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拳闘士と空手家

書いていて非常に楽しかったです。こういうのをもっと書きたい。

 パンシーカに通され、誠司は闘技場の中央、円形の砂場に立っていた。

 砂場というと語弊があるだろうか。幼児が遊ぶようなそれではなく、硬く踏み固められた戦場(いくさば)である。闘技場の内部はすり鉢状になっていて、底部が直径一○mほどの砂地になっているのだ。砂地で闘う拳闘士を、斜めの法面部分に用意された客席で眺める。そういう趣向の建物なのだ。

 いつの世も闘いの様子は見世物になる。地球であっても洋の東西を問わないが、世界を隔てても変わらないらしかった。

 誠司は軽く砂を踏みしめた。足が取られるほどではない。走れるし、踏ん張れる。投げや転倒が事故……リング禍に至らないための予防だろうか。


 誠司の前にはパンシーカがいる。毛皮の素手素足には鞣した革のセスタスが巻かれ、すでに準備は万端の様子。いつでもはじめられる。誠司はゆっくりと構えを取った。天地上下の構えである。そのまま、誠司はジリジリと間合いを詰める。パンシーカは動かない。両腕をだらりと下げたまま佇んでいる。

 何事もないままに距離は縮まり、一刀一足の間合いにおさまった。変わらず、パンシーカはじっと誠司を見据えている。

 挑戦者は誠司だ。様子を見ているのか後手を得意としているのか、誠司に先手を譲るつもりであるらしい。誠司は知らず口元が綻ぶ。挑戦者。未知の強者。なんと甘美な響きだろう。いつぶりの甘露だろう。

 陶酔は次第に火炎にも似た焦燥に代わり、腰のあたりから突き上げる衝動となった。


「ッ」


 それに圧されるままに、左の刻み突きを繰り出した。掲げられた左掌がまっすぐパンシーカに向かう。左手は腰の捻りで打ち出され、腕と手の内のスナップで加速。道中で拳となりパンシーカの鼻を正面から打つ軌道である。

 起こりもなく放たれた左拳は容易に避けられるものではない。手でガードするか、肩や額で受けるか、避けるなら左右か後ろか。

 誠司の意識はすでに追撃の右拳に向いていた。パンシーカの動きがどうあれ、一発目は様子見。二発目で避けた先に打つ算段であった。


 そしてその目論みは左拳と共に空を切る。

 誠司の視界からパンシーカの姿はかき消え、左拳は予定どおり空振った。拳を引き戻しながら誠司の脳裏に一瞬の空白がうまれた。完全に見失いながら、しかし反射的に右掌を顎の前に配したが、左手の引きが間に合わない。

 後頭部に強烈な衝撃。誠司の意識は頭から外に弾き出された。

 

 ◯


 ブラックアウトは一瞬だけだった。

 鼻をはじめとした顔への衝撃と、砂の味。それを感じた誠司はすぐに手をついて跳ね起きた。若干の混乱、酩酊に似たぐらつき。そして後頭部の痛み。

 パンシーカは目の前で驚いたように目を見開いて立っていた。


「すごいな、もう立てるのか」


 誠司が立ち上がったことへの純粋な驚きからくる呟きであった。


「いやァ、まいったね……」


 ぼやく。素直な心中であった。本当に参った。何をされたのか分からなかった。完璧なカウンター、そしてダウンだった。


「完敗じゃないか」

「そんなことありませんよ」


 誠司の敗北を否定したのは、他ならぬ勝者(パンシーカ)であった。


「顎、ガードしてましたよね。私が顎を打つか頭を打つかは、完全に指運でした。私がたまたま頭を打てる位置にいただけで、そうでなかったら勝負は続行でしょう」

「ううむ、その理屈もわからんではないが、おれにとっては起きたことがすべて。あんたがおれを殺すつもりであったなら、一瞬でも気を失ってしまえば、それは、死んだも同然じゃないかね」

