用心棒
トッコたちの討ち入りを苦もなく退けたのち、誠司たちは改めてテーブルに着いていた。今度の卓上に料理の皿は無く、茶の入ったコップが四つ置かれている。四人ともが同じ卓についている。夕の空気が静かに室温を下げるなか、そんな夜気をものともせずに、ゼパムとニトラは頬を紅潮させて興奮ぎみに話していた。
「いやぁお強いとは聞いていましたがこれほどとは! まさかあのテンジ一家を無傷で追い払ってしまうなんて!」
「森の中よりずっと凄かったです! あのときもよくわからないうちに終わってましたけど、今度のはもう、パパパ! って感じで」
「そう、パパパ!」
「パパパ!」
誠司の動きの再現のつもりか、楽しそうに盛り上がる兄妹を優しげな眼差しで見つめながら、誠司は茶を啜った。緑茶とも紅茶とも違う味わい。香りが良い。そうしながら横目で、ひとり静かにコップを睨み付けるフルニを見やる。フルニはテーブルの上で両の拳を固く握り、厳しい表情で黙っていた。
盛り上がった兄妹がいよいよ立ち上がり、拙くも誠司の撃退劇を演じ始めた。それに構わずフルニはキッと顔を上げ、厳しいものを誠司に向けた。
「あんた何者なんだ」
その固い声に兄妹も戯れを止め、息を飲んで誠司を見詰めた。トッコたちの襲撃前のような一触即発の空気でこそないものの、フルニの表情は険しいままだ。
誠司はコップを静かにテーブルに置いた。半分ほどに中身を減らしたコップがコト、と小さな音を立てた。両手を緩く握り、左右の膝の上へ。背もたれから背を離し、ピシッと背筋を伸ばす。軽く顎を引いた目線は剣呑さこそないが、風圧すら感じる迫力で三人を射竦めた。
「空手道。松岡誠司」
今までにない真剣味溢れる声でそう名乗り、軽く頭を下げる。体の軸が全くぶれない見事な礼だ。それでいて誰からも視線を切らない。フルニの背に冷たい汗が伝う。つつ……、と、肩甲骨の中心から腰骨まで、戦慄する冷たさでもってまっすぐに滑り落ちていく。身動きができなかった。誠司はただ座って礼をしただけだというのに、不思議な圧力がフルニの肩を押さえつけている。居住まいを正した誠司は、ただ頭を下げるだけで、荒事に慣れた衛兵を圧倒せしめるのか。
ごくり、と誰かの喉が鳴った。ゼパムか、ニトラか、それともフルニの喉か。
三度高まる緊張感は、にやりと笑った誠司によってほどかれた。
「名刺にゃもうちっと長い肩書きが書いてあるんだけどョ、ホントのとこ、おれが名乗るのはこれだけだ。他は、まあ、その結果……?」
首を傾げている誠司からは、先程までの圧力は感じられない。ふぅ、と空気が弛緩した。
「テンジ一家の者じゃないってのは、信じよう。それで、なんの目的があってここに来た」
「平たく言や成り行きだな。そっちの嬢ちゃんが悪漢に追われてたから、追っ払って、街まで道案内頼んだんだよ」
「この街の人間じゃないな? どこから来た」
「日本の東京って言って、伝わるかい?」
「伝わらねぇな。聞いたこともない」
にべもなく切り捨てるニトラ。切り捨てられた誠司は困り顔で腕を組んだ。太い腕だ。鋼だって締め上げてしまいそうな腕組みだった。
「うぅん……。伝わらねェとなると困った。実を言うとおれも、なんで森にいたのかわからねェんだ……。ふと気がついたら森の中に仁王立ちさ」
「それを信じろと?」
「どっちでもいいが、逆さに振ったって他の答えはでねェぜ?」
数秒の間誠司を見つめ、フルニはコップをぐいと傾け空にした。
「ふう……。じゃあもうそれはいい。用心棒を申し出たのはなんでだ? わざわざ面倒事に首突っ込む理由はあるのか」
「最初に言ったろう。おれァ無一文なのさ。かといって売れる品も持ってねえし、雇って貰う伝手もねえ。売りになる技術なんざ拳以外にありゃしねえの無い無い尽くし。なら多少なりとも縁のあった人ンところに転がり込みたくなる気持ちは、わかるだろう?」
