司の爪先は、大きな喉仏に深々と食い込んだ。
「がはっ」
喉に残っていた空気を塊で吐き出すオグタのこめかみ目掛けて、誠司の踵が迫る。どすっと鈍い音で踏みつけられた頭部は、同時に三重のダメージを負った。踏まれた痛み、広い肩幅のせいで浮いていた頭が地面に叩きつけられた痛み、不意に伸ばされた首の痛み。オグタの目の焦点が合わなくなる。脳が揺らされたせいだ。
平衡感覚の狂ったオグタが仰向けになる。誠司に肩を蹴られてそうされたのだ。誠司はすでにオグタの頭を跨いでいた。オグタの顔の上に、上下逆さまになった誠司の顔がある。
「せいッ」
気合いの声と同時、全身の駆動と全体重の乗った万全の下段突きが、杭打ち機のような勢いでオグタの顔の中心に打ち込まれた。あまりの衝撃に鼻を含む頭蓋骨は陥没し、左眼窩底を骨折。オグタは体をピンと硬直させたあと、動かなくなった。脳が痛みを受けとる間もなかったろう。
残心をとる。
全力の下段突きを人の顔に放つ。自然石をも砕く実績をもつ拳だ。人生を空手に捧げてきた誠司をして初めての体験だった。通常であれば、相手を殺してしまいかねない技など軽々に放てない。死ななくても、障害を負いかねない技でもある。
今回それが出来たのは、オグタが並みを外れて大きかったからだ。体重がどれほどか想像もつかない。それほど頑丈な体であったのだ。だというのに、まったく活かしきれていない。
誠司がオグタの体躯を持っていたなら、被弾を覚悟して接近し組み付いただろう。そうすればあとは締め上げるも叩きつけるも自在だ。そうしなかったのはなぜかと考えたが、答えは分からなかった。
オグタの専門は弱いものいじめであり、大きな体に怯えるものしか相手にしたことがなかったなどと、誠司には思い付きもしなかった。
沸き上がってくるむず痒さは、快感か苛立ちか、別の何かか。判然としないそれはじりじりと追いたてるように内心を焼く。心配したゼパムが話しかけてくるまで、誠司は内側の炎と向き合っていた。
◯
「うまかった。また来るよ」
最後の客が帰り、店内には兄妹と誠司しかいなくなった。テンジ一家との問題の間も通ってくれる剛毅な客だ。ニトラは店の前まで見送りをしてから表に出していた置き看板を片付けて戻ってきた。
「僕たちもご飯にしましょうか」
厨房からゼパムが顔を出した。ニトラは扉を閉めてテーブルの用意を始めた。鍵は昨日トッコたちに壊されてしまったため、開けたままだ。
誠司は椅子からのそりと身を起こして窓から外を見た。薄闇の降りてきた外を拒むように、ガラスには誠司が反射している。バジャと同じように晒しておいたオグタはとっくにいなくなっていた。
「フルニのアンちゃん、遅いんじゃないか」
「今日は昼番ですから、もう帰ると思いますよ」
誠司はニトラが片付けた卓に着いた。
「今日はお疲れ様でした。お酒、呑みますか」
「いや、酒は呑らねぇんだ。食い物があればいい」
「呑まないんですか?」
「ああ。酔うと動きが鈍るからな、好きじゃねェんだ」
「闘う人って、みんなお酒が好きなんだと思ってました」
「ははは。まあ、そういうやつは多いかもな。弟子達も、よく呑んでたよ」
ニトラが淹れた茶を飲みながら談笑していると、ゼパムが料理を持ってきた。凝ったものではない。時間も手間もかからない、簡単に作れるものだ。あとは昨日仕込んで今日出なかった料理が何品か。テーブルの上はそれなりに豪華な仕上がりになっていた。
「ずいぶん残ったみたいだな」
「そうですね……。常連さんの中でも来てくれる方は多くありませんから……」
「以前なら大体一日に来てくれるお客さんの数は分かっていたので、兄さんもそれに合わせていたんですけど……」
閑古鳥とまではいかないが、赤字が続いているという。客足が読めず仕込みが無駄になるだけではない。使わなくとも食材は痛む。折悪くもテンジたちの嫌がらせは食材の仕入れの後からはじまっており、このままでは大量の食材が廃棄を余儀なくされるだろう。それがいつまで続くとも知れないのだ。
重くなりかけた空気を払うように、ゼパムが明るい声を発した。
「それよりセージさん。妹に聞きましたよ。今日はテンジ一家の座敷許しをふたりもやっつけたって!」
隣に座る兄の言葉にニトラは自慢げに胸を張った。
「凄かったよ。セージさんは爪にも牙にも向かっていくし、見上げるようなオークの前でだってあくびしちゃうんだから」
