未知の形
朝の常連たちも各々仕事に向かい、金竜の餌場からは客の姿がなくっていた。日はまだ登りきっていない。往来には威勢よく声を張る露店の売り子や、仕事に向かう人、仕事中の人などが大きな河川のうねりのように犇めいている。
金竜の餌場は朝の客入りを捌ききり、兄妹は店の掃除や調理道具の手入れを、誠司は客のいない店内で煉瓦をひとつ手に持ち、手刀や肘を打ち付けていた。
「頼もう!」
そんな穏やかなひとときを、武骨な声が掻き消した。荒く、しかし溌剌とした声であった。
声は店の出入り口から響いた。見ると、身長一.五メートルほどの、黒いイタチのような獣人が立っていた。
「オレはテンジ一家の客分、座敷を許されたバジャって者だ。ここにめっぽう強い棘無しがいるって聞いて来たんだが、どいつだ」
バジャと名乗った獣人は全身に獣毛を生やしていた。体の前面はところどころ白の混ざった黒毛。頭部から背面を尾にかけては灰色の毛で覆われていた。
口からは牙が覗くが、あまり長くはない。しかし首が太いので噛みつきには注意が必要だろう。だがそれよりも問題なのは両手両足の爪だ。まるでアイスピックのような鋭さを有している。体型こそほぼヒトに見えるが、獣毛と爪を有しているまったく別の生き物と思った方がよいだろう。
誠司は知らない動物だったが、バジャは蜜穴熊の獣人だった。
ニトラが箒の柄を胸元に抱き、怯えた眼を誠司に向けた。バジャはそれを見逃さなかった。
「お前か」
ずかずかと大股で寄ってくる獣人に、誠司はとぼけた声でこたえた。
「いやぁ、そいつなら今は店の外にいるよ。窓拭きをしてなかったかい?」
ニトラの表情がぎょっとしたものに変わる。誠司はそれを横目に見ながら、つとめて無視し、バジャから眼を離さなかった。
「外?」
存外素直に、バジャは足を止めた。
「いなかったぞ」
「あんたどっちから来た? 店の右手か?」
「いや、左手だ」
「だからだろう。今は右手側の窓を拭いてるはずだ」
「そうか、わかった」
近寄ってきたのと同じ歩幅で歩き、バジャは店を出ていった。誠司はバジャが店から出たのを認めてから腰を上げ、ニトラに鍵を閉めるよう伝えてから後を追って扉を開けた。ちょうど右手から「オレはテンジ一家の客分、座敷を許されたバジャって者だ!」と先程同様の名乗りが聞こえた。
「この店の用心棒に用がある!!」
キョロキョロと見回しながら声を上げるバジャの背中に「俺がそうだ」と誠司が声をかけた。
勢いよく振り返ったバジャは、誠司の姿を見るとイタチに似た顔を歪め、牙を向いて低く唸った。
「やっぱりテメェなんじゃねえか、この嘘つきめ!」
「悪かったね。あんたが店の中ででも構わずおっぱじめそうな雰囲気だったもんで、被害がでないようにさせてもらったよ」
不意打ちしてもよかったんだぜ、と続けようとした誠司だが、それを音にして発する前にバジャが駆けた。十分な距離を空けていた誠司だったが、その五メートルほどの距離をバジャはまっすぐ走って詰めた。
「ジャァァアアアアアアア!!!」
雄叫びを上げながら右手を大きく振りかぶって迫るその姿は、まさしく獣のごとし迫力。鋭い爪先を見ながら、誠司は黙って詰められるに任せていた。
空手の道場なんかを経営していると、よく聞かれることがある。
「相手が刃物を持っている場合、どうすればいいですか」と。聞いてくるのは、門下生であったり、その保護者であったり、取材に来た記者であったり、旧友だったり、様々な人から何度も聞かれた。もちろん言葉のチョイスは人によって違うが、内容としては変わらない。刃物と対峙した際どう行動するか? これをよく問われた。
