彼女の天敵
その10年後…
ラパン城の南側の庭で毎朝剣の鋭い打ち合いが聞こえてくる。
護衛兼暗殺部隊のリーダー、『ショーヴ・スーリ』と見習いのクラージュである。
『ショーヴ・スーリ』はクラージュの踏み込みを巧みに避け、すかさず剣の柄を脇腹に叩き込む。
よろめいても倒れる事なく、ひたすら前に向かってクラージュは剣を振る。
クラージュは『ショーヴ・スーリ』の右肩を狙って斬りかかるが、それを見越して『ショーヴ・スーリ』は後ろに下がり体制を整えた状態で鍔迫り合いをする。
お互いに睨み合ったのち、一気に2人とも引いて互いに急所を狙う。
実はこの剣の稽古、始めてから三時間を優に越している。
クラージュの首の頸動脈に刃を押し当てた時、『ショーヴ・スーリ』は稽古の終了を告げた。
「後は自主練でもしておきなさい。朝食の時間だ。お待ちになっているだろう。」
「分かりました、父上。」
クラージュは剣を納めると崩れた襟元を正した。
その様子を見ていた『ショーヴ・スーリ』はふと南館を仰ぎ見る。
「今日はお気分が優れていらっしゃれば良いが。」
「そうである事を祈ります。」
苦笑を浮かべながらクラージュは踵を返し、城庭を辞した。
城の南館へ移動し、中央にある螺旋階段を最上階まで上がる。
端に季節の花が飾られた長い廊下を進み、突き当たりの部屋の前で立ち止まる。
一番日当たりのいいその南側の部屋に彼女は一日中過ごしている。
静かにノックをすると向こうから鈴が鳴る音がした。
クラージュが扉を開けると彼女はその部屋に一つしかない二メートル程の高さにある出窓の縁にゆったりと腰掛けていた。
そこが彼女のお気に入りの場所だ。
少し開けた窓から入る隙間風に彼女の雪の様に白い髪が靡く。
「また腕を上げたのですね。」
「ご覧になられていたのですか?」
「…外を眺めていたら目に入っただけです。」
興味がなさそうな声で答える。
だが彼女が話しかけてくることは滅多にないので興味が湧いたのだろう。
少しは楽しんでくれたのかと勝手に解釈し、クラージュは一応礼を言った。
別に、と彼女はそっぽを向きながら、そこに置いている本を手に取り読み始めた。
クラージュはここに来た目的を達成するために、彼女に出窓から降りる様促した。
「王女様、危ないですから降りて下さい。今から皆様で朝食ですよ。」
本来はクラージュがする役目ではない。
セレスティーヌの様に王室の女性には侍女が必ず1人は付く。
しかし彼女はいつの日からか苦手になってしまったらしい。
だから支度をする時はいつもクラージュが付き添う。
と言っても彼女が動き回れるのはこの城の中だけではあるが。
「…後で食べます。」
指で本を示しながらクラージュに訴える。
彼女は気になることがあると、頑なに動こうとはしない。
それどころかあまり動くのも好きではないらしい。
以前に家族で朝食を食べた時から、もう1ヶ月も1人で朝食を取っている。
1年でライティアが家族と一同に介して食べる回数は20回にも満たない。
それはレナルドも知っていて、いつも気を揉んでいるのだ。
「しかし皆様はもう席におつきになっておられますよ。王女様だけでございます。」
何度も話しかけても、もう彼女は上の空。
本の世界観に浸っている。
無視されている状態に負けじとクラージュは彼女に呼びかける。
「王女様、王女様!…ライティア!」
突然彼女は顔を上げた。
昔から王女様という単語は聞き流すのだが、名前だけはすぐに反応する為身分の差的に失礼ではあるがどうしようもない時にそう呼んでいる。
ちなみにクラージュ以外の臣下が呼ぶと、反応しないどころか怒って二度と近くにも寄せてもらえなくなる。
名前を呼ぶ権利があるのは家族以外ではクラージュだけなのだ。
案の定ライティアは本から顔を上げ、クラージュの沸点に達しそうであることを確認するとため息をつきながら近くの柱から滑り降りてきた。
「…分かりました。」
ため息をつきつつ、近くのソファーに腰掛ける。
だが、降りてきてもまだやることがある。
今のライティアは寝起きそのままで着替えすら済んでおらず、ストレートのため誤魔化されている髪の毛もまだ手入れされていない。
取り敢えずライティアに備え付けの衣装部屋にあるクラージュが選び出したドレスの中から好きな物を着てもらった後、クラージュが髪をセットするのだ。
クラージュはライティアを椅子に座らせ白い髪を漆黒のロリータカチューシャをつけた編み下ろしに結い上げると、リボンがついた紺色のパンプスを履かせた。
全てが終わったのはクラージュが来て約一時間後。
ライティアはクラージュが開けた扉を出て、彼が鍵を閉めたのを確認すると螺旋階段をゆっくりと下り始めた。
二階まで降り、渡り廊下を使い中央の館に移動する。
後からクラージュも追いつき、ライティアの後ろで歩く。
食事をする大広間に着き、扉を開けるとやはりレナルド達は席についていた。
「今日は来たのね?クラージュ、ありがとう。」
セレスティーヌに感謝されたクラージュは正式な礼の形をとった。
「早く席についてよ。朝食が冷めちゃうじゃない。ねぇ、エドワール兄様?」
