暗黒騎士の聖なる転生~祖国から追放された男、伝説の聖騎士に生まれ変わり世界を救う~
「悪いなルシス、お前とはここでお別れだ」
次の瞬間、僕はダンジョンのフロアに突き落とされた。
落下の衝撃は全身をつつむ『闇の鎧』が吸収したためダメージはない。
だが、僕の心はひどく動揺していた。
「ど、どういうつもりなんだ、ガレア……?」
「見てのとおりだ。お前はもう仲間でもなければルブルム王国騎士団の一員でもない」
ガレアにつづき残る二人のパーティーメンバー、シグスとジャンニも口を開いた。
「ま、もともと仲間だなんざ思っちゃいねえけどな」
「そうそう。呪われた暗黒騎士なんかと小隊組んでたら、ボクらの評価まで下がっちゃうしさ~」
「そ、そんなっ……」
突然の裏切りに呆然とするしかない。
たしかに僕はパーティーのお荷物で、ガレアたち三人から疎まれていることは知っていた。
けれど、さすがに死を望まれているとは思っていなかった。
――グォオオッ!
地の底から響いてくるようなうめき声。
背後を振り返ると、そこには巨大な肉塊がうごめいていた。
腐乱した肉から無数の骨が突き出した醜悪な姿。
「レヴナント……!」
暗黒騎士の僕にとって天敵のアンデッド。しかも上級モンスターだ。
こいつと独りで戦うだなんて、あまりにも絶望的だった。
「僕を嫌うのはいい。だけどこんな騙し討ちをするなんて、君たちはそれでも騎士なのか!?」
僕が言うと、ガレアたちは露骨に顔をしかめた。
「ふん、卑怯だとでも? お前こそ騎士道をわかっていないようだな。騎士とは主君の命に従う者だぞ」
「主君って……ま、まさかっ!?」
心臓が締めつけられる思いだったが、それでも口に出さずにはいられなかった。
「このことはベアトリス様も……女王陛下も承知しているのか?」
「そのとおりだ」
ガレアが酷薄な笑みをうかべて答えた。
「ルシス、最期だから教えてやる。陛下は我ら三人にこう命じられたのだ。『暗黒騎士ルシスを試練の神殿に置き去りにしてこい』とな」
「なッ……!?」
ただならぬ衝撃。
もしそれが本当だったなら、僕にとって最大で最悪の裏切りだ。
「嘘だ……!」
僕は言った。
自分自身に言い聞かせるように。
「たしかに僕は陛下の期待に応えられず失望させてしまった。だけど、それでも、陛下が僕の死を望んでいるなんて信じられない……!」
「はんっ、勝手に言ってろ! どのみちてめえはここで死ぬんだからな!」
「死んでもアンデッドになって復活とかしないでよね? 気色悪いからさ~」
「暗黒騎士にお似合いの墓場だ。ルシス、陛下に感謝しながら逝くといい」
その言葉を最後に、三人は来た道を引き返した。
出入り口の扉が固く閉ざされる。
逃げ道はない。レヴナントを倒す以外に僕が生き延びる方法はなかった。
「やるしかないか……!」
レヴナントに向き直る。
相手もまた僕を敵と認識したようだ。
「――『ブラックヴェイン』!」
暗黒騎士の固有スキルを発動。
ピキキッ! 鎧の両腕部から黒い血があふれ出し、それぞれ剣と盾を形作った。
「いくぞっ!」
先手を取ってレヴナントに攻撃をしかける。
――暗黒剣・三式『澱』
右手の血刀が闇の波動をまとう。
ゾブッ。鈍い感触、浅い斬りこみ。
だがこれで構わない。
暗黒剣はダメージを狙った技ではないからだ。
闇の波動がレヴナントに吸いこまれる。
直後、敵の動きが緩慢になった。
三式『澱』は斬りつけた対象の「素早さ」を奪う技だ。
つづけて別の技を放つ。
――暗黒剣・二式『蝕』
こちらは防御力を奪う技。
初手で敵を弱体化させるのが暗黒騎士の基本戦術だ。
ガレアたちに言わせれば「卑怯」で「騎士らしくない」戦い方。
だけど僕はこれ以外の手札を持ち合わせていなかった。
――暗黒剣・一式『錆』
さらにレヴナントの攻撃力を奪取する。
これで準備は完了だ。
返す刀で通常の斬撃を繰り出した。
ゾブンッ。初撃と大差ない鈍い感触。
防御力を弱体化させてなお、僕の攻撃はほとんどダメージを与えられなかった。
レヴナントが腕を薙ぎ払う。
僕はいったん回避して距離をとった。
「くそっ! やっぱり相性は最悪だ……!」
『ブラックヴェイン』によって生み出された血刀は、物理的な強度も切れ味も鉄の剣に劣る。
そのかわり、攻撃した相手の生命力を吸収するという特性を持っていた。
通常のモンスター相手なら見た目以上の大きなダメージを与えられる。
が、その特性ゆえにアンデッドは天敵だ。
すでに「死んでいる」敵は、奪い取る生命力を最初から持っていないからだ。
「それでも、やるしかないんだ」
相性は最悪。
下級のゾンビやグールなら首を刎ねるか頭を潰せば一撃だが、このレヴナントは体内の「核」を破壊しない限り倒せない。
間違いなく、これまで経験した中でもっとも長く苦しい戦いになる。
だが、死ねない。
こんなところで死ぬわけにはいかないかった。
「生きて帰るんだ、必ずっ……!」
ダッ! 僕は床を蹴ってふたたびレヴナントに斬りかかった。
◇◇◇
――暗黒騎士。
ルブルム王国の秘宝である『闇の鎧』の装着者にのみ、与えられる称号だ。
一世代に一人しかなれない、特異で特別な存在。
しかし暗黒騎士に対して人々がいだくのは、尊敬や憧れではなく恐怖と嫌悪だった。
頭の天辺から足の爪先まで漆黒の鎧に覆われた、恐ろしげで異様な姿。
『闇の鎧』は「生きて」おり、装着者の体の成長に合わせて大きさが変化していく。
ひとたび身につけたら最後、肉体となかば融合して外すことはできない。
かわりに暗黒騎士は食事も睡眠も必要としなくなる。