「ははあ、あなたはそういう闘いをしてきたんですね。ですが私にとって闘いとは闘技場での試合です。今のような一瞬の昏倒、観客は決着とは認めてくれません。それに起きたことがすべてと言うのなら、今生きていてもう一戦できるコンディションにある。その事実こそがすべてでしょう」


 パンシーカの言葉に誠司はうむと唸った。自分の敗北感と彼の言葉を頭の中で秤にかける。


「なるほどまったく、その通りだ」

「では続き、もう一戦ですね」

「ああ」


 にたりと笑い構えを取ろうとする誠司を制するように、パンシーカが手を差し出した。


「一戦につき一粒の約束ですよね?」


 誠司はきょとんと目を(しばたた)せ、苦笑しながら紫凍石を(ほう)った。


「確かに」


 受け取ったものを満足そうにしまい、パンシーカは改めて誠司と向き合った。


「では、二戦目といきましょう」


 すかさず、誠司が動いた。

 誠司の初手は左刻み突き。構えから腰の切れと腕、手の内のスナップのみで放たれる突きは誠司にできる最速の攻め手。

 であると同時に、パンシーカへの挑発でもあった。

 成すすべもなく気を失った一戦目と、同じ轍は踏まない。次こそは対応して見せる。そういう気概を拳に込めた。


 パンシーカはそれを受けたかどうか、同じ対処をした。

 再び誠司の視界から消える伊達男。しかし今度は、その動きに誠司の目が追い付いた。


 下だ。


 パンシーカは誠司の突きを体の落下で躱し、ブリッジの姿勢を取ってその長い右足で蹴りかかってきていた。

 今度の誠司はしっかり反応した。同じく体を落とし蹴り足の打点をずらすと同時に、左の戻し様に肘打ちを放つ。

 それを受け、パンシーカは両手と、なんと尻尾で姿勢を支えながら、残った左足で地面を蹴った。両足を回転させ、ウインドミルのような動きで誠司を弾き飛ばすと、素早く体を起こしていた。


 驚くべき体幹(インナーマッスル)。驚くべきバランス感覚。驚くべき反応速度。誠司は舌を巻いた。

 結果誠司の攻撃は二度とも空振り、不十分とはいえパンシーカの攻撃は二度とも当たっている。

 やはり強敵。誠司のハラワタがワクワクと煮え、口角が上がる。


「いいねぇ」

「どうも」


 言葉の応酬は短く、誠司が詰めた。天地上下の構えを取り、後ろ足の力強い踏み込みで姿勢を変えぬまま前進。さらに前足での上段回し蹴り(ハイキック)に繋げる。上半身を動かさぬままに放たれる、素人には見えない蹴りは、後ろに鋭く跳んだパンシーカの鼻先を掠めるに終わった。


「ッつつ……」


 パンシーカが親指で鼻を弾くと、鮮血がピッと砂地に落ちた。


「あなたこそやりますね。顔を蹴られたのなったのなんか、初めてですよ」

「当たらなきゃあ意味ねえよ」

「当たったじゃないですか」

「鼻先にちょこっとな」

「ヒットはヒットですよ。これでも私、美獣だなんだと色男で通ってますからね、鼻血を出すのも珍しいことなんですが……」

「その割に、時間稼ぎが堂に入ってるじゃねえか」

「バレましたか」


 ニカッと笑う豹の顔は、もう鼻血が止まっている。闘いの昂りがそうしているのだ。

 砂を高く巻き上げながら、パンシーカが(はし)った。誠司の眼前に、まるでコマ落ちしたかのように突然セスタスに包まれた拳が出現した。咄嗟に顎を下げ、辛うじて額で受けることに成功したが、革で守られた拳にはさしたる痛みもないようだった。


