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序章


 週末の昼日中。休日を満喫するべく遊びに出る若者やサービス業に従事する勤め人たちが、都会の喧騒を作り出している。絶え間なく人が行き来し、電話や談笑で人の声が飛び交っていた。

 歩道を歩く人々が横目にする書店やファミレス、喫茶店といった建物の群れのなか、一際大きく構えるモノがあった。

 

「イィチッ!」

「「「セイッ!!」」」

「ニィッ!」

「「「セイッ!!」」」

「サンッ!」

「「「セイッ!!」」」


 その建物に近付くと野太く雄々しい声が聞こえてくるだろう。建物の一階部分、道路に面した壁は一面がガラス張りで、角度によっては穏やかな陽の光を反射している。中には広い板張りの上で数を数えるひとりと、それに続いて唱和する数十人が見えた。

 喉を枯らし汗を散らす全員が同じ白いジャケットとズボンを履いているが、腰に巻かれた帯だけ色が統一されていない。全体の半分が茶や緑。もう半分が黒い帯を締めている。

 空手の道場であった。

 数十人は整列して同じ方向を向き声に合わせて正拳を打つ。夥しい拳と向き合うのはひとりの中年男。背にする壁面上部には神棚が据えられていた。

 男は大きな体を空手着に包み、豊かな黒髪をオールバックに撫で付けている。神棚を背に堂々立つこの男こそ、日本最大の空手の会派、拳英館の館長、松岡(まつおか)誠司(せいじ)であった。


「声が小さいッ!」


 叱咤する声は低く、強い。幾度も喉を潰されたものがもつ独特の強さがあった。誠司自身も正拳を打っているが、一打一打が見事なものだ。見蕩れる美しさがあり、見切れぬ巧さがある。

 正拳だけではない。

 手刀も。

 蹴りも。

 受けも。

 足運びも。

 無論それらのバリエーションも。

 当然型の細部に至るまで。

 誠司は門弟の誰よりもやりこんでいる。

 行住坐臥が空手。誠司の人生そのものが、空手であった。


「よぉし、ここまでッ」


 誠司が号令を発すると一気に空気が弛緩した。数時間に及ぶ稽古が終わったのだ。皆汗を拭い、水分を摂り、栄養ブロック食を食べる者もいる。むっとする汗の臭いと、個々人の肉の内側から発せられる熱気がこもっているが、誰も気にしていない。

 全員が体に新しいアザや傷を作っていた。激しい組手でつけられたものだ。

 その中にあって、誠司だけが綺麗なものだ。古傷は数あれど、新しいものはない。だというのに、門弟の誰よりも浮かない顔をしている。

 この後の予定や今日の調子など、めいめいに語り合う門弟達に、誠司は問い掛けた。


「誰か、私と組手をしたいものはおらんのかね」


 シンッと声が消える。雑談は鳴りを潜め、目を伏せ床を見つめる者までいた。誠司と目を会わせたくないと言わんばかりだ。

 歯痛のような沈黙が降りた。誰もなにも音を発することなく、ガラス面の外の喧騒も遠くなったようだ。時計の秒針だけが、道場内唯一の音源だった。

 カチ

 カチ

 カチ

 カチ

 やがて誠司は小さく鼻を鳴らした。


「いや、いい。気を付けて帰るように」

「「「押ォ忍ッ!」」」


 その返事がなぜさっき出ないのか。誠司の胸中に寒々しい風が吹いた気がした。


 ◯


 松岡誠司の人生は今が最高潮と見えた。

 空手しかなかった男が、空手だけで成り上がったのだ。

 路地裏のチンピラも同然だった。ただ負けん気だけが強かった。それが今や日本中に支部を持ち、世界にも少なくない支部を持つ巨大組織の長である。誠司の名を知らない格闘家はいない。雑誌でも何度も表紙を飾り、テレビでフィットネスの真似事をしたり、他種格闘技の解説に呼ばれもする。

 

 なにもしなくても金が入ってくる生活。

 街を歩けば少年にサインを求められる。

 いい服を着て高い車に乗りうまい飯が食える。


 そんな生活に飽いていた。


 誠司は闘うことがたまらなく好きだった。身に付けた技術を思う存分ぶつけ合う闘いが好きだった。日本各地をさ迷い、強いと噂の者がいれば決闘まがいのこともした。始めの頃は弟子入り志願者など歯牙にもかけなかったが、自分の技を教えれば強敵に育ってくれることに気が付いてからは、来るものは拒まなくなった。