それに、と言ってちろりと唇を舐めた。赤く厚い舌がのぞいた。
「元々喧嘩が好きな気質でよ。腕に覚えはあるつもりだぜ」
誠司が右腕を曲げて力瘤をつくった。子どものウエストのような豪腕だ。フルニの脳裏に先ほどの鮮やかな立ち回りが再生された。確かにあれほどの腕があれば、いい魔除けになるかもしれない。
「なるほど、軒先はおろか土間すら楽にあしらう用心棒、か」
今度はフルニが腕を組んで唸った。その雰囲気からはすっかり険も薄れている。誠司の申し出を検討しているように見えた。
「おれからもいいかい」
誠司が軽く手を挙げた。
「連中も言ってたんだけど、ドマアズカリとかってのは、なんのことなんだ?」
「なんだ、そんなことも知らないのか」
目を丸くしたフルニは、茶を一口呑んでから答えた。
「道場通いの門弟たちの階級のことだよ。下から軒先見張り、土間預かり、座敷許しと強くなっていく。さっきの青いのは土間預かりで、連れられていたのが軒先見張りだ」
「なるほど。下っ端と、ちょっと上の下っ端ってことだな」
「……あんたから見たらそうなのかもな。ちなみに俺はこの街の衛兵としては平均的な強さだが、土間と座敷の間くらいだ」
誠司は目を丸くして驚いた。そうするとおどけた子どものようだった。
「なんと。仕事で鍛えてるアンちゃん達よりも強いってのか」
「……それは嫌みか?」
フルニの声が一段低くなった。怒気を帯びている。気の短い男だ。誠司は顔の前で手を振った。
「何か気に触ったなら、すまん。そんなつもりはなかったんだが」
「……ま、いいさ。テンジが指導者として優れているのかもな。奴自身も御前試合への出場経験もある実力者だしな」
「御前試合?」
「あぁ、それもか……。知識面で困りそうなことなんかは、追って説明するから、聞きたいこと考えといてくれ」
「そりゃ助かる。おれからすりゃまるでお伽噺の中みたいで、次には魔法使いでも出てこないかと思ってるくらいでよ」
「なら安心しろ。魔法使いなんてのはそれこそお伽噺の中だけの存在だ。もしそう名乗るやつが近付いてきたら詐欺師かなんかだから、近くの衛兵に言ってくれ」
「ずいぶん親切になったじゃないか。なにか心変わりでもあったのか」
「迷子の保護も衛兵の仕事ってだけだ」
話に一段落つき、間隙に沈黙が降りる。染み入る夜気が足元をひやりと撫でた。
「お話は終わりましたか?」
いつの間にか席を外していたニトラとゼパムが厨房から歩いてきた。ふたりとも手には盆を持っている。その上には注ぎ口から湯気を吐く急須のようなものと、皿に山盛りになった菓子が見える。人の指ほどの長さ、太さで、濃い茶色の菓子だ。かりん糖に似ていた。
ニトラがテーブルの真ん中に皿を置き、ゼパムが新しい茶を注いで回る。再びいい香りが誠司の鼻を楽しませた。
「困っているみたいですし、僕としてはセージさんを雇うことに否はないんですけど……」
ゼパムは上目使いでうかがうようにフルニを見た。どちらが年上なのか誠司は知らないが、どちらも二十歳そこそこだろうか。イニシアチブはゼパムが持っているように見える。フルニは眉尻を下げて言った。
「義兄さんがそのつもりなら俺も従いますよ。どうやらこの男も、悪いやつには見えませんし。それに、頑固になってこいつに暴れられでもしたら、そっちの方が大変です」
誠司は心中でくすりと笑った。出会った当初からつっけんどんな様子しか見せなかったフルニが下手に出ているのが、どことなく可笑しかった。
「衛兵は衛兵でやってることもあるから、邪魔だけはしてくれるなよ」
「なにが邪魔になるかわからねえが、まあ気には留めとくよ」