「はぁっ!」


 そして黒豹の連打が始まった。

 右手が、左手が、フックでアッパーでストレートで、篠突く雨のように拳が降る。顔を、みぞおちを、脇腹を、鋭い突きが襲いくる。

 回避など到底間に合わない連撃。誠司はそのいくつかを弾いたものの、半分近くは急所からずらすことしか出来なかった。


「……っふう」


 一息で一○発ほども放っただろうか。パンシーカは自分から距離を取った。拳から煙でも上がりそうな速度の攻撃。受けた誠司はパンシーカが離れたのを感じとると「シッ」とすかさず左の前蹴りを放った。鋭く固められた爪先がパンシーカのみぞおちを狙う。

 パンシーカは体を半身にして蹴りを透かすが、前蹴りはフェイントだった。


「ちぇぁッッ!」


 蹴った足を踏み込みとした正拳追い突き。完璧なタイミングでの連携。パンシーカはまだ体勢を変えた重心のまま、満足な姿勢にない。誠司の経験が必中を確信させた。

 しかし、拳はただ空を突いた。パンシーカは拳を見切り、スウェーバックで躱していた。

 

 続けて左の下段蹴り。足をあげて避けられる。

 そのまま左の蹴込みに変化。さらに反転して下がられる。

 さらに左で追い突き。拳を潜って詰められる。

 右正拳逆突き。鋭いバックステップで退避。

 ほぼ同時に前ステップで追い掛け、こめかみ目掛けて左の猿臂(えんぴ)でダッキングを誘う。が、パンシーカの歩幅を見誤った。誠司のステップの距離が想定より遥かに遠い。肘は虚しく虚空を切るしかなかった。


 一瞬の静寂。


 こうも攻撃が当たらないとは。誠司は内心で舌を巻いた。必中の予感が外れる。放つ連撃がことごとく外れる。外される。若い頃、アメリカでボクシングチャンピオンと試合をした。階級はいくつだったか、誠司よりずっと軽い男だったが、どう突こうとも当たらなかった。その経験を思い出す。

 あの時は蹴って倒し、大顰蹙を浴びたものだが、目の前の黒豹は蹴り混じりすら避ける。見事な体捌きだ。


 パンシーカの体捌き。その見事さの理由は体にある。

 猫科の特徴を備えたパンシーカは、例えば腰椎の数がヒトより多い。これによりいわゆるしなやかさが比べ物にならない。動体視力はヒトの四倍とも言われ、尻尾を駆使した重心制御はヒトには絶対に真似出来ず、獲物を咥えたまま木に登って見せる爪のグリップまで持っている。

 それでいてヒトのように二足歩行をし、自由な肩を持ち、視力に不自由することもない。ヒト科と猫科の特徴をいいとこ取りしているのだ。まさしく肉体のスペックが違う。天からの授かり物。ギフテッド。


 一方、浅い呼吸を繰り返すパンシーカもまた、誠司の肉体に驚愕していた。

 棘無しである。疑いようもない。見た目もそうで、あちこち叩いた感触から、自分のような毛皮はもちろん硬い鱗も持ってはいない。だというのに、連打を前に沈まない。鈍らない。どころか、直後に深く深く追い掛けてすらくる。

 パンシーカの拳闘士人生において初めての経験だった。


「はぁぁぁっ!!」


 パンシーカが駆けた。充分に取っていた距離を一息に詰め、拳の連射を叩き込む。頭に、顔に、脇に、腹に、全身に散らした打撃は、それでも誠司のガードを下げることも貫くこともできなかった。

 大抵の敵は初めの三~四発は防いでも、連打に追い付かず顎や鼻を打たれるものだ。そうでない敵でも連打を受けきったのちは動きが鈍るものだ。それが余力十分で受けきられ、あまつさえ反撃されるなど。


「ふッ」


 ボッ、と空気が唸った。パンシーカの連打の隙間に誠司の正拳が差し込まれたのだ。パンシーカには見えていたが、避けるのは間に合わない。咄嗟に腕で受けながら蹴りで誠司を突き放し、距離を稼いだ。