だからといって、羨ましがられることは決してない。
そんなものは「呪い」だと誰もが口をそろえて言う。
暗黒騎士は人間よりも化物に近い存在ではないか。
そんな陰口もよく耳にした。
……本音を言えば、僕だってそう思う。
それでも、自分の意志で暗黒騎士になると決めたのは、彼女の役に立ちたかったからだ。
「ルシス。わたしはそなたを暗黒騎士に推挙したい」
主君であるルブルム王国女王ベアトリス四世――いや、唯一の「家族」であるベアトリス姉さんのために。
孤児院で一人ぼっちだった僕を、初めて「見つけて」くれた人。
僕を世話係に任命し、これからは自分を姉だと思えと言ってくれた。
剣術の稽古をつけてくれたのも彼女なら、騎士団に抜擢してくれたのも彼女だった。
早逝した先王の後を継ぎ、わずか二〇歳の若さで即位したベアトリス姉さん。
彼女の力になりたい。一番近くで支えられる存在になりたい。
だから僕は暗黒騎士になる覚悟を決めた。
大きな代償を支払ってでも強くなりたかった。
それが五年前、一五歳の時のことだった。
しかし――僕は期待していたほど強くはなれなかった。
騎士団のトップに立つどころか、パーティーの中でも主力にはほど遠い。
戦闘での役割はもっぱら敵の弱体化で、前衛に立つことは稀だった。
くわえてアンデッド戦ではほぼ役立たず。
しかも間の悪いことに、近年ルブルム領ではアンデッドの出現数が激増していた。
ただでさえ僕は孤児院の出身で、女王陛下の贔屓で騎士になれたと目されている立場だ。
「飯も食わなけりゃ寝ることもないんだって? あいつ本当に人間か?」
「ルックスはどう見てもモンスターよりだよね。しかも気色悪いアンデッド系」
「実力は完全に見かけ倒しだな。敵を弱体化させているというが……本当に効果があるのか?」
騎士団内で風当たりが強くなるのは避けようがなかった。
それは仕方がない。甘んじて受け入れるしかないと思った。
そう遠くない将来、騎士団から追放されることも覚悟していた。
だが――「その時」は思ったよりも早く、思いもよらない最悪の形で現実化した。
今日この日、ガレアたちに突き落とされることによって。
◇◇◇
ルシスを置き去りにしたガレア、シグス、ジャンニの三人は、その日のうちにルブルム王城へ帰還した。
「いや~、思った以上に上手くいったね~」
「裏切られたと知った時の野郎の顔、ありゃ傑作だったな!」
「二人とも声が大きいぞ。『ルシスは我らの制止を振り切って独断先行し、自らを死地に追いこんだ』。報告書にはそう記載されるのだからな」
満足げに語り合う三人。
そこへ女王へ仕える侍女が声をかけた。
「騎士ガレア、騎士シグス、騎士ジャンニ。今回の任務に関して、陛下が直接報告をせよと仰せです」
三人の顔に緊張が走る。
女王への謁見は騎士団長ですら滅多に叶わない。
一介の騎士である三人には初めてのことだった。
侍女に案内され玉座の間へと入る。
片膝をついて頭を垂れる最敬礼の姿勢をとって待つ。
ほどなくして女王は姿を現し、玉座についた。
「面を上げよ」
許しを得て顔を上げるガレアたち。
ルブルム王国現女王・ベアトリス四世の美貌があらわになる。
なによりも目を惹くのは桜色の長い髪。
そして左右で色が異なる金眼銀眼の瞳だ。
人間離れした、この世のものとは思えない美しさ。
見惚れるどころかゾッとするような恐ろしさを感じ、ガレアたちはすぐに目を伏せてしまった。
「報告を聞こう。首尾はどうであったか」
「は、はっ!」
ガレアは慌てて言った。
「陛下に勅命に従い、暗黒騎士ルシスを神殿の深層に残して我らは帰還致しました」
「間違いなくあの者を死地へと追いやったか?」
「はっ。ルシスが生きて戻ってくる可能性は万に一つもないかと」
「そうか」
女王の顔には喜怒哀楽いずれも見られない。
完全なる無表情、まったくの無感情だった。
「大義であった。下がってよいぞ」
――冷厳の女王・ベアトリス四世。
彼女はいついかなる時も感情を表に出すことはない。
あるいは感情そのものを無くしてしまったのではないかと、ひそかにささやかれているほどだった。
「へ、陛下。一つお訊ねしてもよろしいでしょうか?」
「許す。申してみよ」
「なぜ陛下はルシスにこのような仕打ちを?」
少しも表情を変えずに女王は言った。
「あの者は、一度死ななくてはならぬからだ」
◇◇◇
――暗黒剣・五式『虚』
ズォオッ! 水平に構えた血刀の切っ先から闇の波動がほとばしる。
対象のあらゆる能力を大幅に弱体化させる技。
僕が使える最強の暗黒剣、最後の切り札だった。
「ぐぅっ……!」
それだけに消耗も半端ではない。
暗黒剣は自身の体力と精神力を消費して放つ技だ。
ただでさえ長時間にわたる戦いで肉体も精神も限界に近い。
そろそろ決着をつけなくては。
「ぉおおおおおっ!」
残る力を総動員して、僕はレヴナントに最後の攻撃を仕掛けた。
盾を捨て、血刀を両手で握る。なかば捨て身の特攻だ。
ザシュッ、バギンッ! レヴナントの肉を削ぎ骨を削る。
もちろん敵も黙って斬られつづけてはくれない。
ドゴッ! 巨大な腕による反撃をまともに喰らい、僕は壁際までふっ飛ばされた。
「ぐぅっ……! ま、まだだ! 負けてたまるかっ……!」
すぐさま体を起こし、突撃する。
「死んで……たまるかっ!」
二連続の斬撃を浴びせ、レヴナントの肉を深く削ぎ取る。
見えた! その切り口の奥、太い骨のあいだに深紅の宝石を思わせる「核」があった。
核めがけて渾身の突きを撃ちこむ。
ガギンッ! 見た目どおりの硬さ。
表面にわずかな亀裂が入ったのみだ。
――グォオオオオオオンッッ!