「それと、この店もテンジの件で蓄えが豊富ってわけでもない。吹っ掛けるような真似はしてくれるな」
フルニの注意に軽く手を挙げて応えた。
「それじゃあセージさん、よろしくお願いします」
ゼパムは急須を置いて誠司に頭を下げた。人にものを頼む態度はあちらもこちらも違わないらしい、と頭の片隅で考えながら、誠司も頭を下げた。
「こちらこそ、よろしく頼んます。旦那」
「だ、だんな? 僕がですか?」
「そりゃあもちろん。おれの雇い主なんだから、アンちゃんのことは今から旦那と呼ばせてもらうぜ」
「旦那かぁ、参っちゃうなぁ……」
困ったふうに言いながら、実はまんざらでもないのだろう。口がもにょもにょしていた。誠司が微笑ましい気持ちでいると、ニトラが持っていたお盆で兄の尻を叩いた。
「兄さん、雇うなら仕事内容と報酬の話をしないと」
「あ、そうか」
ニトラはやれやれため息を吐いた。なるほど、どこか抜けた、人好きのする兄を、妹が引き締めているらしい。
「仕事内容は、どうしようかな……。それじゃあこの店で暴れた客を追い払うってことでどうでしょう」
「あい分かった。店の外であっても目的が店だったら同じ対応でいいかな」
「はい。お支払いは……、相場はどれくらいなんでしょう」
「報酬ってことなら、この店の片隅に寝床と、三度の飯をもらいたい。それで充分。あとはまあ、来た奴らを叩いて懐でも漁るさ」
用心棒の相場といえば飯と寝床だ。日本を旅したときも、海外を旅したときも、それは変わらなかった。誠司にとっての常識とも言えた。
だからその常識を口にしたのだが、ゼパムの拒否は強かった。
「そんな! そんなわけにはいきません。ちゃんとお金を払います」
「義兄さん、本人がいいって言ってるんですからいいじゃないですか。どうせこいつ、またたくさん食いますよ」
「いやぁ、さしものおれも屋根まで借りちゃ遠慮のひとつもするぜ。まあ、人よりは食うかもしれんが」
「ほら、こう言ってますし」
「でも……」
「まあまあ旦那……」
金を払うというゼパムと固持する誠司の問答はしばらく続いた。フルニとニトラは並んで座り、ふたりで談笑しながら茶を楽しんでいる。
「まあ聞いてくれよ、旦那。おれは確かに用心棒を務めるが、それにだっておれの目的あってのことさ」
「セージさんの目的ですか?」
「おれはね、確かめたいんだよ。衛兵さん方が軽々に手を出せないっていう、テンジとやらの腕っぷしを。何分おれも腕っぷしの太さで成り上がったようなもんでね、いくつになっても、先生なんて呼ばれるようになっても、おれとあいつとどっちが強いかって、そんなことばかり気にしてるような未熟者なんだ」
誠司が顔の前で拳を握る。赤子のようにふくれた、しかし岩肌のように硬質な拳に、ゼパムは目を奪われた。
「だからね、一番の報酬は、テンジ本人やその部下達と闘わせてもらうことなのさ。で、困ってるあんたにつけ込めば飯と寝床も手に入るぞって、言っちまえばそんな助平心なんだぜ」
「でも…………」
ゼパムは口ごもり、言葉を探しているようだったが、やがて諦め、深いため息を吐いた。
「わかりました。寝床と食事で手を打ちましょう」
「ありがとよ」
「ふふ……。どっちがどっちを雇うのかわかんないね」
ころころとしたニトラの笑い声が、暖かく響いた。
◯
深夜。金竜の餌場に一組の布団が敷かれていた。同建物二階、居住スペースの客間から持ってきたものだ。ベッドも畳もなく、床に直に敷かれた布団に兄妹は申し訳なさそうにしていたが、当の誠司がまったく気にしていないのでこうして使うことにした。兄妹はせめて厨房で寝ること進めたが、プロの仕事場に素人が入るものではない、と断った。そのため、椅子やテーブルを少しずらし、壁際で寝ることにした。