長机の左側に座っている少女が隣の少年に語りかける。
少年は軽く流しながら妹をなだめている様だ。
「ベアトリス、やめなさい。久しぶりに一緒に食べられるのだからそれで良いじゃないか。」
「お父様はアレに甘すぎます。おかしいじゃない。時間通りに来てる人が待たなきゃいけないなんて。」
ライティアは俯きながら彼女らの反対側に、クラージュに椅子を引かれ着席した。
彼女がいつも後で食べたい理由は、興味を追求するためだけではない。
彼女の姉である正面に座る少女の嫌がらせのせいだ。
ライティアの姉であり、表向きではただ1人だとされているリュンヌ王国王女のベアトリスである。
昔から何の恨みかはわからないが、やたらとライティアに嫌がらせをしたりきつく当たったりする苦手な実の姉だ。
この間は扉に赤のペンキで愚か者と書いていた。
気づいたクラージュがすぐに消した様だが、翌日には青のペンキで臆病者と書いてあった。
やった本人は両親に怒られつつも、説教が終わった後はライティアの方を見て嘲り笑っていた。
直接的な危害はまだ無いが、いつか殺されるのではないかとライティアは恐れを抱いているのだ。
「さて、ライティアも座った事ですし食べませんか、父上?」
「そうだな、エドワール。」
刺々しい空気をエドワールは一蹴した。
彼はこの家の仲裁人の役割を果たしている。
何よりも喧嘩や刺々しい空気など厄介事が苦手らしい。
そしてその厄介事の元凶になるライティアの事も良くは思っていない。
みんなが食べ始めたのを確認すると、エドワールはライティアを一瞥し自らも食べ始めた。
ぎこちなさそげにライティアは目の前に広がる朝食を食べ始めたが、ベアトリスの視線が気になつて味も分からない。
喉を潤そうと紅茶の入ったカップを手に取ると、手が震えて取り落としてしまった。
「外にも出ていないから筋力が落ちたんじゃないの?」
ライティアの前から嘲るような姉の声が聞こえる。
「やめなさい、ベアトリス!ライティアが外に出られないことなど分かっているだろう。思いやる気持ちくらい持ちなさい。」
言われた彼女は父の発言も聞き流し、答えてすらいない。
「ねぇ、机の上が汚れたのだけど拭いてくれないかしら?ここまで紅茶が溢れてきてるわよ。」
続けてライティアに向かって指示をする。
本来なら侍女の仕事だ。
決して王女がやる仕事ではない。
レナルドは更にベアトリスに向かって怒ろうとしたがセレスティーヌが止めた。
もう止められないと判断したのだろう。
ライティアは机を拭こうと駆け寄ってくる侍女の持っている雑巾を無言で手に取り机を拭こうとした。
しかしその手をクラージュが掴んだ。
「私がやりますからライティア王女様はお座り下さい。ベアトリス王女様、私が拭かせていただきます。」
一礼し、クラージュが拭き始める。
しかしベアトリスは満足がいっていないようだ。
それよりも機嫌が悪くなっているように見える。
「クラージュ、貴方はやらなくていいわ。ライティア、拭きなさいよ!」
流石にベアトリスに指示されてしまったらクラージュも引くしかない。
クラージュの手から雑巾を取ったライティアは大半を拭き終わった長机を綺麗に拭き切った。
「洗ってきなさい、汚らわしいわ。クラージュにはさせちゃダメよ?」
クラージュが動くことを想定し、先手を打った。
考えを読まれたクラージュは唇を噛んだ。
他の家族達は1人を除き、静観している。
王女の2人が揃う時はいつもこうなるとわかっているからだ。
彼女が気が済むまでやめない性格なのは昔からなので、もう止めようがない。
「ベアトリス、もうやめないか!妹を侍女みたいに扱うんじゃない!」
「お父様、もう終わりましたわ。少しくらいは侍女の気持ちも体験しないとダメでしょ?」
ベアトリスはあっけらかんとレナルドに答える。
「お前もやった事は無いだろう?妹をいじめるなんてはしたないぞ!」
「あらお父様。私はそのような手間をかけさせることはしませんわ。そしてライティアをいじめているのではなくしつけているのです。ご安心ください。」
正々堂々と反論してみせるベアトリスに今度はレナルドが言いくるめられる。
この場の主導権は彼女が握っているも同然だった。
クラージュはライティアが洗ってきた雑巾を奪い取るように引っ掴み、片付けてライティアの椅子を引き座らせた。
「まだ汚れているけどもういいわ。良かったわね、侍女の気持ちが味わえた?」
「…はい。」
ベアトリスは小刻みに震え怯えるライティアを見て笑いながら、また食べ始めた。
ライティアはもう食べる気も失せていた。
だが残すとまたベアトリスに何か言われそうなので、残すことは出来なかった。
喉に詰まらせながらも誰よりも先に食べ終わり、身なりを整えるとクラージュを呼んで席を立った。
この場に居たくない。
部屋に閉じこもってしまいたい。
クラージュもライティアの気持ちを汲み取ってエスコートした。
レナルドが何か言おうと口を開きかけたようだったが、それすらもライティアの目には写っていない。
甲高く響くベアトリスの高笑いから逃げるように大広間を出ていった。