レヴナントが怒りに身を震わせた。
僕を叩き潰さんと右腕が振り下ろされる。
あと一撃喰らってしまったら、もう立ち上がることは不可能だ。
だが――
「砕けろッ……!」
――暗黒剣・四式『穢』
血刀の切っ先から闇の波動をそそぎこむ。
この技は対象の魔力を奪い取る。
レヴナントの肉体にはまったく意味のない技だが、魔力の結晶である核だけは別だ。
パキンッ……! 魔力を失った核は、脆いガラスのように粉々に砕け散った。
断末魔の雄叫びをあげ、レヴナントが倒れ伏す。
核を失った肉体は元の形を保てず、急速に崩れて溶け――塵へと還っていく。
アンデッドに限らず、モンスターは絶命した際、塵に還って消滅する。
逆に言えば「死体を残さず消滅する存在」がモンスターの定義だった。
「はぁっ、はぁっ……! や、やった……!」
体力も気力も限界。ギリギリだったがどうにか勝てた。
といっても外傷はない。
全身をつつむ闇の鎧は、どんな攻撃を受けても傷つかない。
そのかわり、受けたダメージに応じて僕自身が削られ消耗していく。
幸いなことに、このフロアにはレヴナント以外のモンスターはいないようだ。
「少し休んだら、出口を探さないとな」
僕が安堵してひと息ついた、その瞬間だっだ。
ヴォンッ! 突如、床の全面が暗黒に染まった。
「なっ!? うぁあああああっ……!」
闇に吸いこまれるように、僕の体は落下を開始した。
落ちる、落ちる、落ちていく。
下も闇なら横も闇。気づけば上も闇に閉ざされていた。
落下は果てしなくつづき、闇は際限なく深まっていく。
視界はゼロ。闇の鎧と周囲の闇の境はまったくわからない。
ついには五感すべてが闇に呑まれ、意識までもが遠のいていった。
『――暗黒騎士。まさに呪われた存在だな』
それは頭の中で回想したことなのか、それとも周囲の闇が映しだした光景なのか。
僕は過去の記憶をかいま見た。
暗黒騎士になってから、周囲の人が僕を見る目は一変した。
それまでは空気のような存在だったのに、急に注目されるようになった。
もちろん悪い意味でだ。
『おいおい、勘弁してくれ。その見た目で大して強くないってどういうことだよ?』
騎士団の同僚からは実力不足を蔑まれ、
『なんて恐ろしい風貌だ……。近くにいたらこっちまで呪われそうだぜ』
街の人からは外見だけで避けられ、
『や、やだっ! こっちに来ないで! 近寄らないでぇっ!』
女性からは例外なく蛇蝎のごとく忌み嫌われた。
そのほか、子供は男女問わず姿を見ただけで泣きだしてしまう始末だ。
それらが辛くなかったと言えば嘘になる。
それでも僕は暗黒騎士になったことを後悔していなかった。
なぜなら――
『おお! よいではないか! よく似合っているぞ、ルシス!』
ベアトリス姉さんだけは、それまでと同じように接してくれたからだ。
その言葉にも笑顔にも嘘はなかった。
……そのはずだった。
いつの頃からかなのか、はっきりとはわからない。
だが、いつの間にか姉さんは変わってしまった。
以前の姉さんは明るく、朗らかで、感情表現が豊かで、いたずら好きで、好奇心が旺盛で、なによりも笑顔が素敵な人だった。
それがいまでは、執務室に独りで籠もっていることがほとんどだ。
たまに玉座に姿を見せても、鉄仮面のような無表情を決して崩さない。
王城の人たちは、女王の責務と一国を背負う覚悟が彼女を変えたのだと言う。
僕が原因でないことは確かだ。
暗黒騎士として期待に応えられなかったから、失意のあまり変わってしまったというのは……ありえない。いくらなんでも自惚れがすぎる。
僕に限らず、姉さんは誰に対しても冷淡に振る舞い、必要最低限のことしか話さなくなった。
僕が直接声をかけてもらったのは、もう一年以上も前になる。
それも、
『以後も暗黒騎士の使命を全うするがよい』
という極めて事務的な言葉だった。
そして、行き着いた果てが今回の件だ。
昔のベアトリス姉さんなら、僕の死を望むなんて絶対にありえない。
だが――
今の冷厳の女王・ベアトリス四世なら……正直言ってわからない。
姉さんを信じたい。
性格は別人のように変わってしまっても、心の奥底は昔のままだと信じたかった。
けれど――嗚呼、昔と今、どちらが本当の姉さんなのか僕にはもうわからない。
そして、姉さんを信じきれない自分自身の心が、なによりも誰よりも許せなかった。
闇に落ちる。堕ちていく。深く暗い無明の底へと。
◇◇◇
一体どれだけの時間が過ぎたのだろう?