聞けば電気の類いはなく、灯りはすべて油と火で賄うらしい。そのため外にも人通りはとうになく、常夜灯もない店舗は窓から入る星や月の明かりだけが照らす、暗く静謐な世界だった。
聞こえるものといえば時おり吹く風の鳴る音。虫が這い、鳴く声。
心地よい眠りにつく誠司の耳が、じゃり、と、異音を捉えた。瞬間にカッと目を見開き静かに体を起こす。上半身にはなにも身に付けていない。道着のズボンだけを履いている。
その格好のまま店を出て合鍵で確かに鍵をかけ、裸足のまま音の元へと急いだ。
金竜の餌場の裏にその男達はいた。夜の静寂の中、こそこそとした話し声はひどく目立った。黒づくめの男が五人、異形を闇に潜めて建物の壁に向かって車座になっている。
「おい」
誠司が声をかけた。男達が弾かれたように立ち上がり、誠司を見る。顔も覆面で覆われ、目とその周りの肌だけを夜風に晒していた。
五人のうちひとりが、誠司を見て大きく狼狽えた。目には怯えが浮かび、体は強張り、きょときょとと忙しなく視線を走らせる。
肌の青い男だ。誠司は直感した。「そこのビビってんの。お前、トッコだな?」びくり。青い肌の男の肩が跳ねた。直感が確信に変わる。
「なんだィ、せっかく勘弁してやったってのに、今度は夜襲でも仕掛けようって……」言葉が不自然に途切れた。くん、と鼻をひくつかせている。
夜風が誠司のもとへ、油の臭いを運んできた。臭いの元は男達の足元だ。よく見ると建物に押し付けるようにボロ布が山と置かれていた。
「てめえら、火でも点けようってんじゃねえだろうな……」
低く唸るような声が出た。目が細くすがめられ、はっきりとした怒りが五人に向けられている。
「やれっ」
トッコが小さな声で命令すると、ふたりがボロ布の山にしゃがみこみ、トッコを先頭に三人が誠司に向かってきた。事前に決められていた動きだ。しゃがみこんだふたりが手元でカッ、カッ、と音を鳴らし、その度一瞬光が散る。火打ち石のようなものを使っているらしい。
放火だ。
あの火花がボロ布に移れば、その火はたちまち壁を舐めて大火となるだろう。そうなれば人通りもなく住民も寝静まった今、誠司ひとりで消火が間に合うとも思えない。大声を出せばゼパムたち三人は起きるかもしれないが、建物の被害がどの程度になるかわからない。無論、全焼もありうる。
だが、そうはならなかった。
「セィヤッ!」
トッコの命令で三人が向かってくるのを見るや否や大きく跳び上がり、壁を蹴って更なる跳躍。いや、壁ではない。窓枠を足場にしたのだ。誠司は楽々と三人を跳び越し、しゃがみこむふたりの元へと到達した。着地のついでとばかりにひとりの後頭部を踵で踏みつける。ぐちゃ、と湿った音を立てて男は鼻から地面に突っ込んだ。素早く男の頭から降りると即座に脇腹へとボールを蹴りあげるような蹴りを打つ。ドム、と重い音がして男の体が跳ねた。うつ伏せから仰向けになり顔が晒された。誠司の体重を掛けられた顔面は鼻が潰れ、前歯も何本か折れている。
もうひとりの男が立ち上がる、その時には誠司は動いていた。無防備に正面を向ける男に対し、顎とみぞおちを正拳で穿ち、恥骨を掌底で割った。
先の男には角が、後の男にはトゲが備わっていたが、関係のないことだ。
後頭部への踵蹴り。肝臓への蹴り。正中線への連撃。いずれも、仕留めるための攻撃であった。
「よォ……」
誠司の声が低く、低く響く。三人、特にトッコは大きくたじろいだ。なんだ。そう言葉を返そうとしたときには、もう誠司は動いていた。話をするふうに見せかけ逃走の意思を削ぐ、誠司の策であった。
誠司は先頭の、二メートルを越す長身の男に肉薄すると、ほとんど予備動作も見せずに右膝を蹴り抜いた。ボキッ、ブチブチと音を立てて膝が完全に逆に曲がる。そうして落ちてきた顎を下から右の掌底で突き上げた。