誠司の答えは決まっていた。
「手近なものを投げなさい。逃げられるなら、一目散に逃げなさい」
するとみんなつまらなそうな顔をする。無論誠司だってわかっている。相手が求めているのは、例えば手刀でナイフを叩き落とすだとか、ナイフより速く突くだとか、もっと言えば真剣白刃取りだとかの、超人的な対処法を当然のように語る、そんなスーパーマンのような反応が欲しいのだ。
あるいは、どんな素人でもそれさえできれば刃物などおそるるに足らぬ、というような、漫画的な必殺技を聞きたくて、そんな質問をしてくるのだ。
そんな質問たちに対して、誠司はいつも現実的な答えを返してきた。いつの間にか身に付いていた教育者としての自分が、胸の内の熱に気付かぬフリをして答えてきた。
今、相対するバジャの爪はまさしく対刃物と言えるだろう。五指に備えられた太く鋭い爪は、逞しい獣の体から繰り出されることで並の刃物よりよほど脅威となっている。
なっているが、そこには技術がない。かつて鎬を削った武器術家たちとは比べ物にならない。大声を出して突貫するだけでは、技とは呼べない。
刃物を大きく振りかぶり迫り来る男への対処。かつて繰り返し投げろ、逃げろと教えてきた誠司は、教える立場でなくなった今、心の熱の広がりに体を任せた。
ジャリッ、と砂を踏む音、ボッと空気を裂く音、ズドンと肉を打つ音、それらがほとんど同時に聞こえた。仁王立ちの姿勢から、誠司の右足が目にも止まらぬ速さで繰り出され、前蹴りとして中足がバジャの腹に突き刺さったのだ。
「ジャァッ!」
前蹴りはなんの障害もなく確かに腹に直撃したが、当のバジャは構わず爪を振るった。自分の腹を踏んづけている足の、太ももを裂こうと爪が迫るが、それが届くよりもずっと速く誠司は足を戻していた。
足から伝わる感触は誠司に様々な情報をもたらした。
ひとつは体重。バジャは誠司より頭ひとつ以上小さいが、体重は見た目よりずっとある。
ひとつは体幹。突進に合わせた蹴りを腹にくらい、のけ反りこそしたものの転倒はしない。
ひとつは体型。人体を蹴ったのとはまるで違う反動だった。堅い獣毛、たるんだ皮膚、その下の脂肪と筋肉が幾重にも衝撃を吸収してしまっている。
突進を止めるための蹴りではあったが、未知の敵であることを考慮して強めに蹴ったことが幸いした。常人を相手にしたつもりで蹴っていたら、そのまま仰向けに倒されていたかもしれない。
ーービシィッ!
引き戻した右足を翻し、やや上方から首に回し蹴りを打ち下ろした。この感触もまた慣れ親しんだ蹴り味とは違う。巻き藁に布団を巻いたものを蹴ったようだった。太い首が衝撃を吸収している。
誠司だって首は太い。プロレスラーと闘ったこともある。だがそれらとは、また異質な太さだ。首の骨が太いのである。
「ぬうっ」
二度の蹴りでも期待したダメージを得られなかった誠司は、その場でくるりと体を回し、右足での後ろ蹴りを見舞った。先の二発の様子見とは違う、体重の乗った本身の蹴りだった。
ドグッと重く鈍い音がして、バジャはたまらず後ろにひっくり返った。背の灰毛でザザッと地面を滑り、止まる。すぐに体を起こしたものの、蹴られた箇所をおさえて前傾している。今度こそダメージがあったらしい。誠司は右足での三連続の蹴りを放ったが、その体勢は崩れることなく仁王立ちでバジャを見下ろしている。その唇は楽しげに、嬉しげに歪んでいた。
誠司が過去に闘った誰とも違うスタイル。水の詰まったドラム缶をへこませ転がす誠司の後ろ蹴りを受けて、なお立ち上がるタフネス。未知の敵という至高の甘露に、誠司は多幸感に包まれていた。