何日も経ったような気もするし、数秒しか経っていないような気もする。
「っ……。ここは……?」
気がつくと闇への落下は終わり、僕は奇妙な空間に横たわっていた。
床は全面が水晶を思わせる素材。
天井はどこまでも高く闇に閉ざされている。
周囲には床と同じ水晶の板。四方八方を取り囲み、僕を中心に同心円状に並んでいた。
体を起こし、正面の水晶板へと歩いていく。
水晶の表面はなめらかで、近づく僕の姿を鏡のように映した。
「どこか開いたりしないのか?」
軽く押してみようと手を伸ばす。
右手の指先が水晶板に触れる。
その瞬間、腕をグイッと掴まれた。
「なっ!?」
腕を掴んだのは、水晶板に映った僕の鏡像だった。
水晶板から腕が飛びだし、僕の手首を掴んでいる。
幻覚ではない。相手の手は間違いなく実体を持っていた。
水晶に映る暗黒騎士の顔。兜の面の口元が一瞬ニヤリとゆがんだように見えた。
「ッッ!」
腕を振りほどき、後方へ跳んで距離をとる。
水晶板に映った暗黒騎士は、もはや僕の鏡像ではなかった。
「――僕を蔑んだ騎士たちが憎い」
それは、僕の声であって僕の声ではなかった。
「――僕を避けた住人たちが憎い」
発したのは水晶板の暗黒騎士。
「――僕を嫌悪した女たちが憎い」
一歩を踏みだすと、右足のつま先が水晶板の外に現れた。
「――僕を見ただけで泣きわめく子供たちが憎い」
もう一歩で、体の前半分が現れた。
「――僕を裏切ったガレアたちが憎い」
ついに全身が水晶版の外に出て完全に実体化する。
「だ、誰だ……? お前はいったい誰なんだっ!?」
僕は後じさり、ふるえる声で訊ねた。
「わかっているはずだよ、暗黒騎士ルシス。僕は君で、君は僕だ」
「なんだって……?」
身長も体型も、声も喋り方もまったく同じ。
全身をつつむ闇の鎧も細部まで完全に一致している。
だがそんなはずはない。
闇の鎧は唯一無二。暗黒騎士は一つの時代に一人きりのはずだ。
「そんなはずはない! 正体を現せッ!」
魔法か特殊能力による虚像なら、攻撃すれば解除できるはず。
僕は右手に血刀を作りだして斬りかかった。
ギィンッ! 斬撃は受け止められた。
同じく相手が右手に作りだした、黒い血の刀によって。
「ブ、ブラックヴェイン……!? 嘘だ、ありえないっ……!」
「嘘じゃない。暗黒騎士なら使えて当然だ」
僕を押し返すと、相手は血刀を水平に構えた。
切っ先から闇の波動がほとばしる。
――暗黒剣・五式『虚』
「なっ……ぐゥッ!?」
驚愕のあまり棒立ちになり、暗黒剣をまともに喰らってしまう。
直後、猛烈な虚脱感に襲われ僕はその場に膝をついた。
初めて身を持って体験した暗黒剣の威力。
認めるしかない。これは幻覚などでは断じてなかった。
「そして夢でもない。君は紛れもない現実の中にいる」
もう一人の暗黒騎士――僕の「影」が言った。
「夢でも幻覚でもないなら……どうして僕が二人いるんだ?」
「もちろんそれは、ここが『そういう場所』だからだよ」
「な、なにが目的なんだ? お前は一体――」
「いま君は、自分こそが本当の自分だと思っているね。けどそれは違う。僕こそが本当の君、暗黒騎士ルシスの本来のあるべき姿なんだ」
「なにを言っている……?」
「君の本音、君の本心、君の本性。君の願望、君の欲望、君の希望。それこそが僕だ」
瞬間、影の姿が消え失せた。
と同時に声だけが響いた。
――憎い。憎い。憎い。憎い。憎い。
――騎士たちが憎い。住人たちが憎い。女たちが憎い。子供たちが憎い。ガレアたちが憎い。
「本当はそう思っていたはずだ」
右からの声。
僕の影は右の水晶板の中に移動していた。
怨嗟の声はなおも積もり重なっていく。
――殺せ。殺せ。殺せ。殺せ。殺せ。
――騎士たちを殺せ。住人たちを殺せ。女たちを殺せ。子供たちを殺せ。ガレアたちを殺せ。
「本当はそう願っていたはずだ」
左からの声。
影の姿も左側の水晶板に移っていた。
「違うッ! 僕は、そんなっ……!」
「本当に? 心に闇をいだいたことが、いままで一度もなかったと断言できるのかい?」
「ぼ、僕はっ……」
「認めて、受け入れるんだ、本当の自分を」
背後からの声。
しかし、もはや僕は振り返ることすらできなかった。
「やめろッ! もうやめてくれッ!」
耳を塞いで絶叫する。
それでも声は鳴り止まない。脳に直接響いて僕を決して逃さない。
「君はなにも悪くない。悪いのはやつらだ。君はやつらを憎しみ、殺し、復讐を果たしていい。むしろ復讐を果たすべきなんだ。そうすることで君は本当の自分になれる。暗黒騎士の真の力を手にすることができる」
「真の……力?」
擦り切れ、疲れ果て、押しつぶされる寸前の僕の心にとって、その言葉はひどく甘美な果実だった。
「そうとも。自分でも疑問に思っていたはずだよ」
うずくまる僕のそばに影が現れる。
「暗黒騎士は世界でただ一人。ルブルムの秘宝である闇の鎧に認められし者。人の身にして闇の力を振るう特異な存在」
影は膝をついてかがみ、僕の耳元でささやいた。
「それなのに弱いだなんて、おかしいと思わないか?」
「それは……」
「君は自分で自分の力を抑えこんでいる。だから弱い。だから暗黒騎士として中途半端なままなんだ」
「どうすれば……僕はどうすればいいんだ?」
「簡単なことだよ」
影は言った。
「心を闇に染めればいい」
甘いささやき。悪魔のささやき。
抗いがたい魅力を持って僕の意識に入りこんでくる。
「思うがまま、望むがまま、人を憎んで人を殺せ。恐怖と死と絶望で愚かな人間どもを支配しろ。そうすれば君は――僕は、真の暗黒騎士になれる」
「そんな、無理だ……。そんなこと、できるわけがない……」
「できるさ。思い出すんだ。もともと僕は独りだった。他人のことなんて心底どうでもよかった。それなのに僕の心に鍵をかけて、本当の僕を封じこめてしまった悪い女がいる。憎い女がいる。殺したい女がいる」
「まさか、それは――」
「そう、ベアトリス・ヴァージニア・ロザリー・ルブルム。あの女がすべての元凶だ」
あまりのことに絶句するしかない。
……僕が、ベアトリス姉さんを憎んでいる? 殺したいと思っているだって?