「はぁっ、はぁっ、はぁっ」

 

 重い。

 

 直撃は免れたが尋常でない衝撃が腕に残っている。棘無しにしては大柄とはいえ、熊や虎といった大型の獣人には到底及ばない体躯にして、どういう理屈か彼らに匹敵するような膂力。まともに食らえば一撃でも危ない。

 危機感がパンシーカの脳を冷やした。


 パンシーカの驚く誠司の特徴の理由は、誠司の経歴にあった。

 まず力の出し方が違う。肉体の性能に任せて振り回すのでは武術ではない。足から生じた力を各関節を経て拳へ伝える。それも体重を乗せて。その技術の練磨はそのまま人類の歴史と言い換えていいだろう。地球において、人間は概ね同じ形をしている。鋭利な爪などなく、発達した犬歯などなく、攻撃手段は肘、膝から先が主だ。故に世界中の国々のどの武術だろうと身に付けることが出来る。

 この世界ではそうではない。爪や牙があればそれを活かした闘い方をするだろう。尻尾のあるなしでは体の捌き方が違うだろう。構造が違えば身に付けることはできない。必然的に、探求できる者が限られる。つまり武術の体系化がより複雑で、困難なのだ。

 

 打たれ強さにも理由がある。

 平成の世をまるまる闘いに明け暮れたような男である。そこだけ聞くとまるで野獣のようかもしれないが、その闘いの大半は、もちろんルールのある試合であった。

 それはポイント制であったり、数分間のラウンド制であったりと様々だったが、いずれにせよどちらかが潰れるまでやるような原始的なものではない。スポーツとして観客が楽しめる程度に凄惨でなく、スポーツ選手という職業として成り立つ程度に安全に闘えるルールが用いられている。

 つまり、古代ローマやここロゼレムで行われるような、時に殺し合いとなる拳闘、剣闘と比べて、遥かに安全に、数がこなせるということだ。

 百人組手の完遂だって一度や二度ではない。

 

 そこに質の違いがあるとはいえ、誠司の戦績(キャリア)はパンシーカの数倍はあるだろう。それはとりもなおさず、直感という経験則を積むには絶好の舞台であった。より原始的な闘いを望む誠司にとり、それは皮肉なことに違いはないが。

 加えて空手には、自身の体を同門に打たせる鍛練がある。三戦立ちで力を込め、全身を丹念に丹念に叩かせる。自分がサンドバッグになる。全身余すところなく痣が浮き、血のションベンが出るような鍛練だ。

 誠司の打たれ強さとは、すなわち誠司であるが故に得たものだった。


 あえて加えるなら、パンシーカの打撃の未成熟さも、誠司がまだ立っている理由に数えられるだろう。


「……」


 知らず、パンシーカは静かに爪を剥き出した。

 驕っていた。適当にあしらって銭を稼ごうなどと考えていた。

 侮っていた。爪を使って下手に殺してしまってはいけないと、使うまでもないだろうと。

 認識を改めた。打たれ強く、力強い強敵であると。

 荒い息を繰り返しながら、パンシーカは開手を体の前に配した。

 引っ掻き、失血させ、体力を奪う。パンシーカが頑健な敵に対して取る本来のスタイル。

 闘いが始まって数分。ようやくパンシーカが構えた。


 対する誠司もまた構えていた。天地上下の構えではない。やや腰を落とし、後ろ重心。前に出した右足は軽く、やや踵を挙げている。

 猫足立ち、と呼ばれる構えだ。


 途端、パンシーカは誠司から感じられる圧が霧散するのを感じた。さっきまで確かにあった、熱くのし掛かるような圧力は嘘のように消え失せ、気温が二度ほど下がったようにすら感じる。目をギラつかせていた飢餓感がなくなり、瞳孔は黒い水面のように穏やかだ。口元には微笑みすらたたえている。