同時に頭はこの後の展開を考えあぐねていた。
誠司は元の世界において夥しいまでの勝利をおさめてきた。それはつまり闘いの組み立てがうまいということだ。例えどんなに攻撃が強くても、動きを読まれていては勝つことは難しい。避けられるか、威力が乗る前に抑えられるか、カウンターを合わせられてしまうだろう。それをさせず、こちらがそれをするために、闘い方を組み立てるのだ。相手の動きを読み、誘い、こちらの思い通りに動かすことが理想だ。そうした読み合いをいくつも制してきた。
その経験が役に立たない。
バジャは誠司の知る人間と比べて胴が長く、手足が短い。首が太い。鋭い爪や牙がある。しかし獣と違い、二本足で立つ。そんな獣人を相手にすることに、誠司は圧倒的に不慣れであった。
光明は最後の後ろ蹴り。あれがダメージを与えた事実。
獣人も決して無敵ではない。
「テメェ……」まっすぐに立ち上がったバジャが言った。「余裕のつもりかよ」
顔の形も、誠司とバジャではまるで違う。違うが、それでも通じるものがある。
バジャは間違いなく怒っている。
「そんなつもりはねェよ……」
「だったらなんで追撃しねぇ! なんで立ち上がるのを待ってた!?」
自分なら追撃した。バジャはそう言いたいようだった。それをしないのは手抜きだと。手を抜かれたから怒っているのだと。手加減など許せないと。
「それは誤解だぜ」
胸の内を表す言葉を探しながら誠司が答えた。
「余裕なんかまるでなかった。前の蹴り二発が聞いてなかったもんで、最後の蹴りがちゃんと効いたのか、そういうフリをして追撃を誘っていたのか判断がつかなかったんだ。迂闊に飛び込んでその爪の餌食になっちゃあ、たまらんからな」
なにより
「せっかく楽しんでるんだ、すぐに終わっちまっちゃ、つまらんだろう」
薄笑いを浮かべて吐かれた露骨な挑発は、劇薬となってバジャを侵した。
「ガァッ!」
怒声を発しながら、バジャは両手を突き出して跳びかかった。両足と背中のバネからなる跳びかかりは呼び動作などほとんどなく、まるでそういう仕掛けの人形のようだった。
対する誠司の反応はシンプルだった。
「せいッ!」
バジャの両手の隙間を貫き、誠司の左正拳がバジャの鼻面に深々とめり込んだ。
体格が違う。体質が違う。内臓も骨格も違う。急所もその多くが違うだろうが、鼻が急所でない生き物を誠司は知らない。
「むんッ」
誠司の攻撃は止まらない。左拳一発でバジャの突進をぐらつかせると、右の上げ突きで顎をかち上げた。突きの勢いで上向いたバジャの両手にはもう威力はない。左右の突きの連打を獣の体に打ち込んでいく。
腹。
胸。
脇。
顔。
横面。
一撃一撃が重く、芯まで響く拳の豪雨だ。一方的に拳を繰り出しながら、しかし誠司は肝を冷やしていた。確かな手応えを返す拳の連打の中で、バジャは前進しているのだ。
獣の表情でもそれとわかる好戦的な笑みを浮かべ、じり、じり、と、数ミリずつだが、確実に誠司に迫っている。恐るべき打たれ強さだった。近付かれてはあの爪の餌食となる。
「けいぃッ!」
下段回し蹴りを放った。硬く堅く磨き抜かれた脛がバジャの左膝を外から内に叩き、挫いた。
「ガァッ!」
鼻血を吹きながらがくんと体を落としたバジャは、それでも爪を振るった。下から上に、誠司を腹から喉まで引き裂こうと凶爪が迫る。
誠司は爪が動き出したころにはすでに半歩さがっていた。予知じみた反応を見せた誠司だが、次の瞬間には胸に熱を感じていた。胸元の服が弾け、一瞬遅れて血がぱっと散った。誠司の予想より体の延びがよいのだ。ギリギリで躱すつもりだったのが仇となり、見誤った間合いの分誠司の胸に浅い爪痕が走った。