「馬鹿げてる。そんなはずがあるものか。ベアトリス姉さんは恩人で、僕の一番の理解者だ」
「まだわからないのか? すべては僕を支配し操るための嘘だったんだ。ベアトリスに言われるがまま暗黒騎士になって、それでどうなった? なにか一つでもいいことがあったか? 嫌なことや辛いことばかりだったじゃないか」
「違う……」
「いいや、違わない。僕が暗黒騎士として期待外れだったと知るや、ベアトリスは急に冷たくなってろくに口もきいてくれなくなった。そして、挙句の果てにこの手酷い裏切りだ。ベアトリスは僕の死を望んでいる。だったら僕もベアトリスの死を望んでいけないわけがない」
影は立ち上がり、熱に浮かされたような口調でつづけた。
「そうだ、手始めにベアトリスを殺すんだ! あの女を殺せば僕の心は解き放たれるッ!」
ポウゥッ。正面の水晶板から光があふれ、人の姿を形づくった。
現れたのは一人の女性。
煌めく桜色の長い髪に、神秘的な金眼銀眼の大きな瞳。
ほかの誰かならいざ知らず、僕が見間違えるはずもない。
「ベアトリス……姉さん!?」
本物であるはずはないが、幻と断じるには現実感がありすぎる。
だが、ここで重要なのは本物かどうかじゃない。
彼女の役割は明々白々。祭壇に捧げる生贄として現れたのだ。
これよりおこなわれるのは血の儀式。
僕の心の鍵を開き、暗黒へと染め上げるための。
「さようなら、ベアトリス。お前を殺して僕は真の暗黒騎士になる」
影が血刀を構え、ベアトリスの心臓に狙いをさだめる。
それでも彼女はいっさい表情を変えなかった。
影には一瞥もくれない。
冷淡な視線がまっすぐに僕を射抜いていた。
「ルシス――」
そして、一番聞きたかった声で、一番聞きたくない言葉を口にした。
「死ぬがよい。そなたはもう用済みだ」
心が軋む。世界がひび割れていく音がする。
……そうなのか。それがベアトリス姉さんの本心なのか。
だとしたら、僕はもう闇に染まるしかない。
心を暗黒で塗りつぶさなければ壊れてしまう。
僕は――
刹那、まるで走馬灯のごとく過去の記憶がよみがえった。
◇◇◇
ずっと独りだと思っていたし、ずっと独りでいいと思っていた。
誰も好きにならないし、誰からも好かれなくていい。
わずか一〇歳にして、僕はこの世界を見限っていた。
彼女と出会うことになる、あの日までは。
朝からどんよりと曇って、冷たい雨が降りしきる日だった。
僕はこういう天気が好きだった。
なぜかといえば、孤児院の外に出れば確実に独りになれるからだ。
庭に生えている大きな木の洞。そこが僕のお気に入りの場所だった。
樹洞の中に入り、膝をかかえて丸くなる。
そのままじっとしつづける。独りで時間をつぶすことが僕の目的だった。
王立孤児院での生活を楽しいと感じたことは一度もない。
けれど両親がいない僕には、ほかに行く場所がどこにもない。
だからこうして、なるべく独りっきりで過ごすようにしていた。
こんな雨の中、わざわざ僕に会いに来る物好きはいない。
だが、その日だけは違った。
「……わざわざ外に出て雨宿りとは、そなたずいぶんと風変わりな子供だな」
傘を差した少女が僕に声をかけた。
世にもめずらしい桜色の髪と金眼銀眼の瞳。
このとき彼女は一五歳。顔立ちは大人びているが、表情は妙に子供っぽいと感じた。
不敵な笑み、という言葉がこれほど似合う顔はまたとないと思う。
「わざわざ僕に話しかけにくるなんて、あなたこそずいぶん風変わりな王女様ですね」
彼女をちらりと一瞥して僕は言った。
「ほう。なぜわたしが王女だとわかった?」
「高そうな服に偉そうな口調。そして今日は王女様が孤児院に視察に来る日だから」
「存外に聡いな。だが言葉は正しく使うがよいぞ」
「え?」
「この服は『高そう』ではなく実際に『高い』。そしてわたしは『偉そう』ではなく実際に『偉い』。以後気をつけるがよい」
……なんだこの人は、と思う。
大人も子供もふくめて、これまで出会ったどんな相手とも違う。
そして、同じタイプには二度と会うことはないという予感があった。
「あらためて名乗ろう」
傘をたたんで王女様は言った。
「わたしはルブルム王国第一王女、ベアトリス・ヴァージニア・ロザリー・ルブルムだ」
いくら人嫌いの僕でも、名乗られたら名乗り返すのが礼儀だということくらいはわかる。
「僕はルシス。ただのルシスです」
「ルシスか。よい名だ、気に入ったぞ」
王女様は満足そうに笑った。
さあ、話はこれで終わるはず。
わざわざ僕に近づいてきたのは、孤児院の子供全員に声をかけるノルマでもあったに違いない。
そう思っていたが――違った。
王女様は膝をかがめ、目線の高さを僕に合わせた。
「それにしても稀有な色だ。これまでの多くの者と出会ってきたが、黒い髪と瞳の持ち主はついぞ見たことがない」
「っ……!」
真っ黒な髪と瞳は、僕の最大のコンプレックスだった。
この色のせいで誰からも気味悪がられ、拒絶される。
黒は不吉と不幸を象徴する色であり、ルブルム王国では特に忌み嫌われていた。
「実に美しい。まるで夜空を溶かしこんだかのような色艶ではないか」
驚いたことに、王女様は手を伸ばして僕の前髪をなでた。
「う、美しいって……。そんな、嘘ですよね?」
「嘘? なぜわたしが嘘をつくと思う?」
「だ、だってそれは、みんなが黒は不吉で気味の悪い色だって……」
「それは『みんな』とやらが間違っているのだ」
こともなげに王女様は言った。
「誇るがよいぞ、ルシス。わたしの見たところ、そなたの髪と瞳は世界で二番目に美しい色をしている」
彼女の言葉は不思議だ。
自信満々に断言されると、僕にもそれが正しいことのように思えてくる。
生まれて初めて、自分のコンプレックスを受け入れられうような気さえした。
「あの、それじゃ一番綺麗なのは?」
「決まっているであろう!」
王女様はすっと立つと、肩にかかった髪を払いながら言った。
「もちろんわたしの髪と瞳だ。異論はあるまい?」
異論などあるはずもなかった。
たしかに桜色の髪と金眼銀眼の瞳はこの上なく美しい。
そこで僕は、はたと気づいた。
王女様がとてつもなく綺麗で可愛い、絶世の美少女であることに。
気づいたとたん、僕は急に気恥ずかしくなって目をそらした。
「どうかしたか?」
「い、いえっ。なんでもないですっ」
「ならばよいが。ときにルシスよ、もう少し横へずれてくれないか」
「えっ? あ、はい」
僕は命じられるがまま体を横にずらす。
だが一体なんのために?