 体躯をふた回りも大きく感じさせた威圧感はさらりと溶け、今パンシーカの前にいるのは、ただ等身大の松岡誠司。


 拍子抜け、したと言っていいだろう。気落ちし、諦めたようにしか見えない。気合いを入れ直したのがバカみたいだ。

 やめだ。差し出すように緩く前に出た足。あの足を掴み、爪で裂いておしまいにしよう。

 気の抜けたような誠司に対し、パンシーカもまた、ふっとため息を吐いて、ゆるりと前に出た。


──ビュボッ


 避けられたのはほとんど奇跡と言っていいだろう。パンシーカが前に出る、その微かな予備動作に呼応して、誠司の前足が蹴りだされていた。パンシーカはそれを、辛うじてスウェーで避けた。拇指球が鼻の頭に触れている。本当にギリギリだった。

 もし、もしパンシーカが気落ちせず、勢い込んで足を捕りにいっていたなら、この蹴りは顔の中心に突き刺さっていただろう。


「シャッ!」


 反りながら蹴り足の脹ら脛を搔こうと爪を繰り出すが、既に足は戻っていた。足の戻りが速い。体重を乗せていないからだ。体重を乗せず、スナップで放たれる蹴りは、体勢を崩しづらいうえに、速い。

 戻った足が再び唸る。上体が浮き死に体となった足に迫る。焼き直しのようだが違う。パンシーカは先程より気勢を削がれていて、体勢はずっと悪い。

 足をあげて蹴りを避けるが、姿勢が保持できない。パンシーカは落下する体を捻り、手で着地に備えた。


 三度迫る蹴り。踵がパンシーカの胴を踏みしめようと迫る。パンシーカは着地を諦め、さらに捻って無様に地に落ちた。すぐさま転がり誠司から離れる。が、誠司も追う。ひとつ跳びに追いすがり、踏みつけの連打。


「ぐ……、この!」


 二度三度と迫る足に、パンシーカは苦し紛れに尻尾を振るった。長いとはいえ太さも重さもない尻尾では決してダメージにならないが、誠司は追撃を辞めた。金的への痛打を恐れてのことだった。


「はぁっ、はぁっ……」


 黒豹の荒い呼吸音がふたりの間に満ちる。スタミナの差は歴然だった。当然だ。全身に猫科の特徴を色濃く備えるパンシーカは、全身が瞬発力に優れる速筋繊維に寄っていて、遅筋繊維が少ない。衣類の下の、毛皮に覆われた全身は、それが故に放熱を苦手とし、体温が下がりにくい。

 比して誠司(ヒト)は。速筋と遅筋の割合は半々とも言われ、猫科ほど速く走れない代わりに高い持久力を持っている。毛皮を持たない上に発汗による高度な体温調節機能を備えている。そのスタミナは42.195㎞もの超長距離の走破をも可能とする。


 そんな理屈を解さずとも、パンシーカは悟っていた。己の呼吸の荒らさ。誠司の呼吸のなだらかさから。

 長引けば不利。

 四度、誠司の蹴りが迫る。落ち着いて見えている。確かに速いが、目が慣れた。避ける。プランニング。次なる蹴りを誘い、すかして懐に潜り込む。タイミングは、


 今


「シャアァァァ!!」


 わざと大きな声を出して勢いを演出する。乗らないならこのまま攻める。乗ってくるなら、右足が跳ねる。来た。おあつらえ向きの蹴り。顔を狙っている。見えている。外側に避ける。勝った。手で弾かれても構わない。片足で立っている相手など、簡単に組伏せられる。勝った。