予想外のダメージに誠司は笑う。沸き上がる喜びとともに、延びきった脇腹に正拳を放つ。
「チィェアァッ!」
「ガハァッ!?」
やや上方から打ち下ろされた正拳は狙い過たずバジャの脇腹に突き刺さった。ボキボキと骨の折れる音が、拳から腕を通して誠司に伝わった。
打たれたその衝撃で斜め下方に潰れたバジャに、すかさず誠司の追撃がふるわれる。
ーードキャッ
倒れたバジャに素早く寄り、顔を踵で踏みつけた。一度では終わらない。二度、三度、四度と踏む。踏みつけられるたび、バジャは呻いたり手で頭を庇う動作していたが、それも長くは続かず、やがて動かなくなった。七度の踵蹴りを要した。
誠司はバジャが動かなくなると踏みつけをやめ、じっ、と倒れるバジャを見つめていた。額には小さな玉の汗が浮いている。
一分経ち、二分経ち、バジャが起きてこないことを確認すると、ふぅと息を吐き、自分の服の帯をほどいてバジャを後ろ手に拘束しようとした。
「……参ったな」
ぼそりと呟く。手首にくびれがないため、縛るのに難儀しているようだった。
◯
「ッ痛ェ……」
「おや、起きたかい」
バジャは三◯分ほどで目を覚ました。ちょうど誠司の作業が終わったところだった。胸の傷は露出しているが、血は止まっていた。酒で消毒も済ませてある。
「なんだぁ、これ……」
バジャが痛みに顔を歪ませながら自分の体を見ると、胸の辺りで腕を組む形でぐるぐるに縛られ、背中をなにか棒のようなものに固定されていた。周りには自分達を遠巻きに眺める人だかりまで出来ている。見せ物にでもなっているようだった。金竜の餌場とは道を挟んで反対側である。
「起きてすぐ暴れるとも限らんしな、縛らせてもらった」
横に立つ誠司の言葉で、ようやく気絶する前のことを思い出した。と同時に、体ではなく心の苦痛に眉を寄せた。
「オレは負けたのか……。くそっ、棘無しなんかに……!」
敗北の事実に身を焼くような悔しさを感じる。肋骨の激痛も頭の鈍痛も、惨敗という炎の前には塵芥に等しい。身悶えし地団駄を踏み泣きわめきたくなる衝動があるが、固定された体ではそれすら叶わない。誠司はバジャが感じている痛みがわからないではなかったが、気にせず疑問をかけた。
「さっきも言ってたけど、その棘無しってのは、おれのことかい?」
「ああ? 他に誰がいるってんだ。オレがそうだとでも言いてぇのか」
「そうカッカすンねィ。言葉の意味がわからねェから、教えてほしいだけさ」
牙を剥いて見せても誠司は動じず、涼しげな態度を崩さなかった。その様子に毒気を抜かれ、バジャはつまらなさそうに息を吐いた。
「アンタ物知らずだな。棘無しってのは、角やら爪やら、武器になるものを持ってない丸っこい体のことを言うんだよ。アンタみたいにな」
「ハァ~、なるほど……。武器を持たない、ね」
苛立ちからいらぬやっかみを吐いてしまったが、誠司は気にした風もなく腕を組んで唸った。唸ってはいるが、口元は綻んでいる。笑っているのだ。
「つまりおれァ、この辺では弱い者ってわけだ」
言葉の内容こそ後ろ向きだが、顔の笑みは深くなっている。楽しい。嬉しい。たまらない。そういう笑いだった。
「嬉しいねェ……。挑戦者なんざ何年ぶりか……」
組まれた腕から音が聞こえる。太い指が太い腕に食い込む音であり、肉の圧する音であり、骨の疼く音であり、男の肉体が喜悦する音だ。闘っている時にも感じなかったような迫力が全身から溢れだしている。バジャは突然空気が固くなったように感じた。意識しなければ呼吸にならない。腹に力を入れ、大きく息を吸い込んだ。