「そうだ、もっと左に。よしよし、これでわたしの座る空間が確保できたな」
次の瞬間、王女様は少しもためらうことなく洞の中に身をすべりこませた。
僕はただただ呆気にとられるしかない。
「ほう! 中に入るとこのような感じなのか!」
腰を下ろして膝をかかえた王女様は、やたらと楽しげにキョロキョロと視線を動かした。
「な、なにをしてるんですか?」
「そなたの居心地がよさそうだから、わたしも体験してみたくなったのだ」
「だからって王女様がこんなところに……」
「入っていけない法はあるまい。それにしてもここは不思議な場所だ。こうして身を縮めて雨にけぶる外の世界をながめていると――」
白い歯を見せて笑う。
「なんだか世界にわたしとそなた二人きりのような気がしてくる」
顔と顔の距離が近い。
彼女の息づかいすら感じられ、頬の内側が熱を帯びた。
「よ、汚れますよ。高い服と綺麗な髪が……」
「心配は無用だ。わたしの周りになにか見えないか?」
傘をたたんで雨に打たれていたはずなのに、王女様の服や髪は少しも濡れていなかった。
よく見れば、薄い空気の膜らしきものが全身をつつんでいる。
「まさか、それって魔法……!?」
「そうだ。実際に見るのは初めてであろう」
王女様はにんまりとした。
まるでとっておきのオモチャを自慢するように。
「すごい、本当に風を操ってる……!」
「だが驚くにはまだ早いぞ。なぜならわたしは『術師の血』と『戦士の血』を兼ね備えた『ツヴァイハンダー』なのだからな!」
「は、はあ」
ツヴァイハンダー。双極異能者。
騎士であり魔道師でもある、世界で唯一の『魔法剣士』。
彼女がどれだけ特異で特別で、歴史上でも数えるほどしか現れていない存在なのか、この時の僕はまだ知る由もない。
「ひらたく言えば、わたしは騎士にして魔道師でもあるということだ」
「騎士って……王女様なのに戦うんですか?」
「もちろん。わたしは多くのものを守らなければならないからな」
すごいと思う反面、僕は自分の気持が沈んでいくのを感じた。
「騎士で、魔道師で、王女様で……。あなたはなんでも持っているんですね。僕とはまったく正反対だ」
「自分にはなにもないと?」
僕はうなずいた。
「両親はいないし友達だって一人もいない。特技も才能も力もなにもない……」
「それは思い違いだな。少なくともそなたは『ルシス』という立派な名を持っているではないか」
王女様は言った。
やさしいまなざしを僕へとむけて。
「その名は旧き神代の言葉で『光り輝くもの』を意味する。――闇夜に輝く一等星のように世界を照らし、人々を正しい方向へと導く存在になってほしい。そんな願いと祈りをこめて、そなたの父君と母君は『ルシス』と名付けたのだ」
「な、なにを言って……。まるで見てきたような物言いですね」
皮肉をこめて僕は言う。
しかし、王女様は少しも表情を変えることなく、
「当然であろう。まさしくいましがた『視て』きたのだから」
そう口にした。
「言ってる意味がわかりませんよ」
「よいか、ルシス。心して聞くがよい。これは誰にも――父上にすら明かしてはいないことだが」
ぐっと顔を近づけ、王女様はささやいた。
「わたしの銀の瞳は『過去』を映し、金の瞳は『未来』を映す」
「なっ……!?」
いくらなんでも与太話がすぎる。
頭ではそう思うが、王女様の金銀の瞳を見つめていると、不思議と信じてみたくなる気持ちにさせられた。
「もちろん、なにもかもすべてを視透せるわけでないぞ。過去の大部分は暗黒に閉ざされ、未来の大部分は空白に埋められているのが常だからな」
「そ、それじゃ、王女様は僕の未来も……?」
「ああ、視た。近い将来、そなたは『戦士の血』に目覚めて騎士となり、女王に即位したわたしに仕えることになる」
「僕が、騎士に……!?」
にわかには信じられない。
雲を掴むような、空が落ちてくるような話だ。
しかし――
「だからルシス。わたしはそなたに会うため今日ここへ来たのだ」
王女様は立ち上がり、樹洞の外へと出た。
いつの間にか雨は上がり、雲間からひと筋の陽光が射しこむ。
光の柱につつまれ、桜色の長い髪がキラキラと輝いた。
王女様は僕へと手を差し伸べて、言う。
「わたしの騎士になってほしい。わたしにはそなたが必要なのだ、ルシス」
――その名は「光り輝くもの」を意味すると、彼女は言った。
けれど僕にとっては彼女こそが「光」だった。
希望の光。長い夜に終止符を打つ曙光。
光に導かれ、僕はその手を握り返した。
これが、始まりの日。
僕とベアトリス姉さんの出会いの記憶だ。
ベアトリス。
その名が意味するのは「幸福をもたらすもの」――
◇◇◇
ズブッ……! 肉と骨が刺し貫かれる鈍い音が響いた。
「どうしてなんだ……?」
声を発したのは僕の影だ。
影が手にした血刀は、僕の胸元に突き刺さっていた。
背後にはベアトリス姉さんの幻影、正面には暗黒騎士の影。
凶刃が振るわれようとした刹那、僕は両者のあいだに割って入った。
結果として僕は、僕の影に刺されていた。
「だめだ……。憎しみのままに姉さんを殺したら、僕は身も心も暗黒に染まってしまう。それだけは、だめなんだ……!」
胸の傷は心臓にまで達し、明らかに致命的な感触があった。
それでも後悔はしていなかった。
死にゆく恐怖もまるでなかった。
自分は正しいことをしたという確信があったからだ。
「なぜだ? ベアトリスは僕を見捨て、僕を拒絶し、僕を裏切り、僕を殺そうとしたのに……!」
影が問う。
「たとえ変わってしまっても、もう昔の姉さんじゃなくなっていても、やっぱり僕にとって大切な人だからだよ」
僕が答えた。
「……そうだ。僕は間違っていた。姉さんが変わってしまったのなら、ちゃんと話して理由を訊くべきだった。それなのに僕は逃げて、現実から目を背けて、その結果がこれだ」
「だけど、ベアトリスは僕を罠にかけて殺そうとした。それは紛れもない事実だ。否定できない現実だ」
影がなおも食い下がるが、
「考えてみたら、それだっておかしい。もし本当に姉さんが僕の死を望んでいたなら、こんな回りくどい方法をとるはずがないんだ」
なぜなら、彼女は剣と魔法のツヴァイハンダー。
ルブルム王国騎士団筆頭、最強のエースナンバー、世界で唯一の『魔法剣士』なのだから。