膝の痛みに悲鳴を上げようとしていた男は激しく噛み合わされる歯に舌を巻き込み、先端から三センチほどの長さを切断してしまった。
「シャァッ!!」
ふたり目は長身の男が崩れるのとほぼ同時に動いていた。掌底を打ち終わった誠司目掛けて左掌を振り下ろす。五指に備わる鋭い爪で誠司を切り裂こうというのだ。だがほとんど真横からの攻撃にも誠司は動じなかった。半歩前、獣爪の男の左側面に出ながら突き上げた右手で男の左手を叩き落とし、そのまま裏拳で鼻面を強打した。受ける際に右手の尺骨突起で手首を痛打する念の入れようだが、だめ押しの左上段回し蹴りが決め手となり、獣爪の男は地面に倒れた。吹き出す鼻血が弧を描き、倒れた男に降りかかる。見ると顎の形が歪んでいる。回し蹴りで砕かれたのだ。
「う……あぁ……!」
トッコは足元に散った仲間たちを見てもなにも出来ずにいた。誠司の放つ怒気に気圧されていた。これまでの、ある種鮮やかな強さとは違う側面を見た。猛々しく容赦のない強さ。誰も彼もが大怪我を負い、流血で水溜まりが出来ている。
グシャ、となにかが潰れる音がした。誠司がトッコの足の甲を踵で踏み潰した音だ。トッコが右足に感じた衝撃は次の瞬間には激痛へと姿を変え、光にも近い速度で足から背骨を通り、絶叫として口から飛び出そうとした。
「おっと」
そうならなかったのは誠司が首を鷲掴みにしたからだ。太い指が深々と喉に食い込み、分厚い掌の肉越しに絶叫を押し留めている。
「お前もつくづく運がいいな。ひとり残しとこうと思うと、いつも後ろにいやがる」
首に指を食い込ませたままぐいと引き寄せ、ガツンと額同士で頭突きをした。ぬるりとした暖かな感触が額から顎に伝う。トッコが額から出血していた。誠司はそのまま、鼻もつきそうな距離でトッコを睨み付けた。
「お前らが何考えて生きてんのかなんて知らねえし、堅気だ渡世だ言うつもりはねェけどよ……」
ギリリ、と指の力が強くなった。なんとか外そうともがくトッコの手が誠司の腕や顔を叩くが、誠司は意にも介さない。
「おれァ今日からこの店の用心棒だ。正面から来る分には、まあ、できるだけ優しくあしらってやるよ。昼間みたいにな。そうでなきゃ、これからの人生をこれまで通り送れなくなると思え」
トッコの顔色が青黒く変色してきた。今ごろトッコの視界はチカチカと明滅し、頭がぼうっとしているだろう。誠司が指の力を緩めると地面に尻餅をつき、首に手を当てて咳き込みながら激しく呼吸を繰り返した。
「こいつらは通りに捨てとくから好きにしな。さっきの言葉、忘れずにお前んとこの大将に伝えろよ」
「ひっ……!?」
トッコには、もう誠司が人間に見えていなかった。巨大で獰猛で無慈悲な怪物。そう見えた。
怯えたトッコは後ろも振り返らずに駆け出した。砕けた右足を引きずり、少しでも速く、少しでも遠くに行こうと走る。涙とよだれを垂らし、整わない呼吸をいとましく思いながら、精一杯急ぐ。そうしながら頭の中で誠司の言葉を反芻していた。間違えてはならない。忘れてはならない。
伝言係の役目を終えたのちには、どこか遠くに行こうと決意した。
◯
翌朝。誠司は起きてきた三人に夜間の出来事を話して聞かせ、朝食を摂った後店の裏手で型稽古に取り組んでいた。鉄騎や三戦を中心にじっくりと繰り返す。鬼気迫るその様は、見るものが見れば誠司の拳足の先に打たれる人影が揺らめくだろう。
やがて型を終えると基本技の反復に移る。上・中・下段への突き、前蹴り、横蹴り、受け、払いに回し受け。それぞれを一◯◯本ずつも繰り返しただろうか。全身にうっすら汗をかいているが、まだまだ余力がある。余力があるところで、誠司は稽古を終わりにした。若い頃などは足腰が立たなくなるまで型に走り込みに打ち込みに筋力増強にと励んだが、今の誠司は食客の身分である。いつ来るとも知れない外敵と闘うことに備えなければならなかった。