「……ケッ、なにが弱い者だ。アンタに負けた俺はなんだ? それ以下じゃねえか」
精一杯の虚勢だった。手も足も出せずに負けたのだ。拘束されても起きられなかったのだ。誠司にそのつもりがあればバジャはいとも簡単に殺されていた。その事実がわからぬバジャではなかった。
「そう言ってくれるな。今回はおれが勝ったが、次ヤッたらわからんだろう。また鍛えて、今度はおれから、防御技のひとつも引き出してみせなよ」
誠司がしゃべると緊張が嘘のように霧散した。言葉の最後は意味がわからなかったが、再挑戦を楽しみにしていると、そう言っていることはわかった。腹の底で燃え、バジャを炙っていた炎が小さくなるのを感じた。
「なんだか、気の抜ける奴だな。それでいて腕っぷしは確かと来ていやがる。これでもオレは、テンジ一家じゃ上から数えた方が早いぐらいには強いんだぜ?」
「おう、驚いたよ。おれの蹴りを三発もまともに受けて平然と立ち上がるやつなんて、そうそういなかったからなァ」
「平然となんかしてねえよ。三発目で無様をさらした……。それに、受けようと思って受けたもんでもねえ。あまりにも速くて、手が追い付かなかったんだ」
「速いかい? おれよりずっと速く蹴るやつらだって、いるぜ」
誠司が懐かしむように目を細めた。鮮明に思い出せる。誠司より軽量な空手家や、キックボクシング上がりの総合格闘家の蹴り。ムエタイには稲妻のように蹴るものも大勢いた。彼らと闘ったあとなど、太ももから本来の肌の色は消え、青黒い内出血で皮膚が張ったものだ。
「ほんとかよ……」
「ほんとさ。それより、君は自分の闘い方を見直した方がいいな」
「説教かよ」
「まあ聞きなさい。君の打たれ強さは驚異だが、攻め手がいけない。防御の薄い脇腹を晒すような攻撃は控えるべきだ。全体的に振りかぶりすぎなんだよ」
顔を背けてはいるが、誠司の言葉はしっかりバジャに届いていた。思い当たる節もあった。これまでの敗北のうち、脇腹を打たれたものがどれだけあったか。勝利のうちでも、脇を痛打され辛勝となったものも少なくない。
バジャは生来の激情家であった。血の気が多く、すぐに頭に昇る。そのうえなかなか降りてこない。闘いになってもそうだ。体の吠えるままに手足を振るい、裂き叩き噛み付いた。負ければ悔しかったし、勝てば次の闘いを求めた。そこに分析や反省といったものは一切がなかった。誠司に言われて初めて、バジャは自分の闘い方を省みた。
「……オレはどうすれば強くなれる」
ぼそりとバジャが呟いた。
「体の性能に頼りすぎだな。あんたら言うところの棘無しに負けたことの意味を、よく考えるといい」
助言らしい助言もなく誠司は口をつぐんだ。ついつい口を出してしまったが、誠司は弟子を作るつもりはもうないのだ。これでバジャが延びようと延びまいと、どちらでもいい。下手に口出しをして師匠と祭り上げられ闘いを挑まれなくなるのは嫌だった。
バジャもまた、それ以上は聞かなかった。闘いの内容、推移を頭の中で反芻している。自分が不利になった場面を洗い出し、対策をすれば、その分強くなれるのだから。
がやがやとした人の声が大きくなってきた。日は真上に座している。肉体労働者の昼飯時で、人の往来が増えたのだ。中にはバジャを指差してひそひそと話す者もいた。バジャはその気性から喧嘩の話には事欠かない。その相手には体格のいい肉体労働者も少なくない。彼のことを知っている人間が、なにぞ噂でもしているのだろう。
「なあ」
「なんだ」
「もう突っ掛かったりしないから、ほどいてくれよ。詫びならあとで菓子でも持ってくる」