オークというのはオグタの人種ことだ。濃緑色の肌をした巨人をオークというのだと、誠司はニトラに講釈を受けていた。長々と優しく言葉を選んでいたが、誠司流に噛み砕くと、オークというのは大きな体の代わりにあまり頭のよくない種族で、他種族に騙され利用されることも多いため異種交流を好まない傾向にあるそうだ。オグタはその例外だった。
「うわぁ、見たかったなぁ……」
「パンチの動きなんか、全然見えなかったんだから! キックだって大砲みたいな音がして、オークの巨体を蹴りとばしちゃうんだよ!」
ずずと茶を啜りながら、誠司は兄妹を見ていた。興奮して話す妹と、楽しげに聞く兄の姿からは悲壮感が伺えない。先行きの不透明さを見ないようにしているのか、今一時忘れているのかはわからないが、子供が楽しそうに話している様は誠司としても心安らぐものだった。道場で教える子どもたちの会話を聞いているときも、穏やかに微笑んでいることが多かった。
熱を持ったニトラの語り口に誇張が入り、いよいよ誠司が空を飛びそうになったあたりで、誠司が割り込んだ。
「盛り上がっているところ、悪いんだがね」
誠司の声にゼパムが顔を向ける。椅子に足をかけて拳を振り回していたニトラも座り直した。初対面の時とはずいぶん印象が変わったものだ。誠司は内心で苦笑した。
「どうしました? セージさん」
「うん。今日座敷ふたりとやり合って、どうにも腑に落ちないことがあってね」
一日に二戦して、誠司は胸を引っ掻かれただけだ。人の爪と比べてあまりに凶悪な代物だが、浅く裂かれただけに留まっている。他に傷はなく、ひやりとした場面すらなかった。あまりにあっけない闘いであったと言わざるをえない。
「あいつらが、戦いを生業とする衛兵相手に常勝しているとは思えんのだがね。おれの感想としては、あっけないの一言に尽きる」
誠司の所感を受け、兄妹は顔を見合わせた。
「獣人とオークを相手をしてあっけないなんて、そうそう言えるものじゃないですよ」
ニトラは更に興奮した風だったが、ゼパムは誠司の言わんとするところを汲み取ったようだった。一度卓上に視線を落とし、茶を飲むのに合わせて顔を上げた。
「なぜ衛兵が弱いのか、とセージさんは聞きたいんですね?」
「有り体に言えば、そうだ」
「セージさんの故郷には獣人はいないというお話でしたが、どんな人種がいたんですか?」
「どんなか……。肌の色の違いこそあったが、こちらで言えば一種類になるかな。角も爪も、羽も尻尾もない、おれみたいなのだけだったよ。棘無し、っていうんだっけ?」
「なるほど……」
ゼパムは顎に拳を当てて考え込んだ。常識の違う誠司にどう説明したものかと思案しているようだ。ニトラはその隣で食事を始めた。
「あまりいい言葉ではありませんが……。衛兵になる人には、いわゆる棘無しが多いんです」
「へえ。それは、なんでだい」
「強くなるためです」
「うん?」
誠司はとっさに意味が分からなかった。
「衛兵になれれば給料を貰いながら鍛えることができます。鎧や武器が支給され、有事の際はそれを使うことができます。それらが必要な人が、衛兵になるんです」
続く言葉で理解した。誠司はようやくこの世界の常識が身に付きはじめた。
地球においても肉体の優劣は存在した。大きい者が強い。重い者が強い。それに抗するために産まれた技術こそ武術であるが、それだって大きく重い者が有利だ。
この世界においてはその優劣にさらにバリエーションがあるのだ。角が、爪が、皮膚が、体毛が、脂肪が、筋肉が、骨格が、サイズが違う。他の条件が同じなら角や爪を持つ者の方が強い。毛皮や脂肪を持つ者の方が頑丈だ。ゆえに持たざる者が対等を、強さを求めるならば、後付けするしかないのだ。
たとえば自分が子どもだったとしたら。気紛れで自分を殺傷しうる大人の群れで安心して過ごせるだろうか。悪人も荒事も溢れているのに、法の抑止に全幅の信頼を置くことができるだろうか。
「もちろん獣人の衛兵もいますが、少数派です。多くの強者はそんなことは気にせず他の仕事に就きます。そうして普通に過ごし、ある時、ふとしたことで過ちが起こるんです。酔った勢いで、感情の昂りで、あるいは道ですれ違って……。本当にふとしたことで、大怪我を負ったりもする。衛兵になるのは、自身や身近でそういう経験をした人が多いと聞きます」
「なるほどねェ……」