 弟子の数が増え、名が売れると、闘う相手は向こうから来るようになった。

 もっと弟子が増え、団体と呼べる人数にもなると、鼻の効く者が勝手に経営顧問を名乗り、金勘定を任せろと言ってきた。そいつは誠司がより闘える環境を整えてくれると言った。自分は勝手に儲かるから、誠司は好きに闘えと。

 願ってもない話だ。

 興業として人前で闘うようになると、弟子はもっと増えていった。闘うと言うのなら誰とでも闘った。海外にも渡り、興業も、喧嘩も、どちらもやった。


 そしていつの間にか、挑戦者はいなくなった。興業の闘いには団体運営の政治が絡むようになり、館長としてのネームバリューが落ちることを嫌った経営顧問は、相手に金を渡して誠司を勝たせるようになった。

 それが知れたときは大喧嘩になったが、そのころには経営顧問には妻があり、三人の子どもがいた。子どもたちとは誠司も面識がある。よく遊びよく笑う子たちだ。クリスマスや誕生日にはプレゼントを贈った。父親に似て利発で、勉強に専念できる環境を整えてやりたいという思いに、誠司が折れた。

 

 それからは興業はやらなくなったが、当時すでに日本一の会派だったため、もう必要なかった。


 ◯

 

 誠司はひとり夜の街を歩く。

 喧嘩の相手を探すためだ。時期外れのトレンチコートを首元まできっちり留め、普段つけている整髪料を落として蓬髪(ほうはつ)にしている。門弟でも一目で誠司とは気付かないだろう。

 東京某所。深夜であってもこの街から人が消えることはない。曇天の街は星に代わりネオンとタバコが光を放ち、着飾る男女の磨いた爪や靴、貴金属にチカチカと反射した。どう歩いても肩がぶつかりそうな雑踏を、かれこれ二時間は徘徊しただろうか。あまり遅くなっては明日の稽古に差し支える。今日も釣果はゼロかと諦めて帰途につこうとした誠司の耳に、怒号が飛び込んだ。


「聞こえねぇのかオイ!?」


 待ちに待った闘争のチャンス。誠司は顔に笑みすら浮かべて声の元へ急いだ。

 それはすぐに見つかった。すでに人だかりが出来ていた。人の輪をゆっくり掻き分けながら、観察する。輪の中心には五人の男がいた。

 真新しいスーツに着られるふたりの青年と、シャツの胸元を大きく開け白いスーツを着た若者がふたり。至近距離で見つめあっている。前者はふたりとも気を付けの姿勢で青い顔をアスファルトに落とし、後者ふたりはポケットに手を突っ込み青年の顔を覗き込むながら罵声を浴びせる。

 白スーツふたりの背後には高級そうなグレーのスーツを着た三十前後の男が立ち、ひとり落ち着いた様子でタバコに火を点けた。


「兄ちゃんよぉ、(だんま)りじゃわかんねぇだろ? 支払いも嫌、事務所も嫌で、オレに泣き寝入りしろって言ってんのかオォイ!!」

「いや、そういうわけじゃ……」

「そうだろォがよォ!」


 男の怒声にいよいよ震え始めた青年たちを背に庇うように、誠司は間に割り込んだ。


「ま、ま、ま、ま……」


 取りなすように掌を向け、白スーツと向き合う。


「なんだオッサン。取り込み中だすっこんでろ」


 先ほど凄んだのとは別の白スーツが言った。


「いえね、私はこのふたりの、まあ、後見人のようなものでして」


 突然の闖入者に青年たちは顔を見合わせるが、どちらにも心当たりなどなかった。当然だ。誠司と彼らは初対面である。

 これが誠司流の、喧嘩相手の探し方だ。トラブルを見るや嘴を容れて自分に矛先が向くよう仕向け、血の気の多い者に先に手を出させてから、暴れる。それが手口であった。


「ほら君たち、こんなのは私がどうとでもしておくから、先に宿に帰っていなさい」


 首で後ろに振り返り、誠司は青年たちを促した。青年たちは戸惑っている。これが本当に知り合いであったなら、頭を下げて帰っていたかもしれないが、見ず知らずの誰かが訳知り顔で入ってきたので混乱しているようだった。鵜呑みにして帰ったところをつけられ、家を探るつもりではないか、などと悪い想像をしてしまっている。