「ほう、素直だな」
「ああまで完敗すれば素直にもなるさ。胸の骨も折れてるみたいだしな。今から暴れたって、さっきより簡単に取っ捕まってよりひどい怪我を負うだけだ」
「懸命だな」
誠司は言われるままに拘束を解いた。その迷いのなさはバジャへの信頼などではもちろんなく、己の持つ制圧力への自信である。
「ふぅ、あー、イテェ」
自由になったバジャは立ち上がって脇腹を抑えた。息をする度に鉄塊で殴打されるような痛みが遅い来る。
「我慢しな。そこは治るまでどうしようもない。肩を貸そうか?」
「いらねぇよ。負けこそしたが、獣人が棘無しに体を気遣われたりしちゃあ、故郷の土を踏めねぇ」
「そうか」
誠司は食い下がることもなく引き下がった。
「……おい、なんだこりゃ」
体の調子を確かめていたバジャが、自分が縛り付けられていた棒の上部に目をやった。そこには大きめの鍋の蓋が地面と垂直に縛り付けられ、文字を書いた紙が貼り付けてあった。
『下の者はテンジ一家が客分バジャを名乗るものである。金竜の餌場が用心棒、セージ・マツオカに腕試しを願って来たものである。勇ましく健闘はしたものの、武運なくしてこのような結果と相成った。身寄りの者あらば引き取られたし』
そう書かれていた。
「なんだ、これ」
もう一度、バジャが言った。先程からの人だかりの意味が分かった。見せ物のよう、どころではない。そのもの見せ物ではないか。
「お前さんがいつ目が覚めるか、目が覚めたあと自分で帰れるか分からなかったからな。こうしておけば知っている者が引き取りに来てくれるだろうさ。あとはまあ、見せしめと、慣習ってもんだ」
悪びれもせず、誠司が答えた。バジャは何か言おうと口を開いたが、頭を振って溜め息を吐いた。そして無造作に張り紙を破いた。
「自分で帰れる」
「そうらしいな」
バジャは手ぶらで来たので荷物らしいものはなにも持っていない。このまま変えるつもりらしい。
「テンジのところに戻るなら……」バジャの背に声をかけた誠司だが、すぐに「いや」と遮られた。「戻らねえよ」と、つまらなそうに吐き捨てた。
「戻らない?」
「ああ。もうテンジに用はないからな。それなりに世話にはなったが、向こうもオレを使ったんだ。もういいだろう」
「師事してたんじゃないのか」
「まさか。オレとあいつじゃ体のつくりが違いすぎて教わることなんかなにもねえよ。あいつのところにいたのは、そうすれば実戦が転がり込んで来るからさ」
「おれみたいにか」
「ああ」
バジャは言葉を切って自分の掌を見つめた。爪と肉球に闘いの記憶が刻まれている。
「怪我が治るまでに立ち回りを考え直す。満足がいったら、また、あんたに挑みに来るよ」
「そのときにここにいるとは限らないぞ」
「知るか。どこにいても探してやる」
誠司好みの答えに思わず顔に笑みが浮かんだ。これだ。この身軽さだ。大所帯の長にはない身軽さ。無頼漢の有り様。そして今は、誠司自身も裸一貫なのだ。
バジャはそのまま振り返りもせずに人混みを掻き分けていった。また会う機会があるか。二度と会わないかもしれない。だとしても誠司は今後バジャの成長を楽しみにできる。あの爪が、毛皮が、次会うときはより凶悪に使われるかもしれないと思うと、小躍りしそうなほど嬉しかった。相手が何をするか知れない時ほど、喜ばしい時間はない。
日本にいたころは毎日が渇いていた。あのままでは無気力に怠惰に生きるしかなかった。あるいは、鍛え上げた肉の内から沸き出る衝動に耐えきれず、気が狂っていたかもしれない。
この異常事態に際して、居心地のよい異郷の地に触れ、誠司は久しぶりに深呼吸をした。