滲む汗を井戸水で流し、汗の染みた空手衣から清潔な服に着替えた。アゼピン家の亡き父のものだという服は、誠司には少し小さい。薄い朱色の貫頭衣を腰紐で締め、擦れた紺色のズボンを履いているのだが、丈はともかく幅が足りていない。
分厚い胸筋に胸元は大きく押し上げられ、首が太いため襟は少し切ってある。肩や二の腕も服の上から膨らみがはっきりと視認できる。太ももも同様に張りつめ、ふくらはぎまで布に余裕がない。服は他にも種類があったが、誠司が入る服となると単純な作りのものしかなかった。太く、厚く、大きく、そして不便な体であった。
服装に乱れがないことを確認すると、前もってもらっていたバターを指に掬い、それで髪を撫で付けた。整髪にバターを使うと聞いた誠司は初め驚いたものだが、それで困るものでもない。オールバックに固めた髪を朝日にさらし、店内へと入っていった。
稽古をやりはじめた頃は開店準備の段階だったが、すでに何人かの客が入っていた。店の構えと比べて、あまりにも寂しい客入りだった。
いずれも男の客ばかりで、皆黙々と料理を口に運んでいる。誠司はチラと視線をやるが、料理を運ぶニトラは微笑むだけだった。今店内に問題はないらしい。
フルニは衛兵の仕事に出ていった。今店にいるのは兄妹と誠司の三人だけだ。なにかあったら大きな声を出すよう言ってあったが、まだ出番はないようだ。
出入り口に立って中を見ている誠司の様子を訝しんだのか、客の何人かの目が鋭くなった。誠司はそこに敵意を嗅ぎ取った。そちらに顔を向けると、男がひとり立ち上がった。誠司より頭ひとつ半小さいが、がっしりとよく鍛えられた男だ。年季の入った粗雑な服を着た、猫とヒトを混ぜ合わせたような男だ。顔も手足も、ヒトの骨格でありながら薄く毛で覆われている。こういった、ヒトと獣、両方の特徴を持つ人々のことを獣人というのだと、昨夜教わったばかりだった。
「おいオッサン」
猫の男は警戒心も顕に誠司を睨み付けた。ニトラが食堂から厨房に消えるのを待ってのことだった。
「アンタ、客じゃなさそうだな」
「いかにも。私は客じゃないね」
「じゃあなんでこの店に来た? 飯食う以外に用はないだろ」
「なんでと言われてもね。それをなんで君に言わねばならんのかね。追い出すにも留めるにも、店の主からならともかく、いち客に過ぎない君に言われる筋合いはないだろう」
誠司の言葉は外見こそ繕ってあったが、微妙に馬鹿にした風であった。それを敏感に察した猫の男は苛立たしげに舌を打ち、ずんずんと大股で歩き寄ってくる。誠司は動かずに待った。待つ間も、猫の男の挙動を注視する。手の位置。足の運び。目線の動き。そのいずれもが、猫の男に武術経験がないことを誠司に知らせた。
「よぉ……」
にわかに店内の緊張感が高まる。他の客も手を止め、ふたりの動向をうかがっているようだった。その目はどれも誠司に敵対的である。
「後ろがデカけりゃ自分も強いと思ってねえか? ひとりきりの自分はただのデブだって自覚を持っておけよ」
猫の男の手が誠司の胸元を掴んだ。襟を引き寄せようとしたが、誠司の体幹を崩せず、逆に猫の男がつんのめる形となった。たたらを踏んで誠司に抱きつきそうになったところを、誠司の大きな手が支えた。
「ふらついてるな。私の体がデカくなかったら一緒に転ぶところだ」
ばつの悪さもあったのだろう。誠司の言葉にカッとなった猫の男は「てめぇ」と言いながら襟を引く手に力を込めた。今度は体勢を崩さないようにがっしりと足に力を入れ、踏ん張っている。
誠司は、今度は逆らわずに身を屈めながら半歩前に出た。猫の男のしたいようにしてやったのだ。すると猫の男はまたも体勢を崩した。誠司が抵抗するものと思って力を込めたので、抵抗されないと、まるで支えを失ったように倒れてしまった。