「おいオッサン」


 白スーツのひとりが誠司の肩を掴んだ。声は静かだが、先ほどよりずっと濃い怒気が溶けていた。


「どうとでもしとくってのはアレかい、オレらなんかどうとでもできるってことかい……?」

「そう言ったつもりだがね」


 目を血走らせて白スーツが拳を振りかぶった。ゴツゴツとした大きな拳だ。人を殴ることに躊躇いなどない動きだ。しかし動きが大きすぎる。顔狙いの拳に額を合わせようとした誠司だが、白スーツの拳が振るわれることはなかった。


ーーゴスッ


 鈍い音をさせて白スーツが横に倒れた。タバコを吸っていた男が白スーツを蹴りとばしたのだ。


「あ、アニキ……?」

「やめとけ。俺らじゃ束になっても無理だ」


 男はタバコを吐き捨て革靴の底で踏み消すと、誠司と向かい合った。態度で余裕を演出しているが、緊張で目尻がぴくぴくと動いている。


「天下の拳英館館長ともあろうお方が、こんなところで喧嘩相手(おとこ)漁りですか」


 小声で発された言葉に誠司の微笑みが消えた。


「おれが分かるのかい」

「センセにはうちの若いのが何人も潰されてますからね、(カシラ)からは、相手にすんなとね、言われとるんですわ」


 そこまで言ってから男は大きく息を吸い、吸った分だけ大声を出した。


「拳英館の松岡誠司サンじゃないか! 勘弁してくださいよぉ!!」


 突然の大声にも誠司は動じなかったが、男の目的は誠司ではなく観衆だった。輪を組んで見ていた人混みが口々にさざめきだす。


「拳英館って、空手の?」「松岡ってあれだろ、そこの代表」「テレビで観たことある! 痩せるって体操アタシ毎朝やってる」「俺あそこの青帯持ってる」「姉貴が本館に通ってるよ」


 ざわざわとした背景を背負いながら悪びれもせずに「すいやせんね」と言い、三人組は人混みを掻き分けて去っていった。ああ、まただ。誠司は俯いてため息を吐いた。ヤクザ者ですら、今の誠司とは闘ってくれない。

 餓え、乾き、渇ききった体にようやく与えられたかに見えた水が、跡形もなく蒸発してしまった。掴もうと手を伸ばしてももう遅い。

 周囲の人々は『松岡誠司』を見ている。迂闊なことをしては門弟や従業員に迷惑がかかる。それがわかる程度の社会性は持っていた。いっそ持っていなければ、欲望のままに無法を為せれば楽だったかもしれない。

 後ろから青年の片方がサインを求めてきたのを面倒に思いながら、益体もないことを考えた。

 

 ◯


 誠司はひとり夜道を歩く。切れかかった街灯がちかちかと点滅し、羽虫がその周りを飛んでいた。

 足はまっすぐ自宅に向かっているが、目と耳は喧嘩の火種を探していた。

 闘いたい。そう願う。

 今の自分はただの喧嘩ひとつまともにできはしない。世界的規模の空手会派の館長という地位も、そこから得られる金も、数多の門弟を持つ事実も、いつの間にか重荷になっていた。考えてみたらこれらは誠司が望んで手にしたものではない。門弟だってとったのは強敵に育ってくれると思ったからだ。尊敬されたかったわけじゃない。はじめのうちは気骨のあるものもいたが、もう誰も挑んでこない。であれば、望んでなんかいない。

 いっそのことすべて投げ出してしまおうか。そんな、できもしないことを考えながら街灯の下に差し掛かると、不意に平衡感覚が消失し、地面が起き上がってきた。


「な、なんだ!?」


 気付かぬうちに誰かに顎を打たれでもしたのかそんなはずはない道は無人だった後ろからも誰も来ていないはず飛び道具かバカなそれなら顎など狙うまいまさか毒か誰がなにでどこからそんなことはどうでもいい転倒する受け身をーー

 

 ◯


 翌朝、朝刊の一面記事『拳英館館長松岡誠司、脳卒中か』『近隣住民が夜道に倒れる氏を発見。一命は取り留めるも植物状態に』

 テレビからは若い男性レポーターの声が聞こえる。『病院には全国から格闘家が集まり快復を祈願しています。氏の人望が篤いことが伺えます』

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