「姉さんなら、正々堂々と一騎打ちをして僕を斬るはずだ。あのとき交わした『約束』のとおりに」
僕は「約束」のことを思いだしていた。
思いだしてみると、いままで忘れていたことが逆に不思議だった。
あれは、僕が暗黒騎士になってしばらく経ったころのことだ。
僕は言い知れぬ不安に苛まれていた。
暗黒騎士になったことで、人の悪意や負の感情に多く接するようになった。
人の心はたやすく闇に染まる。誰しも例外ではない。
だから僕も、いつしかそうなってしまうのではないか。
身も心も暗黒に支配されてしまうことが、怖くて不安で仕方なかったのだ。
『大丈夫だ。そなたの心が闇に染まることは決してない』
だが、ベアトリス姉さんはそう言った。
『であればこそ、わたしはそなたを暗黒騎士に推挙したのだ。だからルシス、わたしを信じよ。わたしもそなたを信じている』
『でも――』
『わかった。ならば約束しよう。万が一そなたの心が闇に染まったなら、そのときはわたしが責任を持ってそなたを斬る』
屈託なく笑いかけながら、そんなことを言う。
それで僕を安心させてしまえるのだから、つくづく姉さんはすごい人だと思う。
だから、いまの僕には自分のやるべきことがはっきりとわかる。
「もし姉さんになにか別の意図があったなら、直接会って真意を訊かなくちゃならない。あるいは姉さんの心が、約束を忘れるくらい闇に染まっているとしたら――」
約束にはまだつづきがあった。
『そのかわりルシスよ、万が一わたしの心が闇に染まったなら、そのときはそなたがわたしを斬ってくれ』
『そ、そんなっ。無理だよ、僕が姉さんを斬るだなんて……』
実力面でも心理面でも、できるわけがない。
けれど、ベアトリス姉さんは確信をこめて言った。
あたかも未来を視てきたかのように。
『できる。そなたにしかできないことだ。頼まれてくれるな、ルシス』
『わかった。約束するよ――』
僕は言った。
「そのときは僕がベアトリス姉さんを斬る」
だから、こんなところで闇に呑まれるわけにはいかなった。
〈――見事です〉
ふと、声が響いた。
僕の声でもなければ、ベアトリス姉さんの声でもない。
〈ようやく巡り会えました。私が求める聖き心の持ち主に〉
魂に直接語りかけてくるような、霊妙なる響き。
ピキ……パキンッ。
突然、僕の心臓を貫いていた血刀が砕け散る。
同時に傷の痛みも忽然と消失した。
ピキピキピキピキッ!
つづいて、闇の鎧に無数の亀裂が入った。
その現象は僕と影の両方に起きている。
亀裂の隙間から真っ白な光がもれ出していく。
「な、なんだ……? 一体なにが起きているんだ……!?」
そのとき頭上の闇が晴れ、ひときわまばゆい輝きが出現した。
まるで小さな太陽が現れたかのようだった。
〈ルシス。あなたは私の試練を見事に乗り越えました〉
光が語りかけてくる。
〈闇の鎧を身にまとい、暗黒の力を振るい、他者の暗い感情を一身に背負い、大切な人から裏切りを受けてなお、あなたの心は闇に染まりませんでした〉
あたたかで神々しい響きは――そう、まさしく天の声だった。
〈あなたの中に私は光を見ました。決して消えることのない、深く暗い闇の中でこそ輝く光を〉
「ま、待ってください! あなたは誰なんですかっ!」
天上の光に問いかける。
そのあいだも闇の鎧の亀裂はひろがり、いっそう発光が強くなっていく。
〈私はテルツァリーマ。星の守護者です〉
「なッ――!?」
それは誰もが知っている特別な名だった。
「創星神、光の女神テルツァリーマ……! まさか、本当にっ……?」
僕はいま、神話にうたわれる女神と言葉を交わしている。
ふだんなら絶対に信じられないが、神々しい光を見上げていると疑いの念が消し飛ばされていくのを感じた。
白い光がひろがる。黒い闇が払われていく。
僕の意識もまた白く遠のいていった。
〈さあ、目覚めの時です。来たるべき大いなる災厄から、この星と生きとし生けるものを守ってください。光り輝くもの、聖騎士ルシスよ――〉
パキンッ! 直後、僕と影の全身をつつむ闇の鎧が完全に砕け散り――
白い光があふれ、すべてを呑みこんだ。
◇◇◇
目を覚ますと、そこは見知らぬ場所だった。
「ぅ……?」
水晶板に囲まれた不思議な空間でもなければ、レヴナントと戦ったフロアでもない。
そもそもダンジョンの中ですらなかった。
「ここは……?」
僕の体が横たわっていたのは、やわらかい砂の上。
目と鼻の先には大きな湖があった。
見覚えのない景色。
ルブルム領にこんな湖はなかったはずだ。
体を起こしてあたりを見渡す。
どうして僕はこんなところにいるんだろうか?
「夢、だったのか?」
だが、そうではないとすぐに思い知らされた。
僕の身に起きていた、とてつもない異変によって。
「なッ――!? こ、これって僕の手、だよな……?」
五年ぶりに目にした自分の素肌。なにも付けていないむき出しの手のひらだ。
あわてて全身を確認する。
「――ない。本当になくなってる……!」
胴も、腰も、脚も、全身を覆っていたはずの闇の鎧が綺麗さっぱり消えている。
かわりに、白を基調とした軽鎧を身に着けていた。
もちろん兜もなくなっている。そういえば視界がやけに広く感じられた。
湖へと近づき、岸から水面を見下ろす。
風はなく空は快晴。
湖の水面には、上から覗きこむ僕の顔がくっきりと映った。
「これが、僕の顔っ……!?」
五年ぶりに見る自分の素顔は、はっきり言って別人としか思えなかった。
なにしろ「色」が違う。
僕の髪と瞳は生まれつき黒だった。
それなのに水面に映っているのは、淡い光沢を放つ純白の髪と、静かに艶めく紫水晶色の瞳だった。
「一体なにがどうなってるんだ……?」
とても理解が追いつかない。
闇の鎧は脱ぐこともできなければ砕けることもないはず。
しかし見てのとおり、いまや影も形もない。
「光の女神……創星神テルツァリーマ様の加護なのか?」
わからない。
ただ一つだけ確かなのは、闇の鎧を失った以上、僕はもう暗黒騎士ではないということだ。
「最後に僕のことを聖騎士って呼んでたけど――」
そんな称号は耳にしたことがない。
ルブルムのみならず他国にも、聖騎士と呼ばれる者はいないはずだ。
聖騎士と暗黒騎士。光と闇。対極に位置する存在。
よりにもよって暗黒騎士だった僕がなぜ?
