第1話『猫屋のナナシさん』
「猫屋さん…」
「どうかしました?お客様。」
雨風の止まない今日は嵐の日。
車の窓枠にワイパーの当たる音が車内に響く。
「…猫屋さんも流行りの転生って口、スか?」
若者は憧れでもあるのか。ため息が出そうになる。お客様の前で彼はそんな醜態はしない。
「保険ですよ。流行ってるんですか。問題になってるのは知ってますが。」
「記憶保険でしたっけ?」
「まあ色々ありましたからね。」
「でも可愛いですよ。もふもふで。白地黒ぶちっていうのも。」
「まあそれだけが取り柄みたいなとこもあるんで。」
交差点に差しかかる。
赤信号でとまる。
今日は人通りも少ない。
雨の日はタクシー商売はお金になるだろう。
私もあやかった身なのでなんとも言えはしないが。
赤信号の停車で話題が途切れる。
「僕、今日は帰れって言われてしまいまして。」
信号が変り、車が走り出したタイミングで男が話を始める。
「何かあったんですか?」
話したがっている相手には相手から話し始めるのを待つ。
先程まで軽口だったのはきっと話題のきっかけを作るためだろう。
「今日、遅刻しちゃったんです。」
「そうなんですか。」
「今日までに相手方に提出する書類を昨日までに点検もうけてたのに、持ってき忘れてしまって。」
「ほう。」
「挙句、励ましてくれた先輩にちょっと逆ギレしちゃったんスよ。」
「…それはまた大変ですね」
また、赤信号。目的地は遠くない。
信号機も話しだすのをまってくれているようだ。ため息が聞こえる。
彼がまた重たくなった口を開く。
「僕、クビとかになっちゃいますかね。」
「そんなことは無いとは思いますけどね。」
「はぁ……明日どうしよ。」
「ちゃんとサボらず遅刻せず行って、ちゃんと謝って明日から何とかすれば今日の失敗なんて、時が忘れさせますよ。」
「そうスかね…」
「何年か後に先輩にいじられるネタになるくらいじゃないですか?」
「大丈夫スかね…」
「一概には言えませんが、帰らせてくれた先輩は話しを聞く限りだといい先輩にきこえますけど。」
「…いい先輩スよ。」
「じゃあ大丈夫です。」
カンカンカンカン
電車が2両、交差するように通る。
遠い日を思い出す。
雨は止まない。
それどころか激しさを増してくる。
車の屋根の雨音もまた激しくなる。
あとこの先のラーメン屋を曲がった先にある、コンビニの近くが目的地だ。
あと10分もすればつく。
「聞いていいスか。」
「どうかしました?」
「猫屋さんって名前なんて言うんスか?猫屋って社名スよね。」
「こんななりしてるんでたしかに名前と勘違いはよくされますね。でもなんでまた、お名前なんか気になるんです?」
「せっかくなんで次利用する時はまたお兄さんの車に乗りたいなと思ってスね。」
「有難いですね。ですが、」
「?」
「私の名前はありません。」
「な、なんでですか?」
「呼ぶなら『ナナシ』とでも呼んでください。猫屋のナナシってよべば社長には伝わりますよ。」
「…そうスか…」
話をしてると目的地までついた。
お金をもらいお釣りを返したあと、彼から最初のような軽い口調で始めた。
「そういえば名前聞いといて僕の名前言ってなかったスね。」
「あはは。そういえばそうでしたね。」
「僕は竹脇っていいます。ナナシさん。また乗るとき話聞いてもらってもいいですか?」
「勝手に呼んで、勝手に話してください。私に出来るのは聞くことくらいですよ。」
「今日ありがとうございました。明日ちゃんと先輩に謝っておこってもらいます。ナナシさんも思い出せるといいスね。」
「…そうですね。またその後どうなったか教えてください。」
そう言って竹脇は足早に駆けていった。彼の姿が見えなくなったところで車の表示を『空車』にする。
基本的に予約がメインのウチの運送業務だが、個人の主観でいいという自由な方針。
「今日はすこしぶらつくか。」
夜道を駅付近に向けて車を出す。