誠司が低く唸った。みっしりと肉の詰まった太い腕が組み合わされた。この筋肉は、誠司が若い時分から鍛え上げたものだ。強くなりたいと、負けたくないと、しかし闘いたいと、願いが筋繊維の一本一本に織り込まれている。
果たして誠司がこの世界に産まれたら、同じことができただろうか。自分が必死に鍛えた筋肉も、オークたちは産まれもってもっと強いものを持っている。必死に練り上げた拳足も、獣人の爪や牙の鋭さには及ばない。そんな中で腐らずに鍛えられただろうか。
誠司は東京のニュースで見た紛争地帯を思い浮かべていた。銃弾飛び交う土地に産まれていたら、トレーニングの目的は、素手で敵を打ち倒すことよりも銃の確保や扱いに比重が置かれていただろう。少し違うかもしれないが、誠司はそう理解した。
衛兵が弱いなどとんでもない。彼らは強い。ただもっと強い者がいるだけだ。
同時に、誠司は自分が勝てる理由も朧気に理解できた。獣人やオークといった産まれながらの強者は、棘無しが棘の無いままに向かってくることに不慣れなのだ。石ころひとつ使おうとせず、刃物ひとつ帯びようとせず、脆い手足をそのままぶつけてくることを想定していない。要するに、相性がよかった。
未知を前に、人は誰もが子どもになる。創造力がものを言う。好奇心を働かせるか、怖じけるかの違いしかない。
「なるほど」
もう一度唸る。話を聞かなくても、考えてみればそういう傾向にあるのに思い至ったかもしれない。そうならなかったのは誠司の頭に地球の常識が居ついていたからだ。これではいけないと頭を振る。この状況がいつまで続くかわからないのだ。致命的な勘違いをしてしまう前に、改めておく必要があるだろう。
◯
その後は楽しく食事をした。誠司は乾いた空手着に着替えている。一番身の引き締まる服装であった。
今日五食目となる誠司は兄妹と比べて少な目だったため早くに食べ終え、茶を飲みながら楽しげに語らう兄妹に相槌を打っていた。ニトラの体験談だという笑い話に破顔したりもしたが、誠司の活躍に誇張が入っていたことを思い出すと、どこまでが事実かは怪しいものだ。
ニトラの話は止まらず、この日七度目の「そういえば」が出たときだった。
「……なんだか外が騒がしくねェかい」
誠司の疑問の声に兄弟も話を中断し、耳をすませた。いつの間にか夜の静寂は消え去り、昼間の喧騒に似た人の話し声が扉越しに入ってきている。誠司はその声音の中に物騒な雰囲気を嗅ぎ取った。
──ガシャァァン
けたたましい破砕音と共に店の出入り口から何かが投げ込まれた。ガラスを割り残骸と化した扉が内側に倒れる。音に即座に反応した誠司はテーブルを倒し「隠れていろ」と兄妹の盾とした。
「出てこい用心棒ォォ!!」
外から男の怒号が聞こえた。叫んだのはひとりだが、外には群衆と言っていい人数が集まっているようだ。夜の闇に複数のカンテラが灯っている。濃密な暴力の臭いに誠司の口角が上がるが、投げ込まれたものを見て浮かびかけた笑みは消え去った。
無言でその元まで歩き、屈みこむ。そこには血と土で全身を汚したフルニが横たわっていた。いや、誠司はそれをすぐにフルニだとは気付かなかった。それほどに面相が変わってしまっている。まぶたは腫れ上がり、鼻は折れ、頬が真っ青に膨れている。顔だけではない。腕も足も尾も、執拗な暴力を受けた形跡が、痣となって各所に浮かび上がっていた。手の指など、折れていない数の方が少ない始末だ。
大人数で囲って長時間暴行を重ねたのだと、一目でわかった。
「テンジのとこのやからだ……」
軋むような小さな声が聞こえた。内出血で満足に開かないまぶたを気力で押し上げ、フルニは無表情の誠司を見上げている。誠司は片膝をついて耳を近付けた。
「五人は減らした……」
掠れるように呻き、それきり黙った。浅いが呼吸はある。気を失っただけのようだ。フルニの前にもテーブルを立ててやりながら、誠司は立ち上がった。
誠司は野蛮と呼ばれるに相応しい人間だ。喧嘩を好み、いさかいを見れば自らが巻き込まれるように仕向けさえする。空手を学んだのも喧嘩に勝ちたいからだ。負けたくないからだ。空手の鍛練で人格形成などできないと思っている。
そんな、暴力を好む人間だが、腹に据えかねることもある。例えば放火などの凶悪犯罪者や、徒党を組み無辜を脅かす輩などが、その典型だった。
誠司が好む暴力とは、自分に向けられるものに限られていた。そうでないものに関しては、比較的一般的な遵法精神を有しているのだ。
誠司は激しく怒っていた。