疑問はつきないが、ひとまず考えるのは後まわしだ。
どんな姿になろうと、生きている限り僕にはなすべきことがある。
それは――
「キャアアアアアッ!」
そのとき、女性の悲鳴が聞こえた。
反射的にそちらの方向をむく。
一瞬たりとも迷わない。
ここがどこで、いまの僕が何者だろうと「騎士」であることに変わりはないのだから。
ダッ! 地面を蹴って駆けだす。
「えっ――!?」
直後、驚きのあまり声がもれた。
異常なまでに体が軽く、信じられないほど全身に力がみなぎっている。
ひと蹴りで僕の体は爆発的に加速し、数十メートルの距離を一瞬で移動していた。
「戦士の血」に目覚めた騎士は、一般人をはるかに上回る身体能力を持つ。
その騎士の基準に当てはめてもこれは破格だ。
暗黒騎士の時とはまるで比較にならない。
たとえて言うなら、いままでは重りと枷で体をがんじがらめにされていたような――
「見えた! あそこだっ」
水辺に沿って湖を四分の一周した地点で、悲鳴の主を発見した。
尻もちをついている軽装の若い女の子。
その視線の先には、湖から這い出そうとしているワニ型のモンスターがいた。
全長は一〇メートルもあり、鋭い牙のならんだ口は人間を丸呑みにできるほど大きい。
初めて目にする種類のモンスター。だが臆する理由はどこにもない。
モンスターが大きな顎を開き、女の子に噛みつこうとする。
ガチン! 口が閉じるより一瞬早く、僕は女の子を抱きかかえて飛び去っていた。
「えっ……!?」
「もう大丈夫。僕にまかせて」
離れた場所に彼女を置いて、僕はモンスターと対峙した。
こちらから攻める。武器は持っていないが問題ない。
駆けだしつつ、僕は固有スキル『ブラックヴェイン』を発動しようとした。
「っ!?」
が、発動しない。
当然だ。それは暗黒騎士の固有スキルなのだから。
しまったと思った刹那――どこからともなく声が響いた。
〈――ルシス、呼び覚ますのです。星の光の結晶を〉
それは天の声、女神の啓示だった。
「――『ライトブリンガー』!」
唱えた瞬間、右手の先に光が生まれた。
光は輝きを失うと同時に結晶化し、透明な剣を形づくった。
〈そして振るうのです。新たなる力、閃光の刃を――〉
どうすればいいのか、頭ではなく体で理解した。
「ぉおおおおッ!」
僕は結晶剣を両手で振り上げると、モンスターの頭部めがけて一閃した。
――閃光剣・一式『月光』
剣を振り下ろす刹那、自分の力が倍加する感覚があった。
ゾゥンッ! 結晶剣から光の刃がほとばしる。
ありあまる威力はモンスターを真っ二つに両断し、その下の大地を深々とえぐり――
さらには背後の湖を叩き割った。
「なっ――!?」
技を放った僕自身、驚きのあまり固まってしまう。
斬撃によって噴き上げられた大量の水は、やがて重力に引かれにわか雨のごとく降り注いだ。
空は雲ひとつない快晴。
水滴が陽光を反射し、湖の上にはアーチ状の虹がかかった。
「信じられない。これが僕の、聖騎士の力なのか……?」
どうやら僕は飛躍的に強くなってしまったらしい。
けれど、歓喜や感動よりも空恐ろしさが先にくる。
自分には過ぎた力だという気がしてならなかった。
ともあれモンスターは絶命し塵に還った。
「うん、ほかにはいないみたいだ」
安全を確認すると、僕は助けた女の子の元へ戻った。
「………………!」
ぺたんと座り、まさに茫然自失のでいた。
口をあんぐりと開け、虚ろな目で湖のほうをぼんやりと見ている。
僕は近くでかがみこんで、怪我の有無をあらためて確認した。
「見た感じ外傷はないけど……。君、どこか痛むところはないかい?」
反応はない。
僕のほうに視線すらよこさなかった。
無理もない。
当の僕も閃光剣の威力に驚いたくらいだから、騎士の戦闘になじみのない一般人には驚天動地の光景だったはずだ。
僕が顔の前で何度か手を振っていると、
「――ひゃっ!?」
ようやく反応があった。
目の焦点が合い、僕を見つめ返す。
「あっ、はい、大丈夫です。危ないところをありがとうございました、騎士様――」
彼女はまたしてもポーッとしてしまった。
僕の顔を凝視したまま「ほぅ」と熱っぽい吐息をこぼす。
「ええと、どうかした?」
「――! い、いえっ! なんでもないですっ!」
言いつつ顔をそむけてしまう。
僕としては、女性にこういう態度をとられるのは慣れきっている。
頬が真っ赤になっているのが謎だが、まあ気にしないことにする。
「あ、あのっ。騎士様はどこからいらしたのですか? このあたりでは見慣れないお姿ですけど……?」
「そういえば名乗ってなかったね。僕はルブルム王国の騎士ルシスだ」
「ル、ルブルムですか? 東の果ての国の騎士様がどうしてここに?」
そう訊かれると困ってしまう。
なにせ僕自身、なぜここにいるのかよくわかっていないのだから。
「うん? ちょっと待って、東の果ての国だって?」
たしかにルブルムは大陸の東端に位置する国だ。
とはいえ「東の果て」という表現は初めて耳にした。
当然だ。人は誰しも自分のいる場所を「中心」に考えるのだから。
「ね、ねえ。ひとつ教えてほしいんだけど――」
ある種の予感をおぼえながら僕は訊ねた。
「ここは一体どこの国なの?」
女の子はきょとんとして答えた。
「もちろんブラウ王国ですけど……」
耳にした瞬間、軽いめまいに襲われた。
ブラウ王国。大陸の西端に位置する国。
僕の祖国、帰るべきルブルム王国は、およそ一万キロの彼方だった。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
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