 瞬間、黒い帯が翻ったのを見た。誠司の上体が水に()いたように流れ、パンシーカの後頭部に強烈な衝撃が加わった。意識は、彼の毛皮より深い闇に、沈んだ。


 ○


 誠司との試合から数時間後、パンシーカはひとりロゼレムの街並みを歩いていた。

 人混みを縫いながら後頭部を擦る。

 蹴りだと、誠司は言っていた。


 パンシーカに前蹴りを避けさせ、掛け蹴りに変化して後ろから踵で蹴って見せたのだと言う。

 素振りで実演させたが、素晴らしい技術だった。パンシーカが持っていないものだった。


 ジャリ。手の中で宝石が鳴った。ふたつの紫凍石がこすれていた。拳闘士としての実績と誠司の技術。それらになにか言葉に出来ないものを思いながら、パンシーカは陽の照らす足元を見て歩く。

 再戦を望まないでもなかったが、誠司に固辞された。職業として闘うものが頭部へのダメージを軽視してはならない、などと説教をされてしまった。自分の時は意にも解さなかったくせにだ。


「…………」


 シープ商会の戸をくぐる。中にはなにかの商談だろうか、身なりのいい連中があちこちでにこやかに話し込んでいた。

 腹の中の読めない商人どもの間を抜け、パンシーカはまっすぐに商会の窓口に向かった。そこには羊の獣人の男がいた。


「やあ」

「おや、パンシーカさんじゃないですか。聞きましたよ、しばらく試合がないんだとか。いやあ、とても残念です」

「はは、耳が早いね」

「下っ端ですが、商人の端くれですからね。いくらご入り用で?」

「いやいや、借金の相談じゃないよ。こいつを」ことり、と木机に紫凍石を置いた。「買い取ってほしいんだが、いくらになるかな」

「おや、紫凍石」


 ピリ、と、男の表情が固くなった。


「少々お待ちくださいね」

「あ、ああ」


 すぐに笑顔になった男は、パンシーカを置いて置くにひっこんでしまった。なんだったのかと思いながら待っていると、すぐに戻ってきた。横に、大きな赤い鼻の女を連れている。


「初めましてパンシーカさん。私はテグ。この店を任されています」


 テグは落ち着いた声音で手を出した。パンシーカも応じて握手を交わす。

 

「おお、支配人ですか。初めまして。パンシーカです」

「お噂はかねがね。さて、今日は紫凍石の買い取りだとか」

「ええ。いつでも買ってくれると聞きまして」


 テグの笑顔が笑顔のまま、冷気を放ったように感じた。

 

「そのお話とこの石、どちらから?」


 ○


 宵の口。パンシーカは重い財布を持ってシープ商会から吐き出された。長い間拘束されてすっかり縮こまった背中を解す。

 宝石を売るなど初めての経験だったが、こんなにも色々と聞かれるものだったのか。話の流れから、どうにも誠司から盗んだものではないかと疑われているのがわかったが、買い取ってもらえたからには、疑いは解消されたのだろう。

 星が散る空を疲れた顔で眺め、ハッとした。


「そうだ、呆けている場合じゃないぞ」


 パンシーカは早足に歩き出した。その足に迷いはない。朝と比べ、望外な金を持っている。(あぶく)のように浮き立つ全能感に足取りも軽い。各所への借金を返すよりなにより、向かわねばならない場所があった。

 息も荒くたどり着いたそこは、男達の怒号で剣呑な熱気に包まれていた。男達はみな、なにかを見ながら熱心に声を発していた。


「よおパン、遅かったな。間に合わないかと思ったぜ」


 人混みの中から、拳闘士もかくやという立派な体躯の男がやってきた。

 

「私もですよ。ギリギリですね?」

「ああ。ちょうど今からだ。金はあるんだろうな?」

「ええ、たんまりと」

「へえ、珍しく余裕だな。今日もたんまり落としていってくれよな」


 男の言葉に肩を竦めながら、パンシーカは熱気の中を進んでいく。まずは闘鶏、次はサイコロだ。

 ロゼレム屈指の拳闘士は三日の間、種銭を気にせず博打に熱狂した。

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