尻餅をついた猫の男を傲然と見下ろす誠司。その顔には柔らかな微笑みがたたえられている。
「蹴ろうか、踏もうか、打とうか、叩こうか……」
誠司の声が静まり返った店内に響く。どうとでもできるぞ、と、伝えているのだ。
「君はどれがお好みかね?」
余裕たっぷりの表情だが、猫の男にかかりきりになってもいない。他の男が身じろぎをすると、すぐにそちらに目が動く。それでいて、猫の男を視界から外さない。
手を出すこともなく、動きとしては半歩前に出ただけで、誠司は場を掌握してしまった。
「あれ、皆さんどうかしたんですか?」
不意に少女の声が耳朶を打つ。ニトラだ。手に料理の乗った盆を持って戻ってきた。
「いや、なんでもないよ」
誠司が答えて一歩下がる。猫の男は誠司とニトラを交互に見ながら立ち上がった。
「ニトラちゃん、こいつと知り合いかい?」
「その方はセージさんです。昨日からウチの用心棒をしてくらています。セージさん、こちらの皆さんはうちの常連さんです。こんなことになっても通ってくださって、ありがたいことです」
「気にすんなよ。それより、用心棒? このデブのオッサンが?」
「昨日もテンジ一家の人を追い払ってくれたんですよ。二回も」
客たちの視線が誠司に刺さる。敵意あるそれから猜疑心に彩られた値踏みするものに変わっていた。誠司はひとまずこの男たちは敵ではないと警戒の度合いを下げ、今朝決めたばかりの定位置についた。
厨房の入り口横の壁際が、開店中の誠司の主な居所である。クッションの効いた椅子に腰を下ろし、一息吐いた。店全体を見回すことができ、入ってきた人物をすぐに確認でき、いざ緊急時には兄妹を厨房に逃がし不退転の構えを取れる位置である。
武器は頼まなかった。多少の心得はあるものの、やはり素手のほうが具合がいい。どうしても必要となったら、椅子でもテーブルでも帯でも服でも、使うつもりだ。
常連たちとの話が終わり、ニトラが仕事に、常連たちは食事に、それぞれ戻った。話を漏れ聞くに、テンジ一家の嫌がらせにも負けず店に通う気骨のある男たちらしい。
ぼんやりと店の扉を眺める。波乱など本来起きない方が良いが、なにもなければ暇である。適度に体を動かし、咄嗟の時に動けるようにしておく必要があるため、眠気に苦しめられることこそないが、その軽い運動に熱中するわけにもいかない。
誠司が若い頃に闘ってきた用心棒などは、店なり事務所なりの奥の部屋にこもり、出前の飯を食らったり、下っ端に買ってこさせた漫画や小説なんかを読んで過ごしていた。そうして、異変があれば下っ端が知らせに行くのだ。まずはその組織のものが相手をする。名前や用件を聞くなどして時間稼ぎをさせる。その間に軽くアップをし、相手が穏便に済ませるつもりがないとわかると、用心棒の出番だ。
場合によっては、下っ端が何人かやられてから出張ることになる。いきなり人頼みでは面子が立たないと、そう考える輩もいたからだ。だが、ここ金竜の餌場では参考にはできない。なにせ下っ端がいない。いきなり誠司が出るしかない
体はいつでも動かせるよう、ほどよい状態を維持する。食事も少量を複数回に分けて食べる。空腹にも満腹にもならないようにする。睡眠も、夜中熟睡しないよう日中に少し寝た方がよい。
誠司ももう若くない。筋力も持久力も、同い年の常人よりよほど立派なものだが、若い頃より数段落ちる。こういったやり方はこたえるだろう。
しかし、誠司は確かに高揚していた。緊張感を喜んでいた。それなりの地位に就いて以降、ついぞ感じることのなかった空気。鉄火場の緊張感。誠司は、その体を形作る細胞の一個一個は、懐かしい雰囲気を楽しんでいた。